風の強い日だった。私は、木枯らしの吹きすさぶキャンパスから相変わらず本の 迷宮のようなその研究室へ入り、なぜかふと安らぎに似た気持ちを感じる。そして 私は、デスクに向かっている高松教授に声をかけた。 「ご無沙汰しています、先生」  教授は振り向くと懐かしそうに微笑んだ。 「よくきてくれた、藤崎君」  私は教授のそばに立ち、その傍らに腰掛けている青年に気付く。入り口からは本 の山に隠れて見えなかったようだ。端正な顔をした青年は、柔和な笑みを見せて会 釈する。 「紹介しておこう、彼が研究生の水戸君だ。水戸君、彼女が話していた私のゼミの 卒業生、藤崎君だ」  私は、教授に勧められるまま腰を降ろし、水戸と紹介された青年を見る。いわゆ る学者タイプの理知的な瞳を持っていたが口元に浮かぶ笑みは気さくな、人懐っこ いといってもいいものだ。私はなぜか、彼に懐かしい感じを抱く。 「では私は水戸さんがされる、ロールプレイの相手になるのですね」  教授は頷く。教授は、机の上で何か探しながら言った。 「そうだよ。ええと、藤崎君はロールプレイの実習を受けたことはあったかな?」 「いえ、臨床の実習を受けたことはありません」 「ああ、あったこれだ」  教授はけっこう分厚いレジュメを取り出して、私に手渡す。 「普通はカウンセリングのロールプレイなんてものは、学生同士でやるものだけど ね。水戸君は色々な人間とやってみたいという希望を持っていて、それ自体はとて もいいことだと思っていてね。学外の人間にも協力してもらっている。それで今回 君にもご足労願ったわけだが」  私は教授に微笑みかける。 「いいですよ、本業が今は暇ですし、アルバイト料さえもらえるなら何でもやりま す」  教授は頷くと、私の手元のレジュメを指さす。 「その資料に今回のロールプレイの設定が書いてある」 「設定ですか」 「まあ、芝居の台本みたいなものさ。つまり、藤崎君、君には実際に過去にカウン セリングをうけたある女性を演じてもらうことになる。年齢は君とおなじで24歳。 既婚者だ。いってみれば昔、実際に行われたカウンセリングを芝居で演じるような ものと考えてくれればいい」  私は、少し首を傾げる。 「では、この台本の通りに台詞を私はしゃべるということですか」 「いや、そっくりそのままやる必要は無い。例えば、水戸君の応対に君自身が納得 いかなければ、台詞はむしろ君自身の気持ちに従ったものに変更してもらったほう がいい。水戸君のカウセリングの能力を鍛えているわけだから、彼に疑問を持てば そういえばいいし、台本通り対応する必要は無いよ」  はははと、水戸さんが笑う。 「怖いな、なんだか」  私は、水戸さんに微笑みかける。 「じゃあ設定に合っている範疇で、好きにさせてもらいます」 「お手柔らかに」  私は、教授に向き直る。 「その設定資料は一回目のセッションのものだ。セッションは全部で20回ある。 前に話した通り週一回2時間づつそれをやっていくのだけれど、何か事情ができて やめたくなれば、いつでもやめていい。資料は毎回そのセッションの分を直前に渡 すようにする。事前にざっと目を通してもらい、そのセッションの雰囲気さえつか んでもらえばいい。君のアドリブの内容によっては、次回以降のセッションの設定 を変えるかもしれない」  私は頷く。 「で、場所はここでやるのですか」 「いや、実際のカウンセリングルームではないけれど、それようの部屋を用意して ある。普通は会議室に使ったりする小スペースだよ。それと、スーパーバイザーは 私が行う」 「スーパーバイザーですか?」  私の怪訝な顔に、教授は笑みで答えた。 「ああ、すまん。臨床の実習は知らなかったんだな。ロールプレイの現場に私も立 ち会うということだ。私がロールプレイ中に口出しをすることは無い。置物とでも 思っていてくれればいいさ。では、さっそく準備にかかってもらっていいかな」  私は頷くと、レジュメを読み出す。ロールプレイの中で私は、Lという仮名を与 えられた女性になるようだ。カウンセラーの仮名はKとなっている。 「ええっと、藤崎さん」  水戸さんが、声をかけてきた。 「なんでしょう」 「ロールプレイに入る前に、役の上でのあなたでは無い、本当のあなたのことを少 し聞きたいのですけど」 「ああ、そうですね」 「とりあえず、僕のほうから自己紹介しときますけど、心理学部で臨床心理を専攻 してます。大学院に入ってから教授のカウンセリング研究会に参加するようになり ました。年齢は27歳、独身です」  私は少し関心して水戸を見直す。 「ああ、そうなんですか。私と同い年か年下かと思ってしまいました」 「はい、よくいわれます」  私は、少し微笑んで頷く。 「それでは私の自己紹介の番ね。私の名前は藤崎かおり。心理学部にいましたけど、 あまり真面目な学生ではありませんでした。教授とは絵の趣味が合ったので、仲良 くしてもらってますけど。職業は一応イラストレイターです。あまり本業の仕事は 無くて、こうしてアルバイトをよくしてます。半年前に離婚したので、今は独身で す」 「へえ、そうなんですか」  水戸さんは、少し目を丸くする。 「こんなこと聞いていいものか判らないので、答えたくなかったら無視してもらえ ばいいけど、お子さんはいるの?」 「ええいます。離婚の原因は、早く子供をつくったことにあると思います。今にし てみれば多分、夫婦二人きりでもっとよくお互いの関係を成熟させてから子供をつ くればよかったと思うの」 「うーん、じゃあ仕事は大変だね。お子さんの世話しながらじゃあ」 「今、子供は私の母に預けています。仕事が軌道にのるまで子供とは別れて暮らす つもりです」  水戸さんは、ため息をついた。 「大変だなぁ。でも、ご両親が健在なら安心かな」 「両親という意味では、健在とはいえないかな。父は行方不明なので」  水戸さんは、絶句する。 「そりゃあ大変だなあ。余計なこと聞いちゃったね」  私は、少し微笑む。 「いえ、いいんですよ。父は作家なんですけど、元々放浪癖があってよくいなくな ったから、私は、母だけに育てられたようなものなんです。ねぇ、自己紹介は終わ りでいいかしら。私のカウンセリングをするわけじゃないんでしょう」  水戸は、はははと笑う。 「いや、ごめん。資料に集中して下さい」  セッション1 【水戸のノートより】  私たちが用意したその部屋は、7、8人の人間が会議できる程度の小スペースだ。 壁面はその部屋が展示室としても使えるように考慮したためか、窓がつけられてい ない。狭く閉鎖的な空間である。  カウンセリングをイニシエーションの儀式になぞらえた心理学者がいたが、この 空間は外部からの隔離性という意味ではとてもよく目的に合っていた。私たちの計 算通りだといえる。  扉がノックされた。私は、部屋に入るように声をかける。  彼女はほとんど、研究室であった時とは別人になって、この部屋に入ってきた。 その瞳からは笑みが消え、どこか挑発的な光を放っている。彼女は、私の想像以上 に完璧な形でLになりきったようだ。  Lは会議卓をはさんで、私と向かい合う形で座る。 「ねえ、すぐ始めるの?」  Lの言葉に、私は頷く。 「じゃあ、K先生。私は何から話せばいいのかしら」 「君の話したいことを、話せばいい」 「ふうーん」  Lはどこか悪意を秘めたような瞳で、私を見ている。 「私はねぇ、絵を描くことを職業にしているの。でもねぇ、今は描けなくなってし まったの。なぜだか判る?」  私は無言で首をふる。ただ、Lの瞳を真っ正面から受け止めていた。 「私はねえ、魂を無くしてしまったの。魂を持っていない人間には、どんな形であ れ作品なんてつくれないのよ。判る?無くなったのは小さくて大事な私の魂」  Lは笑う形に口を歪める。 「ねぇ、K先生。あなたは魂の実在を信じるの?」 「少なくとも、魂の実在は証明できないと思っている。それが無いことを証明でき ないのと同様にね」 「あらあら、随分つまらない答えをかえしてくるのね。まあ、いいわ。許してあげ る。私がどう考えているのか教えてあげる。私はねぇ、そうね、人間がただの有機 的な機械だなんていう説を聞くと、ほんとばっかじゃないのと思うわ」  Lの瞳は次第に強い光を放ちはじめているようだ。 「例えば脳がシノプシスの組み合わせによる電磁気的な機械という、大昔のデカル トが考えたようなおそまつな説。そんなのじゃ、記憶のメカニズムさえ説明できな いのよ。シノプシスの組み合わせだけでは人間が保持できる記憶の容量を満たすこ とができない。だいたいねぇ、想い。想いというものが、脳からでてくるものだと ても思っているのかしら。馬鹿いってるんじゃないわよ。想いっていうのはねぇ、 おなかの中からも胸のなかからも、手からも、足からも、あらゆるとこから湧いて くるの。脳はそれを受け止めるだけ」  Lは意味なく笑う。 「例えばさぁ、人間は快楽の機械なんていう人もいるじゃない。人間は脳内麻薬に より快楽を与えられるような行動をプログラミングされ、条件づけられてるって。 母親の子供に対する愛情さえ、脳内分泌に基づく条件反射行動の総体にすぎないと かさあ。もう馬鹿、馬鹿、馬鹿、大馬鹿ものよ。そんなやつ」  Lは少しため息をつく。 「いい、たとえ人間の行動の全てが脳内分泌に基づく条件反射で説明できるとして もよ、それが何だといいたいわけ。それって喩えてみれば、ゴッホの絵を調べてみ てこの絵を構成しているのは土と布にすぎないといっているのと同じことよ、ねえ、 K先生あなたもそう思うでしょ」 「私は、君の意見は少し極端過ぎて冷静な論証を欠きすぎていると思うが」 「何よ、あんたも馬鹿の仲間に入るつもり。あんたさぁ、赤ちゃん抱いたことある の。凄く可愛いのよ。それがさあ、脳内分泌の条件だとかさぁ、ああ馬鹿ほんと。 ああ、ちっちゃくて可愛い私の赤ちゃん、ああ」  Lは少し沈黙する。そして唐突に言った。 「ねえ、ゴッホ。ゴッホの絵を見たことある?凄いのよ、ゴッホは。ひまわりの絵 を描いてもそれはひまわりじゃないの。それはさあ、魂。孤独な魂が宇宙の果てに 置き去りにされて叫んでいるの。おれはここにいるって。あれってさあ、芸術とか なんとかそんな陳腐な観念を越えちゃうの。あれは存在することの悲哀を絶叫して るのよ」  しばらく、彼女の好きな絵画の解説が続くが、省略する。  Lは興奮して絵の話をしていたが、突然沈黙した。そして、語り始める。 「何の話だったかしら、そうそう、魂。私の魂。私の魂どっかにいっちゃったの。 ねぇ、どこにあるか知ってる?」 「それを探すのが、我々の目的だと思っている」 「そうね、そうだわ」  Lは少し遠くを見る目になった。 「でもどこにあるのか知ってるの、私。暗いところ」  Lの声は急に不安そうになる。 「暗い、闇の中に閉じこめられたの。暗いところ。それは、本」 「本?」  私は思わず問い返した。 「そう、本。黒い表紙の本」 「その本というのはいったい」 「世界は黒い闇の力を持った司祭に支配されている。その闇の力に誰も逆らえない。 私は、その力に捕まった。本の中」  Lは少し我に返ったようになる。 「本?いいえ、違う。闇の司祭。いいえ、判らない。私には、判らない」  この時点で時間となり、私はロールプレイの終了を宣言した。  Lはおおむね、台本通りにしゃべっていた。終了間際に言った本のことを除いて。 私は特にその本のことを尋ねることはしなかった。ロールプレイ中に無意識にでた ことばを終了後に追求するのはルール違反に思えたからだ。  セッション1 終了  私はその日、高松教授の研修室に入った時に、なんともいえない安堵感を感じた のを、とても不思議に思った。まるで久しぶりに家族の元へ帰ったような、不思議 な感覚。一人きりになれつつあったはずの私は、自分のその感覚に少し戸惑いを感 じた。 「やあ、ごくろうさん」  高松教授は、いつものように柔和な笑みで私を迎えてくれた。水戸さんもにこに こと楽しそうな笑みを浮かべ、私に頷きかける。 「こんにちは」  私は二人に会釈すると、高松教授に勧められるまま腰を下ろした。高松教授から ロールプレイングのレジュメの今回分を受け取る。 「先生、私夢中になりすぎたせいか、前回のロールプレイの内容をよく覚えていな いんです。私うまくできたのでしょうか」  教授は満足げに頷く。 「十分にできていたよ。何か心配なことでもあるのかな」 「いえ、設定にはずれたことを言って水戸さんを困らせてなかったかなと」  教授は声をたてて笑った。 「今のところ、ほぼ設定通りに進んでいるよ。それと前にいったように、設定に拘 らなくてもいいんだよ。むしろ設定から逸脱して水戸君を困らせてくれたほうが、 彼の勉強にはなるんだがね」 「いやいや、今のままでも結構手強いですよ、藤崎さんは」  水戸さんは冗談っぽく言った。私は水戸さんに笑みを送ると、レジュメを読み始 める。それと同時に水戸さんが声をかけてきた。 「ああ、藤崎さん。あなたのお父さんって、藤崎十蔵さんなのかな」 「ええ」 「実は、あなたのお父さんの本を探したんですよ。ちゃんとうちの学校の図書館に ありましたよ、藤崎十蔵さんの本」  私は、レジュメから顔をあげると、水戸さんの顔を見つめる。 「へぇ、そうなんですか。実は私、父の本を読んだことないんです」 「あ、そうなんだ」  水戸さんは少し驚いた顔になる。 「父は幻想調で前衛的な手法をとりこんだ小説を、書いていたと聞いています。母 は若い頃はともかく私を育てていた時は、父の小説を一切身近に置いていませんで した。実業家としての母はそういう小説が自分の世界にそぐわないものと感じてい たのかもしれません。私も、自然とそういう母の感性を受け継いだのか、父の作り 出そうとしている世界に興味がもてませんでした」 「うーん」  水戸さんは、少し複雑な顔をする。 「確かに幻想的な作品だったけどねぇ。前衛的というより伝奇的というか、擬古典 的に思ったけどねぇ僕は」 「そうなんですか?」  私は驚いて水戸さんの顔を見る。 「まあ、僕の読んだ作品が偶々そういうものだったのかもしれないけどね」 「どんな内容だったか教えてくれますか」  水戸さんは、その彼の読んだ父の作品を説明してくれた。 「文体は擬古典ふうの文体だったねぇ。時代小説のようだったけど。設定は江戸時 代の初期ということだったかな。タイトルは闇の中の悦楽といってね」  その小説は、一人の武芸者が山奥にある古城に迷い着くところから始まる。その 古城は山奥にあるにしては、異様に豪華な城であった。武芸者は城に迎え入れられ しばらくその城で暮らすことになる。  偶然、その武芸者は城の奥に盲目の少女が幽閉されていることを知った。その少 女は、産まれたときから城の外の世界を全く知らずに過ごしてきたようだ。その少 女は闇の中に生きていたが、この世のものとは思われぬほどの美貌の持ち主である。  武芸者は、城で暮らしていくうちに、その城の秘密を少しずつ知ってゆく。城は 山奥の谷間の入り口に建てられており、城の背後の谷間へはその城を通り抜けてゆ くしか道が無い。そして、城の背後の谷間には無数の罌粟の花が咲いていた。その 城は、罌粟の花から阿片を作り、その阿片を各地の大名に売りつけることによって 成り立っているようだ。  秘密を知ったのち、武芸者は密かにその城を立ち去ろうとするが、捕らえられ幽 閉される。その時武芸者は阿片を与えられ、夢を見た。その夢の中に現れるのがあ の美しい盲目の少女であり、少女は夢の中で妖艶な娼婦として武芸者に快楽を与え る。  武芸者は、やがて阿片の虜となり、命じられるまま城のために人を殺す暗殺者と なってゆく。武芸者は自分以外にも同じような暗殺者が多数おり、この城は阿片だ けでなく、暗殺者を貸し出すことによっても富を得ていることを知った。  やがて、城は内部の対立から崩壊することになる。燃え落ちる城から武芸者は、 盲目の少女を連れて逃げ出す。  その時、武芸者は目を醒ました。そこは、とっくの昔に滅んだ城の廃墟であり、 武芸者はその廃墟に迷い込んで眠っていたのだ。武芸者は城の奥に進み、そこに罌 粟の花が咲き乱れていることを確認する。  そして、記憶を辿って城の中心部へ向かう。そこには、盲目の少女が幽閉されて いた部屋があるはずだ。そして、その部屋らしきものは残っていた。廃墟となった 城と比べると驚くほど綺麗な状態である。夢のとおり壁も扉も黒く塗られた、漆黒 の箱のような部屋であった。  武芸者は、その黒い箱の扉をゆっくりと開く。 「それで、どうなるんですか」 「いや、そこでお終いだよ、この話は」 「ふうん」  私はなんとなく拍子抜けして、ため息をつく。 「なんか、余計な時間とっちゃいましたね、すいません水戸さん」 「いやいや、こっちが調子にのって説明したからね。資料に集中してください、藤 崎さん」  セッション2 【水戸のノートより】  部屋は、前回と同様の部屋を使用している。彼女はノックもなく、突然入ってき た。一回目と同様、完全にLになりきった状態で彼女は現れた。彼女は、前回のよ うな挑発的視線を見せながらも、どこか戸惑っているかのように私を見る。  彼女は、注意深く私を観察しているようだ。それは、一度手ひどい罠にかかった 野生の獣が、今度は逆に狩人を罠にはめるため策を練っている様を思わせる。  彼女は暫く私の様子を窺った末、ようやくしゃべり始めた。 「ねえ、何見ているの」 「君の写真だよ。前に来た時に君に持ってきてもらったものだ」 「ふうん、よく見せてよ。ああ、これは私の家でとった時の写真ね」  Lは写真を見ながら、私のほうを上目で覗く。 「ねえ、この写真を見て何考えているの。何を企んでいるのよ」 「企んだりはしないさ。ただ、考えているだけだ」 「考えているって?」  Lは狡猾そうな笑みを見せる。 「何考えているのよ、言ってごらんなさい」 「つまらないことだよ」 「あんたの考えていることなんて、どうせつまらないって判ってるの。いいから、 いってごらんなさいよ」 「君はご主人と二人暮らしだったはずだね」 「ええそうよ」 「二人暮らしにしては、結構大きな冷蔵庫を部屋に置いているんだな」  Lは失笑する。 「本当にくだらないこと考えているのね。ほかには何か考えたの?」 「そうだな、部屋の隅にあるこれ、ストーブにしては形がへんだけど」  Lはあきれ顔で私を見る。 「それはねえ、いいわ、説明してあげる。まず冷蔵庫なんだけど、私は絵を描く仕 事をしているけれど、けっこう不規則な生活で家に閉じこもって仕事がすることが 多い。主人のほうも雑誌の編集の仕事をしているんだけど、休みが何週間もとれな かったりすることが多いわけよ。そのせいで大量に買い込んで大量に貯蔵できるよ うな冷蔵庫が必要だったの。それともう一つ」  Lはすこしうんざりしたように、私を見る。 「部屋の隅のそれは窯よ」 「窯?」 「ええ。私の本業は絵を描くことだけれど、趣味で焼き物、つまり陶芸もやってい るの。その窯でもちろん大きなものは焼くことできないけれど、簡単な小物だった ら焼くことができるのよ。判った」 「なるほどね」  私は、Lをまっすぐ見つめる。Lの顔から冷笑が消え、再び警戒の光が瞳に灯る。 「この部屋だったんだろう」 「何がよ」 「君の赤ちゃんが消えていなくなったのは」  Lは暫く絶句していた。顔からは表情が消え、それでいて目まぐるしく考えを巡 らせているように見える。 「違うわ。そこの隣の寝室」 「ああ、そうだったね。君のご主人が書いてくれた、君の赤ちゃんが消えた日のメ モを読んでいたんだが」 「へえ、そんなの持ってるの」 「君からもらったんだよ?まあいい。このメモからすると、その日君のご主人は深 夜に帰宅した。その時からメモは始まっている」  以下にそのLの夫のメモを引用してみる。 『それは夏の熱い夜だった。私が帰った時、Lは酷く焦燥した顔で私を迎えた。彼 女は私を出迎えるなり子供の具合が悪いと言った。高熱が朝から続いており、解熱 剤でも下がらないらしい。午前中に医者につれていったが、原因は判らないので暫 く様子を見るようにという指示だったようだ。  子供は寝室に置いてあるベビーベッドに寝かされていた。今は多少薬が効いたら しく、よく眠っているようだ。Lは子供の寝ている寝室に私が入ることを禁じた。 子供は家にあまりいない私には懐かず、一緒にいるとすぐに泣き出したので、しか たのないことだと思った。私は居間のソファに寝ることにしたが、なかなか寝付く ことはできなかった。Lは子供につききっきりだったが、となりの寝室から時折ド アごしに子供の弱々しい鳴き声が聞こえてきた。  Lは時折居間に入ってきて、冷蔵庫で氷嚢を交換していたようだ。私は、明け方 には眠ってしまったが、Lは一晩中起きていたらしい。夜明けと同時に、酷く蒼ざ めたLに起こされた。彼女は、静かに言った。子供がいなくなったと。  寝室への出入り口は、居間に面したドアが一つあるだけだった。そのドアは内側 から鍵がかかる。Lは私を信用しておらず、私が突然部屋へ入ってくるのを恐れて 内側から鍵を掛けていたようだ。窓は外に面しているが、マンションの6階であり、 鍵がかかっていること以前に、そこから人が出入りてきるとは思えない。しかし、 可能性としてはその窓から侵入者があり、子供をさらったくらいにしか思えない。  私はLを家に残し、近所にある警察署へ向かった。歩いて1分ほどのところなの で、電話をするより速いと思ったためだ。  私が警察から戻った時に、Lは呆然とした顔で窯の前に座っていた。部屋の様子 からすると、焼き物を造っていたらしい。彼女はその時から正気を失っていた。  警察の調査でも結局、子供の行方は判らなかった。私は妻と子供を同時に失った ようなものだ』  私が彼女の夫のメモを読み終えると、冷たい笑みをLは見せた。 「つくづく馬鹿ね、Oは」  Oというのは、私たちが彼女の夫に対してあたえた記号である。 「で、それがどうしたの?」  私はLを見つめる。Lは嘲笑の仮面をつけていた。彼女の心の底は読むことがで きない。しかし、私は直感的に彼女の心の深いところで激しい動きがあることを感 じとっていた。 「私は、本当のことが知りたい」 「本当のこと?」 「真実だよ。この日いったい何が起こったのか。この時起こったことは一体なんだ ったのか。現象ではなく、真実が知りたい」  Lはくつくつと喉の奥で笑う。 「真実を知りたいですって。いいことばね。あんたにしちゃ、上出来よ」  ふっと、Lが真顔になる。 「いいわ、教えてあげる」  その時、雷が鳴った。窓が無い部屋のためよく判らないが、結構近いところに落 ちたようだ。彼女の表情は凍り付いている。 「あの時ね、闇が落ちてきたの」 「闇が落ちる?」 「そう、闇の司祭が私の前に降臨した。あの夜。黒い魔法の夜。魔物たちが吹き出 して、世界を支配したあの夜。私は、闇に、呑まれた」  Lの言葉から、抑揚が失われた。まるで機械で合成されたような、少し甲高い声 でLは語る。 「落ちてきた闇に呼応して、私の内側からも闇が吹き出した。魔物はどこかから来 た訳では無くて、私の中から現れる」  雷が再度鳴る。Lの体が震えた。私は少し不安を感じたが、彼女の深層が表出し 始めている今、中断するわけにはいかない。 「闇が落ちてきたといっているのは、事件のおきた日の夜、君のご主人のOが帰っ てくる前におきた停電のことを言っているのかい?」  Lが答えようとしたその瞬間、激しい雷鳴とともに部屋が闇につつまれた。それ はLが言ったように闇が落ちてきたという表現が相応しい出来事だ。  闇の中で、Lが悲痛な叫び声をあげる。私はドアを開け、Lを、いや、藤崎さん を部屋の外へ出した。  その日は、結局そのままロールプレイを中断するしか無かった。  セッション2 終了  私は三回目のアルバイトの日、教授の研究室へ入っていくときに、少し戸惑いを 感じた。体調が少し悪いのもあったかもしれない。その日は朝から頭痛に悩まされ ていた。  しかし、やはり原因は間違いなく、前回に酷く醜態を晒したせいだと思う。たか が雷が鳴ったぐらいのことで子供のように悲鳴をあげ、ロールプレイを中断してし まったことを、私はとても恥じていた。  部屋に入って挨拶すると、高松教授がいつもと変わらない柔和な笑みで迎えてく れる。高松教授は即座に私の不調に気付いたらしい。 「顔色が悪いようだね。無理をすることはないんだよ」  私は笑みを浮かべて首を振る。 「いいえ、なんでもないんですけど。ただ、この間のことが申し訳なくて」  教授は、はははと笑う。 「いやいや、あれくらいのアクシデントがあったほうが勉強になるんだよ。なあ、 水戸君」  水戸さんは、少し苦笑を浮かべて応える。 「先生はどうしても私を困らせたいみたいだなぁ。でも、本当に気にすることはな いんですよ、藤崎さん」  いつもと変わらぬ人懐っこい笑みをみせる水戸さんに、私は少し曖昧な笑みを返 した。私は今回の設定を書いたレジュメを受け取ると、読み始める。 「それにしても、この設定」  私は少し、ため息をついて水戸さんに言った。 「このLという人は、つくづく私に似ていますね。なんだか、彼女と私の違いとい うのは、詩織がいるかどうかの違いだけに思えるんですけど」  水戸さんは、ちょっと困惑した顔になる。 「ええと、詩織というのは」 「ああ、母に預けている私の娘です」 「なるほど」  水戸さんは、少し悪戯っぽく笑った。 「とうとう、白状しないといけなくなったかな」  私は、怪訝な目で水戸さんを見る。 「なんでしょう」 「うーん、実はね。高松先生に頼んで、Lの設定を極力あなた自身に近づけてもら ったんだ。あなたという人に僕がちょっと興味を持ったせいでもある。もともとL はあなたと似た人の症例から選んだから、大筋が変わっている訳じゃないけどね。 いままでそのことを秘密にしていたのは、ちょっとフェアじゃなかった気もするけ ど、どうせあなた自身が気付くだろうなと思ってあえて言わなかったんだ」  私は、水戸さんに笑みを投げる。 「なんだ、別にそんなこと気にしなくてもいいですよ。そのほうが、私としてはや りやすいですから」  その日は、結局水戸さんとはあまり話をせず、そのまま私は設定を頭に入れるこ とに没頭していった。  セッション3 【水戸のノートより】  今回のLはとても物憂げだった。いつもの刺すような瞳ではなく、何か投げやり な目を私に投げかける。私たちは、暫く話しをせず向かいあったままだった。 「ねぇ、今日は何を話すの」  Lのポツリといった言葉に、私が応える。 「何でもいいよ。君の話したいことを話せばいい」 「そおねぇ」  Lは視線をそらし、暫く考える。唐突に、Lは私のほうを見る。 「じゃあ、今日は夢の話にしようか」  私は頷く。 「君の見た夢だね。話てみなさい」 「うーん。それはね。凄く高い塔の物語なの」  Lの話は時系列が錯綜し、ゆきつ戻りつしながら話をしたため、そのストーリー はとても判りにくかった。以下にその物語を要約して時系列に並べ直して書いてみ る。 Lの語った高い塔の物語 『それはいつの時代ともしれぬ時。そして、どことも知れぬ場所。  その国ではもう何百年も塔の建設が行われていた。いったい誰が始めて、なんの 為に建設されているのかは判らないが、その巨大な塔は天上へ向かい延々と築きあ げられてゆく。  その塔は、ただ、建設されるためだけに存在しているといってもよかった。塔自 体あまりに巨大になりすぎたため、誰ももうその全体像を把握しているものはいな かった。ただ、皆、自分に割り当てられた役割を行っているだけで、その全体を統 括しているはずの存在を誰も知らなかった。  塔の巨大さは、その中にいてもその規模が判らないほどのものである。何キロも 離れた遠い場所から塔を眺めたとしても、その先端はかろうじて朧気に見えるだけ であり、天候によっては雲につつまれて見えない時もあった。塔の中に入り込むと、 巨大な迷宮都市にいるようなものであり、自分が塔のどの部分にいるのかすぐに判 らなくなってしまう。  塔はそれでも自分自身が意志を持っているかのように、天空を目指して成長して いった。塔には何百万もの人間が住んでいたが、その全てが塔の建設に従事するも のたちである。下層部は居住区域となっており、それ自体が巨大な国家を形成して いるようなものだ。  私はその塔の再深部に住んでいた。どの位高いところに居たのかは判らないが、 そこが塔の中心部であることは確かなようである。私は、全ての壁が黒く塗られた 部屋にいた。決して光の差し込むことのないその部屋に、私は横たわっていた。私 はその部屋から外へ、決して出ることは無い。  けれども、私はその塔でおこるできごとを把握することができた。あたかも、塔 が私の精神とリンクしているかように、塔のあちこちで起こる出来事を私は認識し ている。  塔の崩壊は唐突に始まった。その始まりは、一艘の船が天上から降りてきたこと である。その船は白く輝きながら天空を航海していた。白い羽を持つ天使たちが金 色に輝く楽器を吹き鳴らしながら、その船を操っている。  船は煌びやかな音楽を奏で、塔の回りを旋回した。それは巨大な船であったが、 塔と並ぶと、ごくちっぽけなものに見える。  その船を操る天使たちが奏でた音楽に反応したのは、子供たちであった。子供た ちはその音楽を聞くと、空を飛べるようになる。空を飛ぶことを覚えた子供たちは、 皆塔から離れ、船に向かっていった。  渡り鳥が飛び去ってゆくように、子供たちは群をなして船へ向かって飛んでゆく。 子供たちが一人もいないくなるまで、一週間もかからなかった。何万もの子供が皆、 船に乗せられ、天上へ上ってゆく。船は子供を乗せて空の彼方へ去った。  子供が居なくなった塔は、崩壊への道を歩み始めた。人々が始めに気付いたこと は、夜が長くなったということだ。夜は闇の深さを増し、昼間の光は色褪せ、朝は その活力を失う。そして、人々は、自分たちの影が自分を監視していることに気が つき始める。人々の影は人々の足下で妖しく息づき、自らの主とその地位を入れ替 えるタイミングを狙い始めたようだ。  そのころから、私は肉体を部屋へのこし、白く輝く霊体となって塔の中を彷徨う ようになる。私は、吸い寄せられるように、巨大な力を蓄えた影たちと会った。人 々が眠る夜、影たちはその本性を顕わし凶悪に吠えたり、狂ったように踊ったりし ている。私は、その影たちと霊体で交わった。  それは、私の全身の血が沸騰し、肉体を捻りあげられるような経験である。しか し、影たちは、私と交わることにより凶悪さを無くし、もとの従順な影へと戻って いった。私はなぜか、それが塔の崩壊をくい止める唯一の方法だと知っていた。  私がいくら努力しても、夜は日増しにその勢力を強め、影たちはより凶暴となり、 私の疲労は深まってゆく。力の持つ影の数はどんどん増えてゆき、私が一晩に何十 体もの影と交わったとしても、どうしようもなくなっていった。  そして、ある日塔へ闇の司祭が訪れた。そのころには、人々の心は半ば自らの影 に支配されていたため、皆闇の司祭を歓迎し塔の頂上へと案内した。闇の司祭は、 塔の天辺で祝祭を催す。  その宴は一週間に渡ってくり広げられた。やがて、祝祭の中で狂乱状態になった 人々は、塔の天辺から地面にむかって飛び降り始める。人々は、次々に地面へ転落 して死んでいった。そのころには私にはどうすることもできず、ただ、その様を感 じ取っているだけである。  最後の一人が飛び降りるまで一週間かかった。そして、私自身を除くとただ一人 残った闇の司祭は、天上から闇を招く。  闇は、空から墜ちてきた。それは丁度洪水の時に地上に水が満ちあふれ次第に水 位が上がってゆく様を、逆さまにしたようなものである。闇色の海が空に出現し、 それがゆっくりと降りてくる。  一晩かかって闇は塔の根本まで呑み込んだ。それと同時に、闇の司祭が塔の天辺 から私の部屋へと降りてくる。  闇の司祭は私の部屋ごと私を黒い本の中に封印し、私を持ち去ってゆく。ゆく先 を私は知らない』  基本的にLの語った夢の物語は我々の設定通りであったが、最後の黒い本の部分 のみが、我々の設定とことなっている。この物語がどの程度彼女の深層に触れたの か疑問があるが、今回のセッションが終わった時彼女は妙に澄んだ表情をしていた。  私は転回の時が既に来ていると判断した。  セッション3 終了  その日、私は自分の血がざわめいているのを感じた。その日は何かが起こる予感 がした。けれども、私は平静を装って教授の部屋へ入る。  高松教授は私を迎え入れた時、何かを感じとったようだが、いつものと変わらぬ 挨拶を交わした。ただ、教授は静かに言った。 「藤崎君、はじめにいったように、君がやめたくなればいつでもやめていいんだよ」  私はくすくす笑った。 「どうして?先生、私結構このアルバイト楽しんでますよ。本業も暇だし最後まで やらせてもらいます」  高松教授はそれ以上何も言わなかった。水戸さんも、今日は言葉が少ない。ただ いつもと変わらぬ笑顔で、私を見つめていた。  私は水戸さんの笑顔になんとも言えない安らぎと、満足感を感じている。それが とても不思議だった。水戸さんを愛おしく思っていたといっても、いいかもしれな い。それは、不思議な感情だった。  その日、私たちはあまり言葉を交わすこともなく、私は与えられたレジュメに集 中し、ごく静かな準備時間が過ぎてゆく。私はいつものように、与えられた役の中 へ入り込んでいった。  セッション4 【水戸のノートより】  Lはその日、とても饒舌だった。何か取り憑かれたように興奮し、色々なことを まくしたてる。それは、映画の話であったり、本の話であったり、テレビの話であ ったりした。  私が興味を持たない態度を取っていると、Lは次第に静かになってゆく。そして、 言った。 「何よ、聞いているの、あんた」 「もちろん。ただ、君は一言も私の聞きたいことを話てくれていないね」 「どういうこと」  Lは、少し用心深い顔になる。 「前にもいったはずだ。私の知りたいのは真実だよ」 「ふん」  Lは鼻で笑う。 「何よ、真実って」 「私から言ってもいいかい」  Lは、仮面のように無表情になると頷く。 「あの日の話だ。君の赤ちゃんが居なくなった夜」  Lの反応は無い。 「まず、まちがいなく言えるのは君が君の赤ちゃんを殺したということだ」  Lは笑みの形に口を歪める。 「停電の時、君は子供を殺し、君の夫O氏を迎える。O氏は死体となった子供を見 たわけだ。君は子供を解体し、氷嚢を交換するふりをしながらその死体の各部分を 冷凍庫へ格納していった。夜に子供の泣声がしたのはテープレコーダーを使ったん だろう。部屋を隔てていれば、そう判るものではない。そしてO氏が警察にいって いる間に死体を窯で焼いて始末した。そうだろう」 「よく知ってるじゃないの」  Lはあっさりと言った。 「見てた訳?あんた」 「誰だって見当のつくことを言っただけだよ。ただ、今話したことは現象に過ぎな い。言ったろう。私の知りたいのは真実だ。いいかい」  Lは無言で頷く。 「私は、君がなぜ闇の中で子供を殺したのかを知りたいんだ」  そして、その時部屋に闇が墜ちてきた。事前に打ち合わせした通りである。外に 待機しいる学生が、時間がきたらブレーカーを落とすことになっていた。  私は、許されないことをしているのだろう。賭としても危険すぎる行いだ。私は、 不安だった。そして、躊躇っている。今なら、まだ中断することもできるのでは無 いかとも思う。  しかし、ここまできてやめることはやはりできない。  Lは、いや、藤崎さんは、予想以上に落ち着いている。私の予想通り、闇の中で Lと藤崎さんの統合が行われたようだ。  私は、最後の力を振り絞るような気持ちで言った。 「藤崎さん、私の言ったことが判りますね」  闇の中なので、彼女の表情は読めない。 「真実を教えて下さい。なぜ、あなたが詩織さんを殺したのか」  藤崎さんは、ゆっくりと思ったより平静な声でいった。 「私が詩織を殺したのは」  暫く、沈黙が続いた後にゆっくりと彼女は言った。 「あの子が私の父、藤崎十蔵の子供だからです」  再び、部屋に明かりが戻る。  藤崎さんは、落ち着いた表情だった。しかし、その頬を伝う涙は暫く止まらなか った。  セッション4 終了 【高松教授のノートより】  私が、精神科医の水戸氏から彼の病院にかつての私の教え子である藤崎かおりが 入院しており、その治療を手伝ってほしいという依頼を受けた時、酷く戸惑いを感 じた。  それは、水戸氏のやろうとしていること、つまり幻想を構築してその中に留まっ ている患者の幻想をうち破るために、現実をロールプレイとして患者に演じさせる という計画があまりに無謀と思えたからだけでは無い。確かに水戸氏のやったこと は、結果としていい方向へ事態を向かわせることができたが、どういう結果を生む にしても常識を外れているのは間違いなかった。そんなことより、私が疑問を感じ たのは、藤崎かおりが治る必要があるかということだった。  むろん、彼女は分裂症的な妄想の中にいたのは間違いない。私が疑問に思ってい たのは、彼女が妄想の中にいるのは妄想の中にいることによって精神を安定させる ことができるからであり、通常境界症例の患者は妄想によって苦しめられ死の危険 に晒されるため妄想を取り除く必要があるが、もし、その妄想が精神の安定を保つ ものであれば取り去るのは危険な行為ではないかということだ。  しかし、水戸氏とディスカッションするうちに、彼の主張が正しいと感じること になる。妄想が危険な形で崩壊するのを防止するには、我々の提供したフィクショ ンとしての現実の中で妄想から離脱したほうがいいだろうということだ。  本来、彼女の妄想を取り除くには、もっと時間を要するはずだった。しかし、ロ ールプレイ中のアクシデントに着想を得た水戸氏の作戦が成功し、私たちはより早 い段階で彼女を妄想から離脱させることができた。  4回のロールプレイを経た後、彼女は水戸氏のカウンセリングを受け始めている。 症状が安定すれば、彼女は裁判を受けることになるかもしれない。何にしても彼女 にとって現実は決して平穏なものではなく、危険に満ちたものであることは間違い なかった。次に彼女の幻想が噴出した時に、前のように彼女を安定させるものであ るとは保証できない。いずれにせよ、彼女はもう、現実の中に足を踏み込んでしま った。  ロールプレイは予想以上に我々の意図した通りに展開していった。ただ、黒い本 についてだけは、我々の想像外の出来事であった。その黒い本については、ロール プレイ後のカウンセリングの中で、彼女が水戸氏に語っている。  その部分を以下に記す。 『私が、父である藤崎十蔵に抱かれたのは、私が12歳のころです。初潮を迎えて 間もなかった私は、父の行っている行為の意味がよく判りませんでした。それは、 私と父との間にだけ存在する秘密の儀式であり、神秘の顕現です。  父は、いつも閉ざされた部屋の中で、蝋燭だけを明かりにして私の服を脱がせま した。そして、まず私の体に筆を使って字を書いてゆくのです。父は、私の体にひ とつの物語を書いていきました。  書き終えた時点で、父は私の裸体を写真にとり、そして私を抱きました。私を抱 く父はまるで司祭のように荘厳な表情をしています。私は苦痛をなるべく表にださ ないよう、父に身をゆだねました。  父は、年に一度その儀式を行いました。年に一章ずつ、私の体の上に展開される 物語は進んでゆくのです。その物語は、魔物の恋を描いたものでした。そして、父 と私の秘密の儀式は、私が結婚する直前まで続くのです。  私が式をあげる直前に、父は私の元に現れました。父は私にいつもの儀式を当た り前のように要求し、私もあたり前のようにそれに応えました。父と私の間に存在 した儀式は、日常の時間から隔離された特殊な世界でしたから、結婚式の前にそう した行為をすることに私は何の疑問も抱けませんでした。  ただ、その日、私の体に異変が起こるのです。私は、父に筆で物語を書かれてい る時に、突然強い性欲を感じました。それは、まるで私自身の中からきたものでは ないような、まるでずっと封じていたものが突然噴出したような、強い欲望でした。  私は目眩を感じるほど強烈な性的飢えに耐えながら、父が物語を書き終えるのを 待っていました。私は、父が写真を撮り終えると待ちきれず、父を抱きました。  その時私の記憶は酷く断片的になっています。とにかく嵐ように凄まじい性欲に 襲われ、父と性行為を行いました。それが終わった後、とてつもない自己嫌悪が私 を襲いました。  それまで、神秘の儀式であった父との行為が堕落したような気がしたのです。私 は、あの時の自分の性欲が理解できませんでしたが、とてつもなく汚されたような 気がしました。そして、それから一週間後私は結婚するのですが、結婚する時に私 は既に父の子である詩織を受胎しているのを感じていました。  私は、その後父が行方不明となり、私の元へもうこなくなったので、父との行為 を忘れることにしました。それは、私を苦しめるだけのものになっていましたので。  でも、あの日、そうあの停電のあった日にあの本がきたのです。  多分、父が私に送ったのだと思います。  あの黒い表紙の本を。  その本には、私の裸体の写真が印刷されていました。  そして私の裸体には、魔物が恋した娘を思い続け、最後に娘も魔物に変えて思い を遂げる物語が書かれていました。その本を閉じた時、私の中で何かが壊れたので す。それでも。  それでも、あの停電がなければ。  これは言い訳でしょうか。  でも、あの停電がきっかけとなったのは間違いありません。突然墜ちてきた闇の 中で、私は狂いました。行き場の無い憎しみ、汚されたことに対する私の憎しみは、 父の子である詩織になぜか向けられてしまったのです。  黒い本はまだあります。  私の部屋に。  私の魂はあの中に閉じこめられています。  多分、今でも』