五稜郭
北海道函館市本通1丁目にある。安政4(1857)年に着工され、元治元(1864)年に完成した。設計者は武田斐三郎 ( あやさぶろうである ) 。安政元(1854)年 再来日したアメリカのペリーにより日米和親条約が締結され、横浜と函館の2港を開港することとなった。それに伴い蝦夷地の警衛を強化する必要が生じたのであるが、従来からの蝦夷地の領主、松前家では力不足の感が否めなかったので、幕府の直轄地に変更し函館奉行を置いた。奉行の政庁には、当初、旧松前藩の函館奉行所が当てられていたが、諸般の都合により、新奉行所を設けることになった。それが、亀田役所土塁と言われていた五稜郭なのである。五稜郭は、5つの稜堡を星形に並べ、大手口の前には半月堡(ラヴェラン)が設けられていた。下記の初期設計図に見られるとおり、当初は半月堡ほか、数多くの堡塁を周囲に配置し、縦深防御を実現する計画であったようだが、資金不足のため、半月堡が一つだけになったようである。江戸時代は函館奉行の居城であった五稜郭であるが、大政奉還以後は新政府の函館府の政庁となっていた。しかし、明治元(1868)年旧徳川軍が蝦夷地に上陸し、五稜郭を無血占領した。その他 新政府軍の拠点も破り、蝦夷地を占領した。それに対し新政府軍は、旧幕府軍の追討のため明治2(1867)年4月9日に北海道の乙部町に攻撃軍を上陸させた。その後、旧幕府軍の奮戦もむなしく、5月17日五稜郭で最後の抵抗を続けていた榎本武揚らは、新政府軍に降伏し、ここに戊辰戦争が終了したのである。現在は、国指定の特別史跡になっており、石垣・水堀等よく保存されている。
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