取手の城

1,高井城
 取手市下高井にある。小貝川を北にのぞむ半島状台地に築かれた取手市内で最も大きい戦国時代後期の城跡である。城跡全体は 約200メートル四方の規模で、その内部は、主郭とそれに付属する二つの曲輪からなる中心部と、その外側に広がる外郭に分けられている。城主は、相馬氏の一族高井氏と考えられている。現在、城域一帯は大部分が宅地となり、外郭遺構は部分的にしか残ってないが、城の中心部である主郭と、それにともなう曲輪は比較的良好な状態で保存されている。現在は公園として整備されている。取手の西隣の、守谷町にある守谷城の支城である。所在地:取手市下高井1440辺り
2,大鹿城
 大鹿城は競輪場のある台地の尖端に位置し、昭和45年までは単郭の城跡が残され、現在はほとんど消滅した城跡である。城跡は、現在競輪場のある台地の尖端にあり、楕円形の曲輪が周囲を土塁・堀で囲まれる形で存在した。 虎口は曲輪の南東に設けられており、虎口を出ると競輪場のある台地へ至る通路と、城跡の南に広がる低地に下る通路にわかれていた。虎口の西側土塁には虎口前面の通路に対する側防施設が設けられている。側防施設は、この他に曲輪の北側土塁にも構えられていたようである。大鹿城は構造からして、戦国時代後半の構築と推定されている。なお、城跡周辺には、競輪場のある台地に「馬場」「北口」の地名が残っている。所在地:取手市白山6丁目辺り
3,野々井本能寺城
 野々井の集落の東側に白山神社が祭られているが、この神社には本能寺城という城跡の言い伝えが残っている。神社の境内は、南北70メートル、東西55メートルの規模で五角形の平面形をなしている。また、境内は周辺より2〜3メートルほど高くなっており、境内を囲むように高さ0.5メートル〜1.7メートルの土塁がめぐっている。この、本能寺というのは、「ホリノウチ」の転訛したものと考えられ、以上の神社境内の現状や伝承地名などから、この白山神社内に城が築かれていたと推定される。現在白山神社の周囲は宅地化されているため、この他に曲輪が存在したかどうかは不明である。所在地:取手市野々井1640辺り
4,大山城
 小貝川流域の低地に突出する台地の先端を区切って、築造された中近世の城跡。二重の土塁と空堀によって後背の台地と連絡を断っており、空堀の深さは2メートルほどあった。現在その大半が宅地造成によって掘削され、残る部分も宅地化されている。高井城の支城と考えられている。所在地:取手市寺田4316辺り
5,稲城ノ内・古戸城
 稲は、取手駅より北西 2.5Kmの利根川に沿った台地上に形成された集落である。稲の集落のほぼ中央に「城ノ内」という地名が残っている。その他にも、「城山」「馬場山」「城ノ台」といった城郭関連地名がある。稲地区の、利根川堤防につながる小高い台地があるが、この台地上縁部に簡単な土塁と南先端に一段高い部分が築かれている。自然地形に人為的整形を加えたものとして城趾、あるいは砦趾のような役割を持った遺跡と考えられる。稲城ノ内に付属した要害城ではないかと考えられている。所在地:取手市稲1140辺り
6,小文間城
 取手市小文間の台地上に築かれた城館跡。一色氏城とも称される。城跡のある台地は「城ノ台」と呼ばれており、城跡北側に土塁と堀の一部が25メートルにわたり残っている。城跡の規模は明らかでないが、遺構の一部が残る台地の尖端に小規模な城跡が築かれる程度のものであったと思われる。所在地:取手市小文間5510辺り
7,小文間城ノ内
 小文間城ノ内は、取手市の東側、小貝川と利根川の合流地点に近い小文間戸田井の、小貝川沿岸に広がる低地に向かい、北にひらいた谷戸である。現在、この谷戸には数戸の民家があり、谷戸の背後の南側台地上には城ノ内天神社が祀られている。地名から城館がかつてあったことをうかがわせるものである。「利根川図志 」巻2には、「一色氏城趾、小文間の戸台 ( 戸田井 ) に近き処に在り、詰めの丸と覚しき処に天神社あり、下の谷を城ノ内といふ」とみえる。小文間城ノ内のような谷戸を利用した城館跡は他地域にも確認することができる。小文間城ノ内と同じように「城之内」という地名を持ち、谷戸に囲まれた城館跡の例として、神奈川県愛川町の小沢城之内があげられる。また、東京都町田市の小山田氏館(現大泉寺)も、三方を丘陵に囲まれた谷戸が城館跡と考えられており、背後の丘陵城には城跡が認められている。所在地:取手市小文間4590辺り

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