西の大通りを少し西北に入った所に、その店はあった。白い船のキャビンを想 わせる、瀟洒な造りの店だ。官庁街から少し外れているため、とても物静かな通 りである。 ダーク・スミスは久しぶりに晴れ上がった真昼の日差しを見上げると、その店 の中へと入っていく。白で統一された店内の装飾が妙に眩しく、ダークは目を細 めた。そしてダークは雪原のように白い店の中に浮かび上がる黒い影を見いだす 「あの」 ダークに声をかけられ、その黒いロングコートに身を包んだ人は読み差しの本 から顔をあげる。黒くまっすぐな髪のその人は肩にかかる髪を払い、冬の日差し のようにそっと微笑んだ。 「あなたが未来・明日香さん?」ダークの言葉に明日香は頷く。 「じゃあ、あなたがダーク・スミスさんね。よかった」 ダークは少し困惑した顔になる。 「よかったって?」 「私の相棒になる人が、とっても愛らしい女の子で」 ダークは予想外の言葉に頬を紅らめた。その時のダークの姿はアーミーグリー ンのブルゾンにグレーのシャツ、ブラックジーンズという出で立ちだったし、日 に焼けたショーットカットのその顔は眉間に派手な傷痕があり、少女というより は不良少年に見える。 「驚いた。そんなこと言われたの始めてや」 明日香はパタンと本を閉じると、立ち上がった。思ったよりずっと背が高い。 ダークも女性にしては背のあるほうだが、彼女より頭一つ高かった。 「目がね、女の子だわ。まるでサファイアのように真っ青で、晴れ渡る夏の空み たいな透明な色ね」明日香はハスキーな声で物憂げに言った。「なんの汚れも知 らない乙女の目だわ。じゃ、行きましょうか」 ダークはいきなり明日香の雰囲気にのまれてしまい、素早く歩き出した明日香 の後を慌てて追う。二人は店の外に出た。 「でも驚いた」 「何に」 「凄腕のデテクティブていうから、きっとごついおっさんやと思ってたのに」 ダークは少年のようににっこりと笑った。 「こんな綺麗な女の人やったなんて」 明日香は困ったように微笑む。 「誤解があるみたいね。でも説明してる時間がないわ。迎えが来たわよ」 その晴れ上がった三月の空に、巨大な獣のような軍用ヘリが姿を現す。明日香 はそのヘリに、手を振った。 「ひよっとして、あれで?」 「時間がおしいの。車でいくと結構かかるから」 グレーの軍用ヘリは、風を巻き上げ地上近くまでおりてくる。二人はその開い たボディから中へ入り込み、空へと向かった。 ダークは空から街を見おろす。東京第24区、東京湾上に一夜にして出現した。 その島は、正式にはそう名付けられている。しかし、エルフやドワーフといった エピックファンタジーの中の住人が現実に存在し、魔法がただのショウや娯楽の ねたではなくリアルな力として存在するこの街は、人々からこう呼ばれていた。 東京ネクロマンスシティと。 ヘリは街から西へ向かい、24区を管轄地区とする警視庁対魔特殊部隊の駐屯 する白虎塔へ向かう。ヘリは街の西方の高級住宅地を越え、白亜山地へと入って 行く。白虎塔はその山の中の盆地に聳える、巨大な高層ビルであった。 ダークは前方に見え始めた機能的なデザインのビルを見て、ふと思った。 (思ったより普通の街やな) 来る前はおとぎの国のようなところを想像していたが、案外落ちついた佇いを 持った街である。蒼古より積み重ねられた歴史の重みのようなものを、感じさせ る街だった。 ヘリは白虎塔のヘリポートに着く。ダークたちは、風の強いヘリポートを走り 抜け、建物の中へ入った。対魔特殊部隊捜査一課はエレベータで上がった40階 にある。エレベータホールを抜け、フロアへ入ったダークは思わず明日香のほう を見た。 「何やの、これ」 そこは、むき出しのコンクリートの床に荷物が散乱しており、まるで空きビル を不法占拠しているような有り様だった。驚きで空いた口の塞がらないダークに 明日香は少し微笑みかけると、平然とその現代芸術を展示した画廊を思わすフロ アを歩いていく。その足どりは機能的なオフィスを歩いているかのように、颯爽 としていた。 「課長、未来です。戻りましたよ」 「おう」  明日香への返事はついたての後ろからした。ダークたちはそのついたての後ろ へ回る。そこはまるで独身男性の一人部屋のように、散らかっていた。 一ダース以上の電話が並べられ、その回りに食べかけのスナックや、飲み差し のパックのウーロン茶が置かれている。書類や、ファイルはやたらと積み上げら れ、山脈を形成していた。今にも地殻変動で崩れ落ちそうであるが。 その一角に大きなソファが置かれ、そこに寝ていた背の高い男が起きようとし ているところだった。 「やれやれ、三日ぶりに寝ちまったもんでだりぃぜ」 男はそう言いながら、起きあがる。ネクタイをはずし、派手な柄のシャツの衿 を立てたその姿は、刑事というよりはヤクザであった。しかし、その寝起きで焦 点の合っていない顔は、結構優男ふうである。 「課長、ミズダーク・スミスです。挨拶を」 「ああ、西の治安放棄地区からきた、腕利きの人ね」 男はにっこり笑った。 「課長の石神です。よろしく」 「なんや凄いとこやな。西の事務所かて、もうちょっとましやったで」 「引っ越しの途中で事件がおきてね、片づけてる暇がない」 そういうと、石神は傍らのウーロン茶を取り上げ、飲み干した。 「この味は四日ものかな」 「課長、私はそろそろ行きますよ」 「おう、じゃあダーク君、明日香のサポートよろしく頼むわ」 「ちょっ、ちょっと待ちいな。ブリーフィングもせぇへんのか。無茶苦茶やな」 「そういうなよ。時間がない。道中明日香が説明してくれるさ」 明日香は既に歩きだしている。ダークは溜息をつく。石神は宥めるように言っ た。 「彼は特別なんだ。この街が特別な以上にね」 「彼?誰?」 「明日香にきまってるだろ」 ダークは石神に顔をよせて囁いた。 「お、男やったんか!」 「あたりまえだ。おい、早くいけ、置いてかれるぞ」 ダークは慌ててあとを追って走る。明日香の乗るエレベータにかけ込んだ。 (何しに来たんか判らへんな) ダークは心の中で呟きながら、来たのと同じヘリに乗り込んだ。さっき街中で ヘリに乗ってから、10分も経っていない。ダークは大変な相棒と組んでしまっ たような気がした。 ダークはヘリの中で思わず明日香を、見つめてしまう。確かに女装している訳 ではないが、その華奢な手足や、清楚な顔立ちをみていると、とても男とは思え ない。 明日香は見つめるダークに微笑みかけた。思わずダークは頬を赤らめ、俯いて しまう。 「何かいいたいことがあるんでしょう」 明日香はやさしく話かけた。 「い、いや」 「ご免なさい、ブリーフィングもしなくて」 「そ、そんなこと」 「私、チームプレーは苦手なの」 「はは、それは私も同じや」 「へぇ、じゃあ私たち似た者同士でいいチームになるかもね」 「ははは、そうやね」 (どんな理屈や、そんな訳ないやろ) ダークは顔で笑ったが、心の中でつっこみをいれていた。 ダークたちは、ヘリから降りると街の中心の中央大通りへ向かった。この街は 中心を走る大通りによって二分されている。通りの西側が、東京等からやってき た移住者たちに与えられた区域である。通りの東側は昔からこの島に住んでいた 住民たちの区域だった。 この島が東京湾上に出現し、東京都の二十四番目の区となったとき、この島の 王ベリアル・フィッジェラルドと区長の間に協定が結ばれた。いわば相互不可侵 条約であり、日本の法律は街の西側でのみ通用するが東側は王ベリアルの定めた 法のみが通用する。ただし、双方の市民が相手側の居住区で犯罪を犯せば、犯し たその地の法で裁かれることとなった。 初期のころは原住民と移住者の関係は安定していた。しかし、それは長く続か ない。 「例の遷都計画がリークしたころからよ。犯罪がテロル化してきたのは」 明日香は大通りを東に入る。そこは先住民達の世界であった。その曲線を多用 した新ガウディ様式風の建物が立ち並ぶ通りを歩きながら、明日香は話を続ける。 「原住民たちは協定違反と考えたわ。遷都計画を」 遷都計画はネクロマンスシティプロジェクトという通称で呼ばれており、この 島を日本の首都としようとする計画であった。いわば魔法的列島改造計画であり かって経済大国とよばれた日本を魔法大国へと再編成しようという計画である。 このプロジェクトにより先住民たちは事実上経済的に移住者たちに依存せざる おえない体制が、形成されることとなるはずであった。これは、先住民の居住区 を実質的には観光地と学園都市を融合した街にする計画であり、そのために先住 民たちの市場を日本のハイテク製品で制圧して経済支配より政治支配へと移行し てゆくという青写真まで出来上がっている。 極秘のうちに進められていたこの計画は、魔法の力で暴きだされ、猛反対を受 けることとなった。そして移住者の居住区へ、魔法で造られた亜生命体(サブク リーチャー)によるテロルが行われるようになる。 「対魔特殊部隊の発足はそういう経緯からなの」 明日香たちはしだいに南東へと向かって行く。奥へ入るにつれ街の造りはしだ いに複雑化しており、何十もの通りが複雑に交差しているためまるで迷路のよう であった。 建物も邪悪な姿の彫像たちに飾りたてられ、まるで異教徒の神殿をみるようだ。 通りを歩く住人はドワーフのような小柄なものや、トロールのような巨人、フェ ルプールといった獣人や褐色の肌の魔族等々実にバラエティーに富んでいる。 明日香は平然と歩くが、ダークはとうとう自分がネクロマンスシティへ入り込 んだのを感じ、胸の高鳴りを抑えきれない。 明日香は話を続けた。 「サブクリーチャーは殺すことができないため、随分手こずったわ。魔法的な生 き物は魔法的に倒すしかない。そこで対魔特殊部隊はベリアルに相談したの」 街を破壊しつづけ、ミサイルを打ち込んでも生きているサブクリーチャーは脅 威である。それに対抗する兵器の作成を警視庁は、ベリアルに依頼した。ベリア ルはそれを引き受け、サブクリーチャーを倒すためのサブクリーチャー、ジェノ サイダーをつくり対魔特殊部隊に売りつけた。そのジェノサイダー一号はコード ネーム、マリィゴールドと名付けられている。 「ところが、そのマリィゴールドを盗まれたのよ」 明日香はどんどん路地の奥へと、入り込んで行く。あたりは麻薬と思われる色 鮮やかな煙がただよい、昼間でも薄暗い通りの奥は甘く退廃的な香りに満ちてい る。明日香は麻薬中毒者が寝そべり、武器を携えたオークやダークエルフのいる 道をまったく足どりを変えず歩いていた。 ダークにしても、こうしたところは馴染み深いものがあるが、魔法的な紋章や 得体のしれぬ薬品の香りにはさすがに、緊張させられる。明日香は話を続けた。 「私たちはそのマリィゴールドを探しはじめてもう、48時間以上になるわ。こ の街はそう大きな所ではないから隠すといっても場所はかぎられている」 「例えば?」 「北東の有力な魔法使いたちの住むところよ。彼らの邸宅なら可能ね」 「そいつらの所へ踏みこんだら?」 「あからさまな協定違反よ。それはできない」 明日香たちは、聞きこみをはじめた。この街の先住民たちは、なぜか明日香に は従順に応じている。ダークは、石神が明日香は特別といっていた意味が判って きたような気がした。彼は、街のこちら側に属しているのだ。 明日香は情報収拾をそれ専門のプロたちに依頼し、その情報をもとに捜査を行 っている。明日香の探しているのは、マリィゴールドが盗まれたのとほぼ同時に 消息を断った情報屋であった。 ダークはその薄暗い店に入ったとき、淀んだ空気に敵意が混じっているのを感 じた。まだ昼間ではあるが、意外と客は入っている。ゆったりした音楽の演奏が 流れ、客たちは囁くように話ていた。 明日香はまっすぐカウンターへ向かう。ダークは手ごろなテーブルの席に腰を おろした。 (はぁ、地道な仕事は向いてへんわ) ダークはそう想い、溜息をつく。とはいえ、彼女のやっていることといえば明 日香のあとをついていくだけで、聞き込みはすべて明日香がやっている。一体な ぜ自分が明日香の相棒となったのか、理解に苦しむ。 明日香はカウンターの前のストゥールに腰を降ろした。バーテンは天使の仮面 を被った金髪の男である。 「はぁい、ラウール。素敵な仮面ね。どうしたの?」 明日香に話かけられたバーテンは、ギリシャ彫刻のように端正に造られたとて も美しく、無表情な面の顔を明日香のほうへむけた。 「このあいだ寝た女が魔法をかけたらしくてね、浮気をすると顔の皮膚が腐れ落 ちてしまうんだ。魔法をとくいい方法がなくてね」 明日香はくすくす笑った。 「知り合いの魔導師に相談してみるわ。ラウールらしいわね」 ラウールは汚れをしらぬ天使の顔で肩を竦めた。 「で、何のようだい。うちにくるなんて久しぶりじゃないか」 「ミウ・ミウをさがしているの。このあたりで見たって聞いて」 「情報屋のかい。ああ、来たよ。相変わらず夢でみた神殿の話をしてたな」 「暁の星の神殿ね。そこへ行くのが彼女の夢だから。で、どこへ行くっていって た?」 「さあ」ラウールはそっけなく言って、立ち去ろうとする。 「ラウール」 チンと涼しい音がした。カウンターの後ろのボトルが縦に割れ、琥珀色の液体 が馨しい匂いをさせながら床へこぼれてゆく。 「脅しは嫌いなの。いい?」 ラウールは慌てて割れたボトルを片づけて、床をふいた。そして小声で囁く。 「教えてほしいなら目立つなよ」 「いい子ね、ラウール。お話する気になった?」 ダークは注文したホットミルクを啜っている。隣のテーブルの男たちがこちら を見つめていた。ドロウ族と人間の混血のような、薄黒い肌の男たちだ。ダーク はその敵意のこもった視線を、無視し続けるのも限界がきたのを感じる。 「へい、兄さんたち、俺を口説きたいんか?ゆうとくけど俺は安くないで」 ダークは男たちに声をかける。ドワーフの細工らしい、銀の白鳥を形どった兜 をつけた片目の男が応える。 「よそものだな、あんた」 ダークはその悪意をこめた言い方に、思わず吹きだした。西の治安放棄地区で は、よそものとはお客さんであり、身ぐるみ剥いでくいものにできるカモである。 (ここでは、歓迎されないんやな) 少なくとも自分の存在意義を悩むより、この連中と遊んだほうがよさそうだ。 「なにがおかしい」片目の男は戸惑ったようだ。 「いやいや、やっと遊んでくれる相手が見つかったんや。嬉しくもなるわ」 「遊ぶだと?」片目の男が立とうとする。それを隣のフードを被った男が、止め た。 「止めとけ」 「なんだよ」 「そいつは、刑事だ」 片目の男は失笑する。 「は、それがどうした。ベリアルの野郎の配下の魔族の衛兵にくらべりゃ、人間 の刑事なんざ」 「そいつと一緒にここへ来たのは未来明日香だったぞ」 片目の男は死神の姿を見てしまった者のように表情をこわばらせ、腰を降ろす 今ダークを見る目には脅えがあった。 「はっ、びびってんじゃねぇよ」 もう一人の片腕の男が冷笑した。結構酔っている。ダークはその男の目に破滅 を望む、狂気の色を感じた。片腕の男は銀色の義手を振りながら、暗い目をして 呟く。 「面白い、やってやろうじゃねぇか。あのオカマ野郎は俺がぶち殺す」 その瞬間、店の中の空気が凍りついた。誰一人として口を開かず、身動きする ものすらいない。その真冬の廃虚のように静まりかえった店の中で、ただ一人明 日香だけが歩いていた。 カウンターから離れた明日香は、海の底のように重たい空気の中をゆっくりと 片腕のドロウ族の男へ向かって歩いて行く。片腕の男は狼に見つめられた子羊の ように、自分の前に近づいてくる美しい男を見つめていた。その目にはある殊の 陶酔すらある。 明日香は黒衣を纏った大天使のように、片腕の男の前に立った。そしてまるで 兄弟にむかってするように、無造作に片腕の男の胸元へ手をだす。明日香は片腕 の男の胸ぐらを掴むと、軽々と自分の頭より高く男を釣り上げた。 明日香はステージに立つ女優のように微笑み、血に飢えた獣のように暗い声で 言った。 「俺を怒らせるんじゃねぇ」 明日香のその言葉は大輪の華のように美しく輝く笑顔とあまりにそぐわなかっ たため、まるで明日香の体の内側に潜む凶獣が呟いたように見えた。異臭が漂い 片腕の男が失禁したのが判る。 明日香は男を放り出す。片腕の男は、壊れた人形のように椅子へ崩れ落ちた。 明日香はダークのほうを向く。そしていつものハスキーな声でいった。 「行きましょう、相棒」 ダークはやれやれといった顔で立つと、片目の男に笑いかけた。 「また今度遊ぼな、じゃあね」 店の男たちは白い顔をして二人を見送った。店の蒼ざめた空気が彩りを取り戻 すのは、二人がでて行った3分後である。 明日香は無言で道を歩く。店を離れてしばらくしてから、ようやく口を開いた 「ごめんなさい、でしゃばってしまって」 ダークは苦笑する。 「謝ってばっかりやな、そんなのはどうでもいいけど、行き先はどこやの」 「キシオムバーグの館よ」 「そこに情報屋がいるんやね。そのキシオムなんとかいうのは、魔法使いなわけ か?」 「ていうか、娼館なのよ。けっこう有名な」 「ふぅん」 「何?機嫌がいいわね」 「なんとなく、暴れられそうだから」 明日香は子供を見つめる母親のように笑う。 「そう、そうかもしれないわね」 ダークは自分のいる意味を理解しつつあった。さっきの店で判ったことは、お そらく明日香が凄腕のデテクティブというよりは、とんでもないベルセルク(狂 戦士)らしいということである。自分が明日香の相棒になった意味はその荒事に 巻き込まれても、生き延びることができる人間という事らしい。そう思ったとた ん、ダークはうきうきしてきた。 (楽しみやな、これは) ダークは自分では気付いていなかったが、まるでこれから遊びに行く子供のよ うにニコニコしていた。 明日香たちは街の南東部の奥まったところまで、来ている。あたりは迷路状で 薄暗い。路地は狭く細く、まるで迷宮のなかに迷い込んだようだ。ダークはあち こちの暗がりの中からくる明白な殺気や、漂ってくる麻薬の香りを感じていた。 ダークは自分の体が危険に反応して、まるで電流が駆けめぐっているかのように 鋭敏になっているのに気付いている。 (楽しそうなところやな) 明日香は平和な街の西側にいるときと、全くかわりのない様子で歩いていた。 その薄汚い路地に迷い込んだ、黒衣の天使のように美しい美貌の下で何を考えて いるのかは、判らなかったが。 明日香はふと立ち止まった。 「ここがキシオムバーグの館よ」 そこは巨大な城壁のような壁が続くところだった。高さ5メートル近くはある だろうその壁は、娼館というよりは収容所の類をおもわせる。 明日香は小さな門を叩いた。衛兵のようなゴブリンが顔をみせる。小柄な体に 黒ずんだ肌をしており、革のアーマーをつけた体は強靭で敏捷そうだ。 「客か?」ゴブリンの問に明日香は小さく笑って答えた。 「ええ、そう」 「うちは会員制なのは知ってるな」 「紹介状はあるわよ」 そう言って、明日香は絵札のようなものをみせる。 「ベリアルの紋章か」 「この島の王の紹介じゃ不足?」 ゴブリンは溜息をついた。 「あの優男も出世したもんだわ。まぁいい、入んな」 ダークはその狭い戸口をくぐり壁の中へ入ったとたん、驚きの声をあげた。 「ここは!」 そこはまるでヨーロッパの貴族の庭園のようであった。幾何学的に配置された 木々や花々、美しく輝く緑の芝生、煌めく水をはね上げる噴水とその中に佇ずむ 美しい彫像たち。 陽光をうけ花々や白いテラスは輝き、遠くに見える屋敷は神々しささえある。 すべてが麻薬の幻覚の産物のように色鮮やかで、儚げで、美しかった。 「これは魔法なんか?」 ダークの問に明日香が答えた。 「ある程度は本物。でも半分以上はホログラフみたいなものよ」 そう言って明日香は色鮮やかな初夏の庭園を歩いてゆく。まるで貴族が自分の 庭を散歩しているような足どりだ。 ダークは感心しながら後に続く。色の見事さや、植物のみずみずしさはたしか に本物以上にリアルすぎ、スーパーリアルの絵のように嘘っぽい。 「たかが娼館の庭やなんてなぁ」 ダークたちは屋敷の正面玄関の前についた。その豪勢で巨大な扉を明日香が押 す。その玄関ホールの有り様を見て、ダークは再び驚きの声をあげる。 そこは亜熱帯のジャングルを模して造られていた。まるで植物園の温室のよう である。原色の強烈な色彩の花が咲き乱れ、蔦があらよるところで絡みあってい た。明日香は平然と、その椰子の木の並ぶホールを歩いていく。天井はガラス張 りで日の光が燦々と降り注いでいる。ダークはあたりを見回しながら、明日香に 続いた。 あたりの空気はねっとりとして暖かく、甘い香りが満ちている。まるで妖艶な 女性の腕の中にいるように、思えた。 繁みの奥から、半裸の南国ふうの色鮮やかな衣装をつけた女性が現れた。その 女性は明日香に微笑みかける。 「未来明日香さんですね。お待ちしていました」 明日香は軽く頷いた。女性は明日香を手招く。 「支配人がお呼びです。こちらへ」 ダークは明日香の後に続く。そのダークの手を別の女性が横から掴んだ。 「お連れの方はこちらへ」 「なんやと」 「ダーク、ここはいわれた通りにして頂戴」明日香が振り向いてダークを見つめ た。ダークは肩を竦める。 「しかたないか。どこへいくんや、ねぇちゃん」ダークは階段を昇り上のフロア へいく明日香を見送りながら、手をひかれてジャングルの奥へと入っていった。 上のフロアはどちらかといえば平凡なつくりである。絵画や彫像、骨董品が並 べられたそのフロアは博物館の一室を思わせた。女性は扉の一つを開き、中へ明 日香を送り込む。 そこは小さな待合い室のような部屋であった。ワルキューレのような鎧を身に つけた護衛が、明日香を出迎える。 「お召し物はここで脱いでいって下さい」 「あら、遊びにきたんじゃないのよ。支配人さんとお話があって」 「同じですわ」 護衛は腰の短剣に手をのばす。明日香はあははと笑った。 「脱ぐわよ。ちょっと待って」 明日香はコートを脱ぎ、露になった拳銃をホルスターごと外した。明日香は手 を広げる。護衛は短剣に手をかけたままこちらを見ていた。 「判った。疑り深いのね」 明日香はすべて脱ぎ去り全裸となった。その裸身はトランスセックス的な性を 超越した美しさがある。華奢な骨格はやはり女性的であり、体の線の柔らかさは 女性以上であった。 「さて、行こうか、ねぇちゃん」すべての武器をとりさった明日香は、開き直っ たラフな口調で言った。護衛は短剣から手を離すと、奥の部屋へと明日香を案内 する。 奥の部屋は暗闇となっていた。天井はドーム状でプラネタリウムふうに星が写 しだされている。天井の仄な蒼白い光が部屋を照らしだす。そして部屋の奥、天 空に輝く大鎌のような北斗七星の下にその人はいた。 「ようこそ、未来明日香。待っていたわ」 「あなたが黒幕ね、キシオムバーグ。久しぶりね」 キシオムバーグは黒い肌をしたエルフである。その瞳は金色に輝き、銀色に渦 巻く髪が肩にかかっていた。 地の底の闇のように漆黒の肌と対照的な純白の長衣を身につけ、傲岸な表情で 明日香を見つめている。その瞳には嘲るような色があった。 明日香は部屋の壁に張り巡らされた暗幕の後ろに、人の気配を感じる。およそ 十人ほどの人数が、潜んでいるようだ。 「明日香、相変わらず美しいわね。あなたは本当にこの街に相応しい人だわ」 「ミウ・ミウがお世話になったようね」 「彼女のことなら心配しないで。永遠の夢の中へ旅だっていったから」 明日香の瞳が嫌悪で微かに曇る。キシオムバーグの言っている意味は、致死量 を越えた麻薬の夢のことだった。 「それでキシオムバーグ、あなたはこの街の女王になるのかしら」 キシオムバーグの目が闇の中で金色に燃えた。 「馬鹿馬鹿しい。支配や政治はベリアルにまかしているわ。そういった煩わしい ことは、あのうつけもので十分。わたくしは、レジスタンスをやっているのよ」 「本気なの」 「もちろん。明日香、あたはいつまであの下らない遷都計画に関わっているつも り?わたくし達は誰からも支配されるつもりはないし、支配するつもりもない。 人間たちがこの街にいたいというのであれば、好きにさせる。けれどもこの街を 支配し利用するのであれば許さない。判るでしょう明日香」 「興味ないわ。この街がどうなろうと」 明日香は物憂げにいった。キシオムバーグは高らかに笑う。 「無理しないほうがいいわよ、明日香。あなたはこの街でしか生きられない。あ なたは、こちら側の人間なのよ。明日香、いつまでもあの醜い人間どものところ にいることはないわ。あなたの本来所属する世界、わたくし達のところへいらっ しゃい。人間どもに勝ち目はないわよ」 「残念だけど、私はどこにも所属していないし、どこに所属するつもりもないの」 キシオムバーグの唇が、微かにふるえた。 「じゃあなぜあのジェノサイダーに執着するの?」 「そんなものどうでもいいわ。でも法は守られねばならない。いついかなる時も いかなる法であっても」 「醜悪な人間どもの法など!」 明日香の目が冬の空に輝くオリオンのように光った。 「法は定められるのではない。私たちが生きる上で、妥当とするものを共有する のよ。法を守ることは、生きるということと同じだわ」 キシオムバーグは侮蔑の目で明日香をみた。 「それがあなたの答えね、明日香。では下劣な地上の法に縛られたまま、死ぬが いい。わたくしは天上の法のみに従う」 キシオムバーグは手を挙げて合図した。その合図に答え、黒い肌の戦士たちが 姿を現す。動きだした夜の闇のような黒い金属の鎧を身につけた魔族の戦士たち は、両刃の長剣を手にしている。立ち上がった影のような黒い戦士たちにかこま れた全裸の明日香は、死神につれさられる死せる乙女のようであった。 明日香は左手を上げる。金色の指輪が光った。明日香はその指輪に仕込まれた 小さな三日月型のナイフを、引き起こす。三日月型ナイフはワイアーで指輪と繋 がれたまま、引き出された。 明日香の左手が一閃して細いワイアーに繋がれたナイフが空を飛ぶ。正面の魔 族の戦士の右手に一瞬ナイフが触れる。とたんにワイアーが手に巻き付き、魔族 の男の長剣を持った右手は剣を握ったまま切断され床に落ちた。 昏い鉛色の血が放物線を描き、迸しる。続けざまに明日香の左手が動く。三日 月型のナイフはワイアーに操られ、戦士の左手、右足にも絡みついていった。男 は手足を切断され屠殺場の家畜のように血をまき散らせ、床に転がる。 明日香は血塗れのナイフを床近くにたらし、満面に笑みを浮かべた。 「武器を捨てておとなしくなさい。逆らう者はやむをえません。死ぬ事になるわ よ」 キシオムバーグは明日香に笑いかける。 「明日香、やめなさい。あなたの相棒はわたくしの手の中にある。相棒が死んで もいいの?」 「しかたないわ」 明日香はあっさりと言った。 「彼女も刑事。自分の身を自分で守れないのなら生きていく資格はない」 「冷たいのね」 「当然よ」 しかし、明日香の動きは止まった。キシオムバーグは勝ち誇ったように笑う。 「明日香、もう一度考えてみなさい。あなたがわたくしと手むすぶなら、あなた の相棒は殺さない。どうかしら」 ダークの通された部屋は豪華で広々とした応接間である。しかし、ダーク出迎 えたのはそうした部屋にふさわしくない、薄汚れた戦闘服を身につけた二人の男 であった。男たちは短機関銃を構え、ダークに狙いをつけている。 「よお、刑事さん。ようこそ」 男はにやにや笑う。ダークは少しがっかりした。 (なんや、おもったよりレベル低いな、こら) 「まず銃を渡してもらおうか」 ダークは男の言葉にこたえ、ポケットから出した物を放り投げる。男が受け取 ったそれは、スタングレネードであった。スタングレネードは男の手の中で炸裂 する。両腕で顔をかばったダークはスタングレネードの放った光と音を感じた。 その直後に立ちすくむ男たちに向かって、ダークは抜きはなった拳銃を撃つ。 男達は二人とも肩を打ち抜かれ、倒れた。ダークは同時に後ろに立つ案内係の女 性の頭を殴り、気絶させる。ダークは手にした古典的リボルバー、S&Wのミリ タリー&ポリスに素早く給弾し、男達に近づく。男達の頭を蹴飛ばし気絶させた 男達の機関銃は呆れたことにトンプソンであった。 (すげぇ、ど田舎のゲリラさえMP5K使ってるのに、こんな博物館行きの銃も ってるなんて) ダークはトミーガンをとりあげ、45ACP弾の予備弾倉も奪う。45口径の 短機関銃を使うはめになるとは夢にも思っていなかった。 ダークはトミーガンを構え、気絶した女の鼠蹊部を蹴る。女は苦痛の呻き声を あげて気づいた。ダークは女を立たせる。 「先にいってもらおうか。相棒のところへ案内してもらうで」 女は蒼ざめた顔で頷く。扉を開けて部屋の外へ出た。 銃声が轟いて、女の悲鳴が上がる。ドアを出て左側だ。ダークは銃声が静まる のを待つ。やがて銃声は静まった。ダークはドアを開け、銃弾のきた方向へスタ ングレネードを投げる。ドアの後ろに隠れたダークの背中に衝撃波と閃光が来る ダークは廊下へ飛び出す。棒立ちになっている3人の男へトミーガンを打ち込 む。45ACP弾が男たちの腹を射ちぬいた。 ダークはトンプソンの弾倉を替え、男たちに近づく。男たちの銃もトンプソン であった。ダークは弾倉を奪っていく。 ダークは呻いている男の頬に銃身を押しつけた。皮膚が焼け、悲鳴があがる。 「相棒はどこや」 「上のフロアだ」 ダークは血塗れの廊下を抜けて、階段へ向かう。階段をかけながらスタングレ ネードをほうり投げる。ダークは頭を下げた。頭上を爆音と閃光が走り抜ける。 ダークはトミーガンを乱射して上のフロアへかけ昇った。階段を昇りきったダ ークは息を呑む。そこに待ち受けていたのは2メートル近い図体の、蒼ざめた巨 人トロールであった。トロールは全身に45ACP弾をうけていたが、意に介し ていないようだ。トロールは死人のような目をダークへ向ける。その手にあるの はM60機関銃だ。 「くそっ」 ダークはトミーガンをトロールへ撃ち込む。トロールは苦痛すら感じないのか 感情のない目でダークを見ている。 トロールは突然野獣のように咆哮した。ダークは反射的に後ろへ飛ぶ。階段の 下へ隠れた。銃弾が頭上を飛びすぎる。 「冗談やろ、全く」 野性動物並の生命力である。こんなことならホーランド・アンド・ホーランド マグナムでも用意しておけばよかったと思う。 「しゃあない、あれ使うか」 ダークは背中から銃をぬく。ワルサーカンプをベースに改造した、グレネード ピストルだ。足にくくりつけておいたストックを装着し、対人用榴弾を装填した。 頭上で咆哮が聞こえる。トロールがそばまできていた。M60は射ち尽くした ようだ。血塗れの姿にダークは言葉をかける。 「よう、大将。やるやないか」 トロールはM60を振り上げた。ダークはグレネードピストルを射つ。反動で めまいがした。 弾はトロールの口に飛び込む。口の中で炸裂しトロールの頭は消し飛んだ。 倒れ込んだトロールの体を盾に、ダークはトミーガンを射つ。再びスタングレ ネードを投げると、トロールの体を飛び越え突入していった。 キシオムバーグの銀の髪が、漆黒の肌の上でゆらめく。そっと溜息をつくと明 日香に向かっていった。 「馬鹿なひとね。死になさい」 魔族の戦士たちは包囲の輪を縮めた。明日香は美しく輝く肌を晒したまま、動 く様子をみせない。死の宮殿につれてこられた月の女神のように落ちついている 魔族の戦士たちの気が高まり、襲いかかろうとした瞬間、部屋に爆音と閃光が 走りダークが飛び込んできた。 ダークの機関銃が火をふき魔族の戦士たちが倒れる。ダークは凄みのある笑み を浮かべた。 「ここで終わりかい。親玉はそこのねぇちゃんか。明日香さん、はやいとこマリ ィゴールドをとり戻しましょうよ」 明日香は苦笑しながらダークをとめる。 「近寄らないで」 魔族の戦士たちはゆっくりと立ち上がった。銃弾がその体から抜け落ち、乾い た音をたてて床に転がる。 「なんや、ここはこんな奴ばっかりかいな」ダークがやれやれといった表情にな る。明日香は微笑んで言った。 「あてがはずれたわね、キシオムバーグ。誰を殺すんですって。誰を」 キシオムバーグは動じたふうもない。その黒い肌の美貌はなんの表情も見せな かった。ダークの存在は無視している。 「もちろん、明日香。あなたをよ」 その言葉と同時に魔族の戦士たちが邪悪な気配を発し始めた。呪詛の能力を使 い始めたのだ。相手の生命力を衰弱させ弱りきったところを襲う。それが魔族の 手である。 まるで空気が倍の重さを持ったように、部屋の中は重苦しくなった。ダークは 視界が霞むのを感じる。地の底へ引きずり込まれるような脱力感を感じた。 明日香は黒く邪悪な力の渦の中心にいたにも関わらず、平然と立っている。呪 詛の力は、明日香にとどいていないかのようだ。しかし確かにその肌は光を失い 目に闘志が消えていた。明日香はすでに気を失いつつある。 「さよなら、明日香」 キシオムバーグの言葉と同時に魔族の戦士たちがうごいた。と、同時に明日香 の目が煌めく。 輝く風が部屋の中を吹き荒れた。金色の煌めきが部屋の中を駆け抜ける。明日 香のナイフが、つっと空を舞って血をふきとばすと、もとの指輪の中へ収まった。 同時に魔族の戦士たちが倒れてゆく。その手足、首は胴体から離れ、血の海の 中へ沈んでいった。部屋の中は鉛色の血で満ち、そこらじゅうに切り飛ばされた 人体の破片が転がっている。 キシオムバーグはむしろ陶然とした表情で言った。 「すばらしいわ、明日香。素敵よ」 明日香は激しく息をついた。立っているのがやっとのようだ。ダークが駆け寄 り、その体を支える。 「マリィゴールドは返してもらうわ」 キシオムバーグは鼻で笑う。 「あんなものはもう意味を失っているわよ。まぁいいでしょう。持っていきなさ い。誰かに案内させるわ」 明日香とダークは、マリィゴールドを積んだトレーラーで白虎塔へ向かってい た。日は既に西に傾き、夕闇がせまりつつある。明日香は落ちついた運転で西に 向かってトレーラーを運転していた。 助手席のダークがふと溜息をつく。ここへ来て最初の仕事は思ったよりあっさ り片付いたようだ。奇妙な相棒と今後うまくやっていく自信はまだないが、結構 この街でもやっていけそうな気はする。 ダークはハンドルを握る明日香に尋ねた。 「あの、余計なことやとは思うけど、聞きたい事があるんや」 明日香は微笑んだ。 「なぁに」 「どうして、女性のように振る舞って、女性のようにしゃべるんや?まぁ、おれ がこんなこと聞くのはへんかもしれんな」 明日香はくすくす笑った。 「大した理由じゃないわ」 「それでもいいけど」 「髪をのばしたからよ」 ダークは肩を竦めた。 「意味がよく判らないな。なんで髪をのばしたんや」 「むかし双子の姉がいたの。その姉がとても好きだったわ。ある日髪をのばして みたら、鏡の中に死んだはずの姉がいたの。そういうことよ」 明日香は遠い目をしてしゃべつた。 「それ以来、姉はわたしの中にいて私は姉と一緒に振る舞い、しゃべっている。 女性的になるのはそのせいでしょうね」 「おねぇさんは病気かなんかで亡くならはったんですか」 「自殺よ。5人の男に強姦されたの。自殺したのはその後よ」 ダークは絶句した。明日香の表情に変化はない。 「姉を強姦した男たちがどうしているか知りたい?」 「い、いや」 「なぶり殺しにしたわ。私が十五の時よ」 夕日が紅く明日香の顔を照らしていた。ダークはなにをいっていいのか判らな くなっていたが、明日香は気にせず喋っている。本人も自分の口の軽さに驚いて いるようだった。 「それが私の初めて行った人殺しよ。たいして懐かしくもない、思い出ね」 「ああ、そういうもんやね」 ダークの言葉に、明日香はふふんと笑った。 「ええ、そういうものだわ」 白虎塔は闇の中に包まれていた。明日香はトレーラーを白虎塔へ続く道の途中 で止める。夕日の下に黒々と聳える闇はいかにも不自然であり、魔法の仕業であ ることは明白であった。 「結界ね。多分キシオムバーグだわ。やられた」 「どういうこと?」 「白虎塔は外界から遮断された、一殊の小宇宙の中にある。きっとあの結界の中 で白虎塔は占領されているわ。テロリストたちに」 「本土へ応援を」 「無駄よ。結界の中へは入りこめない。キシオムバーグはこのままベリアルから この島の支配を奪うつもりね」 明日香はドアをあけた。 「明日香さん?」 「まず、私が結界を破るわ。それから白虎塔へ潜入する。ダーク、あなたはここ で待っていて。すべてはまず白虎塔を解放してからよ」 「おれたちふたりで?相手の戦力も判らないのに」 「キシオムバーグは結界の力を利用して制圧している。ということは結界さえ破 れば、たいした戦力じゃないはずよ」 明日香はトレーラーから降りて山の林へ向かって歩き出した。 「気をつけて!」 ダークの声に明日香は手を振って応えた。 明日香は夕闇の森の中を走る。薄暗い夢の中の闇を駆ける黒い死神のように、 明日香は走った。 白虎塔の西南部、結界の闇を見おろす尾根に明日香はつく。そこには環状に配 置された石と、呪符を張り付けた杖が立てられていた。 「やはり、裏鬼門に目をつけたわけね」 声をかけられ、明日香は振り返る。白い長衣に身を包んだ、漆黒の肌のキシオ ムバーグが立っていた。キシオムバーグは抜きはなった剣を明日香にむける。黒 衣の明日香はキシオムバーグへ向き直った。既に陽は沈み、残照で西の空は赤暗 く燃えている。 「結界は破らせてもらうわ。ここを潰せば結界は崩れる」 「やってごらんなさい。今度は本当に死ぬことになるわよ、明日香」 「あなたはくち先だけね、キシオムバーグ」 「そういうあなたは、哀れな男ね、明日香」 残照が消えつつある西の空を背にして立つ、黒い影となっている明日香の肩が 微かに震えた。 「どういう意味?」 「自分のベルセルクとしての本質を、女性として振る舞うことによって抑え込ま なくては生きてゆけないなんて。とんだマヌケなオカマ野郎だわ、あんたは」 「ふざけるな」 明日香の表情が氷ついた。その姿は美しい彫像のように闇の中に黒く浮かびあ がる。 空気を裂いて、明日香のナイフが疾った。闇の中で風が煌めくように、ワイア ーが走る。後退するキシオムバーグの周囲で火花が散り、ナイフが光った。 後ろに飛んだキシオムバーグの周囲に、切り裂かれた白衣が舞う。黒く滑らか な肢体を晒したキシオムバーグは剣を構えた。夜空に走る赤い稲妻のように肌へ つけられた傷は、凄まじい速さで癒えてゆく。 「あなたは私に勝てないわ、明日香。人間のあなたではね」 風が音を立てて明日香のほうへ疾る。妖気が明日香の周囲を渦巻いた。巨大な 黒い獣が、明日香を腕に抱いたようにみえる。 「あなたの生命力は、私が吸収している。明日香、あなたはそのまま衰弱して死 んでしまうのよ。魔族に戦いを挑むのは、いかにあなたといえ、無理ね」 キシオムバーグは漆黒の精悍な肉体を誇らしげに晒し、優雅な足どりで明日香 に近づく。明日香は動くことすらできない。獣のような闇がさらに重くのしかか り、明日香は苦しげに膝をついた。その額に汗が浮かぶ。 「さあ、あなたの精神が錯乱をきたす前に殺してあげる。さよなら、明日香」 明日香の目が闇の中で輝いた。 「俺を怒らせるんじゃねぇぞ、てめぇ」 闇が周囲を包み込んだ。ダークはぼんやりとトレーラーの外を眺めている。ふ と、道の奥で何かが動いたのを感じた。 「なんや?」 しだいにその輪郭がはっきりしてきたそれは、身長10メートル近い鎧をきた 戦士である。2体いた。 「サブクリーチャーか」 サブクリーチャーたちは、しだいに近づいてくる。ダークはトレーラーから降 りた。相手の足どりは遅いが、いつかはここまでくる。そうすれば、マリィゴー ルドは破壊されることになるだろう。 「しょうがない」 ダークは荷台に昇る。マリィゴールドを自分で動かしてみるつもりだ。うまく いかないかもしれないが、黙って破壊されるのを見ているよりましだと思う。 ダークは荷台を覆うシートを外した。マリィゴールドの姿があらわになる。 「なんや、これは」 そこに姿を現したのは、全長10メートルほどの巨大な乙女の姿だった。金色 に輝く髪、安らかに閉じられた瞼、たおやかな両の腕、果実のように盛り上がる 乳房、優雅な曲線を描いた足。その大きさをのぞけば、まさにまどろんでいる少 女そのままである。 「こ、こんなんやったんか」 見とれている暇はない。サブクリーチャーは迫りつつある。ダークは胴体にあ るハッチを開くと、コクッピットへ入り込んだ。 前方のモニターに明かりがつき、夜空が見えた。ダークはヘッドセットをつけ る。マリィゴールドはパイロットの神経電流を感知してその動きをトレースする ような仕組みになっていた。ダークが自分の肉体を動かすイメージをえがけばそ の通り、マリィゴールドは動く。 「いくで」 マリィゴールドは立ち上がった。優美な姿を夜の闇の中に聳えたたす。白い肌 と金の髪が闇の中で輝いた。 「武器を」 ダークはトレーラーから武器をとりだした。それは日本刀の形をした刀である 微かにそりのある刀身は、冬の夜空に輝く三日月のように美しく光った。 ダークは、脳裏に剣を青眼に構えるイメージを抱く。マリィゴールドはそのイ メージをトレースした。金髪の全裸の乙女が刀を正面で構え、鎧をつけた2体の サブクリーチャーへ向き直る。 サブクリーチャーは2体ともブロードソードを手にしていた。左右に展開して いる。動きは鈍い。ダークは一体に狙いをつけ前へ出た。 サブクリーチャーはマリィゴールドの動きにあわせ、前にでる。剣を振り上げ ると、切りかかってきた。巨大な剣が唸りをあげ、振り降ろされる。 ダークは相手の動きを完全に見切っていた。ブロードソードはマリィゴールド の肌をかすめ、道路に轟音をたてて食い込んだ。マリィゴールドは流れるような 動きで、サブクリーチャーの剣を持つ手を切り落とす。 剣を持つ手が地響きとともに落下し、道路に転がった。血のような液体が滝の ように噴出し、道路をぬらしていく。さがろうとするサブクリーチャーの動きに あわせ、マリィゴールドは剣を出す。刀は鎧をつけた相手の胸を貫いた。 ダークはエネルギーがマリィゴールドに流れ込むのを感じる。ジェノサイダー とは魔族の持つ能力をとりいれた人工生命体であった。つまり、相手の生命力を 吸収し、自分のエネルギーに変換することができるのだ。 刀で胸を貫かれたサブクリーチャーは力を失い、道路へ崩れ落ちる。傍らの林 の木が下敷きになってへし折れた。マリィゴールドはもう一体のサブクリーチャ ーへ向き直る。 (こいつはいけるで) ダークは思ったよりマリィゴールドをスムーズに動かせることに気がついた。 自分の身体の延長のようである。 ダークはマリィゴールドを走らせた。風が唸りをあげ、マリィゴールドが動く マリィゴールドは下段より剣を一気に振り上げた。 ずん、という衝撃とともにサブクリーチャーのブロードソードを持った手が切 り飛ばされる。腕は林の木に激突し、木を倒して転がった。マリィゴールドは上 段に振り上げられた剣を返し、相手の肩に剣を叩きつける。剣は上半身を両断し 脇の下から抜けた。 サブクリーチャーの両断された体が大地におち、地響きが起こる。ダークはふ っと息をついた。思った以上に緊張していたようだ。養父であり、師でもあるヘ イクロウ・スミスに習った剣術が役にたった。 (あれ、まさか) ダークはモニターの中に動くものを見た。結界の闇の中から出てくるものがい る。三体目のサブクリーチャーだ。 (こいつがボスかよ) 結界の闇よりゆっくりと姿を現したのは、漆黒の鎧をつけたサブクリーチャー である。さっきの連中より一回り小さいが、動きは遥かに早くスムーズだ。動き の滑らかさはマリィゴールド以上であった。 (手ごわそうやな、こいつ) ダークは溜息をつく。マリィゴールドは可憐な姿を、黒い巨人へむけた。 「まさか!」 キシオムバーグは息をのむと後ろへ飛んだ。その剣を持つ右手が宙を飛んだ。 キシオムバーグは唸る。 「まだそんな力がのこっているなんて、さすがは明日香ね。でも」 キシオムバーグは笑った。 「魔族の力はこんなものではないのよ」 血のしたたる右手の切り口は瞬く間に塞がり、右手は鞭のように延びた。 「くそっ」 明日香はワイアーを振るう。三日月型のナイフが疾る。キシオムバーグは鞭と 化した右手で、ナイフをはじくと、右手を明日香に向かって走らせた。 明日香の体の周囲に風がはしる。明日香の服はきりきざまれ、宙に舞った。白 い肌に、無惨な傷が刻まれる。 「これでおわり」 明日香の首に、キシオムバーグの右手が巻き付く。明日香の顔色が変わった。 急激に衰弱していくのがわかる。生命力を吸収されていくのと同時に、全身から 血が失われていく。 「ふふ、あなたの力が私の体の中にくるのが判るわ。これで終わりね」 明日香は気を失った。キシオムバーグはゆっくりと明日香に近づく。 「あっけない最後だったわね、明日香」 「ちがうな」 明日香の目が見開かれた。その体に急激な変化が起こっている。明日香の体は 女性のそれへと変化していっていた。 その胸には女性の乳房が現れ、体の線も女性的な曲線をえがきだす。赤い蟲が 白い肌に絡みついたような傷も、急速に癒えていった。 「俺は、明日香じゃねぇ。今日子だ。未来今日子」 その声は凶暴で野に潜む野獣の唸りを思わせた。その女神のごとく美しい肉体 に不釣り合いな凶悪な輝きを、その瞳は放っている。 「憑依か。うわさは本当だったな。明日香の周囲には残留思念があり、魔族であ ろうとも力を及ぼすことができないというのは」 「なにごちゃごちゃいってやがる」 キシオムバーグの右手が切断された。全裸の明日香は首に残った切れ端をむし りとる。 「おまえ、明日香ではないといったな。明日香の姉か」 「おう。俺は明日香ほど甘くねぇぜ。いっておくが」 明日香は獰猛に笑う。その笑みはまさにベルセルクの笑いだった。官能的な美 を備えた肢体がしなやかに動く。  風がまきおこり、金色のナイフがとぶ。キシオムバーグの頬が裂け、鉛色の血 が流れた。 「俺は地上最強よ。おれに勝てるやつはいねぇぜ」 「どうかしら」 キシオムバーグの右手はさらに細く長くなった。その先端は半月型の剣のよう になっている。 「やってみなくては判らないわ」 キシオムバーグは意識をきりかえた。魔族のものは通常の人間とは違う時間の 流れを感じることができる。その時間の流れは遥かに高速で、その時間流に意識 をまかすと地上のすべてが止まって感じられた。 空気は氷つき、森の木も揺れることなく月の地表のように静まりかえった世界 にキシオムバーグはいる。その世界で彼女は右手を明日香に向かって走らせた。 通常の世界であればすさまじい高速で動いているはずだか、今のキシオムバーグ の意識の中ではゆっくりとした動きにすぎない。 しかし、明日香は通常の時間流の中にいるのだから、右手を見ることすらでき ないはずだ。明日香は氷ついた死せる乙女のように、動かない。  キシオムバーグの右手は高速で流れる時間流にのり、液体のように感じられる 空気を切り裂き明日香のほうへ進む。右手は、明日香の胸に触れそうなところま で来た。鋭利な刃物と化したキシオムバーグの右手が、たおやかに膨らんだ明日 香の左の乳房に食い込もうとする。その時、明日香の姿がふっと消えた。 「ばかな」キシオムバーグの顔が恐怖で歪む。キシオムバーグは傍らに気配を感 じ、振り向く。そこに明日香はいた。 「俺は死人だぜ、ねぇちゃん。あんたとはちがう時間の流れの中にいる。わかっ たかい」 キシオムバーグの首がとんだ。銀色に光る頭が結界のほうへ転がる。明日香は 首を失った死体をまるで恋人を抱きしめるように、抱き止めた。その顔には慈母 のような笑みが浮かぶ。 「さてと」 キシオムバーグの死体を横たえた明日香は、息をついた。 「結界を破るか」 黒い巨人戦士は剣を抜いた。マリィゴールドが持つものと同じような、片刃の 日本刀のような剣だ。 黒々と聳える結界を背おった黒い戦士は、剣を上段に構える。ダークはその構 えから発せられる殺気に、かつてない恐怖を感じた。 (こいつ、とんでもなく強い) 所詮ダークはジェノサイダーに生まれて初めて乗った、ビギナーである。相手 のパイロットは、サブクリーチャーを完璧にのりこなせる剣士らしい。 (あかん、こら死ぬな) 金色に輝く髪を風になびかせた全裸の乙女は、漆黒の戦士を目前にして立ち竦 んだ。剣は自然に下げられたままである。その姿は虚の構えともとれた。 黒い戦士は間合いを詰めてくる。相手は、完全に勝利を確信した動きであった。 こちらがどう攻撃しようと、その前に上段からの一撃で致命傷を与えようという のだ。 (隙がなさすぎるで) ダークはまさに死を確信した。黒い戦士はもし剣でうければその剣をへしおり そのままこちらを両断しようというつもりらしい。相手の構えにはそれだけの気 迫があった。 ダークは円明流の虚の構えにも似た体勢で、相手の気を受け流している。ただ 間合いをつめられると、そうはいかなくなってしまう。 黒い戦士は間合いをつめた。完全に相手の狙いは、判っている。上段からの一 撃。そう判っていても、よけれるものではない。黒い戦士の殺気が頂点に達し、 まさに動こうとした瞬間にそれは起こった。 突然背後の結界の闇が崩壊したのだ。巨大な津波のような闇が崩れ落ち、走り さってゆく。流れてゆく闇の中に瞬間的に様々な幻影が映る。 変形し、同じ姿をとどめることのない黒い獣達が走ってゆく。 闇の中に遠い風景が瞬間的に映る。 崩れ去った蒼古の寺院。 鮮やかに紅い夕日に照らされた少女の顔。 嵐の過ぎ去った後の恐ろしいほど深みのある青い海。 強い風のふきすさぶ冬の透明な空。 草原の鳥達についばまれる獣の屍。 死滅し燃え尽きた恒星に咲く最後の金色の花。 鏡の奥に映る迷路の果ての街路。 疾走する狼の紅い瞳。 森林の木々の切れ間から見えるもの凄い勢いでながれてゆく黒い雲。 水晶のコップに落ちる水しぶき。 夏の夜を飛び立ってゆく色鮮やかな極楽鳥。 淀んだ空気の暗い部屋の中で光る銀の食器。 千もの色彩で輝くドワーフの細工した宝石に満ちた洞窟。 雨の中で光っている金属でできた彫像。  戦い続ける少年たちの持つピストル。  落下してゆく黄色い果実。  原色の花々の咲く繁みの向こうに見える澄んだ湖。  窓に映る疲れた女性の横顔。  霧に隠された血塗れの死体達。  それら無数の幻影が崩壊した結界の闇の中に浮かび上がり、流れてゆく。闇の 向こうに白虎塔が輝いている。そして、結界の崩壊と同時にマリィゴールドの後 ろから3機の兵員輸送用ヘリが姿を現した。 ヘリは強烈なライトで黒い戦士を照らしだす。黒い戦士はマリィゴールドに切 りつけようとしたその瞬間に光を浴び、崩壊してゆく幻影の中で一瞬呼吸を乱し た。ダークにはその一瞬で十分である。 ダークは黒い戦士の振るう剣の動きを完全に見切った。後の先をとった形とな る。マリィゴールドは下段より刀を振り上げた。鎧をつけていない分、マリィゴ ールドの動きのほうが僅かに速い。 マリィゴールドの振るった剣が走り抜け、黒い戦士の剣を持った手が手首から 切断される。しかし、剣の勢いはとまらず、マリィゴールドの左腕を切断して地 面に突き刺さった。跳ね飛んだ左腕が転がる。 マリィゴールドの剣を持った右手は上段で止まり、そのまま刃を返すと切り降 ろした。黒い戦士の肩から鼠蹊部まで切り抜ける。両断された黒い戦士は幻影の 消えた道路に倒れた。その頭上をヘリが通り過ぎていく。 ダークはほっと息をついた。 「ラッキーやったな」 こうしてキシオムバーグの企てたクーデターは未遂に終わった。白虎塔制圧と 同時に行われた王ベリアルの暗殺も、ベリアル自身の手によって阻止されている。 この後このネクロマンスシティは遷都計画によって、急速に変貌してゆくこと となった。その変化は誰にも止めることはできなかった。