平館台場

 

 台場は寛政文化のころ、近海に異国船が出没するようになったところから、
幕命によって津軽藩が外ヶ浜海防施策として嘉永十二年に築いた西洋式
砲台場である。台場は海に沿い高さ一丈二尺の土台を積み上げ横十間縦
五十間位の長方形状に並べ、前面は所々を切断して砲門とした。二ヶ所に
入り口があり、台上一帯に松を植え、中央は低く海上から見透かされぬ用意
がなされている。原型のまま保存されているのは全国的にまれである。 
かの有名な吉田松陰が嘉永五年(1852年)二月七日北風吹く雪どけの頃の
道を歩くのに難渋しながらこの台場と付近の情景を「東海道遊日記」に誌し
ている。

平館台場の現状

 


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黒崎台場

 

 ここ黒崎は天保2年(1645年)のころは小本村に属し黒崎といい、沿
岸警備の船遠見番所が何部藩によって設けられ、その後元禄12年
(1699年)には普代村に属し、譜代崎と称するようになった。後に
南部藩ではこの場所に台場(海岸の砲台場)を築き、黒崎御台場
と称した。幕末の南部家文書「御分国海辺全図」によると、領内の
太平洋沿岸沿いと津軽海峡、そして内海陸奥湾側にいたる広い沿
岸要所に遠見番所10ヶ所以上と砲台場33箇所以上を配置したとして
いる。この御台場には土塁をめぐらし、砲台場、火薬庫詰め所を配置
して打ち方と手伝い人6名を常置させていた。 明治元年(1868年)の
戊辰戦争では、幕軍に属していた南部藩は北航してくる官軍艦船をこ
の場所から狙い撃ちにしていたという。(普代村史より転載) 平成2年
3月 村制施行百周年記念事業として建立
  譜代村村長 ○○ ○○
−−−−−以上、現地案内板より




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