「なんと仰いました、今」 金糸、銀糸で艶やかに彩られた衣装を身に纏い、細緻で華麗な技をもって作られ た髪飾りや胸飾りを身につけたフェイランは、その客に問い直す。華やかに打ち鳴 らされていた弦楽器、打楽器の手も止まり、妖艶な薫りを振りまきながら天空の宮 殿に住まう天女のように舞っていた踊り手たちも、ぴたりと動きを止める。 客のそばにいた道化は口を惚けたように開き、客の整ってはいるが喜怒哀楽の感 情を全く感じさせない顔を、改めて見直す。その客は薄墨色のとうてい遊びに来た とは思えぬような、もしくは高貴の者があえて目立たぬよう仮装して、かえって目 立つ格好になってしまったような衣装を身につけている。 その客は部屋に入ってからずっと、賑やかな楽曲や華麗な踊り、道化の戯けた囃 子に、死人すら頬を染めそうな美貌のフェイランの流し目を受けても、微笑みすら 浮かべない。ただ、道に迷った者が途方にくれて往来を眺めるように、じっと宴を 見つめていた。その客が、唐突に口を開いたのである。 「この店には、ジークという男がいるそうだな」 フェイランは隣に座る男を、胡乱げに見つめる。朱と金を基調にして飾り立てら れたやたらと派手ではあるが、どこか浮ついたこの部屋は娼館の祭儀場であった。 娼館では安さと手軽さを売りにする店でないかぎり、必ず豊饒の女神フライア神 の神殿としての体裁をとる。そこでは娼婦たちは巫女であり、客は信徒として扱わ れた。 ここで行われる行為は、フライア神と一体化した巫女の行う神儀。つまり、信徒 と女神の仮想的結婚の儀式である。 そこで、客と巫女が寝室に入る前には必ず、豊饒の女神に相応しい饗宴を捧げる ことになっていた。この饗宴の質で、店の格が決まることになる。 快楽の都と呼ばれるサフィアスでは、この饗宴だけで二日を費やす店もあるらし いが、地方都市の一娼館でそこまでのことはしない。ただ、中の上クラスであるフ ェイランの店はそこそこの宴を催す。 当然、その宴に見合うそれなりの額の金をとる訳であるから、その金の分だけは 客を楽しませるのがフェイランの仕事であった。しかし、この客は部屋に入ってか ら一言も発せず、笑みも見せず、馳走にも手をつけず、あげくの果てに吐いた言葉 がジークの名である。フェイランとしては、面白くないというよりは、目が眩むほ ど腹立たしいところだった。 しかし、その感情は全くみせず、愛しい相手に見せる笑みを作ると、客に応える。 「確かにジークというのは、居るには居りますけど」 そういいながら、フェイランは踊りを続けるよう、踊り手たちに目配せをする。 舞姫たちは再び踊りだし、それに合わせて演奏も再開された。道化たちも力を入れ て囃しはじめ、再び部屋は賑わいを取り戻す。 フェイランは、そっとため息をつく。一口に娼館の客といっても、色々なタイプ の客がいる。 商人が接待として上客を招く時、高貴のものが好奇心半分でくる時、あるいはな にかの商売等で一山あてて、にわか成金がとりあえず金を使いたくてくる時。 フェイランの店のように比較的新しく、格式もそう高くない店は、そうした成金 が来ることが多い。こうした客は当然、入れ替わりが激しいものだ。一発あてて一 夜で金持ちになったものの、やはり一夜でもとの貧乏人に戻るケースがほとんどで ある。 古く格式の高い店は、そうした客は相手にしない。時々、散々飲み食いして遊び たおしたあげく、金を払えないと開き直る客がいる為だ。 ジークは、そうした客の一人であった。いや、もっと酷いことに、そもそも一銭 も持たずに店にきて、一週間遊びたおした末に金が無いといったのである。 ジークという男、身なりは結構金をかけており、妙に鷹揚で落ち着きはらった態 度であったため、女将が高貴の者がお忍びできたものと読み違えたのだ。ジークと いう男、人にそう思わすだけの妙にすれていない、憎めぬところのある男であった。 それ以来、ジークはこの店で下男兼、用心棒として使われている。へんに腕がた つことが判ったため、用心棒として重宝していた。しかし、ジークが使った分の代 金を取り戻そうとすれば、一週間や二週間ではとうてい無理である。 かれこれジークは、三ヶ月もただ働きさせられていた。それでも、店としては半 分も取り戻せていない勘定である。 そのできれば忘れておきたい厄介者の名を聞かされたフェイランを、さらに怒ら せようとしているとしか思えぬセリフを、その客は吐いた。 「そのジークという男に会いたい。ここへ、つれて来てもらおうか」 再びぴたりと、踊りと音楽が止まる。フェイランは音楽を再開するよう促すと、 道化のひとりに目配せをした。道化は頷くと、部屋を出ていく。 フェイランは内心で散々毒づきながらもとろけるような笑みをみせ、そのやっか いな客に応える。 「つれて来いと仰るならつれて来ますけど、あの男のことをご存知なんですか」 客は、眼差しをフェイランのほうへ向ける。それは冷え冷えとしたそれでいて、 何かを強く求めているかのような眼差しだった。ある種の宗教の、狂信者に時折見 られる目である。 「腕のたつ男と聞いた」 フェイランはとうとう、あからさまにため息をついた。到底その客が、遊びにき たとは思えなかった為である。 フェイランはすっ、と立ち上がるとたん、と手を叩く。注目する踊り手や楽士た ちに下がるよう命ずると、客に目礼をして自身も部屋を出た。 部屋を出たところでフェイランは、女将と鉢合わせる。女将は、フェイランが目 配せで指示を出した道化を連れていた。 「お母さん」 フェイランは、思わず女将に声をかける。この店の娼婦たちは皆、女将の養女と いう形になっていた。この店の女たちは皆身寄りが無いか、なんらかの理由で家族 と縁を切った者である為だ。 「話は聞いた。後はまかせな」 そういうと女将は、不敵な笑みを見せる。女将は美形というよりは、精悍な顔だ ちをしていた。左頬には十字の傷跡があり、紅い長衣の下には分厚い筋肉と無数の 傷跡が隠されている。 この女将の笑みには、凄みがあった。何しろつい数年前までは、女傭兵として戦 場で荒稼ぎをしていたのだから。  西の大国アルクスル大王国の内紛が終わり、エリウス王の治世の元で世情が安定 すると共に傭兵の需要が激減した。それと同時に傭兵時代にため込んだ金を使い、 戦争で身寄りを無くした女たちを集め、この娼館を立てたのである。自身が優れた 戦士であった為、用心棒は不要であったが、ジークのおかげで無理矢理用心棒を雇 う形になったわけだ。 女将は豪華に刺繍のなされた紅い長衣を靡かせ、部屋へ入る。袖をまくり上げ、 陽に焼け傷だらけのごつい腕を見せて腕組みすると、客の前に立った。フェイラン も後ろに立つ。 「俺は、この店の主、メイリンだ」 戦場で鍛えた野太い声で、女将は名乗る。客は相変わらず無表情の瞳で、メイリ ンを見た。 「お客さん、えっと、何て名でしたかね」 「レオンだ」 「ああ、レオンさん。うちはね、女神様の元で信仰を高めていただこうという場所 なんだ。判ってるだろ」 「ああ」 「その神前でよ、もめ事は困るんだよ。なあ、判るかい」 「私は、何かやっかいなことをしたかね」 「あんたがジークをどうしようが、そりゃあ、あんたのかってさね、レオンさん。 けどよ、うちの店の中でやられた日にゃあ、たまったもんじゃねぇだろうが」 「誤解があるようだ」 レオンは相変わらずの無表情で、刃を思わすメイリンの瞳を平然と見返す。その 瞳は、真冬の星のように冷たく光っていた。 「私はジーク殿の、ご助力を貰いたいと思っている」 メイリンは苦笑するように、口元を歪めた。ますます顔に、凄みが増す。 「殿なんかつけるなよ、あのアホタレに。まぁいい。話を聞かせてもらおうか。訳 がありそうだな」 レオンは頷くと、冷めた声で語り始める。 「我々の殿は、家の名前をいうのは勘弁していただきたいのだか、たいそう武芸の 好きなお方でな。方々から強い男を呼び寄せては、御前で試合をさせて、ご覧にな るのを楽しみとされている」 メイリンは胡乱げな目で、レオンを見つめ続けている。レオンは話を続けた。 「その御前試合は月に一度あるのだが、それが明日の夜と迫っておるのにまだ腕の たつ男を一人しか見つけておらぬ。ぜひジーク殿に我々の屋敷に来て頂いて、我が 殿の前で、試合をしていただきたい」 メイリンは、ぐっとレオンを睨みつける。 「そいつぁ、困ったな」 「どいういうことだ」 「あのジークのアホタレはよ、この俺に借金がある。それも、半端な額じゃねぇ。 その金が精算されねぇ間は、この店を出すつもりはねぇんだ」 レオンは頷くと、懐から首飾りを出した。かなり古いものらしく細工は緻密であ るが、今の流行からは外れたものだ。しかし、息をのむ程流麗で美しい造りであり、 なにより星々を散らしたように美しい宝石の数々がはめ込まれている。その紅や青 の輝く宝石は、それ一つでかなりの値打ちがつきそうだ。 メイリンはひょいとその宝石をとると、懐に収める。 「私の払いも含めて、それで足りるか?」 「本当は、現金払いなんだけどね、まあいい。つりは払わねぇぜ」 レオンは頷くと、立ち上がった。メイリンは入り口で待機していた道化を呼び寄 せ、ジークの元へ案内するように指示する。メイリンは、そっと首飾りをフェイラ ンに渡す。 「一応、鑑定しといてくれ」 「値打ちは確かそうだけど」 「ああ。しかし、みょうな魔法が掛かっているといけねぇからな」 フェイランは、頷いた。フェイランは、魔道の心得がある。呪いのかかったアイ テムは、どんなに見事な宝石であっても一銭にもならない。大金を払って魔道士を 雇い、魔道士に祓ってもらわない限り、持ち主に不幸をもたらす為だ。 「ねぇ、レオンさん」 でっぷりと樽のように太った男ジークは、漆黒の夜空の下、黙々と先を行くレオ ンに声をかける。丸々と太った体は、灰色の道着に包まれていた。いわゆる作務依 ともいう衣服で、神殿の下男が身につけるものである。娼館も神殿の一種と見なさ れる為、そうした衣服を身につけることとなっていた。 「いつになったら、着くのかなぁ」 見事な金髪を目の上で真っ直ぐに切りそろえ、晴れ渡る青空のように美しく邪気 の無い青い瞳をきらきら輝かせてジークはレオンに呼びかける。レオンは見た目は ゆったりと歩いているように見えるが、まるで宙を進むように速く移動していた。 みかけによらず身体を鍛え上げているジークにしても、けっこうついて行くのに 苦労している。もうかなりの距離を、歩いたはずだ。 「もうすぐだ」 レオンは、振り向かずに応える。ジークは、丸々とした肩を竦めた。 東方の小王国と呼ばれるトラキア。そのトラキアの歓楽街であるローズフラウに、 メイリンの店はある。暗い夜空の元、不夜城とも呼ばれるローズフラウは、宝石箱 のように輝いて見えた。 そのローズフラウが眼下に見える小高い丘を、レオンにつられてジークは昇って ゆく。だらだらと続くゆるやかで長い坂は、太ったジークには結構きついものがあ る。 トラキアは豪族ともいうべき貴族たちと、王家ローゼンフェルト家の勢力が拮抗 している為、必ずしも政情が安定している国ではない。勢力を持った豪族の中には、 王家を滅ぼし権力を手中に収めようと画策するものが時折いる。 しかし、今の王ルドルフ・ローゼンフェルトは老いたとはいえ力を持った王であ り、その世継ぎジュリアス・ローゼンフェルトも聡明で人望のある王子だ。トラキ アとしては、治安の安定している時期であった。 とはいえ、こう、中心地から離れていくと、ジークとしても疑問が芽生えてくる。 まっとうな貴族の館が、こんな外れにあるとは思えない。ひょっとすると、何かの 陰謀がからんでいるのかという気がする。 そのジークの気持ちを読んだかのように、すっとレオンは立ち止まると振り向い てジークを見つめた。丁度、丘を登り切った当たりである。レオンは、丘の下を指 さした。 「あれが、我が殿の館だ」 「へえ」 ジークは宝石のような青いひとみをきらきら輝かせながら、感心して丘の麓の館 を見つめる。こんなはずれにあるにしては、大きな館だ。高い壁に覆われた、随分 古風な造りのずっしりと落ち着いた構えの館であった。 造りからすると、おそらく古い貴族の館のようだ。とすれば、王家に対して謀反 を企てている可能性は少ない。古い貴族は、ルドルフ王に押さえ込まれている。反 抗勢力は大抵、新興豪族であった。 「安心していただけたかな、ジーク殿」 「いや、腹がへってきただけでさ。俺、腹ぺこになると動けなくなるから、その前 に着くかなと」 ジークは、微笑みながら呑気そうに言った。その笑みは、子供のように無邪気で ある。思わず人を惹きつけてしまいそうな、明るい笑顔だった。 ジークは無表情であったレオンの顔に、笑みが浮かんだような気がした。気のせ いかも、しれない。再び歩き始めたレオンの後を、ジークはついてゆく。 そのジークの耳に、囁き声があった。 (変よ、ジーク。あんたの目の前の男も、あの館も) (おお、ムーンシャインか) ムーンシャインは、魔族の精霊である。死んだ魔族の魂は、邪神グーヌの元へ帰 ると言われていた。しかし、成人になる前に死んだ魔族は、大抵その強い思念が地 上にとどまる事になる。ムーンシャインは幼く(といっても数億年以上生きる魔族 の感覚であるから百年は生きていたと思われるが)して魔道士に殺された、魔族の ようだ。 はじめは、メイリンの娼館にとり憑いてた。それほど強い怨念は持っていなかっ たようで、気配を感じさせる程度の存在で人間に関わろうとはしなかったらしい。 魔道の心得のあるフェイランが、ムーンシャインと名付けた。時折、フェイラン と戯れる程度の精霊だったムーンシャインは、なぜかジークが気に入りある日ジー クにとり憑くこととなる。ムーンシャインはジークの心の中に囁きかけ、ジークは 心の中で応えることができた。 ジークは、それ以来ムーンシャインの話し相手となり、仲の良い相棒となってい る。ムーンシャインには人間の目に見えない様々のものが見える為、ジークとして も結構重宝していた。 (あの男、生者ではないわね) ジークは、目を丸くした。 (亡霊?そんなふうには見えないけどな。第一亡霊だったら、フェイランが気付く よ) (そう簡単では、なさそうね。ま、すぐに判るわ。用心してね) (あいよ) その会話を聞いていたのかどうかは不明だが、突然レオンが背中から凄まじい殺 気を放つ。ジークはとん、と後ろにさがり、左手を前に出して構えをとった。 「いや、すまん」 レオンは謝ると、振り向いて会釈した。 「一応、確かめさせてもらった。どの程度の腕かを」 ジークは、くすくす笑って構えを解いた。 「危ないなぁ。へたしたら殺してたよ、あんたを」 「ああ、確かに私では、到底太刀打ちできぬ腕をお持ちのようだ。それと、ジーク 殿は武器を身につけておらぬが、何をお使いになるのかな。どんな武器でも、ご用 意致すが」 「いや、俺のはラハン流の格闘術でね、武器は使わないというか。この左手が武器 みたいなもんさね」 ジークは、ぐいと左手の袖を捲り上げる。そこに現れたのは、星無き夜の闇のよ うな、漆黒の左手であった。 無言で問いかけるレオンに、ジークは説明する。 「ギミックスライムというやつを、知ってるだろ。不定形の生き物で人間の身体を 喰いながら、喰った部分の擬態をするというやつ。おれの左手はギミックスライム なんだが、ただのギミックスライムじゃなくて、黒砂蟲というやつなんだ。黒砂蟲 は身体の表面を、鋼鉄より堅い黒砂鉄で覆って身を守る。俺の左手は、鉄の剣をへ し折ることができる」 「黒砂掌か」 「なんだ、知ってんじゃん」 ジークはへらへら笑う。レオンは無表情のままだが、ジークはレオンが驚きを感 じているような気がした。 「黒砂掌はただの伝説と思っていた。ジーク殿、おぬしであれば、もしや」 「へぇ、なによ?」 「いや、何でもない」 レオンとジークは、高い壁の続く館の前へ来た。ジークは門に刻まれた紋章を見 てみたが、記憶には無いものだ。主要な貴族の紋章は知っているつもりだったので、 意外な気持ちになる。相当に古く、しかも地方に本拠がある豪族らしい。 高い壁に覆われている為、真っ正面に立つと館の内部は伺い知ることができない。 レオンがとん、と門を押すと巨大で頑丈そうな門は音も無く開く。 庭園は手入れが行き届いていないのか、主の好みなのか、鬱蒼とした自然の森林 のようになっている。その庭園の木立を貫く道を通り、レオンとジークは館の正面 玄関にたどり着いた。 玄関の巨大な扉も、レオンが押すと音もなく開く。薄暗い玄関ホールを二人は突 き抜け、長い廊下に入った。 館の内部は複雑な迷路のように曲がりくねっている。ジークは導かれるまま、い くつもの角を曲がり階段を昇り降りして館の奥へと入っていった。ジークはあっと う間に方向感覚を失い、入り口がどこだったか見当もつかなくなる。 館の内部は、人の気配に満ちていた。多数の人がここで生活しているようなのだ が、実際に人の姿は見かけない。ジークは深夜のため誰も出歩いていないのだろう と、一人で納得する。 やがて、ジークは大きく殺風景な部屋へつれこまれた。家具は殆どなく、片隅に 椅子がいくつか置かれているだけだ。ふだんは空き部屋のようで、人に使用されて いたような匂いが無い。 「しばらくここで待っていてくれ。主がやがて、挨拶にくる」 レオンはそう言い置いて、部屋から出ていった。ジークは椅子を手にとり、腰を 降ろす。 「やっぱり、おかしいわ。この館」 ひょいと、ジークの左肩に漆黒の姿をした体長10センチ程の少女が現れる。少 女の背中にはフェアリーを思わす半透明の羽があった。その少女はムーンシャイン である。 ジークの左手は、不定形生物であるギミックスライムで出来ていた。本来物理的 身体を持たない魔族の精霊であるムーンシャインは、ジークの左腕を形成するギミ ックスライムを使って自分の身体を作り出す。他人がそばにいる時は姿を見せるこ とはないが、誰もそばにいないとムーンシャインは姿を顕した。 「どうおかしいわけ?特に何も感じないけど」 「魔法がかかってるよ、ここ全体に。ただ今は少し力が弱まっているふうな」 ジークは首をかしげる。 「それって、そんなに珍しい話じゃないよ。古い貴族は、よく魔族よけの呪いを館 にかけるじゃん」 ムーンシャインは、羽ばたきながらジークの目の前に飛んでくる。もどかしそう に、小さな手を合わせながら話す。 「そうじゃなくて、この館がアイオーン界と現世の狭間にあるような」 アイオーン界は現世とは別の次元界であり、精霊たちと龍族の故郷である。そこ は魔法的宇宙であり、夢幻的空間であった。 ジークはげらげら笑って、ムーンシャインに応える。 「まさかぁ。そんなに強い魔法は感じないよ」 ムーンシャインはむっとなって、妖気をゆらめかせる。ムーンシャインは小さく ても魔族であり、人間の魔道士には到底まねできないような強烈な瘴気を放つ。そ の様は、ジークを慌てさせた。 「い、いや、そうかもしれんな、うん」 「いったでしょ、力が弱まっているって。今夜は月がでない、世界の魔力が弱まる 夜。もうすぐ魔力は甦ってくるわ」 そう言い終えると、ムーンシャインはすねたようにジークを睨みつけ、かき消す ように消えた。ジークはふうと、ため息をつく。 「そなたは、何者だ」 突然声をかけられ、ジークは飛び上がる程驚いた。慌てて、後ろを振り返る。 「何者か、と聞いている」 再び誰何する声を発したその人は、女である。身につけた純白の長衣は、婚礼の 衣装のようであり、屍衣のようでもあった。 金の鮮やかな髪飾りに縁取られたその顔は、死人のように蒼ざめてはいるが、神 殿に祀られる女神の像のように美しい。くっきりと施されている化粧は、仮面をつ けているように女の顔から表情を奪っていた。 女は、降臨した裁きの天使のように威厳を持って佇んでいる。その威圧感に、ジ ークは一歩退く。 女は、肩から大きな剣を下げている。戦場刀だとしても、驚くほど幅広の鞘に剣 は収められていた。長さもおそらく柄の部分を除いても、女の身の丈近くはあるだ ろう。武器ではなく、神器なのかもしれない。 「何者か、ていわれてもねぇ。ただの男だよ。名前はジーク」 ジークがかろうじて返した言葉に、間髪いれず女は再度質問を発した。 「ここで何をしている?」 「何をしているって?いや、ここで待て、て言われたからさ」 「誰を待っているのだ」 「この館の主だよ。あんた誰?いいかげんにしてほしいな。俺さぁ、たいした者じ ゃないけど一応は客かと思ってたんだけど」 ジークは、部屋を見回す。扉は、ジークの入ってきたところ一ヵ所のみだ。ジー クは扉に向かって座っていたのだから、そこから部屋へ入り込むのは不可能である。 かといって、窓もないこの部屋では壁や天井をすり抜けるしか部屋へ入り込む方法 は無い。 それに、女はジークに全く気配を感じさせなかった。この館へ来てから、ジーク は油断していた訳ではない。むしろ、神経を研ぎ澄ませていた。そのジークに全く 気配を気取られることなく姿を顕したとなると、妖魔か精霊の類と思える。 「私はトーヤ」 女は、傲岸な口調で言い放つ。ジークはムーンシャインに気を投げてみるが、さ っきのやりとりで拗ねたせいか、答えが無い。 トーヤと名乗った女の紅く塗られた唇のはしが、つっと上がる。それは、獲物を 捕らえた獣のような笑いであった。 「なるほど、おまえか」 ジークは戦慄を感じ、一歩下がる。 「なんだよ、それは」 「おまえが、今月の使い手という訳だ」 トーヤはその常識はずれに巨大な剣を、一瞬で抜き放った。それは、厳密には剣 と呼ぶべきものではないようだ。 それは双胴の剣である。二本の細身の刀身が、柄から延びていた。その切っ先は、 三日月型に湾曲した小刀で繋がれている。 その三日月型の小刀から柄に向かって、金属の糸が4本張られていた。全体的に は武器というよりも、竪琴を思わせる。武器で構成された楽器というべきか。  トーヤはその巨大な剣(楽器)を提げて、一歩踏み出す。その眼差しには、凍り ついた殺気が潜んでいた。 「なぁ、何か誤解が無いか?俺は」 「腕がたつという理由で、ここへつれてこられたのだろう」 ジークは後に下がってゆき、背中が壁にあたった。 「いや、そう、だったけか?」 「どうでもいい、おまえだ、私が待っていたのは」 ジークは闇色の左手を前に出し、構えをとる。腹を決めた。どうやら戦うしか、 無いようだ。 トーヤは動き出さない。その長大な剣は、おそらく振るうことはできないだろう。 とはいえ、どのように使うものであるか見当もつかない為、ジークは攻撃の為に踏 み込むことを躊躇った。 ジークとトーヤが対峙した状態で、時が流れる。ジークは、相手の出方を見るこ とにした。手の内の読めない相手に、先の先をとれるとは思わない。後の先も無理 だろう。とりあえず、運を天にまかせて相手が動くのを待つしか無い。 ジークは気を研ぎ澄まし、トーヤの動きを待つ。そのジークの耳に、静かな音が 聞こえ始めた。 遠くに聞こえる潮騒、あるいは静かな雨音。深い地下室で囁かれる声、風が揺ら す山上の木々の音。 そんなざわざわとした音が、耳鳴りか幻聴かと思える程の音量で、絶え間なく聞 こえてくる。そしてその音は、次第に高まってきた。 少しずつ満ちてきた潮が気が付くと自分の足下に及んでいたように、その音はは っきりと部屋全体を満たすほどに高まっている。それは大量の水が流れ落ちていく 音のようであり、森の中を吹きすさぶ風の音のようでもあった。 部屋全体が鳴っているように、音が高まる。その音は水が部屋を満たすように、 部屋じゅうを埋め尽くした。 ジークは確信する。その音が、トーヤの持つ剣から発されていることを。そして、 剣の糸がよりはっきりとした音をたてた。それは水晶を打ち合わせて鳴らしたよう な、透明で澄んだ音である。 トーヤは剣を動かした。その動きに伴い、糸の発する音も様々に変化してゆく。 その音はうねるよう調子を変えながら、曲を奏で始める。 糸の発する澄んだ音は歌としかいいようのない旋律を、奏で始めていた。誰も聞 いたことのないような夢の世界の歌。 トーヤが剣を振り回すにつれ、その歌の音色や音程が変わってゆく。それは無数 の楽隊が様々な旋律を奏でながら、行き交っているようでもあった。あたかもそれ は、音の万華鏡である。 ジークはふと、自分の左手が共鳴し始めているのに気づき、愕然とした。ジーク の闇色の左手も、トーヤが持つ剣の歌にあわせて歌い始めている。その歌は、左手 の指先から手のひら、手首、腕、肩へと次第に昇ってきた。 やがて旋律は螺旋状に旋回しながら、ジークの全身を覆っていく。いまや部屋全 体が歌の旋律に、共鳴しているようだ。 ジークは、自分が歌と一体化していくのを感じた。それは、超越的な大いなる存 在へ組み込まれ、その一部になっていく感じだ。ジークの心はすでに麻痺している。 ジークは白衣のトーヤが奏でる無限に変化していくその歌に、陶酔を感じた。そ の陶酔の果てには星なき闇夜のような黒き死がある。ジークはその闇の縁を、歌を 聞きながら覗き込んでいた。 そしてジークは、歌に呑まれる。 ジークは薄闇の中で目覚めた。音は消えている。自分が生きていることに、微か な驚きを覚えた。 「いつまで寝てるのよ」 ジークは飛び起きて、声のしたほうを見る。漆黒の肌に黄金の髪をもった少女が いた。その瞳は、夜空に君臨する月の輝きを思わす金色の光を放っている。 「ひょっとして、ムーンシャイン?」 「そう」 ジークは自分の背丈と変わらぬ大きさになったムーンシャインを見つめ、ふうと ため息をつく。 「何よ」 「いや、おまえがそんな姿ということは、ここは冥界なんだろ。俺は死んだのね」 ばしっ、とムーンシャインの下段蹴りがジークの太股に入る。慌てて下がるジー クにさらに2発、3発と蹴りが入った。 「いてて、何すんだよう、え、…痛い?」 「痛いのは生きてる証拠。ここは冥界ではない。でも、現世でもないわ。私にもこ こがどこか判らない」 生まれながら魔法の天才である魔族ですら判らない魔法的空間。死んでいないに しても、ジークにとっては同じ様なことに思えた。再びため息をつき、あたりを改 めて見回してみる。少し目が馴れたせいか、様子が判ってきた。 そこは長い回廊のようだ。果てが見えぬほど真っ直ぐ道が、続いている。微かな 光が、一方の側から漏れてきていた。 「とりあえず、向こうだな」 ジークは、とぼとぼと明るいほうへ歩いてゆく。ムーンシャインは、その後に続 いた。 「だいたいあんたが私のいう事をまともに聞かないから、こんな事になるのよ」 ムーンシャインは死者をむち打つように、厳しい口調で言い放つ。ジークは反論 する気力もなかった。 「言ったでしょ、あの館はアイオーン界と現世の狭間にあるって」 そうは言ってもなぁ、とジークは思う。しかし、言い争う気になれない。ジーク はムーンシャインに容赦なくののしられながら、歩いていった。 ひたすら真っ直ぐのように思えた回廊は、どうやら緩やかに湾曲しているようだ。 螺旋を描き内へ巻いてゆく。螺旋の中心に向かうにつれて、光は明るくなってゆき、 湾曲も大きくなってきた。 ジークとムーンシャインは弧を描く回廊を巡り、その果てにたどり着いく。そこ は、分厚いカーテンに閉ざされている。光はそのカーテンから漏れているようだ。 ジークはカーテンの内側へ入り込む。どよめきがジークを迎えた。そのどよめき には、明白に失望が混ざっている。 そこには、円陣となって椅子に腰を降ろしている人々がいた。まるで楽隊を待つ、 音楽会の聴衆のようである。ただ、おそらく主役となる楽隊は永遠に登場しないの だろう。 どよめきが去った後、囁き声が聞こえ始める。 「やはりなぁ」 「ラハン流と聞いてもしやと思ったが」 「所詮無理なのか」 「期待すべきではなかったな」 「ラハンの弟子であってもなぁ」 ジークはその円陣の中に入る。 「なんだよ、あんたら、かってなこと言ってるけどさ!」 ジークは空いている椅子を選び、腰を降ろした。その後ろにムーンシャインが立 つ。 「俺としちゃいい迷惑だぜ。だいたいなぁ」 ジークはレオンを見つけ、指を突きつけた。 「あんたさ、何で始めっからちゃんと説明しないんだ。俺の相手がどんな技を使う のか聞いてりゃあ」 レオンは、表情を変えずに応える。 「ふむ。しかし、全てを説明すれば、お主は途中で逃げ出していただろう」 ジークは思わず頷く。 「ああ。そりゃそうだなぁ。はは」 ジークの背後から、ムーンシャインが言った。 「でもこうなった以上は、全てを説明していただきたいわ。あなたがたに」 レオンの目での問いかけに、ジークが応える。 「ああ、彼女は俺にとり憑いてる妖魔でさ。ムーンシャインつう名前だ。ま、説明 するとややこしいけど、味方だから気にしないでよ」 レオンは頷いた。 「よかろう。こうなったら隠しても、しかたがない。我々はグーテンベルク家の家 臣だ」 「グーテンベルク!」 ジークが驚きの声を上げる。 「王家であるローゼンフェルト家と同じくらい古い貴族でありながら、二十年前、 一夜にして一族が消え去って滅んだとかゆうあの伝説の!」 「その通りだ。我々の主は、お主をここへ送り込んだトーヤ・グーテンベルク様だ。 そしてトーヤ様が、グーテンベルク家を滅ぼしたといえる」 レオンは無表情のまま、陰鬱な口調で古い物語を語り始めた。 「トーヤ様が狂われたのは二十年前、トーヤ様の婚礼の夜だった。トーヤ様は西の 大国オーラの貴族であるデリダ家の若君を夫として迎え、グーテンベルク家の当主 となるはずだった」 ジークはため息をつく。 「政略結婚だな」 「うむ。しかし、それ自体が珍しいものでは無いことは、お主も知っているだろう。 むしろ結婚は政治の為の道具であるといってもいい。このトラキアではな。 トーヤ様もそれは理解しておられた。ただ、トーヤ様の愛されているお方は別に いた。我々もトーヤ様もそれは納得の上のはずだった」 「なんか、ありがちな話なのね」 ジークはうんざりしたように、言った。 「その通りだな。トーヤ様は剣の師であるシロウ殿を愛されていた」 「剣というのはまさか、」 ジークは、晴れた青空のように青い瞳をきらきらさせながら聞いた。 「あの金属の弦を張った竪琴みたいなやつか?」 「その通りだ。あれは竜破剣とよばれている。古に竜すら討ち滅ぼした伝説がある ためだ」 これにはムーンシャインも苦笑した。 「竜は無理でしょ、いくらなんでも」 「伝説だからな。しかし、魔法とは異なる方法で魔法と同じことを実現する竜破剣 の技は、現に妖魔であるお主ですら、術中にはめたではないか」 「そりゃあ、ねぇ、あんなの始めて見たしぃ」 ムーンシャインは思わず言い淀む。 「ここはいわゆる閉鎖的魔法空間であり、夢想音楽迷宮と呼ばれる。ここは又、ア イオーン界の一部でもある。魔法とは思念によって異なる世界への道筋をつくりだ すことだ。思念のベースとなるのは言語だ。魔法とは言語の技ということになる。 私が妖魔を前にしてこんなことを説明するのも、変だがな」 ムーンシャインは苦笑する。 「あんたの言うことは確かだわ。魔法とは言葉の技。思念とは言葉の造り上げる城。 魔法はその城を分解し、別のものに作り替えてしまう」 レオンは頷いた。 「そしてその言語によってなされるべき技を、音楽によって実現したのが夢想音楽 流とよばれる剣技であり、夢想音楽流を実現する為の剣があの竜破剣なのだ」 ムーンシャインとジークは顔を見合わせた。 「うーん」 「理屈は、判らないでもないけど」 レオンは頷いた。 「確かに納得しにくかろうな。ジーク殿、そなたなら判り易いと思うのだが。ラハ ン流は意と想から成るという。いわゆる思念を意と思っていただきたい。その思念 とは別の意識の流れを想と呼ぶ。その想を支配し操るのが、夢想音楽流の織りなす 歌なのだ」 なるほどと、ジークは唸った。ラハン流は、意と想に意識を分けている。通常の 思考を意と呼び、それとは別のより生の深い部分に結びついた、言語として形成さ れる以前の意識の流れを、想と呼んでいた。 ラハン流格闘術とはすなわち、その思考を形成する依然の意識を用いて身体を動 かすことにより、神速ともいうべき速度で動くことを実現する技だ。 「まぁ、想の技がラハン流の全てじゃないけど、言ってることはなんとなく判るよ」 ムーンシャインも、ジークにとり憑いているだけあって、その説明で理解できた ようだ。レオンに向かって頷いてみせる。 「判ってもらえたようだ。話を戻そう。婚礼の夜、これから祝いの宴が始まる直前 となって、トーヤ様は自分の愛が予想を遥かに上回って強いことに気がつかれた。 デリダ家の若君に抱かれるくらいなら、死を選ぼうとされたのだ。 トーヤ様は愛する人の手によって死のうとされた。祝いの直前に、トーヤ様はシ ロウ様に試合を挑まれた。竜破剣をもちいて」 「はぁ、でも死ねなかったわけね」 ジークの呑気な調子の言葉に、レオンは真面目に頷く。 「そうだ。トーヤ様はシロウ殿の剣士としての本能にかけた。真剣に戦えば、シロ ウ殿も真剣に応えざるおえない。その瞬間に防御を放棄すれば、シロウ殿の手で死 ねるはずだ」 「なんかちょっと、自分かってだよなぁ。そのシロウさんだって自分の愛する主は 殺したくなかろうに」 「言われるとうりだ。トーヤ様はその無謀なくわだての報いを受けた。死んだのは シロウ殿のほうであった。シロウ殿は竜破剣の力で五体を引き裂かれ、無惨な死を 迎えられた。その瞬間トーヤ様は狂われた。トーヤ様は力を制御できなくなり、ト ーヤ様の竜破剣は間断なく歌を歌い続けた。 その結果、館にいた者すべてが、この夢想音楽迷宮に引き込まれることとなった。 トーヤ様は自らの歌の力により、この迷宮でもなく、現世でもないアイオーン界の どこかを彷徨っておられる。 トーヤ様は、過ちを犯されたが、その責任はトーヤ様だけのものではない。我々 もシロウ殿も誤ったのだ。その報いは十分受けたはずだ」 ふーん、とジークは唸る。 「ま、同情はせんけどね。それであんたたちは、トーヤさんを救おうとして、俺た ちみたいのを見つけちゃ引きずりこんでいる訳ね」 レオンは頷く。その仮面のように無表情な顔は、どこか哀しげであった。 「そうだ。竜破剣を破る技を持つものを探して、トーヤ様を殺していただく以外に もう方法は残っていない。そうしなければ、トーヤ様は愛する者を殺した哀しみか ら開放されない。 毎月新月の夜には魔力が弱まる。その時に我々は一人だけ、現世に戻ることがで きるのだ。新月の夜が終われば、また戻らねばならぬが。 何人もの使い手が死んだ。ジーク殿、ここへこれたそなたは、運がいいというべ きだろうな。歌との相性が悪ければ、ここへ来る以前に五体が引き裂かれる」 ジークは、突然立ち上がる。レオンは驚いたようにジークを見つめた。 「なんかさ、あんたらまるで、俺が負けたように言ってじゃん」 「それが?」 「冗談じゃないよ。ラハン流は無敵だぜ。俺は世界最強だよ」 「負けていないというのか、しかし」 「しかし、じゃないよ。死んでないじゃん、俺。生きてるんだせ、生きてるってこ とはよ、負けてないんだ」 「しかしな、」レオンは陰鬱に語る。「勝ったとはいえまい」 「そこよ、そこ。まぁ、見てな。あんたらの願いは、俺がかなえてやるから」 勢いよくそういうと、ジークはムーンシャインに囁きかける。ムーンシャインは 頷くと、姿を消した。 ジークは円座となった人々を見回す。 「じゃあな、もう会うことはねぇだろうが」 「ここから出るというのか、無理だ」 「無理じゃねぇ、レオンさん。多分、ラハン流と夢想音楽流は、根底では繋がって いる。おれの技にムーンシャインの魔力を加えれば、とりあえずはここから出れる」 ジークは一同を見回す。誰一人として、期待を持った目では見ていない。しかし、 ジークは気にとめず、無邪気ともいえる笑みを見せるとカーテンの後ろへと入る。 再び螺旋状の回廊に入ったジークは、円を描く道を進む。次第に円は大きくなり、 道は真っ直ぐに近づいてゆく。回廊が真っ直ぐになるにつれ、ジークの足も速まっ ていった。 ジークは走りだす。それと同時に、左肩に元の小さな姿になったムーンシャイン が出現した。 「たのむぜ、ムーンシャイン」 ジークの言葉にムーンシャインが頷く。音楽を使うとはいえ、夢想音楽流のやっ ていることは魔法と同じはずだ。という事は、ムーンシャインの魔力でも現世に戻 れるはずである。 しかし、魔法を構成するのは呪文だ。この閉鎖的魔法空間を造り上げている道は 音楽で作られているのだから、その音楽を呪文に置き換えなければ道は開けない。 ジークは想を呼び覚ます。ジークの中で、深いレベルの意識が覚醒し始める。そ れはある種の麻薬を吸引した時のように、世界がクリアになり異様に意識が研ぎ澄 まされていく感覚だ。 まるで水晶のように空気が煌めき始める。そして、ジークの予想通り、音楽が聞 こえ始めた。想のレベル、つまり意識の奥深いところで感じ取れる音楽が、この世 界では常に流れている。その、意識されないが、常に流れ続ける音楽が人をこの世 界に縛りつけているのだ。 ジークの心の中に流れ始めた音を、ムーンシャインは感じ取る。ムーンシャイン はそれを呪文に置き換えてゆく。その呪文を今度は魔法として発動させ、現世への 道を開き始めた。 ジークは闇の中を走っている。その宇宙の果てのような闇の中を、風のように疾 走してゆく。闇は固形の固まりのようだ。ジークの想はその闇は、引き裂くように 冴え渡る。 ジークは、まるで落ちてゆくようだと思った。奈落の底へ。神もおらず、魔道と も縁がないようなこの奇妙な魔法空間の中を、果てしなく落ちてゆく。ふと、落ち 行く先に、ジークは光を見る。 はじめは、明けの明星のように小さく輝く光であった。次第にその光は、大きく なる。やがて満月のように、そして輝く太陽のように。 ついには、闇が駆逐されあたりは光に満ちた。その限りなく広がる光の世界にジ ークは落ちていく。 そして、ジークは真白き光の中で意識を失う。 唐突に、ジークの意識は戻った。そこは、グーテンベルクの館である。目の前に は、トーヤがいた。あの長大な竜破剣を構えたままの姿で。 「ほう」 トーヤは驚いたように、ジークを見る。 「あそこから、戻ってきたのか」 「驚くのは早いぜ」 ジークは闇色の腕を、ぐいと突き出す。その腕が変化し始めた。手が縦に避けて ゆく。そして液体化したように滑らかに溶けてゆき、剣の形態を取り始める。 左手は、闇色の双胴の剣となった。切っ先は三日月上の剣で繋がれ、そこから根 本に向かい4本の糸が延びる。 ジークの左手は、漆黒の竜破剣と化した。ジークはにこにこと笑い、自慢げにト ーヤへ語りかける。 「どうよ、大したもんだろうが」 「ギミックスライムの腕か。器用なものだな。しかし、夢想音楽流は付け焼き刃の 技で対抗できる程容易くはないぞ」 ジークはへらへら笑う。 「いいや、俺は無敵だもん。試してみな」 トーヤは無言のまま、技にはいる。今度はさっきより早く音を感じとることがで きた。想のレベルをコントロールするのは、ジークにとっては本来馴れたことであ る。 ジークは竜破剣の歌を想のレベルで捉えた。その旋律は心の中に焼き付いている。 どのような展開を見せるか、手にとるように判った。 轟音の中から立ち現れてくる、天空の星が歌うような音楽。煌めく光の破片が散 りばめられてゆくような美しい旋律を、ジークは心の中でなぞる。 ジークの左手、闇色の竜破剣は歌い始めた。トーヤの竜破剣と同じ歌を。その双 子のような剣は、声を合わせて歌い始める。 ふたつの歌は完全に重なり合い、ひとつの旋律となった。その歌は音の万華鏡と なり、部屋を満たす。 やがて、ジークの黒い竜破剣は微妙に音をずらし始める。それは、旋律を少しず つ狂わし始めた。音は歪み、トレモロのように震える。 「馬鹿め」 トーヤが侮蔑の笑みを見せた。 「音をずらすことの意味が判っているのか」 ジークはいつもの無邪気な笑みで応えた。 「あったりまえじゃん」 そうはいったものの、その全身を襲う苦痛はジークの集中力を削ぎつつあった。 音を狂わせれば、身体と音の同期がずれる為、夢想音楽迷宮へ飛ばされることは無 い。 しかし、狂った音は身体にとって凶器となる。シロウや他の使い手たちの五体を 引き裂いたのは、その狂った音のはずだ。 ジークは表情にこそださなかったが、狂った音のもたらす苦痛によって意識を失 いそうになっていた。歪んだ歌は、物理的破壊力を持っている。うねり、巨竜のよ うにのたうちまわるその歌は、壁や床にひびを走らせた。 (ちょっと) ジークはムーンシャインの声を遠くで聞いた。 (しっかりしなよ、苦しいのは向こうも同じだよ) 確かに無表情に見えるトーヤの顔も、どこか焦点がぼけて見える。額には、汗が 光っているようだ。確実に同じ苦痛をトーヤも味わっているはずである。 ジークは不敵に笑いながらムーンシャインに応える。 「俺さぁ、ひとつ忘れてたよ」 (何よ) 「俺、本当は痛いのだめなんだわ」 そういうと同時に、ジークの意識が遠のいてゆく。 (あ、馬鹿、馬鹿、こらっ、ジーク、呪われた悪魔の豚!しっかりしなよ、あんた 世界最強でしょ) ジークはその声を遥か遠くに聞いていた。闇が心地よく、意識を包む。 そのとき、凛、と水晶が鳴った。 ジークの意識が戻る。 もう一度、凛、と音が響く。 竜破剣とは別物の音だ。それと共に、呪文の詠唱がどこか遠くで聞こえる。降霊 の魔法だ。トーヤの注意もジークと同じようにその魔法に向いた。 黒衣の男が姿を顕す。その男の手には、竜破剣と同じ剣が提げられていた。トー ヤの顔が、驚愕に歪む。 「シロウ殿」 黒衣の男は凛々しい顔をした、若者であった。降霊術によって顕現した霊のよう である。その姿は物理的実体をもたぬ、ただの幻。 それはトーヤの師、シロウの幻のようだ。シロウの幻影は、トーヤの前に立つと 口を開く。 「すまなかった。許してくれ、トーヤ」 トーヤは、微笑んだ。愛する恋人を夫として迎え入れるように、トーヤは幸せそ うな笑みを見せる。 「愛してるわ、シロウ」 歌の狂いが絶頂に達する。白衣を血に染め、トーヤの五体が裂けた。血塗れの身 体が床に落ちる。それと同時に、シロウの幻も消えた。 ジークは崩れるように、膝をついた。息が荒い。黒い竜破剣となっていた左手は 溶けるように姿を変え、元の闇色の腕に戻る。 ふと気がつくと、ジークは廃墟の中に佇んでいた。夜は明けつつあり、東の空は 紫色に染まっている。朝日の元で、グーテンベルク家の館は消え去り、鬱蒼としげ る林の中の廃墟となっていた。 「ちょっと、何してるのよ、あんた」 ジークは声をかけられ、驚いて振り向く。フェイランであった。フェイランは、 水晶の小さな杖を懐にしまうところである。ジークは深いため息をついた。 「何してるっていうか、ただ、こうしてるだけなんだけど」 「馬鹿じゃないの、あんた」 「なぁ、あんたこそ、何してんだよ」 「霊が私のところに来て、助けを求めたのよ。恋人を救いたいって。それ、あんた がやったの?」 フェイランは、血塗れのトーヤの死体を指す。ジークは頷く。 「まぁ、そんな感じかな」 「全くどこいっても、やっかい事しか起こさないんだから。弔ってあげなきゃね」 フェイランはため息をつく。 「霊に導かれてここへ来て、降霊の術を使ったらあんたがいたなんて、全くあきれ た話だわ。早く帰ったほうがいいよ」 「へ?どこへ?」 「どこへ、て。店に帰る以外、どこに帰るのよ」 「て、借金はレオンが返してくれたって」 「ああ、あれね」 フェイランは再びふう、とため息をつく。 「レオンとかいうやつのよこした首飾りさぁ、暫くしたら変な音楽が鳴り出して、 音楽と一緒に消えちゃったのよ。魔法でもなさそうだし、訳わからないわ。お母さ んたら、かんかんなの。暗殺者雇ってあんたとレオンを殺すって凄んでたわ」 ジークは、疲労の極みに達した身体を無理矢理動かし立ち上がった。そして、苦 労して歩きだす。ふと振り返るとフェイランが水晶の杖を手に、霊を鎮める呪文を 詠唱していた。凛、と杖が鳴る。 ジークは青く輝く瞳でその様を暫く見つめていた。そして、振り返ると、メイリ ンの店への昏く長い道を歩きだす。