私の夫が死んだのは、夜明けとほぼ同時だった。鳥の精霊があらわれたのは 夫の死んだ直後である。 その男(あるいは女?)が人間ではなく鳥の精霊であるというのは推測にす ぎない。ただ精霊は気がつくと夫の死骸の前で立ちつくす私の後ろに佇んでい たのだ。そして精霊は私に名乗った。 精霊はアメリカのインディアンを思わす羽根飾りを身につけ、鳥の頭のマス クを被っていた。精霊は性別の見当がつきにくいかん高い声でしゃべる。 精霊が言うには私の夫を生き返らせることができる、その方法を自分は知っ ているということだった。私はその方法を教えてくれるよう頼んだ。 (死せる魂が天上に迎え入れられる前に、夢とすることだ) そう、精霊は語った。私はより具体的な方法を教えてくれるよう頼む。 (子守唄が死を眠りに換え、全てを夢に帰す) 私は精霊の鳥頭を見つめた。その瞳にはなんの感情もなく、ただ茫洋と彼方 を見つめている。私は途方にくれ、精霊に死を眠りに換える子守唄を教えて欲 しいと言った。 (赤の司祭が知っている) 私はその司祭の居所を訪ねる。精霊は私の問に、ただおまえは知っていると 繰り返すばかりだった。 精霊との会話が途切れ、私は夫の死骸を見下ろす。私の感情は凍り付いたま ま動かない。ここにある死ですら私を絶望へ突き落とすことは無かった。ふと 気が付くと鳥の精霊が消えていた。 私は家の外へ出る。そこにあるのはいつもと変わらぬ日常だった。世界は夜 明けを迎えており、いつものように訪れた朝はあいかわらぬ日常を作り上げる。 そこに住まう人々の営みには、私の抱いているひとつの死などなんの意味も持 たないようだ。 私は役所が開くと同時にその死を届け出る。役所からの帰り、私は道に迷っ た。役所には何度も行ったことがあり迷うはずの無い道であったが、私はいつ のまにか見知らぬ住宅街に迷い込んでいた。 気がつくと、大きな高い塔のある建物が目の前にあった。そこから道は二方 向に分岐している。右側はどこか見知らぬ街の繁華街に続いているようだ。左 側の道は工場の立ち並ぶ地域に入っていくようである。 (左に行きなさい) 耳元で声が聞こえた気がして私は振り返る。そこには誰もいなかった。私は 左の道へと入ってゆく。 高い塀の奥で轟音が響く中を私は歩いていった。誰ともすれ違うことは無い。 ただ巨大な生き物の鼓動のように鳴り響く音と、立ちこめる化学薬品の匂いに 満たされた道を私は歩いてゆく。 気がつくと工場の塀が途切れ、平屋で木造の住宅が続く街に入り込んでいた。 狭い路地が迷路のように続いている。私はその迷路のような路地を歩き回った。 出口の無い空間に閉じ込められた息苦しさを感じる。 道端には様々な人が椅子に腰を降ろしていた。その多くは老いた人々で、四 肢の一部が欠損しているか、包帯を巻いた人がほとんどである。道端に座って いる人たちはそのそばを通り過ぎる私には、何の注意も払わない。 ふと私はここが私の知っている場所であるのに気がついた。間違いなく来た ことは無い場所であるが、ここを私は知っている。 それは単にここの風景が記憶にあるというだけでは無く、例えば目の前にい る老婆はやがて死ぬ時に生き別れとなっていた娘と再会し、娘の腕の中で死を 迎えるだろうといった未来の出来事も含んだ記憶であった。 私は一つの確信を持ってその迷路のような住宅街を抜け出す。街はずれには 大きな教会があった。その教会の向こうは曖昧として私には見ることができな い。 その大きな教会は石でできた壮大な建物であり、無数のガーゴイルの彫像に よって守られている。私はその魔獣たちに見下ろされながら、巨大な建物の中 に入っていった。 教会には新緑のエメラルドグリーンを思わせるカーペットが敷き詰められて いる。天井は高く、夜空のように昏い。私は輝く緑色の道を踏みしめ祭壇へ向 かった。 祭壇には巨人の彫像が十字架に磔にされている。木彫りの巨人には流れる紅 い血も描かれており、その紅さが私の目を射た。 私は背後に気配を感じて振り向く。そこには漆黒の男がいた。私はその男が 名乗らなくても、赤の司祭であると判った。 漆黒の男は闇色の光を放出しているように見える。それが男の積んだ徳の高 さを現しているような気がした。 私は赤の司祭に子守唄を教えてほしいと頼んだ。黒い男は片隅を指差す。 その薄闇に覆われたところを見つめていると、棺桶が並んでいることに気が ついた。棺桶のひとつが開いており、その傍らに私の母親が立っている。 しかし、その女が私の母親であるはずはなかった。私の母親は私が幼いころ 若くして死んだ。目の前の女は老いている。ただ、母親の面影は確かにある。 むしろ老いた私の姿なのかもしれないと思う。 私の母親はゆっくりと唄い始める。それは間違いなく私が幼いころに聞いた 子守唄であった。母親は唄い終わると口を閉ざした。 私は礼を言うために振り向く。しかし、そこにはもう赤の司祭はいなかった。 もう一度母親を見るために振り向いたが、母親の姿は無く棺桶も閉ざされてい る。 私は教会を出て歩き出す。帰り道は来るときに辿った道は通らず、全く見知 らぬ街を通り過ぎていった。気がつくと私は大きな河の前に立っていた。 その河を私はよく知っている。それは私の家の裏手にある河だった。その河 を渡って向こうの街に私は行ったことがなかった。私はいつの間にその河を越 えたのだろうと思いながら、その河にかかった橋を越え、私の家がある街に戻 る。 いつもの見知った街に戻った私は、自分の中にもたらされた子守唄を意識し た。それは色あせて感じられるいつもの日常のなかに侵入した、異物のようで ある。 私は家に帰った。夫の死骸の前に立つ。死骸に向かって私は子守唄を唄った。 ごく当たり前のことのように、それは起こった。 夫は寝息を立て始める。眠っているのだ。私は全てが夢であったように感じ る。 私は、その感覚が真実であるのに気づく。全てが夢となっていった。私はよ うやく何が起こったのかを理解した。世界が夢に帰っていこうとしているのだ。 私の目の前で眠っている私の夫の夢に。 私は夫が目覚めつつあるのを感じた。夢が終わり、世界が消え去ろうとして いる。私もまた、夢となって世界とともに消えてゆく。 半透明になった私は、ふと夫が目覚めたら私の事を覚えているだろうかと思 う。私は夫に囁きかけた。 「さようなら」 目覚めた男は、そう自分の見た夢を語り終えた。ところで私は目の前にいる この男が私の夫なのか友人なのか恋人なのか判らない。それよりも私は自分自 身が女なのか男なのか老いているのか若いのかも判らない。 私は目の前の男の夢なのかもしれないと思う。