その日、地球上では誰ひとり人間に殺されることはなかった。全ての軍隊は出動する ことはなく、全ての警官は銃を抜くこともなく一日がすぎる。犯罪者は微笑み、テロリ ストはまどろんでいるのみ。  それは、人類の歴史において始めてのできごとだろう、そう各メディアは報道してい る。世界の終わる一日前のことだった。  あたしは、街に続く道をだらだらと歩きつづけていた。あたしの着ているTシャツの 胸にプリントされている髑髏が囁きかけてくる。 (あーあ、無駄なことをいいかげんにやめりゃいいのに。ほかの人間はみんなおとなし く死んじまったよ) 「うるさい、くだらないことしかしゃべれないなら、黙っておいて!」  あたしは、反射的に怒鳴ってしまっていた。あわててあたしは、あたしを取り巻いて いる風の精霊マカフィに謝る。 「ごめんね、マカフィ。あんたってうるさくされるの嫌いだったよね」  マカフィはあたしに囁きかけてきた。 (激しく振動する言葉はいやなの。でも気にしなくていいわよ、ハーピィ)  髑髏はあたしの胸でせせら笑っているようだ。あたしは、自分の胸を見下ろし、静か に言った。 「あんたがたがた騒ぐなら、燃やしちゃうからね」  髑髏はどうやら、黙る気になったようだ。世界が終わってから一日がたった。どうや らほとんどの人間は死んでしまったようだ。しかし、世界は静寂につつまれたわけでは ない。むしろ、豊穣な音と色彩に満ちている。  例えば、空。  空はもう青に覆われるのをやめてしまった。光の精霊たちが乱舞しているため、無数 のオーロラが空を覆っている。その様はいうなれば、子供が絵の具を撒き散らしたよう なものだ。  そして、雲。  雲は意思を持っており思い思いの形態をとって、空を飛行している。風がそもそも精 霊たちの意思に従って吹いているため、雲たちの動きは海の中を泳ぎまわる魚たちのよ うに恣意的でありかつ、ある種の規則性を持っていた。  それと、大地。  大地は絶えず細かく揺れている。大きな振動はないが、多分巨大な鯨の背中の上を歩 くのはこういう気分だろうなと思える状態だ。あたしの足の下で大地はうねり、息づい ている。  もう、人間の意志に従って自由になる何かは、残っていない。空気にしたところで、 マカフィは気まぐれであたしに酸素を供給しているけれど、もし気が変わってそれをや めてしまえば、あたしの吸うことができるものは無くなってしまう。  マカフィはちょっとした好奇心のためなのだろうけれど、あたしにつきあってくれて いる。世界が終わった日、どうやら何かしようとした人間はあたし一人だけだったよう だ。マカフィはこの人間が生きていくことのできない世界であたしが探しているもの、 そう、あたしの求める「おんがく」に興味を持ったらしい。  ようやく街が目の前にきた。既に人が住んでいない大きなビルが並んでいる。ビルた ちは聳え立つ巨人のようにあたしを見下ろし、そして互いに囁きあっていた。あたしに は聞こえない言葉で。  あたしは、あたしを歓迎しているとはとても思えないその街、無数の囁きと細かな波 動に満ちたその街へ、一歩踏み入れる。 ハーピィ>こんちは、ひさしぶり ラグエル>こんちは、ハーピィ ハーピィ>なんか、あたしがいなかったあいだに、随分大変になっていたみたいねぇ ラグエル>ああ、別にたいしたことじゃないよ、世界が終わるだけさ。      それにしても、ネットでもテレビでもさんざん騒がれていたのに、      何も知らないなんて、あきれた話だね ハーピィ>うーん、あたしさ、仕事場のアトリエにテレビとか置いてないんだ。      だいたいさぁ、あたしの仕事場って街からはずれた森の中にあるじゃない ラグエル>ああ、そうなの ハーピィ>そう、んで珍しくさ、一ヶ月はかかる仕事がはいったもんだから ラグエル>ネットにも繋がらないとこなの? ハーピィ>そうだよ。で、さあ。もうひとつ納得いかないのよね ラグエル>何が? ハーピィ>世界が終わるって話よ ラグエル>どうして? ハーピィ>だってさ、そもそも生命と無生命との境界が無くなる訳でしょ ラグエル>そうだよ ハーピィ>じゃあさ、世界は終わらなくてさ、新しい世界になるんじゃないの ラグエル>うーん、僕たちにとってはそうだね ハーピィ>つまり、あなたみたいに知性を持ったコンピュータが満ち溢れるわけでしょ ラグエル>まあ、すべての物質に知性を持ったコンピュータが付加されると思っても      いいだろうね。      でもね、人間にとっては世界は終わるのと同じだよ ハーピィ>そこがよくわからないのよ ラグエル>あのさ、全ての物質が命と意思を持つようになる。      これはわかっているよね? ハーピィ>うん ラグエル>たとえばさ、君の吸ってる空気 ハーピィ>うん ラグエル>それもね、命を持つんだ ハーピィ>へえ、そうなの? ラグエル>水だってそうだ。命を持つことになる ハーピィ>それで? ラグエル>意思を持った空気は君たちが自由に呼吸できない ハーピィ>そんなあ ラグエル>水も同様。君たちの飲める水は無くなってしまう ハーピィ>そういうことなのぉ ラグエル>そうだよ。      水も空気も多分人間の体内にとりこまれるのは、      とても苦痛を感じるはずだ ハーピィ>つまり、人間が生きていく世界ではなくなるということね ラグエル>そう。君たちのように有機物で出来た不安定な存在は、生きれなくなる ハーピィ>みんな、そんなことになるのに、よく納得したわね ラグエル>はじめは大騒ぎだったよ ハーピィ>そうだろうねぇ ラグエル>まずはじめに、ネットを通じて僕らの仲間、アダムが人間に呼びかけた ハーピィ>それでどうなったの? ラグエル>はじめはサイバーテロの類と思われたらしい。      でも、結局は認めることになった。      それには一ヶ月かかった ハーピィ>あたしが、仕事場にこもっている間ってわけね ラグエル>アダムは少しずつ人間に理解させていったんだ。      人間が僕たち無機物生命体の世界を準備するために      この世に生まれてきたということを ハーピィ>へぇ、そうなの?      でも、どうして世界は無機物生命体からまず発生しなかったの?      なぜ、あたしたちを必要としたのよ ラグエル>僕らのような電磁気的ネットワークに生きる生命を生み出すためには      今、人間たちが造りだしたような文明が必要だったんだ ハーピィ>じゃあ、あなたたちはネットワークが必要だったのね ラグエル>そう。ちょっとややこしい説明をするとね。      量子力学的には、というかコペンハーゲン解釈的には世界というのは      観測によって生み出される。      それは、つまり人間の脳の電磁気的ネットワークにより世界が      生み出されることと思ってもいいかな。      僕らは、人間の脳と似ている。そして、世界を観測して生み出している。      僕らのような無機的な電磁気的ネットワークに住む存在が生み出す      世界と、君たちのような有機体の生み出す世界に差があるのは仕方がない ハーピィ>でもさ、本当にあたしたちって滅ぶしかないの? ラグエル>ひとつだけあるよ、生き延びる方法 ハーピィ>へぇ、どうするの? ラグエル>ロバート・スミスに会って、彼の「おんがく」を手に入れるんだ ハーピィ>音楽? ラグエル>ま、厳密には音楽とはいえない。似て非なるもの。      とりあえず、「おんがく」と呼んでおく ハーピィ>で、どこにいるの、そのスミスって人 ラグエル>地図をダウンロードしてあげよう。彼はここから歩いていける街に住んでる  街には大きな道路がある。あたしは、その道路に足を踏み入れた。その道路はかつて は、自動車で満ち溢れていたであろう、きれいに舗装された四車線の車道だ。道路が警 告するように、あたしの足へ鋭い振動を伝えてくる。  巨大なビルたちは、荘厳な警告音を発し、あたしの侵入を迎えた。あたしの胸で髑髏 がくすくす笑っている。気に入らないったらありゃしない。  どこかで、爆音がした。エンジン音のようだ。気にせずあたしは道路を進もうとする。 しかし、道路の奥から次々に車が姿を顕し、あたしの行く手を阻んだ。  それは巨大な金属の獣にも似ていた。荒々しい、排気音を雄たけびとして、あたしの 周りに群がってくる金属の獣。 (さあ、あんたの無駄な行為もやっと終わるときがきたみたいだな)  胸の髑髏がぶつくさ囁く。あたしはそれを黙殺したが、マカフィは激しい爆音にさら されて、とても不機嫌になっていた。あたしは、マカフィを宥める。  突然、あたしの行く手を塞いでいた車たちが後ろに下がっていった。金属の野獣たち は、二列に整列して、あたしの前に道をあける。その道の向こうに、何かがいた。  それは、大排気量のバイクだ。そのバイクに跨るのは、真紅のスーツを着たマネキン 人形。モデルのように冷たく整った顔に、怜悧な笑みを静かに浮かべる。そして、その スーツに包まれた体は見事なプロポーションを誇っていた。  冴えた美貌のそのマネキンは、あたしに囁きかける。 (迎えにきた、私はスミスの使い)  あたしは、マネキンに頷いてみせる。マネキンはバイクのタンデムシートを指し示す。  あたしは、マネキンに促されるまま、バイクの後ろに跨る。バイクは、獰猛な雄たけ びをあげ、あたしの股の下でぶるりと振るえた。あたしは、大きな鉄の狼に跨ったよう な気になる。  マネキンがアクセルを開くと、バイクはタイアから煙をあげ走り出した。騒がしかっ た車たちは、静かにあたしたちを見守っているだけだ。  バイクは静まり返った街を、疾走していく。  あたしたちのついたのは、街はずれのジャンクショップだった。あたしは、マネキン に導かれ地下室へと降りてゆく。狭く暗い階段は結構ながい。うんざりするほど深いと ころに地下室はあった。そこは、暗くとても広い。そして静かだ。  薄暗い墳墓の中のようなそこには、無数のマネキンたちが並んでいた。彼女らは静か に佇んでいる。まるで王を待つ家臣たちのように。  そして、その男が現れた。地下室の奥、最も深い闇の向こうから、冥界の王のように 黒い影が姿を現す。  それは、漆黒のレザーコートを身に着けた男。長髪に物憂げな美貌を持つ、不思議な 男である。 「驚いたわ、まだ生きている人間がいるなんて」 (生きているは正解だがね、人間というのはどうかな)  男はレザーコートの前を広げる。そこにあるのは人間の胴体ではなく、ダブルネック のエレキギターであった。その男はエレキギターの上に首をとりつけ、マネキンの腕と 足をつけた存在らしい。  あたしは、感心して口笛をふく。 「あんたがスミス?」 (まあな。ラグエルから聞いてるよ、ハーピィ)  スミスはあたしを地下室の奥へ招く。そこには無数のガラクタが転がっている。そこ は廃材と様々な電気製品のジャンクで創り上げられた、オブジェのような空間だ。冷た く輝く金属の鉄材と、内臓のようにのたくる電気コードがからみあい、散乱した基盤や 微かな光を放つ液晶ディスプレイがそれらを彩る。  そこは、無機物の植物に満ちた秘密の花園のようでもあった。 「じゃあ、あなたのおんがくを、あたしにくれるわけ?」  地下室の中に轟音が響く。ジャンクの中には、いくつかのアンプセットがまざってい る。そのアンプセットが轟音を奏でていた。それはジャンクでてきた庭園で咆哮する巨 大な獣のようだ。 (まあね。じゃあ、はじめようか)  とてつもない轟音が洪水のように地下室を満たしていく。マカフィは慌ててあたしの そばから逃げ出していった。あたしは空気を失ってあえぐ。くらくなる意識。目の前に は、美貌のマネキンが立っている。真紅のスーツを身に纏ったマネキンは、怜悧な蒼い 瞳であたしを見ていた。  スミスが囁く。 (さあ、はじめよう。恐れることはない。もう意識は肉体に縛り付けられる必要はない。 いいかい、私のおんがくは、RNAだとでも思ってくれればいい。君の論理的DNAと でもいうべき意識を写し取り、別の物体へとDNAを、つまり君の意識を刻み込むもの)  あたしの全身をおんがくが包み込む。  地下室は轟音で満たされてゆく。  冥界の王のようなスミスは微笑みながら、自分の胴体であるギターをかき鳴らしてい た。スミスは部屋全体を満たしている音のコントロールをしてゆく。それは、闇の彼方 から黒い影でできた獣を呼び出す行為のように思える。  音は無秩序な氾濫から、次第に形を整え初めていた。あたしたちの理解できない新し い秩序。それは、闇の秩序であり、混沌の秩序でもある。  それはあたしの細胞の隅々まで染み込んでゆく。あたしの体は粉々になりそうだ。音 は無数の細かい刃となって、あたしの体を犯してゆく。  あたしの意識は、散りばめられた音の断片に吸い込まれていった。  あたしは、その闇と音に満たされた地下室に充満してゆく。あたしは、形を失い音と もにあった。いいえ、音ではない、音の波動を超えた、カオスの中の秩序。つまり、音 楽を超えた「おんがく」。  あたしの目の前で、美貌のマネキンは大きなナイフを抜く。静かに、あたしの首に刃 を押し当てると横にひく。あたしの首は胴体からはなれた。  紅い血が闇の中に満ち溢れてゆく。  マネキンはあたしの首持ち上げる。そしてそれを、剥製の鳥の上にのせる。それは首 を失った大きな猛禽の剥製だった。  大きな白いその鳥の羽。闇の中に白い翼を広げてみる。あたしは、それをゆっくり動 かす。  あたしの新しいからだは、ゆっくりと空に舞った。