(*^_^*)  近 江 八 景  (*^_^*)




【名勝近江八景選定の由来】

近江八景は古くから日本の名勝として愛されていますが、その選定の背景には

中国文化の影響があります。時は室町のころ、日本には、中国宋・元の文化が

盛んに移入され、なかでも中国湖南省の瀟水(しょうすい)と湘江(しょうえい)が

交わる洞庭湖付近の「瀟湘八景」(しょうしょうはっけい)は、名だたる名勝として

多くの文人に詩文や絵画に取り上げられた中国の代表的な主題のひとつでした。

日本ではその美しさへの憧れが大変強く、瀟湘八景を手本に日本各地の景勝地から

”八景選び”が盛んに行われました。

近江八景もそのしとつとして生まれ、ひときわ優雅な美しさから、日本風景の典型と

して全国的に普及していったのです。


【近江八景選定の歩み】

日本での様々な八景選定ですが、「瀟湘八景」(しょうしょうはっけい)をそのまま日本

の風景に重ねて選定する動きがみられるのは、室町後期のこと。

近江八景の記述は、京都相国寺住持の横川景三(おうせん けいさん)による

湖上故人に逢うの詩叙・小補東遊集(しようほとうゆうしゆう)や相国寺の僧、

景徐周鱗(けいじょしゆうりん)湖上八景・翰林胡廬集(かんりんころしゅう)

などに見られ、応仁の乱を避けて近江に来住むした禅僧が琵琶湖の景勝を見出し

たことにはじまると考えられます。





【近江八景の確立】


室町後期の関白近衛政家の選定とする説や江戸初期の関白近衛信尹選定説

などがあります。信尹説は、医師黒川道祐の遠碧軒記(えかぺきけんき)や

江戸中期の国学者伴蒿蹊(ばんこうけい)の閑田耕筆(かんでんこうひつ)

に記されています。また、信尹自筆といわれる近江八景図自画賛も残って

おり、そこには現行の近江八景が水墨画で描かれ、和歌一首ずつが添えられ

ています。このように最終選定者については諸説があるものの、室町後期に

瀟湘八景がもてはやされたことを背景に、近江を訪れた僧侶などが見いだし

江戸時代初頭の文化人たちが選定したことで現行の近江八景が確立したと

いうのは確かなことのようです。




【絵画化により普及した近江八景】

近江八景17世紀後半、絵画の主題としてさらに知名度をあ゛、18世紀以降には

陶磁器や漆器など趣向を凝らした八景作品も次々し生まれました。しかしながら、

近江八景を名勝として庶民にまで浸透させたのは、やはり浮世絵版画であり

歌川広重だといえます。広重が残した20種にものぼる近江八景作品のなかでも

広い人気を博した保永堂・栄久堂の共同出版による大判錦絵8枚。








【瀬田の夕照】せたのせきしょう

「唐橋を制する者は天下を制す」といわれ、幾多の戦乱の舞台と

なった唐橋を描いた「瀬田夕照」。別名「長橋」と呼ばれた

瀬田橋は京都の交通、軍事の要衝として重視され、また時代

の為政者の手によって何度も架け替えられました。



☆露時

 雨もる山遠く過ぎきつつ

 夕日のわたる勢多の長橋





【石山の秋月】いしやまのしゆうげつ

伽藍山の岩山に建つ岩山寺の伽藍と満月を描いた「石山秋月」。

平安時代以来、観音信仰の寺として崇敬をあつめた石山寺は、

奈良時代に創建され、参籠中の紫式部が「源氏物語」須磨・

明石の巻を執筆したともいわれます。



☆石山や

 鳰(にお)の海てる月かげは

 明石も須磨もほかならぬ哉(かな)





【粟津の晴嵐】あわづのせいらん

東海道の膳所から瀬田までの松並木を描いた「粟津晴嵐」は、

強風に枝葉がざわめく様子から晴嵐といわれたとか。旧東海道

に沿った湖岸の眺めは優美なもので、晴天の日には遥か伊吹

までも望めたほどの景観を誇ります。



☆雲はらう

 嵐につれて百船も

 千船も浪の粟津に寄する





【三井の晩鐘】みいのばんしょう

大友皇子の子、与多王による創建が伝承される三井寺は、

智証大師円珍の再興で名をはせた名刹。「三井晩鐘」では、

長等山に点在する三井寺の伽藍を遠方に描き、遠寺の鐘を

聞く趣きが表現されています。



☆思うその

 暁ちぎるはじめとぞ

 まづきく三井の入あひの声





【唐崎の夜雨】からさきのやう

平安時代より、水辺で身の汚れを祓う、みそぎの地として

知られた唐崎は、朝廷の七瀬祓所の一つといわれた。雨に

けむる荘厳な姿が印象的な「唐崎夜雨」、その初代の

巨松は、天正九年(1581)に植樹されたと伝えられます。



☆夜の雨に

 音をゆづりて夕風を

 よそにそだてる唐崎の松





【堅田の落雁】かただのらくがん

雁が列をなし優雅に舞い降る、湖に浮かぶ浮御堂が描かれた

「堅田落雁」。正式名称を「海門山満月寺」という浮御堂は、

平安後期に湖上の交通安全を祈願した恵心僧都(えしんそうず)

がに植樹されたと伝えられます。千体仏を安置したことに始まり、

航行の目印とされました。


☆峯あまた

 越えて越路にまづ近き

 堅田になびき落つる雁がね





【比良の暮雪】ひらのぼせつ

「比良暮雪」は、琵琶湖の西岸に沿って連なる比良山地が雪に

覆われ、その美しい高峯が遠方から描かれています。冬を過ぎ、

春の訪れを感じる頃になっても、なお雪を残す連山は雄大かつ、

優美な姿だったことでしょう。


☆雪ふるる

 比良の高嶺の夕暮れは

 花の盛りにすぐる春かな





【矢橋の帰帆】やばせのきはん

江戸時代、対岸の石場との間の渡し船発着地として栄た矢橋

は、東海道を行く旅人が大津から東へ向かう近道として賑わ

いました。「矢橋帰帆」には、その湖上を矢橋港(草津市)

に進む帆船の群れが描かれています。


☆真帆ひきて

 矢橋に帰る船は今

 打出の浜をあとの追風