房田・元宿について

 


 取手町郷土史資料集(二集)や取手市史余禄を見ると、明治の利根川改修の際に消えた集落があるとの記述がありました。どの辺にあったのか、今はどうなっているのか興味を持ちましたので、消えた集落を追ってみることにしました。

 


房田について

 大改修をする前、いまの新道地先の河原には、房田という部落があった。房田は十戸ばかりの小部落で、大改修の際それぞれに移転させられた。取手には『房田の寄り合い』という言葉があったが、この部落は十戸ばかりの小部落だから、寄合(集会) には出席率がよく話が早くまとまりそうなものだが、実に相違していつも集まりが悪く、話も仲々まとまらない。そこで取手では、集会を開いても出席が悪いと、『まるで房田の寄合いみたいだ』と笑ったという。 (取手町郷土史資料集)


元宿について

 一部が河川敷になった地区に元宿があります。元宿では現在の土手を作るため、その一部が内務省に買上げられでしまい、何軒かの家が河川敷になってしまったのです。丁度入坂神社の西側の道を真直ぐに行って土手を越し、川に向って行く途中に買上げられた人達の家があったのです。 (取手市史余禄)


十二まどについて

 大改修により、取手の発祥の地ともいうべき染野一党の住んだ部
落跡も水底に没し、いまは『十二まど』という地名を残すのみとなった。十二まどの『まど』は『かまど』の訛ったもので、『かまど』は戸、または軒と同義語で、いずれも家の数をあらわす。すなわち、『十二まど』といわれるところには、十二軒の家があったわけである。この十二まど部落の鎮守は稲荷社で、十二まどが河底に没するとき台宿の東福寺境内に移された。
  (取手町郷土史資料集)
本を読んで見ますと、利根川改修の際十二まどはすでに集落はなく、地名だけ残っていたような印象を受けます。

※ 台宿の東福寺は廃寺であると取手市史
(社寺編)に載っていました。


取手市史余禄に載っている地図
十二まどの位置は載っていませんでした


 



昔の地図を見ましたら、房田と元宿らしき建物群が記載されていました。
また、十二まどの鎮守らしき稲荷社も載っていました。十二まどはこの辺
にあったのかもしれません。
この地図を見ますと、取手の町の土手は、元宿までしかなかったようです
ね。しかも、かなり小規模な土手に見えます。




土手と思われる部分を茶色く塗ってみました。
現在で言うと、市民会館のあたりから取手小学
校の下あたりまで堤防はなかったようです。





現在の地図です







現在の地図に昔の地図を重ねますと・・・


ちょっとずれてしまいましたが、大体の位置が推測できます。
房田・元宿だけでなく、小堀にもなくなった建物があったようです。



房田跡を歩く

     
房田が見渡せるあたりの土手から河川敷を見下ろしました



取手市史余禄に、地元の人のインタビューが載っていました。『 「あの辺の所に高い住居跡みたいなね、河原の草叢の中に
元人家があったんじゃないかというような、丁度水域のように、二メートルやっとってとこでしょうね。その位の高さの住居跡
みたいのがありましたね。それはよ〈覚ぇています」そこが房田の跡ではないかというのです。  』

向こうに見える草むらの中に、住居跡があるかもしれません。今回は探してませんが。。



駐車場に車を停めて房田跡地を探し始めます



ちょうどこの土手の真下あたりに房田の十字路があったようです。
土手が少し膨らんでいる所なので分かりやすいです。




土手を降りてみました。この辺に房田の建物が建っていたのでしょうか。


ちょうど良い目印がありました。




稲荷社跡を歩く

河川敷にある駐車場の近くです

唐突に木が生えています。もしかしたら稲荷社のあった
場所かな・・とも思いました。



元宿跡を歩く

八坂神社の道を入って行きます








市民会館のあたりです。この辺から元宿になるのかも
しれません。
右側に見える図書館の駐車場には、昔、ホームセンター
というか大工道具屋さんみたいな店がありました。会館
でイベントがあると、ここにあった自動販売機でジュースを
よく飲んだものでした。ちなみに、ここに写っている市民
会館あたりで、タケノコ族が踊っていたような記憶があり
ます。

たぶんこの辺は元宿なんでしょう。。
あらためて来て見てみると、この辺はずいぶん
建物が減ってますね。


土手から元宿を見ます。この土手の下にも建物が建っていた
んでしょう。



土手から河川敷を眺めます。
この近くに、竹村河岸という、取手で一番新しくできた河岸があったそうです。



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