私たちは、とある廃屋へ男を放りだした。ジュリが皮のブーツで男の顔を踏み にじる。苦痛の為呻き声をあげながら、男は気づいた。 まだ朦朧としている男の頭を、ツバキが抱えると何かを飲ませる。男は意識が はっきりしてきたらしく、異教の神の名で、私たちに呪いの言葉を投げつけた。 「はいはい、いい子にしてね」 ジュリは、少女のように優しく微笑むと、男の視線の前に立つ。男の体は、後 ろからツバキが押さえつけている。 「拷問か?無駄だ。おれは、何もいわん」 「あら、どうかしら。あなたが痛覚を無くす麻薬を飲んでいると思って、感覚を 鋭敏にするキハの実の抽出物を飲んでもらったわ。あんまし、頑張らないほうが、 いいわよ」 男の顔から不敵な笑みが消え、不安げな顔になる。ツバキは、男の手を押さえ、 指を握った。 「じゃ、一本目」 悲鳴が、上がる。人差し指の骨が、折られた。 「待て、待ってくれ」 男の言葉を無視し、ジュリはにこにこしながらいった。 「次、二本目」 さらに酷い、悲鳴が上がった。中指の骨が、折られた。ツバキは全くの無表情 だが、ジュリは天使の笑みを見せる。 「判った、何でもいう」 「そうぉ、でもせっかくだし、もう一本いっとくね」 動物の悲鳴に近い声で、男は叫んだ。薬指の骨が折られた。 「頼む、やめてくれ」 「いい子ね。天国にいけるわよ。その前に、ママの質問に答えてちょうだい。黒 狐団のアジトはどこにあるの」 「郊外にある、マダム・セリーヌの屋敷だ」 「マダム・セリーヌですって。トラキアの貴族じゃない」 「彼女が、トラキアの黒狐団を仕切っている」 ジュリは甘い菓子をたっぷり食べ終えた少女のように、にんまり笑う。そして、 ツバキに目で合図した。ツバキは男の首を捻り、男の頸椎を破壊する。 「朝まで、間があるわね」 ツバキが頷く。 「マダム・セリーヌの屋敷へ行きましょう。今夜が多分、最後のチャンスよ」  セリーヌの屋敷は、鬱蒼とした樹木に覆われた、白い瀟洒な作りの屋敷である。 高い塀と、木々の為、屋敷の姿は外からは見えない。 私たちは、塀を乗り越え、屋敷の庭へ入る。 ジュリが、ツバキに声をかける。 「どう思う。ツバキ」 「見張りは、6人が3交代てとこだな。今、二人一組で、半刻おきに見回ってい る感じだ。番犬の類はいないようだな」 「私も、同じ意見ね。じゃ、あれをやろうかしら」 ツバキは頷くと、足を組み、手に印を結ぶ。 「何を」 私の問いかけに、ジュリが答える。 「ツバキの右耳のあたりを、見てごらんなさい」 ツバキの右耳から、胡麻粒のように小さな羽虫が、数十匹出てきている。やが て、その虫たちは、飛び去っていった。 「あれは?」 「夢見虫とよばれているわ。あの虫たちは、人の耳か頭の中へ入り込む。そして、 脳の神経を刺激し、夢を見せるの。あの虫たちは、蜘蛛のようにお尻から糸を出 して飛んでいく。その糸は、ツバキの脳の中にいる、親虫と繋がっているわ」 ツバキは、完全にトランス状態らしく、反応はない。 「ツバキは自分の脳の中の親虫を通じて、夢見虫を操り、夢見虫の取り付いた人 に、望む夢を見せることができる」 たしかによく見ていると、ツバキの耳から透明な細い糸が、出ている。 「まぁ、起きている人間なら、二三人に夢を見させるのがいいところかしら。眠 っている状態の人間相手なら、楽勝よ。半刻ほど、待ちましょう。そうすれば、 ツバキが見張りの人間を、夢の中へ取り込むから」 私とジュリは、半刻後に屋敷へ向かった。見張りたちは、半覚醒状態で、ふら ついている。ジュリは、推刀を見張りの延髄に突き立て、永遠の眠りにつかせた。 屋敷の中は、微かな月明かりで蒼ざめて、幻想的に見える。屋敷の中の人間は、 明け方近くで眠っているのだろう。見張りの者たちも、ツバキの夢の中に取り込 まれているらしく、誰もこない。 私たちは、マダム・セリーヌの部屋へたどりついた。セリーヌ夫人は、ベッド の中で眠っている。その銀色の髪の女性は、眠っているにも関わらず、侵しがた い気品を漂わせていた。 「セリーヌ夫人、起きていただけます?」 ジュリが、めずらしく、丁重といっていい口調で語りかける。セリーヌ夫人は、 我々が来るのを予期していたかのように、即座に目覚めた。 「ジュリアス王子ね」 セリーヌ夫人は、ベッドの上に身を起こす。まるで、サロンで客を遇するかの ように、自然な態度で我々を迎えた。 「私は、もう王子とは呼べません。ジュリと呼んで下さい。突然の訪問のご無礼 を、お許しください」 「よくってよ、ジュリ。ご用は何かしら」 セリーヌ夫人は、稟とした態度で、ジュリに話かける。まるで、イタズラをし た子供を、窘めるような雰囲気すらあった。 「ご存じかもしれませんが、シュラウト王子が行方不明となっています」 「知らなかったわ」 「シュラウト王子は、デルファイへ行くと、王に伝えて姿を消しました」 セリーヌ夫人の、青い瞳が鋭く冴える。しかし、薄い唇には面白がるような笑 みが湛えられていた。 「私が、シュラウト王子を監禁していると?」 「いいえ、まさか」 セリーヌ夫人は、声をたてて笑った。 「あなたね、私の兵士を6人殺したのは」 「非常手段を、とらせてもらいました。時間がありませんので」 「私も、拷問する?」 「まさか」 「私は、自分が拷問の苦痛に耐えられないことを、知っています。ですから、嘘 をつくつもりはないわ。拷問をうけるまでもなく、すべてを話しましょう」 ジュリは、頷き質問した。 「デルファイとは、実在するのでしょうか。そして、そこへ行く為の麻薬とは?」 「デルファイは、実在します。私は、そう信じています」 私は、思わずジュリの顔を見る。可能性としては、セリーヌの手のうちにシュ ラウトがある確率が最も高いはず。ジュリはこの話を、信じるのか?本気で拷問 せず、信用する気なのか。 ジュリは、深く頷いた。その瞳は、静かに澄んでいる。疑っている様子はない。 「デルファイへ行く為の麻薬は、クイック・デッドと呼ばれています。私は扱っ ていないけど、それを扱っている男は知っているわ」 「教えてください、その男を」 「キャロル・レインボウといいます。魔導師であって、麻薬の売買を行っている 訳ではない。シュラウトがそのキャロル・レインボウに会ったかも、保証できな いけど」 セリーヌ夫人は、キャロル・レインボウの居場所を伝え、ジュリは礼を言った。 「私をどうするの、殺す?」 セリーヌ夫人は、どこか投げやりに言った。 「いいえ。あなたのことは、王に伝えるつもりもありません。ただ一つ、条件が あります」 「何かしら」 「質問に答えて頂きたいのです。なぜ、黒狐団を支配しているのですか?権力を 手にするには、有効な手段といえません」 「多分、あなたが男性を捨てたのと、同じ理由よ。ジュリアス」 セリーヌ夫人は、物憂げにいった。その姿を見るジュリは、なぜか哀しげだ。 「あなたも知っているように、私の夫と息子は下らない政治的対立によるテロル の犠牲となった。多分あなたが自分の体を焼き尽くされた時に感じたように、す べての戦い、すべての理念、すべての宗教は無価値で無意味であると感じたの。 それらは、所詮イデオロギーにすぎないと。リアルな絶望の前では、あらゆる救 済の約束も芝居のセリフほどのリアリティを持たないと思ったのよ」 セリーヌ夫人は、無感動に続ける。 「本当の生を、生きているものは、いない。本当の価値を、見いだしたものは、 いない。あるのは、幻想のようなイデオロギーだけ。そして多分、あなたが本当 の生を見いだす為にとった方法が、男を捨てることだったように、私にとって麻 薬を扱うことが、本当の生、本当のリアリティを見いだす道だった。 私の夢想、この国の男たちをすべて麻薬で狂わせ、政治も宗教も理想もすべて 灰燼に帰し、狂気の王国、廃墟の王国を招来する。それだけが、私にとってリア ルと呼べるものだった」 セリーヌ夫人は、疲れたように言った。 「私にも、ひとつ質問させてもらえる?ジュリアス、あなたは男性を捨てて、リ アリティを取り戻せたの?」 ジュリは、憂鬱な表情で答えた。 「いいえ。ただ、私とあなたの決定的な違いは、私が全身を焼き尽くされた時思 ったのは、自分の絶対的な無意味さだったということです。あなたは、世界のリ アリティを失った。私の失ったのは、自己のリアリティですよ」 ジュリは、深々と礼をする。そして私たちは、立ち去った。 キャロル・レインボウの家は、ローズフラウから離れた、ひどくのどかな場所 にあった。キャロルの家の周りはお花畑であり、色とりどりの鮮やかな花々に囲 まれている。それは、まるで、夢の中のような美しさを持った風景であった。 艶やかに咲き誇る花々は、どこか現実味を欠いている。それは、麻薬による幻 覚のリアリティに近いものがあった。原色の絵の具で彩られたように、鮮やかな 色の花は、夢の中から出現したように、重みを持たない。 そして、キャロルの家は、白い砂糖菓子のように瀟洒な作りである。キャロル は、私たちが来るのを玄関に立って待っていた。 キャロルは、神経質そうな栗色の瞳をした、愛らしい少女を思わす薔薇色の肌 の美青年である。キャロルは、私たちを躁病者のような微笑みで迎えた。 「セリーヌ夫人の連絡は、受けている。歓迎するよ、ジュリアス王子」 「私はもう、王子でもジュリアスでもないの。ジュリと呼んで下さらない、レイ ンボウ殿」 キャロルは、けらけらと笑った。 「わかったよ、ジュリ。まぁ、はいんな。おれの事は、キャロルと呼んでくれよ」 そうして、キャロルに招かれて入ったその部屋は、麻薬の幻覚もかくやと言わ んばかりの色彩の渦に覆われていた。まず、目につくのは、壁一面を覆う極彩色 のタペストリである。しかし、よく見るとそれはタペストリでは無かった。蝶で ある。宝石のような鮮やかな色の羽を持った、蝶たちの死骸。それらは、防腐処 置をされているのだろう。生きて壁に止まっているかのように、見事な保存状態 である。 その蝶たちは、カレイドスコープを思わす複雑な色彩パターンを表現するよう に、壁へ張り付けられていた。今にも蝶たちが飛び出し、部屋じゅうを煌めく色 彩の洪水に満たしそうな気がする。 そして、天井は南国の極彩色の鳥たちの剥製で、埋められていた。南の島の幻 想的な楽園に迷い込んだような気にさせられる、原色の羽を持った鳥たち。南国 の大輪の花々の上を羽ばたく姿そのままに剥製とされ、天井からつるされている。 さらに、床や壁に無数に散らされた花びらが、眩惑を起こさせるような艶やか な色彩と、濃厚な甘い香りを放っていた。その花々は、夢の中からこぼれ落ち、 部屋に散らされたようだ。 私たちは、キャロルに招き入れられ、テーブルにつく。やがて、キャロルは、 深紅の薔薇の花を浮かべたスープを持ってきた。 「さあ、食いたまえ」 キャロルに進められるが、私とツバキは顔を見合わせ、スープを眺めるばかり だった。その濃厚な薔薇の香りに眩暈を感じる。とてもその血を落としたように 紅い薔薇を食べる気にはなれないが、ジュリだけは別だったらしい。平然と薔薇 の花びらを口にする。 「ああ、こくがあるわね、紅い薔薇は。黄色いやつは、ちょっと酸味があって苦 手」 ずいぶんかってな事をいっているが、キャロルは面白そうに頷いている。私は、 ツバキに囁きかけた。 「こういうのは、魔法と何か関係しているのか?」 「全く関係ないな」 私たちの会話を目に止めたらしい、キャロルが怪訝な顔をして、私たちを見る。 私は思わず、キャロルに言った。 「こういうのは、その、魔法とは関係ないようだな。趣味なのか?」 キャロルは、くすくすと笑った。 「魔法とは関係ない、ね。いったい、あんたは魔法とはなんだと思っているんだ?」 私は、思いがけない質問に、教科書的な答えをした。 「知の体系だろ、事物と主観の関係の一つの在り様といえる」 キャロルは、けたけたと笑いころげた。笑いながらも、口元が神経質そうにひ きつる。この後、キャロルは魔法についての説明を延々と行うが、この物語と直 接関係ないので、省略させてもらおう。 丁度キャロルの話が終わったところで、ジュリも薔薇を食べ終えていた。 「なかなかまったりとして、口当たりの爽やかな味の薔薇を育ててるじゃない。 美味しかったわ」 キャロルは、口元を歪めて微笑みながら、頷く。 「そいつは、どうも」 「それは、それとして、そろそろデザートを出してくれてもよろしいんじゃない かしら。クイック・デッドのチョコレートソースあえとかを」 キャロルは、にやにや笑いながら言った。 「あんたら、クイック・デッドとは何か知ってるのか」 ジュリは夢見る少女のように、無邪気に笑う。 「デルファイにいけるのでしょう、その麻薬で」 キャロルは、無垢の少女を誘惑する堕天使のように、笑う。立ち上がると、部 屋の奥の扉を開いた。そこには、地下へと続く階段がある。まるで、冥界まで続 くような、昏く深い階段であった。 「下へ降りながら、話そう」 私たちは、その長い階段を下りながら、キャロルの話を聞いた。 「クイック・デッドは麻薬とは呼べないな。幻覚を見るのは確かなようだが。た だ、いわゆる麻薬とよばれるものは、脳内に物質が浸透し、作用するものだ。ク イック・デッドはそうした脳の神経を麻痺させたり、感覚を変容させることによ り幻覚を見せる麻薬とは根本的に違う。まあ、下につけば、判ることだが」 そして、我々はえらく深いところにある地下室についた。そこは、祭祀場のよ うになっており、壁には異形の神々が描かれている。その神々は体の一部が欠け ているか、余剰な器官があるかどちらかであった。ただ、その顔はみな美しく描 かれており、形の崩れた身体との対比を際だたせる。 それよりも、目を引くのは床に並べられた棺桶であった。部屋じゅうに無数の 棺桶がおかれている。キャロルは舞台に立った俳優のように、部屋の中心に気取 った歩みで行くと、棺桶の一つを蹴飛ばし蓋をあけた。 私は呻くように、言った。 「そいつは、死体か?」 棺桶の中には蒼ざめた、美貌の女性が横たわっている。 「ああ。死体だ。そして、こいつがクイック・デッドを服用した人間の姿だ」 ふふん、とジュリは鼻で笑った。 「上等じゃない」 私は、キャロルの所へ行こうとするジュリを押さえて、言った。 「クイック・デッドを服用するということは、死ぬということなのか?」 「ほぼ、死ぬといってもいい」 ツバキは、傍らの棺桶をあける。蒼ざめた顔をした壮年の紳士が横たわってい た。ツバキはその死体らしきものを、調べる。 「脈は無い。呼吸も止まっている。死後硬直状態だな」 私は、ツバキを横目で見ると、キャロルへの質問を続ける。 「ほぼ死ぬということは、死ぬとはいえないという事か」 「今、そちらの魔導師さんが言った通りに、クイック・デッドを飲むと死んだと いってもいい状態になる。ただ、通常であれば死体は腐敗が始まり、やがて土く れに還るが、クイック・デッドを服用して死んだ者の死体は決して腐敗せず、お そらく何千年でも死んだ時そのままの姿だ」 そして、キャロルはどこが邪悪な笑みを見せる。 「そしてたまに、死体が生き返る事がある。そいつらは、ある一つの都市の事を 語りだす。あらゆる快楽があり、望むものはすべて手に入り、天上世界のように、 美しい都市。生き返った死体たちの話す街は皆、同じ街のことのようだった。い つかその生き返った死体たちの語る都市に、名がついた。それがデルファイだ」 ツバキが、ひとりごとのように言った。 「確か、デルファイというのは、伝説の魔導師の名前と同じだったな。王に逆ら った為、生きながらにして墓に埋葬された男。その男は、最後の魔法により、墓 地に集う死者の魂を集め、死者の王国を作った」 キャロルは、口元をひきつらせながら笑った。 「そう。確かに、デルファイとは死者の王国だよ」 私は、キャロルに問うた。 「あんたは、どう思う。デルファイとは、本当に死者の王国なのか?」 キャロルは、神経質そうに笑っていった。 「おれの考えをいうと、死に際して人間の脳の内部には死の苦痛から逃れる為、 強力な幻覚作用のある脳内麻薬が生成される。クイック・デッドによる死は真の 死では無いため、脳は中途半端な状態で生きていると考えられる。脳内麻薬によ って生じる無限の夢。その夢が、集合無意識レベルでシンクロニシティを起こし 一つの世界を作り上げた。そいつが、デルファイだと思うね、おれは」 それは、私の想像とほぼ同一のものだった。 「一つ、確認しておきたい事がある」 私は、キャロルに尋ねた。 「ここに、シュラウト王子もいるのか?」 キャロルは無言で、ひとつの棺桶の蓋を開ける。ジュリは、その中身を確認し た。 「確かにシュラウトだわ」 ジュリは、微かに蒼ざめた顔でいった。そして、突然叫ぶ。 「能書きは、十分よ。クイック・デッドを私に頂戴。死の甘美な夢を味あわせて もらいましょ」 キャロルは頷くと、ジュリを招いた。私は、ツバキを見る。ツバキは当然のよ うに、キャロルへ向かう。私は、肩を竦めると、ツバキに続いた。  そして、私たちは黒い錠剤を受け取ると、割り当てられた棺桶に横たわる。中 は深紅のビロードであり、横たわった感触は悪くない。  キャロルは、幼子を寝付かせる母親のような笑みを、ひきつった口元に浮かべ、 私の棺桶の蓋を閉じる。あとは闇。 錠剤を飲んだ後、私は広大な闇の中にいた。それは、全く果ての見えない無限 の闇だ。その闇が、ごうごうと音を立て、荒れ狂っている。 それは、何か巨大な嵐が宇宙を覆っているようであり、幾億もの巨大な黒い獣 たちが、駆けめぐっているようでもあった。 その星無き真冬の夜の、黒く渦を巻き荒れ狂う海のような闇の中を、私は天空 から墜ちる星のようにもの凄い早さで降下している。あるいは、上昇しているの かもしれない。 闇は猛り狂う風の精霊たちのように、狂乱の雄叫びをあげながら、私の傍らを 通り過ぎる。私は、死せる神の体内に入り込み、その崩壊の瞬間に立ち会ってい るように思った。 果てしなく思える程長い時を経過した後、私の目の前に、真冬の夜の終わりを 告げる明けの明星のごとき光が出現した。それは、この世の終わりに全ての魂へ 裁きを下す光のように、強く神々しく輝き始める。 光は、星が誕生する時に上げる叫びのように、爆発的な閃光と化して闇を駆逐 した。その光は狂神の哄笑のようにぎらぎらと輝き、私の脳髄を焼き焦がす。 幾億もの太陽が集合したようなその輝きの奥に、私は凶悪な眼差しを感じた。 それは、神のものなのか、私の内奥に眠っていた邪悪な意志なのかは判らないが、 全てを破壊しつくそうとする凶暴な想念を感じる。 私は強大な破壊の意志の視線に、晒された。それは、無数の金属の刃のように、 私の精神を引き裂いていく。私の意識はすでに論理的な判断を、放棄している。 ただ、流される血のように、私の心は墜ちていった。 それは、どこへ? もしかすると、その凶悪な破壊の意志と一体化すれば、何か崇高な世界が開け るのかもしれない。しかし、私はより澱んだ、血肉の沼のような世界へと捕らわ れていく。 おそらくそれが、地上。 私は、堅い石の床の上で目覚めた。鉄格子で閉ざされている所を見ると、牢獄 の一種らしい。私の記憶は、泥酔状態の時のように、曖昧であった。 私は自分の名さえ思い出せぬのに気づき、愕然とする。私がかつて属していた 王国の知識だけが、かろうじて残っていた。私は何者かによって、精神を破壊さ れ、捉えられたようだ。あるいは、魔導師の見せる夢の中に、居るのかもしれな い。 そこは、殺風景な牢獄だ。まぁ、牢獄は殺風景なものだが、酷く無機質な印象 がある部屋だった。傍らに簡易トイレがあり、簡易ベッドに薄いマットが敷かれ ている。 薄暗い黄昏の光を投げかけている照明は、見慣れぬものであった。何らかの魔 法に関係しているようだ。やはり、私は魔導師に捕らわれたのだろうか。 廊下を隔てた向かいにも、牢獄が並んでいる。斜向かいの牢獄にも、囚人がい るようだ。薄闇の中で、影が蠢いている。 ときおりその影は、意味不明の呪詛の叫びのような声をあげた。それは、呻き のようでもあり、呟きのようでもある。もしかしたら、ここは狂人の収容所なの かもしれない。その囚人は、正気の人間とは思えなかった。 足音が廊下の奥から、聞こえてくる。それは、規則正しく、静かだ。おそらく、 衛士のものだろう。 やがて、薄闇の中に奇妙な制服を着た衛士らしき男が、姿を現す。その制服は、 私の記憶にあるどこの国のものとも違った。剣では無く、クォータースタッフの ような棒を、腰に装備している。 衛士は、私の牢の前に立つ。奇妙な言葉で何かいいながら、扉を開いた。私は、 牢の中に立ち上がり、身構える。衛士は驚く程無防備な姿勢で、私を手招いた。 私は、衛士をその場で殺そうとすれば、殺せたに違いない。何かの罠かと、疑い が生まれる。 私は、自分が神経を研ぎ澄ました状態にある事を気取られぬよう、自然体で衛 士の指示に従った。私は衛士の後について、磨かれた石の階段を上ってゆく。 上の階も、牢獄のある階と同じように殺風景な所だった。私には全てが麻薬の 幻覚のように、リアリティが欠けて感じられる。今にも壁に床が泥濘と化して溶 け流れてゆき、その下から真の姿を現われそうな気がした。衛士の指示に従い、 私は部屋の一つへ入る。 その部屋には、二人の男がいた。やはり見たことの無い、奇妙な服を着ている。 男の一人が、目で自分の前に座るよう指示した。 「名前は?」 男の言葉は、奇妙な事に理解できた。王国の、古語に近い響きのある言葉だ。 私は、男の問いに首を振って答える。奇妙な事に口をついて出たのは、男と同じ 言葉だった。 「思いだせない」 男は口を歪めて、侮蔑を含んだ笑みを見せる。 「又かよ。例のあの麻薬中毒で頭いかれてんじゃねぇか、え、なんてったかなぁ、 あの麻薬はよぉ」 男は、傍らの相棒に話しかける。相棒が答えた。 「デルファイだろ」 その瞬間、私は色彩を失った世界が突然、色を取り戻したのを見たような、衝 撃を受けた。昇りゆく太陽が、夜を駆逐していくように、私の記憶が戻ってくる。 私は、男に言った。 「私の名は、ケインだ」 「ケインねぇ。身分を証明するものは、あるか?」 私は首を振る。男はせせら笑う。 「いいかい、あんたは、道端にぶっ倒れていたので、我々が保護した。あんたは、 見たところ密入国のようだが、多分麻薬でラリッた脳味噌じゃ、まともに自分の 身元をしゃべられやしねぇだろう。我々は、麻薬中毒の密入国者をいちいち調べ て故郷へ強制送還する気はねぇんだ」 私の頭は、突然とりもどした記憶によって、混乱の極みにある。部屋が嵐の中 の船のように、揺れて感じられた。私は、かろうじて尋ねる。 「私を、どうするつもりだ」 「帰ってくれ。あんたが、路上生活者であろうと、自分の家をもっていようと、 ただの旅人でもなんでもいい。ここ以外のところへ行ってくれ」 私は、轟音のような耳鳴りと、空の高みから落下しているような眩惑を超えて、 ひとつの疑問が生じたのに気がつく。私は、それを口にした。 「ここは、どこだ」 男は、げらげら笑って言った。 「東京、新宿だ。あんたは、新宿の警察署の中にいるんだよ」 再び、私の頭の中で記憶が閃光を発し、炸裂した。ようやく、荒れ狂う嵐のよ うな世界が落ち着く。私は2重の記憶を得て、初めて自分の精神が晴れ渡る秋の 空のように、澄んでいくのを感じる。 私は、とても穏やかな気持ちになり、礼を言った。男は皮肉な笑みをみせる。 「あんた、ミスタ・ケインといったか。気をつけろよ。いいかい、おれらは、パ スポートを持っていない、国籍も判らない、税金もはらっていない、そんな連中 が殺されても殺人とは見なさないんだ。 いいかい、あんたを殺しても、誰も罰されない。判るか。麻薬でふにゃふにゃ の脳味噌に、ようく叩き込んでおけ。あんたは、野良犬と同程度の権利しかもっ ていない。そして、この街には、気晴らしで野良犬を殺すようなやつはいっぱい いる。みんな、あんたが死んでも警察が動かないのを知ってんだ。 よく聞けよ、ミスタ・ケイン。ラリッた頭でようく、考えろ。どうすれば、生 き延びれるのかを。おれは、あんたが道端で撃ち殺されても、レクイエムを歌っ たりしねぇからな。清掃局に電話するだけだ。野良犬の死骸をかたしてくれと。 そしてそんな事は、この街では、酔っぱらいが道端で反吐をはくのと同じくらい、 日常茶飯事なんだ」 私は、男に微笑みかけ、もう一度礼をいって部屋の出口に向かう。私の視界の 片隅で、男は哀れむような笑みを見せ、一言呟いた。 「グッドラック」 夜が明けるまでには、まだ随分あるようだ。夜の空気は鋭利な刃物のように冷 たく、心地よい。この街には、十三の高い塔がある。星空を地上へ引きずり落と したように、冴えた煌めきを宿す十三の巨大なガラスの塔は、この死者の街の冷 酷な支配者のようだ。 私は、街の中を歩みだした。十三の塔は、オーラの十三のクリスタルタワーを 思わせる。しかし、この街のガラスの輝きを持った塔は、オーラのあの刻々と輝 きを変える無数の虹を閉じこめたような、巨大な水晶の塔の幼稚な模倣のように 見えた。 愚劣な戯画化、あの壮大で崇高なオーラの光の塔を、へたくそな芸術化が真似 たようなものだ。ここは、確かにオーラの首都、クリスタル市では無い。 しかし、街の風景はどこでも似たようなものだ。そこ、ここに転がる襤褸屑の ような浮浪者たち。明日には凍死体になっているかもしれないが、誰も気にする 様子は無い。 様々な人種のものたちが、通りかかる。南方の島からきたような、肌の浅黒い 街娼たちがコートの裾から裸の足を見せるが、私が異国人だと見ると去ってゆく。 高地に住む山岳民族ふうの男たちが、故郷の色鮮やかな民族衣装を身につけ、 小さな弦楽器をかき鳴らし、吹き鳴らされる横笛に合わせ、故郷の歌を歌い踊っ ている。哀しげな歌声は、行き交う人々の間をすり抜け、塔の聳える高みまで駆 け抜けていくようだ。丁度その歌が彼らの故郷の山々を、駆け抜けていたように。 ここには、様々な国の者たちが彷徨い込み、たがいに深く関わること無く、自 分の生を生きているように見えた。オーラの首都と同じように。  南方系の民族の男が、弦楽器をかきならしながら、北の島国の古い童謡を歌っ ている。男が自分を愛する女に、どうすれば自分の恋人になれるのかを伝えるよ う頼んでいる歌。 その歌は、私のもう一つの記憶を呼び覚ます。私のこの世界での記憶。 私は、この世界では英国の特殊部隊SAS(スペシャル・エアー・サービス) に所属していた。しかし、テロリストに妻と子を惨殺されたのを期に、SASを やめ、国籍も捨てる。私はテロリストへの復讐を終え、タイのバンコクで暫く暮 らした。 法律も警察も金で買える、気儘な街で私はチャイニーズマフィアの用心棒とな る。しかし、私の雇い主が、カンボジアのあのポルポトの起こした血塗られた革 命にまきこまれ、私はタイを離れる決心をした。 私はその後、ベトナムから脱出しようとしている華僑の用心棒となり、この島 国へ来た。私はその経歴のすべてを、細部に至るまで思いだすことができる。私 の愛用のシグ・ザウエルの心地よい反動も、左手にはっきりと思い出せた。 しかし、私の腕に隠された鞘にあるのはシグ・ザウエルでは無く、水晶剣であ る。この妖精の羽のように薄く透明で軽い剣は、すべてが幻覚であると私に囁き かけているようだ。 私の、もう一つの記憶。王国での記憶。 私の父親は、盲目の剣士だった。目は、何者かに抉り取られて失ったと、父は いつか私に語った。私の父は、肉眼ではなく心の目で、相手の発する気を感じて 戦う。 それは、無明剣とよばれる術である。人間は何か行動を起こそうとすると、そ のイメージが気となり体から立ち上るものらしい。その気の形から、相手の動き を事前に察知して後の先をとるのが、無明剣である。 私の父は、無敵かと思える程強い子連れの、刺客であった。私は父と一緒に様 々な国を旅して回ったものだ。その父が一太刀で、倒された。父を殺した相手は、 ユンク流剣術の使い手である。 私は父の敵を討つ為に、ユンク流の剣術を学んだ。そして何年もかかって、よ うやく父を殺した男を見つけた時、その父の敵は別の男に殺されていた。 私の敵を殺した男、それがジークである。ジークフリート・ローゼンフェルト、 かかわる者を必ず混乱に巻き込む、悪魔の豚。 空腹が、私を追憶から現実へ戻す。私は懐を探ってみた。紙幣が何枚かある。 USドルだが、何とかなるだろう。 無造作に屋台が並ぶ、広場へ私は向かった。煙と様々な臭いが立ちこめるその 場所は、又、様々な色彩に溢れている。夜の煌々と輝く十三の塔の照明の下に、 黄色や緑の原色で輝く南国の果実に、殺された獣の赤黒い臓物が並べられていた。 私は、屋台の一つに入いる。そこは、やたらと辛い赤いスープに細いヌードル を入れたものを、売っていた。私は、USドルの紙幣を屋台の親父へ放る。親父 は無言で、どんぶりに赤いスープを注ぎ、茹でたヌードルをぶち込むと私の前へ 置く。 浅黒く、南方系の民族らしい親父は、奇妙なイントネーションの英語で話かけ て来た。 「なあ、あんたアメリカの人か。アメリカは、いいところだそうだな」 私は、食いながら首を振った。 「国籍は、随分昔に捨てた。ここへ来る前、最後に居たのはサイゴンだよ」 親父は、つぶやくようにいった。 「おれは、カンボジアにいた。革命から逃げてきた」 私は、頷く。 「ああ、いっぱい死んだからな」 「いっぱい死んだね。男も、女も、子供も、赤子も、いっぱい死んだ。死体の山 だったね」 親父は無感動な瞳で、淡々と語る。  私は、ポルポト政権下のカンボジアを思い出した。貨幣を撤廃し、企業も、学 校も、病院もすべて姿を消し、完全なる収容所国家と化した国。 ナチスのホロコーストとの違いは、無差別殺戮であったところだ。同人種の同 一国民、思想的にも宗教的にも全く差異のない民族を、ポルポトはひたすら殺戮 していった。ガス室なぞなかった為、ほとんどが撲殺である。死体は穴へ、放り 込まれた。何百万もの死体が、穴の中で腐敗していった。 私は、かつての私の雇い主を救出する作戦で、ポルポトの収容所の一つを襲撃 した。その時に、死体を詰め込んだ穴を見ている。蛆虫と、腐肉の巣窟。かつて その腐肉が人であったと知ることができるのは、月の光に白く照らし出された髑 髏によってだ。 私の追憶は、又、王国での記憶に重なっていく。王国でも、大量殺戮があった。 オーラが陥落し、トラウスが政権を握った時、王に据えられたのは白痴のエリウ スである。 王エリウスは、女神フライアを奉じるフライア教徒の、徹底弾圧と虐殺を行っ た。実際には、エリウスは操り人形に過ぎなかったかったのかもしれない。神話 の時代の終焉を唱えた改革派の、デモンストレーションに利用されたとも考えら れる。 しかし、狂王と呼ばれたエリウスは、改革派が殺戮を行うことを認めたのであ り、死体の山を築いた事に責任があるのは事実だ。虐殺の後期には、フライア教 徒も通常のヌース教徒も厳密に差別を付けぬまま、殺戮された。まさに、神話的 なるものを消失せしめる為の、思想的テロルである。 私は、その殺戮の繰り広げられる王国の中を、なんの手出しもできぬまま、放 浪した。私は、巨大な瀑布のように殺戮へと流れ落ちていく歴史の動きに、関わ る事すらできなかったのだ。それにしても、私の王国での記憶と、ここでの記憶 は妙に類似している。これには、意味があるのか。 ここは、そもそもデルファイなのか。私は、本当にケインなのか。私は追憶か ら現実へ、意識を戻す。屋台の親父は、自分の夢を切々と語っている。親父はア メリカに行き、フロリダにちゃんとした自分の店を持つ為に、金を貯めているら しい。私は、空になったどんぶりを親父に返し、屋台を出る。