「こんばんは、ひかりでぇーす」  あたしは、部屋に入るなりそう言った。高級ホテルの最上階にあるスイートルーム である。  ソファに腰をおろしているおじさんが、手招きをした。四十代前半というところだ ろうか。前髪を長く延ばし瞳は憂鬱げな光りをやどしていて、芸術家ふうだ。  バスローブを身につけて、くつろいでいるそのおじさんは、物憂げにいった。 「本物の女子高生なの?」 「まあね」  あたしはセーラ服にミニのスカートといういでたち。首には紅いスカーフを巻いて、 両手に白いひじまである手袋をしている。見様によってはセーラ服のコスプレのよう でもあった。 「何かのむ?」  おじさんの問いに首をふって答える。思ったよりいい男なので少し胸がどきどきし た。 (大丈夫かい?)  あたしの心の中でアキラくんが不安げに問い掛ける。大丈夫に決まってるじゃない。 あたしを誰だと思ってるの。 (ま、信じてるけどね)  アキラくんはそういった。あたしは少し唇を嘗めて湿らすと、おじさんの隣へ無理 やり座る。 「おじさん、かっこいいね、あたし少しどきどきしちゃった」  そういっておじさんの腕にしがみつく。おじさんはクールにブランデーのグラスを 口に運んだが、まんざらでもなさそうだ。 「ねぇ、キスしていい?」  あたしは、おじさんの耳元でそう囁いた。おじさんは無言であたしの首の後ろを手 でつかむと、ぐいと唇を押し当ててくる。  舌が生き物のようにあたしの口の中に入ってきた。ブランデーの芳醇な味がついた その舌は、あたしの口の中に痺れるような感覚を撒き散らす。あたしの頭の中はサー チライトで照らされたように、かあっと明るくなった。 (感じている場合じゃないよ)  アキラくんが冷静に突っ込みをいれてくる。うるさいわね、結構うまいのよ、この おじさん。やることはやるから心配すんなって。  おじさんはそろそろとあたしの太股に手を延ばす。じらすようにそうっと、あたし の股の付け根に向かって手が進む。  まるで羽毛で撫で回されるような感覚。その間も舌はあたしの口の中で動き回り、 新しい刺激を作り出していく。  おじさんの手は、スカートの中に入り込んだ。それと同時に手の動きは止まった。 「何かね、これは」  おじさんは、あたしの股間にあるものをおそるおそる触っている。あたしはその手 つきに思わず苦笑した。 「あなたの股の間にあるものと、同じものよ」 「話が違うぞ」  あたしは右手に持ったレミントンダブルデリンジャーを、おじさんのこめかみに押 し当てる。感じているように見えても、やることはちゃんとやるでしょ、アキラくん。  その手の平にすっぽりおさまる小型拳銃をおじさんは、ちらりと見て苦笑した。 「一体なんの冗談」  あたしはデリンジャーをこめかみから少しずらし、おじさんの耳元で引き金を引い た。小型とはいえ、357マグナム弾が耳元を掠めたのだ。こん棒で殴られたくらい のショックはあっただろう。  おじさんは、ソファから転げ落ちのたうち回った。耳を少し掠ってしまったらしく 血がでている。 (むちゃするなぁ、へたするとショック死するよ、マグナム弾だよ)  確かに時速八十キロの車をストップさせるパワーのある弾を耳元で発射されては、 たまったものでは無いだろう。あたしだったら死んでたかもしれない。でも、いいじ ゃん、死ななかったしぃ。  あたしはのたうち回るおじさんの顔を、ローファの靴のつま先で蹴飛ばした。おじ さんはぐえっとか言ってのけぞる。 「いつまでひぃひぃ言ってるのよ、静かにしなよ、おっさん」  あたしは理不尽なことを言うと、おじさんの前に空カートリッジを落し、ダブルデ リンジャーに357マグナム弾を装填する。おじさんは恐怖に歪んだ顔であたしとあ たしの手にあるデリンジャーを見ていた。  恐怖に歪んで血にまみれた顔もキュートだ。いいおとこは、得だね。 「一体なんのつもりだ、私に恨みでもあるのか」  かろうじて身を起こしたおじさんに、あたしはにっこりほほ笑みかける。 「ごめんねぇ、恨みがあるって訳じゃないけど」  あたしは正確にデリンジャーをおじさんの眉間にポイントしている。おじさんは不 安そうにそれを見ていた。 「あたしぃ、マダム・エドワルダに会いたいのよ。歌舞伎町の女王と呼ばれている女。 おじさんなら、会わせてくれるんじゃないかなって」 「知らないよ、そんな名前」  あたしはおじさんによく聞こえるように、デリンジャーの撃鉄をあげた。 「残念ねぇ、じゃあ死んでね」 「いや、マダム・エドワルダに直接面識がある訳じゃないけど、彼女のショウになら いったことがある。それに君をつれていくことができるよ」 「まあすてき」  あたしはおじさんに投げキッスを送る。 「じゃあ、これから一緒に行きましょう」 「これから?」  あたしはおじさんの前に、携帯電話を放った。 「連絡して手配して。今夜ショーがあるはずよ」  おじさんは、携帯電話を手にとった。おじさんは、しばらく話し込んでいたが折り 合いがついたらしく、あたしに携帯電話を投げ返してくる。 「今夜のショウに行く。開始は一時間後だ」 「おっけえ。じゃ支度してよ。一緒に出ましょう」  おじさんは、あたしの手のデリンジャーをちらちら見ながら、スーツを身につけて ゆく。おじさんは、私に問いかける。 「一体、マダム・エドワルダに会ってどうしようっていうんだ。彼女のショウはろく なものじゃないぞ」 「知ってるよ。あたしはねぇ、探してるの」 「探してる?」  あたしは、にっこりとおじさんに微笑みかける。 「無くしたものを探しているのよ」 「無くしたもの?」  あたしはふふふと笑う。 「おじさんはかっこいいから、教えてあげちゃう」  あたしは首に巻いたスカーフを外す。そこに顕わになったのは微かに残る外科手術 の縫合の後。おじさんは、少し息を呑んだ。 「キメラウィルスか。それにしても首から下を移植するとは」  キメラウィルス。あたしにはよく判らないけれど、それは人間の細胞を遺伝子レベ ルで書き換えて免疫系を特定の生体に対して、働かなくするというものらしい。  つまり、人体の移植を凄く容易にしたということ。これは人間同士の移植だけでは なく、動物と人間の移植も容易にしたらしい。  あたしの首から下は、アキラくんのものだ。むろんこの手術は違法だから闇で行っ たもの。昔、夢野久作という作家が人間の意識は身体の個々の細胞に宿っており、脳 はその意識を流通させる交換機としての役割しか持っていないといったらしい。  でもあたしの意識は脳に残っている。そして、どういうわけかアキラくんの意識も、 その身体に残っていた。夢野久作という人は半分正しくて、半分間違っていたらしい。 「あたしの本当の身体はマダム・エドワルダが持っているばす。だからマダム・エド ワルダに会わないといけないの」  おじさんは、スーツを身につけ終わった。ちゃんとした格好するとこれまた男前で ある。 「そういえばさあ、おじさんの名前聞いてなかったわね?」 「私の名は斎木だ」  あたしは斎木と名乗ったおじさんの腕に抱きつくと、そっとデリンジャーを腹部に 押しあてる。斎木さんはびくんと身体を強ばらす。うふふ、可愛い。 「じゃ、いこうか、斎木さん」  あたしたちの乗ったタクシーは、新宿歌舞伎町のはずれにあるラブホテルの前につ いた。そのラブホテルはネオンに明かりが灯っておらず、青白い月の光だけを浴びて いる。  ラブホテルは西欧ふうの城に似た造りだ。ネオンのついていないラブホテルはある 意味、廃墟と化した城塞に似ててるといってもいい。  あたしはドラキュラがその地下に眠っていても不思議はないなあ、とか思った。  斎木さんは、あたしをその左腕にぶら下げたまま、黒々と聳えるラブホテルへと向 かう。正面玄関を抜けると、かつてはロビーであったところにだけは明かりがついて いた。黒ずくめの男がそこに立っている。目つきの鋭い暴力の臭いを漂わせた男だ。 「斎木さんですね」  そう黒ずくめの男は言った。斎木さんは頷く。男はロシア製の自動拳銃を懐からと りだし、あたしに突きつける。 「なんのまねよぉ」  あたしは黒ずくめの男に向かって、舌を突き出す。男は感情を感じさせない声でい った。 「斎木さんから離れろ」 「やあよ」 「じゃあ、ここで死ね」 「斎木さんも死ぬよ」 「それは重要な問題じゃない」 「おい!」  斎木さんが蒼ざめるが、男は無視した。 「斎木さんと一緒に死ぬか、斎木さんから離れておれと一緒にくるか。どちらかしか 無い。ついでに言っておくが、斎木さんから離れてもマダム・エドワルダのショウは 見られる」 「え、ほんと?」  あたしは斎木さんから離れる。すっ、とどこかから黒いナイトドレスを身につけた 女性が現れ、斎木さんを連れ去っていった。  あたしはデリンジャーをスカートのポケットに戻す。男は拳銃をあたしに向けたま まだ。あたしのそばには近づこうとしない。デリンジャーの有効射程には入らないつ もりらしい。  あたしは、黒ずくめの男の指示にしたがい、奥へと入ってゆく。あたしたちは、エ レベータホールに入った。 「じゃあ、服を脱いでもらおうか」 「やあね、えっち。何しようっていうの」 「何もしないさ。いやなら帰れ。命はとらない」  あたしはさっさとセーラー服を脱ぎ捨てた。スカートと下着もとる。あたしは手袋 とスカーフと靴下だけを身につけた姿となった。  あたしはあらためてアキラくんの身体を見る。とても綺麗な身体だ。女の子のよう に滑らかなラインで、少年らしいしなやかさを持っている。トランスセックス的な美 しさというのだろうか、こういうの。 (やめてよね、そういうふうに僕を見るの)  アキラくんが抗議する。ごめん、ごめん。そんな場合じゃないよね。 「なんだそれは」  男はあたしの股間を見つめている。 「なんだそれ、ていわれてもねぇ」 「その紐だよ」 「ああ、タンポンの紐?」 「タンポン?」  あたしはにっこりと笑う。 「女装する時って女になりきってみたいと思うものでしょ。だから生理用品をおしり の穴にいれたら女の人の気持ちもわかるかなあって。抜いてみせたげようか?」 「いや、いい」  男は無表情で答えると、ようやくあたしのそばに近づいた。 「エレベータに乗れ」  あたしたちはエレベータに乗った。上は十階から地下は二階まである。男はキーで パネルを開いた。そこには地下十五階までスイッチがある。男は地下十五階のスイッ チを押した。 「随分深いのねぇ」 「何、すぐつくさ」  男の言葉通り、すぐについた。地下十五階でエレベータの扉が開く。そこには薄暗 くて狭い廊下が真っ直ぐ伸びていた。 「そこをまっすぐ進め」  男はあたしに指示する。あたしは、その暗くて狭い廊下を真っ直ぐ進む。つきあた りは階段になっていた。階段は狭いハッチのようなところへ繋がっている。 「さあ、階段を上れ」  男の指示に従って、あたしは階段を昇った。階段を昇りきってハッチを抜けると、 とても明るい空間に出る。あたしは白くて眩しいその空間で目が眩んだ。  足下に開いていた地下への口が、自動的に閉ざされる。明るさに目が慣れてくると、 そこが円形の舞台であることが判った。そこは四方を客席に囲まれていて、檻に閉ざ された舞台だ。  あたしは四方から、スポットライトを浴びせられている。眩しいわけだ。そして、 拍手が起こった。客席には正装した紳士、淑女が揃っている。皆、上品そうで知的な 雰囲気を持った人たちだ。 「ようこそ、マダム・エドワルダのショウへ」  あたしの前にいる女の人がそう言った。大きなソファに腰を降ろしたその女の人は、 漆黒のサングラスと黒いシルクの下着を身につけている。30センチ以上はあるだろ うハイヒールを履いた足を高く組み、腰まではありそうな長い髪をたらしていた。  そして、彼女の回りには四人のマッチョな男が佇んでいる。ボディビルダーぽい観 賞用筋肉を身に纏った男たちは、黒いビキニのパンツに革のマスクだけを身につけて いた。  革のマスクは頭部をすっぽりと覆ってしまうようなもので、目の部分だけ穴があい ている。 「なあんだ」  あたしはため息まじりで言った。 「偽者のマダム・エドワルダしかいないわけぇ、ここは」  私の言葉に客席の拍手がとまる。私は客席を見回す。斎木さんの姿もあった。 「わたくしが偽者というの?可愛いお嬢さん」 「ちょっと黙っててよ、ブス女」  あたしは客席に本物のマダム・エドワルダがいないか探すのに忙しい。薄暗い客席 にいる人たちの顔を判別するのは、ステージの上からでは難しい。 「躾をしてさしあげる必要がありそうね」  女の人は手で傍らの男に指示を出す。男は日本刀を抜いて、あたしの前に立った。 「わたくしの前では跪かなければならならいことを、教えてあげる」  マッチな男は上段に振りかぶった日本刀を、無造作にあたしへ向かって振り下ろし た。あたしは、それを左手ではねとばす。  金属質の音がして、日本刀はへし折れた。男は、折れた刀を持って少し後ずさる。 あたしはにいっと笑うと、手袋を脱いだ。銀色に輝く義手が顕わになる。 「どお、綺麗でしょう」  あたしは、目の前の女の人にその義手を見せびらかす。あたしは左手のマニュピレ ーターを取り外した。腕の中に格納されていた銃身が姿を顕わす。  あたしは義手の中に格納されていた銃把を取り出すと、義手の下部に組み込む。あ たしの左手の義手にはUZIサブマシンガンの機関部が組み込まれている。  あたしは、義手の上部のカバーを開き、カートリッジの排出口と機関部を顕わにし た。そしておしりのタンポンの紐をひっぱると、直腸に隠していたゴム袋に入った五 十連弾倉を取り出す。9ミリパラベラム弾が五十発格納された弾倉を互い違いに二つ ガムテープでくくりつけたそれは、合計百発分の実弾を格納していることになる。  あたしはその弾倉を銃把の中に突っ込んだ。義手の上部のレバーを操作し、初弾を チェンバーへ送り込む。  女の人は立ち上がり、何かを喋ろうとする。サングラスで表情ははっきりしないが、 恐怖が明確にあった。  あたしは、引き金に指をかける。素早く一掃射した。機関部を簡略化している為、 セミオート機能を省略しているが、引き金を引きっぱなしにしているとあっという間 に弾倉が空になってしまう。  ばらばらっと金色に光るカートリッジが舞台に落ちた。五十連弾倉の半分近くは使 ってしまったろうか。絶叫と悲鳴が交錯する。  太股を打ち抜かれた女の人とマッチョマンは、苦鳴をあげてのたうった。客席はパ ニックになって、観客は舞台から遠ざかろうとしている。  これはあたしにとってラッキーだった。客席にいた数名のガードマンたちは、拳銃 を抜いたものの、パニックに巻き込まれてあたしに狙いをつけることができない。  あたしは、檻のそばに立つ。あたしは短い掃射を何度も行い、黒服の拳銃を持った ガードマンを撃った。  あたしは狙いを充分につける必要が無いぶん、有利だ。9ミリパラベラム弾は、客 を巻き添えにしながらガードマンを倒してゆく。  五人いたガードマンが死んだ時には、二本目の五十連弾倉の半分以上は使ってしま っていた。客席には数十人の死体だけが残っている。  生きているものは怪我人も含めて部屋の外へ逃げられたらしい。あたしは、檻の錠 前を9ミリパラベラム弾を使って破壊すると、檻の外へでる。  血塗れの客席を歩き出したとき、突然拍手が起こった。  あたしは、拍手の音のほうへ銃口を向ける。あたしは息を呑んだ。  一人の少女が立っている。金色に染めた髪に、挑むように煌めく瞳。小振りな乳房 に、少年のようにしなやかな肢体。  黒いシルクの下着だけを身につけたその身体は、間違いなくあたしのものだ。  あたしが探していたあたしの身体。  ちくしょう、こんなところでみせびらかしやがって。 (落ち着いてよ、ひかりちゃん)  判ってるって、アキラくん。あたしは冷静だよ。獲物を狙う黒豹と同じくらい冷静 だ。 「よく来てくれたわ、わたくしのショウへ。ひかりちゃん」  その声、あたしは間違いなく聞き覚えがあった。 「もしかして、あんたマダム・エドワルダ、つまりあたしのママ?」 「正解」  あたしは思わず引き金を引いていた。9ミリ弾は、ママの頬を掠めたが、ママは挑 発的な笑みを浮かべたままだ。 「ああら、もしかしてひかりちゃん、あなた不満なの、その身体。とっても素敵な身 体を用意してあげたのに」 「そういう問題じゃないでしょ!」  あたしは怒髪天をついて叫んだ。 「あたしの夢は素敵なお嫁さんになることだったのに、この身体じゃだめじゃん!」 「ああら、問題ないと思うわよ、わたくしは。素敵なお嫁さんになれるわよ」 「むきーっ」  あたしは意味をなさない叫びをあげる。 「男のくせに自分のことをママと呼ばせるような変態野郎には、判らないことが世の 中にはいっぱいあるの、このかまやろう!」 「ああら、男の身体をしているのは、今はあなたのほうよ、ひかりちゃん」 「むきききーっ」  あたしは身体が怒りで震えるのを感じた。 (落ちついてよ、ひかりちゃん)  アキラくんの言葉はあたしには意味をなさない。あたしはもう、殺すつもりになっ ていた。ママを殺す。頭をぶち抜いて、身体を取り戻す! 「やめなよ」  あたしの胸で声がした。あたしは自分の胸を見る。そこには顔が浮き上がっていた。 天使のように清楚な美少年の顔。アキラくんの顔だ。 「ママを殺せば自分の身体が死ぬんだよ、判っているの?」 「ああら、いいものもっているじゃない、ひかりちゃん」  ママはあたしの胸を見ている。ママの視線から逃れるように、アキラくんの顔はあ たしの胸から消えていった。 「ねえねえ、それわたくしにもちょうだいな」 「だ・ま・れ」  あたしはそういいながら、ママの目の前まで歩いていった。ママの眉間に銃口を突 きつける。 「返せ、あたしの身体」 「もう、しょうがないわねぇ、そんなに怒るのはださいわよ。もっとクールに生きな さいよ」 「撃つよ、本当に」 「はいはい、返しますよ。じゃ、一緒にいらっしゃいな」  ママは、振り向くと扉のひとつを目差して歩き始めた。あたしはその後に続く。  扉の外には真っ直ぐに伸びる廊下があった。そこは深紅のビロードが敷き詰められ た豪華な感じのする廊下だ。その長い廊下をあたしたちは歩いてゆく。  ママは廊下のつきあたりにある大きな扉を開いた。そこは聖堂のような雰囲気を持 った部屋だ。でも、イコンがあるべきところに置かれているのは黒い棺だけ。  棺の前には白衣を身につけた長身の男が立っている。白衣の人は痩せて、物憂げな、 しかしそれでいて鋭さを秘めた瞳でこちらを見ていた。 「誰だね、君は」  男の問いに、ちょっとむかっとしてあたしは答える。 「あんたこそ誰よ」 「私はラブレスだ」 「知らないの?馬鹿ねえあんた」  あたしのそばで、ママが言った。 「ドクター・ラブレス。キメラウィルスを見つけた人」  むかかっ。知らないに決まってるじゃん、そんな人。 (僕だ)  あたしの中でアキラくんが言った。 (あの棺の中に僕がいる)  あたしは棺に駆け寄る。その蓋は開いていた。そこにあるものを見て、あたしは息 を呑む。 「それ、気に入ってもらえた?それはわたくしたちの造った天使なのよ」  棺の中からその天使と呼ばれたものが立ち上がった。その天使はいくつかの人体を 複合してつくられたもののようだ。  左半身は雪のように白い肌をした女の身体、右半身は夜の闇のように漆黒の肌をし た男の身体、そして頭部はそれこそ天使のように美しい少年の顔、アキラくんの顔だ。 股間には男性器が見えるがその奥がどうなっているか大体想像がつく。何しろ天使だ けに、両性具有であるのだろう。  アキラくんの顔は、無表情で眠っているように瞳を閉じている。立ち上がった天使 は、折り畳んでいた翼を開き始めた。八翼の白鳥の羽根が背中で開かれてゆく。巨大 で純白の八枚の翼が開いてゆく様は、巨大な白い花が開いてゆくようだ。  あたしはドクター・ラブレスに銃口を向ける。 「これは一体何のつもり?」 「私たちはひとつの実験を行った」 「実験ですって?」  ドクターは銃口を向けられても顔色を変えず、あたしに頷く。 「人体移植を私たちは様々な形で行ってきた。その際、意識がどのような形で作動す るのかを私はいつも監視してきた。例えば、身体に別の脳を移植した場合。意識を担 うのは身体であるのか、脳であるのか」 「そんなの脳に決まってるじゃない」 「しかし、君の中にはこの天使の脳の持ち主である少年の、意識がある」  あたしは反論できず、沈黙する。 「意識とは細胞を形成する場の性質という考えに私は達した。場の性質というのは、 ある特定の電磁気的波動関数の集合体といいかえることもできる。そして、極論すれ ばその場の性質というものは、ある特定の科学物質を含む水であれば生き物でなくて も宿らせることは可能であるという結論に達した」 「そんな、」  あたしは絶句する。 「場の性質を保持するには水、というよりも水を構成する分子があれば基本的に可能 だ。あとはそこに電磁気的に変動する要素を加味できればいい。人体という物自体、 ほとんどが水でてきているじゃないか」 「まあ、そうだろうけど」  ドクターはどこか憂鬱げな顔で、言葉を続ける。 「つまり意識は原理的に身体のどの部分にも宿ることは可能だ。しかし、身体をコン トロールするには脳とのインターフェイスは必要だし、おそらく脳に宿るのが効率が いいのは間違いない」 「それで」  あたしは、天使に視線を向ける。 「これを造ったのは、なんの実験だったの」 「意識のトランスファー装置よ」  ママがドクターの後をひきとる。 「意識を移し替える装置。ある身体から別の身体へと」 「そんなことって」  ママは微笑む。 「できるのよ、空白の身体は意識を呼び込むの。この天使は八種類の人間と八体の動 物の複合によって造られている。その構成する個々の部分は意識が存在しないことを 確かめた上で組み上げたわ。でも、だめだった」 「なぜ」 「完全な意識の空白が実現できなかったのよ」  ドクターはあたしの胸を指さす。 「君の身体の中に少年の意識が残っている」 「あたしの中にでしょ」 「見なさい」  ママは、天使を指さした。 「天使が歌うわ」  あたしの身体を戦慄が走り抜けた。天使の羽根が震える。それはざわめきのような 音をたてた。 (僕は死にたかった)  音がゆっくりと、その聖堂を満たしていく。天使は羽根を震わせ、その音を歌に変 える。その歌はあたしの身体へ次第に侵入してきた。 (僕は死を企てた。僕は走り来る汽車に身を投げた。でも、僕の意識は残った。失わ れたのは僕の両腕) 「天使の歌を聞きなさい、ひかり。それはあなたの意識を身体から解き放つ」  ノイズ。それは、宇宙から降りてきたような無数のざわめき。意識を解体し、シン クロナイズし、記号化し、トランスファーするような、そんな無数のざわめき。その ざわめき自体が生きており、蠢いている。 「電磁気的な波動関数を音に変えることは可能だ。その音は脳の深層部、身体の最奥 で聞き取られ、共鳴する。その音に意識が乗って運ばれる。天使の歌は意識を運ぶの だよ」  あたしはドクターの声を遠くで聞いた。 (僕は死ななくてはならない。僕の死を完遂しなければならない)  あたしは死にたくない。あたしはこの身体はいらない。あたしの身体。あたしの身 体を返せ。 (僕の死。それは天使の死だ。複合した人体。主体無き、転送装置と化した身体。そ の歌にのって僕は僕の死を完遂する)  天使の歌は壮大なる轟音と化して聖堂を満たす。あたしは、その瀑布となって流れ 行く音の中を泳いでいた。そして、その空間に満ち、潜んでいる様々な精霊のような、 表層にあがってこない意識をあたしは感知する。天使の歌は様々なる精霊たちの歌に 重ねられた。 (僕は、僕の失われた最後の器官を取り戻す)  ドクターもママも、まるで意識を持たない人形のように見える。その身体は自働機 械。今ここの天使の歌に満たされた生きるノイズの世界では、音こそが歌こそが生命。  あたしの胸にアキラくんの顔が浮かぶ。その顔はあたしの身体から飛び出し、天使 へとんだ。天使は瞳を開く。  その声は宇宙の高みへと届く。 「今こそ」  ドクターが叫んだ。 「今こそ精神は肉体から解き放たれ、真なる自由を勝ち得る」  銃声が響く。天使の身体が痙攣する。深紅の血を撒き散らせながらの死の舞踏。  天使は地におち、棺を紅く染めた。  聖堂を満たしていた音も死ぬ。  そして左手から突き出された銃口は、ゆっくりと眉間にむけられる。最後に残った 9ミリ弾が一つ。  銃声がもう一つ。そして暗黒。  あたしは目を開いた。あたしの身体。愛らしくて素敵なあたしの身体。あたしは自 分を抱きしめる。 「おまえは誰だ?」  あたしはドクターに、にっこりと微笑みかけた。 「誰でもいいじゃん。とにかく今日からあたしが歌舞伎町の女王になるのよ」