秋の空は青く晴渡り、とても高かった。  その駅は、田園地帯のまっただなかにある。駅といっても駅舎がある訳ではなく、単 線の線路ぞいに細長いプラットホームがあるだけだ。田んぼという緑の海の中に浮かぶ 小さな船といった感じだろうか。  ちょうど昼さがりの今の時間帯は、かろうじて一時間に一本の電車があるだけだ。利 用する人は僕を除けば、まったくいない。  この駅からバスで三十分程行ったところに、ある薬品メーカの研究所がある。その研 究所にプレゼンに行ったものの、帰りのタイミングが悪くてほぼ一時間この駅で待つは めになった。  僕は、スーツの上着を脱いでネクタイを緩める。そのプラットホームにたった一つあ るベンチに腰をおろすと、足を伸ばした。空を見上げる。泣きたいくらい奇麗な青い空 だ。秋の風は心地好く暖かい。  特に何を思うでもなく僕は目を閉じ、風を感じていた。なんとなく、こういうのどか な時間もいいような気がしてくる。  ふと、気がつくと歌声が聞こえてきた。僕は目を開き、あたりを見回す。いつのまに か、ベンチの向こう端に女の子が座っていた。  ちょうど、幼稚園児くらいの年だろうか。水色のワンピースを身につけ、つば広の帽 子を眼深に被っているため、表情は見えない。  その女の子が歌っている。奇妙な旋律であり、歌詞は日本語のようであるが強いなま りがあるようで、よく聞き取れない。このへんの童歌なのだろうか。  女の子は口もとに薄く笑みを浮かべ、こちらをうかがっている。僕に興味があるよう だ。僕もいい退屈しのぎになると思い、女の子に声をかけることにした。 「何を歌っているの?」  その子は間髪をいれずに答えた。 「デュエットよ」  僕はちょっと奇妙な感じに囚われる。 「それって歌の名前?それともその歌を歌っているグループの名前なの?」 「ばかね」  女の子はくすくす笑う。相変わらずうつむいたままなので、表情がよくわからない。 「デュエットよ。二人で歌う歌のこと」 「でも、一人で歌っているだろ、君は」 「二人いるじゃない」  僕は一瞬、奇妙な幻惑を感じた。まあ、子供の言うことだから、何かのごっこ遊びな んだろうなと思い直す。 「ねぇ、あなたのこと見えないみたいよ、このおじさん」  僕は、肩をすくめて言った。 「おじさんはやめてくれよ、お兄さんだよ」 「どうでもいいわ、そんなこと」  女の子は時々誰もいない隣に目をやる。そのしぐさはとてもリアルで、僕は本当に誰 かそこにいるような気がしてきた。女の子はまるで誰かと囁きあい、微笑みあっている ようだ。 「そうだ」  女の子は、ぽん、と手を打つ。 「きっと元の身体を見ていないから判らないのよ。ね、」  女の子はベンチから立ちあがる。 「元の身体のほうも見せてあげるから、一緒においでよ」  女の子の言葉に、僕は戸惑った。何かのいたずらでも仕掛ける気かもしれない。結局 僕はここで一時間待ち続ける退屈な時間のことを思い、女の子と一緒に行くことにした。 僕は上着を身につけ、アタッシュケースを手にして立ちあがる。  女の子はとっとと歩きだした。もともと改札も無い、ただのプラットホームだけの無 人駅だ。駅から出るといっても小さな階段を降りるだけのことである。僕らは田んぼの 中を貫く細い舗装された道路に降りたつ。  僕らはその道を進んでゆく。女の子は結構足早に歩いた。あっという間に、僕らの出 会った駅は見えなくなる。  やがて僕らは、田んぼの畦道のようなところへ入っていった。ようやく女の子の目指 している場所が判った。それは田んぼの中に聳え立つ、小さな緑の島のような林である。  その林は、ちょっとした丘を覆っているらしい。木々はみな高く枝葉はよく繁り、林 の中は濃い闇に包まれているようだ。  林は目の前にきた。どことなく、太古の王の墓を思わせる、荘厳な風情がある林だ。 そしてその林の中央部、つまり丘の頂上のあたりに色褪せた鳥居が見える。  女の子は林の中へ入った。僕もその後に続く。そこは木に覆われ空が見えない。空気 は冷たく、少し湿っているようだ。そして、神社へ向かっているらしい階段は、上って ゆくにつれ闇の中へとり込まれていくような気にさせられる。  僕らは、神社の境内についた。ひどく狭い、そして息苦しさを感じさせる空間だ。あ たりに繁る木々は、濃厚な気配を内に秘め僕らを圧迫しているような気がする。  神社そのものは、ひどく古めかしい以外なんということもない建物だった。女の子は 無造作に中に入って行く。僕は後に続いた。  そこにあったのは、女性の死体だ。まだ死後そう時間が経っているようには思えない が、明白に腐敗が始まっている。  女の子は例によってうつむいたまま、薄く笑みをうかべていた。 「これはね、お母さんだったの」  女の子はくすくす笑いながらいった。 「でもね、死んじゃったから私の友達になってくれたの。ほら、もう私と同じ背丈だし、 私と同じくらいの年になってるでしょ」  女の子は相変わらず誰もいない空間に語りかけ、微笑み、目を交わす。僕はとにかく 誰かに知らせなければと思い、その場を出た。  女の子の例の歌声が聞こえてくる。僕は、その歌を背にして神社を出た。その時、ひ どく奇妙な感覚に襲われる。  僕は、頭の中に靄がかかってくるのを感じた。思考が鈍くなってゆく。神社の階段を 降りるたびに、それは頭痛を伴うほどひどくなっていった。僕は朦朧としながら、その 階段を降りる。そして、林から伸びる一本道をひたすら歩き続けた。  僕は半ば無意識の状態で駅につく。  とたんに晴やかな気持ちが訪れる。  秋の空は青く晴渡り、とても高かった。  僕は大事なことを忘れているような思いを感じながら、目を閉じる。  ふと気がつくと、歌声が聞こえてきた。僕は目を開き、あたりを見回す。いつのまに か、ベンチの向こう端に女の子が座っていた。  僕はデシャヴュに捕らわれる。こんなことがあった。ついさっき。  でも、女の子の歌声を聞いているうちに、そんな思いが消えてゆく。 「元の身体のほうも見せてあげるから、一緒においでよ」  女の子の言葉に僕は戸惑った。何かのいたずらでも仕掛ける気かもしれない。結局僕 はここで一時間待ち続ける退屈な時間のことを思い、女の子と一緒に行くことにした。 僕は上着を身につけ、アタッシュケースを手にして立ちあがる。  女の子は例によってうつむいたまま、薄く笑みをうかべていた。 「これはね、お母さんだったの」  女の子はくすくす笑いながらいった。 「でもね、死んじゃったから私の友達になってくれたの。ほら、もう私と同じ背丈だし、 私と同じくらいの年になってるでしょ」  僕は頭の中に靄がかかってくるのを感じた。思考が鈍くなってゆく。神社の階段を降 りるたびに、それは頭痛を伴うほどひどくなっていった。僕は朦朧としながら、その階 段を降りる。そして、林から伸びる一本道をひたすら歩き続けた。  僕は半ば無意識の状態で駅につく。  秋の空は青く晴渡り、とても高かった。  僕は大事なことを忘れているような思いを感じながら、目を閉じる。  ふと、気がつくと歌声が聞こえてきた。僕は目を開き、あたりを見回す。いつのまに か、ベンチの向こう端に女の子が座っていた。 「ばかね」  女の子はくすくす笑う。相変わらずうつむいたままなので、表情がよくわからない。 「デュエットよ。二人で歌う歌のこと」  女の子は例によってうつむいたまま、薄く笑みをうかべていた。 「これはね、お母さんだったの」  女の子はくすくす笑いながらいった。 「でもね、死んじゃったから私の友達になってくれたの。ほら、もう私と同じ背丈だし、 私と同じくらいの年になってるでしょ」  女の子は例によってうつむいたまま、薄く笑みをうかべていた。 「これはね、お母さんだったの」  女の子はくすくす笑いながらいった。 「でもね、死んじゃったから私の友達になってくれたの。ほら、もう私と同じ背丈だし、 私と同じくらいの年になってるでしょ」  そこにあったのは、女性の死体だ。まだ死後そう時間が経っているようには思えない が、明白に腐敗が始まっている。  女の子は例によってうつむいたまま、薄く笑みをうかべていた。 「これはね、お母さんだったの」  女の子はくすくす笑いながらいった。 「でもね、死んじゃったから私の友達になってくれたの。ほら、もう私と同じ背丈だし、 私と同じくらいの年になってるでしょ」  秋の空は青く晴渡り、とても高かった。  僕は大事なことを忘れているような思いを感じながら、目を閉じる。  携帯電話が、僕の胸ポケットで鳴った。 携帯を取り出す。番号非通知になっている ため、誰からの電話なのかは判らない。僕はとりあえず通話ボタンを押した。 「いいか、これからおれの言うことをよく聞け」  唐突な言葉に、僕は面食らった。 「誰ですか?あなた」 「誰でもいい、そんなもの。いいか、おまえは今循環する時間の中に囚われている。ま あ、多分おまえも感じてはいるんだろうが」 「まあね」 「おまえの隣にいる二人の女の子のせいだ」 「二人って」 「いいから聞けよ、順を追って説明してやる。その子は自閉症だ。この近くにある施設 で暮らしている子だ」 「そんなふうに見えないけど」 「おまえ自閉症の何を知ってるんだ?自閉症というのは時間認識の病といってもいい。 我々は、時間というものは過去から未来へと不可逆に流れてゆくものだと思っている。 自閉症児はそう時間をとらえない。彼らにとって時間とは断面の連続なんだ。無数の窓 がある部屋を想像しろ。自閉症児にとって世界とはその窓から覗いた外の風景のような ものとしよう。窓を左から右へと辿っていけば過去から未来へと時間は流れる。我々は そうしている。しかし、彼らは任意の窓を選ぶ」  僕はため息をついた。 「信じがたいな」 「信じろ、おまえの今の状況を理解するにはそれしかない。例えば写真の記憶能力とい うものが、自閉症児に見られることがある。それは、記憶しているのでは無く、過去の 時間へアクセスしているといってもいい。彼らはむしろ過去の記憶を語るのは苦手だ。 現在、過去、未来という時間統握をしていないからだ」 「けれどね」 「判っている、だから順を追って説明するといってるだろ。自閉症児は時間を統握して いないのだから、コントロールして循環させたりはできない。だけど、その女の子はや っている。そして、おまえはそこに巻き込まれた。それはな、歌のせいなんだよ」 「歌?」 「おまえがいまいる土地には、ホオトキの歌というのが伝わっている。そこの駅名を見 て見ろ」  僕は振り向いて見る。『祝土岐』と書かれていた。 「この土地では、時間の『とき』に漢字を当てはめて地名にしたようだ。つまり、時間 を祝う地ということ。ホオトキの歌は時間を祝う歌だ。原始の祝祭空間を形成するため の歌。もともと、原始の世界での時間認識というものは循環していた。祝祭を起点とし て、無限回の創世と終末が繰り返される。それが、原始の世界での螺旋状の時間。時間 を循環させるには祝祭が必要だ。祝祭において時間認識は一時的に解除され、カオスが 出現する。祝祭とは、時間認識を一時的に無化するシステムなのだ。そして、祝祭を成 立させるには俗なる状態と、聖なる状態との分節が必要だ」 「それが歌の作用で実現される?」 「まあな。本当はそう単純でもない。そのためには空間的な統握、言語的認識、様々な 装置が揃う必要があり、そのインフラ上で起動されるアプリケーションソフトウェアが 歌というべきだろう。ただ、そこの祝土岐には基本的な装置は揃っている。さらに、そ の女の子の母親は巫女だった」 「じゃあ、この歌は母親に教わったんだ」 「教わったというより、自閉症児には音楽を複写する能力が備わっていることがある。 たまたまホオトキの歌を聞いた時に、インプットされたんだろう。機械で記録するよう に、精密にな。むしろその子は、母親以上に完璧にホオトキの歌を再現していると思う」 「なるほど」 「その女の子は自分の母親が死んだ時に、時間が停止した。そして、その停止した時に 住む女の子が、現在おまえの隣いる女の子と一緒にいる見えない女の子だ。母親が死ん だ瞬間が、その子にとって原初のカオスが出現した瞬間であり、祝祭の時間でもあった。 女の子は止まった時から歩み出そうとしたが、止まった時の中にいるもう一人の女の子 がそれを許さない。過去の女の子がホオトキの歌を歌うことにより、母親の死を起点と して時間が循環される。今おまえが聞いているのは、過去と現在のデュエットなんだよ」  僕は女の子を見る。彼女は僕を窺いながら、忍び笑いをしているようだ。今、なぜか 僕にはもうひとりの女の子が見えた。過去の、母親が死んだ瞬間の女の子。 「じゃ、どうすればこの時間循環から出られるんだ?」 「歌え、おまえも」 「僕が?」 「女の子の歌とシンクロさせ、異化し、破壊しろ」 「できるの?僕に」 「できるさ、だっておまえも自閉症だっただろう」  僕はため息をつく。 「君は誰か判ったよ。君は僕なんだね」 「おれはおれだ。そして、時間循環に呑み込まれなかった、おまえでもある。おれは時 間循環には呑み込まれていないが、おまえがそこにいるかぎり、自由にはなれない」 「判ったよ、いいたいことは」  僕は電話を切ると、空を見る。  秋の空は青く晴渡り、とても高かった。  ベンチの向こう端には女の子がいる。女の子は二人。双子以上によく似た女の子。そ して、僕の隣にも男の子がひとり。過去の僕。まだ自閉症だったころの僕。  僕らは歌った。  二組のデュエット。  そして、僕らは列車に乗った。  未来へと向かう列車に。