Theatre & Policy No.0
俳優トレーニングのキーパーソン1

ミッシェル・サン・ドニMicheal Saint Denis

(明治大学文学部教授)


 英国の演出家ピーター・ホールは、ミシェル・サン・ドニ(1897―1971)の遺稿集『トレーニング・フォー・シアター』(1982年)に「まえがき」を寄せて、今日の英国の4大劇場では、「すべて、仕事のやり方の一部を彼に負うている」と言う。その4大劇場とは、ロイヤル・コート劇場、ナショナル・シアター、イングリッシュ・ナショナル・オペラ・カンパニー、それにロイヤル・シェークスピア・カンパニー(RSC)である。
 フランス人のサン・ドニが英国演劇に貢献することになる地歩は1931年に築かれた。彼自身に言わせると、当時、「なにか新しいものを追求していた芸術家、そして、以後30年間にわたって英国の舞台を徐々に変貌させることになる芸術家のすべてが、われわれのもとに蝟集した」という。その芸術家たちには、「15人座」の上演を観に来たジョージ・バーナード・ショウ、G.K.チェスタートンがおり、楽屋を訪れた俳優、女優の名は、いまからすれば文字通りキラ星のようだ。ジョン・ギルグッド、シビル・ソーンダイク、ローレンス・オリヴィエ、マイケル・レッドグレーブ、ペギー・アシュクロフト、アレク・ギネス、チャールズ・ロートン、いずれもが一騎当千の名優として名高い人々であり、両大戦間から、新しい英国演劇の伝統を築き上げるうえで大いに力を発揮した人々である。そして、従来の名優の名人芸を売り物にする舞台に取って代わる、一群の俳優の協働によってはじめて実現する舞台という、英国演劇の転回を支え、励ましたのが、実は、サン・ドニだった。
 1936年にロンドン・シアター・スタジオを開設して若手俳優の育成に着手する。彼は過去十数年間、叔父ジャック・コポーの先導で行った新しい演劇の創造をめざす仕事が、英国でこそ可能だ、という思いに至っていたのだ。スタジオの発足についての強力な助っ人は、ジョージ・ディヴァインとグレン・バイアム・ショウの両人。1947年に彼がオールド・ヴィック・シアター・センターを率いた際の片腕がディヴァインで、後にロイヤル・コート劇場を運営した。1962年にサン・ドニがピーター・ホール、ピーター・ブルックと共にRSCの演出家に就任した際、前身のシェークスピア・メモリアル・シアターを運営していたのがショウだった。1931年以後、30年間にわたって英国の舞台を徐々に変貌させる芸術家すべての中心にサン・ドニがいたのである。
 演出家としての力量は、俳優を含む仕事仲間の一人ひとりの健康状態にまで配慮する指導者としての人間的側面と表裏していたことは、ホール、ギルグッド、アシュクロフトをはじめ、人々が異口同音に語るところである。個人的な資質もさることながら、背景には、コポーの許でコミューンを基盤としての演劇創造という10年以上の経験が、俳優の個人的創造力への信念を確固としたものにしていたことは疑いない。
 加えてサン・ドニがあらゆる理論や方法に対して、常に懐疑的(典型的なフランス人とピーター・ホールは言う)であったことは、経験主義を根底とする英国人の気質と性が合っていたことも両者に幸いした。サン・ドニが英国に根を下ろした1930年代から、特に第2次世界大戦後は、演劇芸術についての幾多の理論が現場で試みられた。そこから現れたのは、20世紀後半の演劇を支配する傾向。それは演劇芸術の芸術家は演出家だという理論が主導したにほかならない。
 演出家サン・ドニはその傾向に組しなかった。自らの創造のために、俳優をロボットのごとくに駆使する演出家とはほど遠く、俳優を一個の自立した芸術家と見て、彼らの協働による演劇の実現を目指したのである。演劇学校の運営は、そういう俳優の養成のためだった。
 他方、彼は演劇の師父と仰いだジャック・コポーが一時期、夢想した現代版コメディア・デラルテ役者による演劇を求めることもしなかった。個々の俳優がそれぞれ独特なタイプとして自らを完成させ、集団創造によって実現するコポーの「新コメディア」は、サン・ドニに俳優としての表現上の技術・技法の大切さを体験させた。コポーのみならず、20世紀演劇のアヴァンギャルドの多くが、劇作家を追放してコメディア・デラルテ、能、京劇、中世演劇、ギリシャ演劇などに範を求め、俳優の身体的側面を身上とする演劇を主張し実験したが、サン・ドニは、英国の俳優と共に、その傾向には同調しなかった。それはクリスマス恒例の子供向けのパントマイムで十分だったのだ。
 彼らの求めたのは、シェークスピア、チェーホフをはじめ古今の戯曲を演奏する一群の俳優による芸術としての演劇だった。特に、ドイツやロシアを中心とした同時代の演出家中心の演劇が、反戯曲の姿勢をとったが、英国の演劇は、伝統の洗練を目指したと言えよう。それには、俳優が戯曲を演じることについての因習的側面、名優による名人芸の克服が必要だった。名人芸に代る俳優が戯曲を演じる仕事とは、彼自身にとっても試行錯誤であった。しかし、彼は若者を愛しむ第一級の教師だった。彼にとって若人は活気に満ち、頼みにするに足りるものだった。彼は若者に与えると同じほど彼らから吸収した。若者は独断的で強情だがミッシェルの許では永続きはしなかった、とポール・ホールは回懐する。そうした若者たちと共に、彼は、次々と芸術家としての俳優育成の組織を先導したのである。
1935―39年:ロンドン・シアター・スタジオ
1947―52年:オールド・ヴィック・シアター・センターのオールド・ヴィック演劇学校及びヤング・ヴィック・カンパニー
1952―57年:ストラスブールの劇芸術高等学院
1960年:カナダ・ナショナル・シアター・スクール
1968年:合衆国のジュリアード学院演劇科
 この間、1962年、RSCの演出家として、ピーター・ホールとピーター・ブルックと共にトロイカ体制で就任した際に、劇団のストラッドフォード・スタジオを発足させている。主目的は、シェークスピアと他のエリザベス朝劇作家の現代に適した上演方法の実験を行うことで、結果的には、その他様々な戯曲にも及ぶというものだった。戯曲をまともに取り上げて俳優たちが演じるという仕事において演出家は助産婦のようなものだと言ったのはスタニスラフスキーだった。そういう俳優たちの存在は、劇作家を励ます。新しい劇作家たちが次々と生れる英国は、今日の国際的な演劇状況の中で特異である。その意味でサン・ドニは英国の若々しい演劇伝統の形成に寄与した助産婦役を果たしたのであった。   

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