小文間五条街について

 


 取手町郷土史資料集(二集)に、「五条街の謎」という興味深い記事が載っていました。小文間に平安京のような碁盤の目の街があった、という説でした。その文章は、「〜と思われる」「〜だとしても不思議はない」「〜と感じる」と推定の連続ですので、筆者の方も確信はないようです。

「まさか!」と思いますが、歴史のロマンを感じますので、小文間に条坊都市を再現してみることにしました。

 


歴史の知識はほとんどありませんので、郷土資料集の文章を根拠のすべてとします。

・小文間の「神出しの渡し」といわれた渡船場の近くから、幅五門 の道路が西の方に向かい、相野谷川あたりでのめるように利根川 に没している。
   《「五門」という単位ですが、検索してもわかりませんでした   ので、「五間」の間違えとします。五間だと10メートルくら   いでしょうか。》

・五門道路に沿って、500坪ほどの、土塀を巡らした屋敷跡がある。

・北方に丘陵地帯があり、冬暖かで夏涼しい。

・閑居山という丘陵があり、都の渡人か都に関係のある豪族が住ま ったような響きがある。

・安養寺(現在は廃寺)や福栄寺がある。

・利根川は当時(平安時代)、ここを流れておらず、千葉県の下総 台地まで平原だった。

 全てを書ききれませんが、だいたい以上を根拠として、条坊都市 の位置を推定してみました。


応仁の乱を避けて土佐中村に小京都を築いたという、一條教房のような人が取手にも来ていたのかと思うとワクワクします。


 

 



現在の航空写真です。左側の寺が安養寺跡で、右上が福栄寺です。





五門道路を描いてみました。右側の起点が神出し渡しのあたりです。





郷土資料集によると、利根川は当時無かったらしいので、
消してしまいました。



さらに、条坊都市を描きやすいように平原を白く塗りつぶしました。






 碁盤の目の都市を描いてみました。五条街というので、南北に五条(左から右への道路が南北に五本)、東西に五坊(上から下への道路が東西に五本)、あったと思われますので、以下のようにしました。精密な鳥瞰図などを描ければいいのですが、絵心が無いので、またの課題ということにします。
 こうして見ますと、南北に走っている真ん中の道路の北側に小文間の丘陵があり、もしかしたら条坊都市の中ではなく、丘陵に、この都市の主が住まっていたのかもしれませんね。
 我が都を一望の下に見渡して。。。






小文間五条街(小京都)を歩く


     
宗四郎坂から始めます

坂を降りきると注意書きが。。

河川敷の細い道を歩いていきます

神出し渡しのあたりです

神出し渡しのあたりから見た利根川です。
当時は利根川が無かったというのは初耳でした。


五門道路があったあたりには遊歩道があります。
けっこう人通りがあり、驚きました。

小文間の丘陵です。どこまで行ってもこのような風景です。

相野谷川あたりまで来ましたが、五条街の痕跡は
分かりませんでしたので引き返すことにしました。

帰り道、森の中に穴があったのが面白かったので
撮ってみました。


帰り道、宗四郎坂の碑を見てみたら五条街についての記述が!
碑の裏側なので行きは気付きませんでした。それによると・・
「小文間五条街と呼ばれる古道のひとつ。」とあります。
宗四郎坂も五条街の一部なのですね。条坊都市とは関係なさ
そうですが。。。  訳が分からなくなってしまいました。



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