私は、巨大な石の建物の谷間を縫うようにして、歩く。鉄道の高架の下に、ダ ンボールで作られた、小屋が並んでいる。紙の小屋の中には、死のような眠りを 貪る様々な人種の人々がいた。そこは、冥界の静けさに支配された死体置き場の ようにも、感じられる。 やがて、広いアーケードへ出た。私は、そろそろねぐらを探そうと考える。そ の時、私の背後に視線を感じ、振り向いた。私の瞳を、輝くモータバイクのヘッ ドライトが灼く。 私のほんの二十メートル程後ろに、殺意を秘めた金属の獣に跨った男たちがい た。その数は、十台程だろうか。 私は警察署で聞いた言葉を、思い出した。(気晴らしで野良犬を殺すようなや つはいっぱいいる)  どうやら、私はそうした類の連中に、出くわしたらしい。  バイクは、獣の唸りのようなエンジン音を、咆吼へと高めていく。男たちは皆、 フルフェイスのヘルメットに、黒い革のつなぎを身につけていた。 先頭の二人の男たちが、片刃のロングソードの鞘を払う。アーケードの照明を 受け、二振りのロングソードは邪悪な龍の双眼のように、冷たく輝く。 二台の鉄の獣が前輪を蹴り上げ、後輪にかん高い悲鳴を上げさせながら、私に 向かって走りだした。掲げられた片刃の剣が、私に死を宣告するように、厳かに 煌めく。 私の手から、蜻蛉の羽のように薄い水晶の刃が飛ぶ。水晶の刃は冬の女神の吐 息が吹き抜けるように、アーケードの中を空気を裂いて疾った。 二頭の金属の獣は、後輪を裂かれ、暴走する桿馬のように大きく飛び跳ねなが ら、私の横を通り過ぎる。一台は、轟音を立てて、ショーウィンドウへ飛び込ん だ。ガラスが光の洪水のような輝きを見せ、道へ落ちる。跳ね飛ばされたマネキ ンが無機質な笑みを見せながら、狂気のダンスを踊るように路上で回転した。 もう一台は、火花を散らしながら、道を滑っていく。そのまま車道へ、出る。 たまたま通りがかったタクシーが乗り上げて横転し、轟音とガラスの破片を散ら しながら石の建物へぶつかった。 やがて漏れたガソリンが引火したらしく、炎が深紅の舞踏を始める。踊り狂う サラマンダの僕たちが、街を狂乱の赤に染めていく。情熱的な女の愛撫のように、 炎が石の建物を舐め回す。 私は、背後で繰り広げられる灼熱のサラマンダたちの乱舞に押されたように、 一歩ふみだす。それに応えるように、中央にいる鉄の獣に跨った男が、火砲のよ うなものを懐から出した。 いわゆる、グレネードピストルのようだ。グリップの後ろに、ショルダースト ックが付けられている。 ナチスドイツが昔、そういったピストルを開発したという記憶があった。確か、 ワルサーカンプという名だ。ロシアの戦車の装甲をぶち抜いたという、伝説があ る。ただの不良が、いにしえのドイツ軍の拳銃を持っているとは考えがたい。と すれば、彼らはこの世界で私が関わった裏社会の、戦闘要員だろうか。 男は、グレネードピストルを肩付けし、私に照準を合わせる。私は、再び水晶 剣をふるった。炎の精霊たちが巻き起こす灼熱の風を切り裂いて、氷の妖精の羽 が疾り抜ける。 グレネードピストルを持った男の腕がずれ、下に落ちていく。銃口が後ろを向 き、道路へ落ちた。切断された肩口から血飛沫があがるのと同時に、グレネード ピストルが暴発する。 対人用留散弾が、最後尾にいた鉄の獣の燃料タンクをぶち抜いた。私は、慌て て道路へ伏せる。天空から星が墜ちたように、一瞬あたりが眩い光につつまれた。 轟音とともに、熱風が狂乱の叫びをあげ吹き抜ける。あたりは、火龍の巣窟のよ うに、凶暴な焔たちに支配されていく。 男たちは乱舞する焔に囲まれ、その熱狂が乗り移ったのか、金属の獣に雄叫び を上げさせる。私は、アーケードから抜けて、路地に飛び込んだ。金属の獣たち が狂おしい絶叫をあげながら、後を追う。 私は、細い路地を疾走した。迷路のような路地をゴミ箱をなぎ倒しながら、走 り抜ける。男たちは、バイクに乗りまき散らされたゴミを踏み潰しながら後に続 く。石の建物の裏口から出ようとした男娼が私たちの疾走に出くわし、罵声を浴 びせる。 私はバイクに追いつかれないよう、細かく路地を曲がった。多少引き離したも のの、いきなり大通りに出てしまう。幅広い道に直面した私は、飛び込む路地を さがして見回す。背中にエンジン音が、迫ってきている。 突然、私を呼ぶ声を聞いた。 「ケイン!」 私は声のするほうへ、走る。一台の中型車が、路肩に止まっていた。私を呼ぶ 声はその中からしているようだ。車の助手席のドアが開く。私はその中へ駆け込 んだ。 車は発進した。後ろで、バイクが大通りに出てくるのが見える。向こうは、こ ちらに気が付いていないようだ。私は運転席の男に、声をかけた。 「誰か知らんが、ありがとうよ」 黒のロングコートに漆黒のサングラスを付けハンドルを握る男は、苦笑しなが ら言った。 「礼はいいから、その剣を収めてくれるか」 私は、手のひらに隠した水晶剣を、手首の鞘へ戻す。私は、男に尋ねた。 「あんたは、クイック・デッドを飲んでここへ来たのか?」 「いや、私には向こうの世界の記憶はない」 私は疑わしげに、男を見る。私のケインという名を知っているという事は、王 国での私を知っているという事だ。 「信じられないのは、尤もだろうな。まぁ、おいおい説明するよ。私の名は月影。 月影愁太郎」 そういうと、男は口元を歪めた。笑っているらしい。えらく野卑な笑いに思え た。 「私の名は知ってるようだが、自己紹介しておこう。トラウスのケインだ。で、 どこへ向かっている?この鉄の箱は」 「私の家だよ」 月影の家は、高いガラスの塔の最上階にあった。星屑を撒き散らしたような地 上を、窓から見下ろすことができる。遠くに赤い輝きが見えるのは、さっきの騒 ぎの火事だろう。  近くに赤い尖塔がある。電飾でかざられたその塔は、天に向かって突き出され た赤い槍のようだ。 私は月影がグラスに注いだスコッチを飲み干すと、尋ねた。 「あんたは、なぜ私を知っているんだ?」 月影は、部屋の中でもサングラスをつけたままで、服装も漆黒のセータと黒の スラックスで固めており、立ち上がった影のように見える。肌は妙に白く、年齢 はよく判らない。十代のようでもあり、四十近くのようでもあった。笑わなけれ ば、整った顔立ちといってもいいのだろうが、笑った時のいやらしさは何とも形 容しがたいものがある。 月影は、又しても例の野卑な笑みを見せた。 「てっとりばやく言えば、私はこの世界の魔導師なんだ。君がいたあの王国を、 感じ取ることができる」 月影は、傍らのデスクを指す。そこには、液晶ディスプレイのパーソナルコン ピュータが置かれている。 「それを見てみな。私の見た夢を書いてある」 私は立ち上がると、デスクの前へ移動した。そこに打ち込まれた文章を、読ん でみる。 『黄昏の薄闇が、そっと王宮を覆い始めていた。中原で最も東方に位置する小王 国トラキア、そこは草原の異教徒の度重なる侵略を受けるうちに、その影響を色 濃く受けるようになっている。 廊下の片隅におかれた彫像の中には、異教徒の崇める獣の姿をした神がまざり、 壁を飾る色鮮やかなタペストリも、東方のものらしい。又、ケインの前を案内す る侍従も、東方系の顔立ちに、黒髪である。 ケインは冒険者としては、すでに若くない。というより、老いたと言っていい だろう。そのケインをこの東方の辺境の地へ呼び寄せたのは、友情というよりも、 ノスタルジアかもしれなかった。  旅そのものに対するノスタルジアというのも不思議だが、放浪の生活が長すぎ たせいか、一つ所に留まれぬ性分になってしまったようだ。そのせいもあって、 かつての友の招きにのってしまったらしい。  ケインの前をいく侍従が立ち止まると、厚い布に閉ざされた部屋を指し示した。 「こちらで、王はお待ちです」  ケインは頷くと、部屋に踏み込む。心を落ち着かせる薫りのする香が焚かれて いるらしく、紫色の煙と強い薫りに満たされた部屋だ。複雑な幾何学模様の織り 込まれた絨毯の上に、巨大な男がいた。巨大といっても、横幅がの話だが。 「おう、おう、おう」  男は、獣のうめきを思わす声で吠える。 (どう考えても、こいつが王というのは、なっとくいかねぇやな)  と、ケインは声にださず、呟いた。トラキアの王にして、かつての友であるジ ーク、いや、ジークフリート・ローゼンフェルト王が両手を広げ叫んだ。 「久しいなぁ、ケイン。よくぞ、余のために来てくれた」』 「これは」 私は、激しい眩暈を感じる。この文章は、私がジーク王に会った時の状況その ままだ。私は、続きを読みすすむ。すべて私がこの数日で経験した通りの事が書 かれている。そして、文章は私がクイック・デッドを飲んだところで終わってい た。私は呟く。 「どういうことだ」 「ふたつの可能性があるね」 月影はあのいやらしい笑みをうかべたまま、言った。 「ひとつは、私が君の経験を夢に見たという可能性。もうひとつは、君の記憶に、 私の見た夢が植え付けられたという可能性」 私は、月影の前に再び腰を降ろす。 「あんたの夢が私の記憶に?信じられんな。月影さん、あんたはどう考えている?」 「一番私自身が納得のいく説明は、この世界が夢であるということだ。もしも、 この世界が夢であるのなら、その夢はクイック・デッドを飲んだ人間が共有する 夢だという事になる。 夢を共有するという事は、記憶の共有にもつながるだろう。私の頭の中には色 々な人間の記憶が流れ込む。それは、君のかつていた王国の記憶だ」 「しかし、あんた自身の王国での記憶は無いのだな」 「ああ、なぜかね。ただ、この街の人間の大部分は王国の記憶なぞもっていない。 ケイン、あんたも、王国の記憶を失っていただろう。よほどの偶然がないかぎり、 王国での記憶はここではとりもどせない。多分、キーワードがあるんだろう」 私は、思い当たるものがあった。 「デルファイだ」 「あんたにとってのキーワードが、デルファイだったという事だ。この街にいる 者それぞれに、固有のキーワードがあると思う」 私は、ため息をついた。 「しかしな、月影さん。あんたの言うことは一見尤もらしいんだが、どうやって 証明できる?」 「できないよ。証明なんて。要は、リアリティの問題だろ。この街を見てくれ。 大抵の快楽は手軽に手に入る。人殺しさえ、ゲーム感覚で楽しむことができる。 あんたが、殺されかけたようにな。 誰かを殺したいというほどに憎むこともなく、その人の為なら死んでもいいと 思うほど愛することもない世界。すべてがロールプレイングゲームに取り込まれ てるかのように、与えられた役割さえ演じていればいい世界。この世界にはリア リティがない。 私の夢の中に入り込んでくる、他人の王国での記憶のほうが、ずっとリアリテ ィがある。リアリティの無いほうが、夢の世界だというのが、当然の理屈だと思 うがね」 私は、クイック・デッドを飲む前に、キャロルに聞いた魔法についての説明を 思いだした。私は、それを月影に話す。 『いいかい、世界とはな、それを見つめる眼差しがなければ、なんの意味もない。 考えても見ろ、意味や価値といったものは、心の中の問題だ。つまり、眼差しが なければ、世界は素粒子の嵐と同じ事になってしまう。  ところでだ、世界は眼差しがなければ、存在しないも同じという事はだ、世界 は心の中にこそあるといってもいい。外にある素粒子の嵐は、心の状態によって 色々と変わって見えてくる。  例をあげよう。大抵の人間は、空にかかる虹を見て、七色というだろう。しか し、東方の辺境へ行けば、三色の虹と呼ぶ部族もいれば、五色の虹と呼ぶ部族も いる。虹というのは、ただの色の分布だ。それを見る心の有様によって三色にな ったり、七色になったりする。つまり、世界なんてものは、共通の幻想だし、最 も強固な幻想が世界だといってもいい。  いいかい、魔法というのは、幻術ととてもよく似ている。ただ、幻術は、夢を 見せるにすぎないということだ。夢は夢だ。魔法はその先がある。幻術によって 世界を見るものの心の有様を変容させ、別の世界と同調させる。つまりな、ただ の素粒子の嵐にすぎない世界を、全く別の見方で見させられるという事は、別の 宇宙へ行ってしまうという事と同じなんだ。それが、魔法の基本的な考え方だよ』 私の魔法についての説明を聞いて、月影はせせら笑った。品性というものが、 かけら程も感じられぬ、笑いだ。 「魔法は夢にリアリティを与えて、それを現実に変えるということかい?もしも この世界が魔法によってつくられたのであれば、中途半端な魔法というべきだろ うな」 月影の、言う通りではある。私のここでの記憶は、確かに尤もらしい。しかし、 どこか綻びがある。具体的に指摘は、できないのだが。 「ところで、ケインどうするね。シュラウトを探すのか?」 「いや、それにしても、まずはジュリとツバキを見つけねば」 「二人の居場所なら、教えられるよ」 私は、月影を見る。例のいやな微笑みを、浮かべていた。 「夢に見たんだ。あんたが、ここへ来たのが判ったようにな」 私は、静かに流れるアコースティックピアノの音楽を聞きながら、ジン・トニ ックを啜った。そこは、薄暗く、囁き声に満ちている。煙草の煙が、夜空に流れ る雲のように、青白く漂っていた。 私は、月影に教えられたライブハウスにいる。今夜、そこにジュリが演奏者と して現れると聞いた。 ライブハウスは、剥き出しのコンクリートの壁に囲まれ、天井は金属のパイプ が縦横に走っている。ここにいる若者たちは、フロアに腰を降ろしたり、壁際に 突っ立っていたり、思い思いのスタイルで演奏者を待っていた。 そこはまるで、冥界への待合所を思わす。死者の国へ魂を運ぶ馬車を待つ、死 せる魂たち。そう思わせるほど、そこにいる者たちは、夢見るように茫洋とした 表情をしている。 静かな夜の海の底のような、空間。そこに流れるのは、蒼ざめたアコースティ ックピアノの音。私は、夢想してみる。ここにいる者たちは皆、王国のどこかに ある地下室の棺で死の夢を貪る者たちだと。死者の夢みる死者の国。 漣のように、ざわめきが広がっていく。ジュリとそのバンドのメンバが、姿を 現した為だ。ジュリたちはステージ、といってもフロアと多少段差がついている だけだが、に上がる。 天空を覆った真冬の雲が裂け、突然春の日差しが差し込んできたように、ジュ リが照明の中に浮かび上がった。その姿は降臨した天使のように、白いドレスに 包まれている。黒衣の女性が、ジュリの背後で力強く、電子ピアノを弾きはじめ た。ジュリが歌い出す。 一滴の小さな雫は、水の中へ 一羽の小さな鳥は、空の中へ 一匹の小さな魚は、川の中へ 一つの小さな星は、宇宙の中へ ジュリの瞳はまるで彼方にひろがる宇宙を見つめるように、遥か遠くへ向けら れている。ジュリが歌っているのは、この世界での私の故郷に伝わる、古いトラ ッドだった。ジュリの歌がライブハウスを支配すると、人々は死の静けさの中に 囚われていく。 窓の外に降り積もる雪 瞼の奥に広がる白い闇 愛した彼の 白い 骨を撒く。 ジュリたちは、歌以外に殆ど口をきくことなく、演奏を終えた。ライブハウス は、再び暗く澱んだ空気をとりもどす。ざわめきが水面に波紋が広がるように、 ライブハウスを満たしていく。 私は、客と一緒に一旦外へ出ると、ジュリが来るのを待つ。ジュリは、暫くし て、他のメンバーと一緒にライブハウスから出て来た。 ジュリは、目の前に立った私を見て、言った。 「ファンという訳じゃないわね」 「話がある」 ジュリは、小首を傾げる。 「何かしら」 「君の弟を探している」 ジュリは、私に名刺をよこした。 「ここへ、いらっしゃい。運がよければ会えるわ」 名刺を渡し、ジュリは私の前から立ち去る。名刺には、こう書かれていた。 「水晶占い 鏡 樹理」 その名刺に、彼女の仕事場の住所が書かれていた。 翌日の昼下がり、私は名刺に書かれた住所の場所にいた。そこは、街の中心か ら少し離れた、住宅街とオフィス街の中間的な場所だ。 鉄道の高架下に、裏路地がある。昼間でも薄暗いそこは、何か呪術的なものに 関係しているかのような祭壇が入り口にあり、祭壇には色鮮やかな南国の果実が 備えられていた。 しん、として暗い裏路地へ、私は足を踏み入れる。香の薫りと、香辛料の薫り が混ざったような臭いが立ちこめていた。 ときおり電車が通り、ごうごうと裏路地を揺する。小さな酒場や、無国籍料理 の店が並んでいるようだが、そうした店が開くにはまだ時間が早い。 壁の所々に、獣の頭を持った神の肖像や、LOVE&PEACEのマークの描 かれた路地を、さらに奥へ入る。中世のハープシコードで演奏されている、繊細 な煌めきを持った音楽が聞こえてきた。音のする所をのぞいて見ると、ガラス戸 の向こうにジュリを見つける。 私はガラス戸を開け、中に入った。 ジュリは、煙草を吸いながら頬杖をついて音楽を聞いている。目の前には、水 晶球が置かれていた。 「やあ」 そう声をかけると、ジュリはため息をついた。 「私の弟の事だったら、探偵に頼んでさがしてもらっているの。探偵の名は椿」 私は、苦笑した。 「じゃあ、私に用は無いわけだ。邪魔したな」 「ねぇ」 ジュリは、ものうげに言った。 「せっかく来たんだし、話していきなよ。あなた向こう側での記憶があるの?」 「向こう側?」 「私の弟がいってたわ。もう一つの魔法世界」 「何を聞きたい?」 「向こうでの私を知ってるの?」 「ああ」 私の笑みは、おそらく皮肉なものだったろう。ジュリは、それに気づいていた としても、無視した。 「私は、どんなだった?あなたの恋人だったとか?」 私は首を振る。 「君は、向こうでは、男だった」 ジュリの表情が止まった。彼女の目の奥で、何かが炸裂しているような気がす る。突然、麻薬のフラッシュバックが起こったようでも、あった。 高架の上を鉄道が通り、路地をゆらす。ジュリの体も、軽い痙攣を起こしたよ うに、震える。 偶然にも、私はキーワードを引き当てたらしい。ジュリは、甦る記憶のメェル シュトロォムの中で藻掻いている。 そして、彼女(彼)は、自らの生を追体験した。 痛みは、金管楽器のオーケストラが狂った楽譜を一斉に演奏したように、ジュ リアスの体を貫く。煌めきながら鳴り響く音階の狂った音楽は、幾千もの刃と化 してジュリアスの肉体をずたずたに引き裂いていった。苦痛は人間の許容できる レベルを遥かに越えている。あっと言う間に意識が黒い闇へと、飲み込まれて行 く。ジュリアスは、その時死を確信した。 ジュリアスは闇の中にいる。自分の生死も定かでないまま、原初の海のような 所を漂っていた。ジュリアスは、自分が生まれる前に還ったのかと思う。 ジュリアスは、叫んでみようとした。絶叫も呪詛の呻きも、絶望の嘆きもすべ て虚しく暗黒の海へ、吸い込まれていく。その海は、無限の広がりを持っている ようだ。 ジュリアスは、その海に同化しようと考える。水の中の水のように、砂の中の 砂のように、事物のひとつ、世界との連続体として、海の中へと沈み込んでいく。 自我と呼ばれるべきものが、剥がれていくのを感じた。それは森の中の一つの木 となり、自然の流れを感じるのと似ている。 自分と自分の境が、曖昧になっていった。死ぬというのは、こういうことかと 思う。死とは、「もの」と「もので無い自己」の境目が消えてしまうということ か。 やがて、声がするのに気がつく。それは、遥か遠い水面で起こるさざ波に似て いた。自分は海の底で流れのない暗黒に同化しているのに、水面でおこる波紋が 自分のかつて人間であった部分を震わせる。 その声がジュリアスにとって意味があるものになるには、随分長い時間が必要 だった。ジュリアスは、自分に呼びかけられる声を理解する。 (ご機嫌は、いかがかね。ジュリアス王子) (ああ、悪くはない) ジュリアスは、その声に答えたとたん、自分の精神が血肉の中へ墜ちていくの を感じた。 (ここは、どこだ。あんたは、誰だ) 声が答える。 (私は、医者だ。ラブレスと呼んでくれ。君は、今自分がどういう状態にあるか 判っているかね?) (ああ、私は暗殺者の手に落ちて、濃硫酸のプールへ沈められ、おそらく死んだ) (君は、助かったんだよ、奇跡的にね。ただ、君の肉体は、ほとんど消失したも 同じだが。君の精神を魔道によって別の空間に保持し、その間に残骸となった君 の肉体の再生を行っている。ほぼ、内蔵と骨格は再生できたので、君の肉体へ君 の精神を戻したんだ。今だから言うが、これは成功する確率の低い作業だ) ジュリアスは、物憂げに言った。 (私の肉体に、私の精神をもどすことが難しいのですか?) (その通りだ。厳密に言えば、もうジュリアスという人間は死んでしまっている といえる。ただ、かつてジュリアスと呼ばれていた人間を構成していた部品は残 っていた。それをもう一度組みあげたのだよ。 もう少し具体的に説明してみると、今君の肉体を再生しているのは、殆どギミ ックスライムという虫なんだ) (虫ですか) (ああ。こいつは、不定形生物で、ふつうはただの蛋白質の固まりにすぎない。 ただ、寄生生物である為、宿主にとりつくと、その宿主の肉体を喰らい、肉体を 構成する情報を手にいれる。その情報から喰った部分の肉体を再現し、宿主と共 生関係を作る。 ただ、問題は、この寄生生命が宿主の精神を乗っ取ってしまう事にある。私は、 魔道の技術体系の中にある、邪神と呼ばれるエネルギー生命体や、竜族と呼ばれ る宇宙の前形成領域の生命体と契約を結ぶ方法が、ギミックスライムのように原 始的な生命にも通用するのではないかと考えた。そしてそれに成功したのだよ) ジュリアスは、うんざりして言った。 (ようするに、私は虫になったのですね) (そうではない。細かいやりかたを説明できないが、君とギミックスライムを共 生させるには、ジュリアス王子である君を無くし、ギミックスライム=虫も無く し、第三のあたらしい生命体を作ることになる。でなければ、免疫機能が作動し なくなり、すぐ死んでしまうからね) ジュリアスは、混乱していたが、どうでもいい気もした。 (免疫ですって?) (君と、君でないものをどうやって区別するかだ。もしも、君が虫になったのな らば、かつてジュリアスであった部分が虫に殺され、死ぬだろう。君が君であり 続ければ、虫の部分を殺し、死ぬことになる。生きるということは、自他の区別 をつけ、他者からの進入を阻止する事だからね。君は、新しい主体を確立しなけ ればならなかった) ジュリアスは直感的に理解した。 (ああ、私は生まれ変わるのか) (そうだ) (だったら、女性になりたいな) (なぜかね) (女性には王位継承権がないからです。トラキアの法律でそう決まっている) (王になりたくないのか?) (ジュリアスは死んだ。でも、あなたがつくる新しい人物が、ジュリアスの代役 をさせられる可能性はある。ごめんだね。私は、死ぬ事によって果たすべき義務 は果たした。だったら、くだらない争いからは解放されたい) (無理だね) ジュリアスは、為息をつく。 (なぜ?) (遺伝子レベルの組み替えは、私にもまだできない。君を女性的にすることなら できるが) (まぁ、そのへんで手を打ちましょう) (判った。見た目は女性になるということで、勘弁してくれ) ジュリアスは笑った。自分を縛り付けていた、あの下らない権力闘争に絡む陰 謀から解放されるとは。ジュリアスは思う。生まれ変わるのは、悪くないと。 その後、肉体を女性として再生したジュリアスは王位継承権を承認される成人 の儀式まで自分が女性化した事を隠し続ける。そして、すべての貴族、長老たち の集まる成人式の場で自分の裸体をさらけ出し、宣言した。 「私、ジュリアスは本日を持って男性を捨てます」 それは、辺境の名門と呼ばれたローゼンフェルト家にとって歴史に残る不祥事 となる。ジュリアスはその場で、国外永久追放となった。 私の意識が、路地裏のジュリの占い所へ戻る。私は、ジュリの記憶の再生と同 調した。ジュリの記憶の一部がなだれ込み、私も又、ジュリの記憶を追体験した のだ。 目の前で、水晶球が冴えた輝きを放っている。高架を通る電車によって、路地 が揺れる。ジュリの瞳も、現実に戻って来た。その目は、私が王国で会ったジュ リのものだ。 ジュリは呼吸を整えると、囁くように言った。 「シュラウトを止めないと」 その時の経験がきっかけとなったのか、月影と同じように、他人の記憶の夢を 見るようになった。そして、その夜、私の記憶はツバキの記憶とシンクロするこ とになる。 雨が、降っているようだ。事務所に置いた簡易ベッドの中で目覚めた私は、空 気に混ざる水の臭いを感じる。 フィードバックノイズが鳴り響いている状態の頭で、考えた。飲んで意識が無 くなった状態でも、本能で事務所に戻ってきたようだ。明かりの付いてない事務 所は、灰色で色がない。ただ、窓のブラインドの隙間から日差しが差す所を見る と、陽は昇っているようだ。 シャワーを浴び、着替える。その事がとほうもない難事に思えたが、私は無理 矢理体を起こす。白いコートが目に入る。どうやら、コートのままベッドに倒れ 込んだらしい。 立ち上がった時、ドアをノックする音を聞いた。事務所の居住用に使っている 部分から、来客時の応接用の部屋へと移動する。確かにドアがノックされていた。  私は、無視すべきか、一瞬考える。ただ、物騒な客だったら先に追い返してお いたほうがいいと判断した。 ノックは、止みそうもない。私は、窓のブラインドを上げ、道路を見る。昼さ がりの街が、眼下にあった。やくざ者の車は、止まっていない。 しつこく繰り返されるノックに、応えることにした。 「何の用ですか」 女性の声が応える。 「あの、仕事の依頼で来ました」 仕事?ああ、私は探偵だった。と、まぬけな事を考える。私は、ドアを開けた。 黒いコート姿の女性が立っている。随分若い。 「えっと、お出かけの所だったとか?」 私は、コートを着たままだった為、でた質問らしい。私は、否定すると部屋に 入るよう勧めた。エアコンが作動していない部屋は、結構寒い。私と彼女は、コ ートを着たままソファへ座る。彼女の手には傘が握られたままだ。彼女が尋ねる。 「あの、椿真夜子さんですね」 私は、とりあえず、認めておいた。 「私は、鏡樹理といいます。弟を探してほしいんです」 私は、それから延々と私の職業を説明した。私は、いわゆる興信所の下請けの 下請けである。個人の調査能力はたかのしれたものだ。失踪した人を探すのなら まず、警察。それがいやなら、私が契約している大規模の興信所を紹介してもい い。 彼女は、全く私の話を聞いていなかったように、少年の写った写真を出す。 「これが、私の弟の写真です。鏡修羅という名です」 美しいが、瞳が強い光を放つ少年に一瞬気を取られた。しかし、私は立ち上が ると、ドアを開ける。 「お帰りは、こちら」 「私は、占い師を仕事にしています」 私は嫌な予感がしたが、手を組み黙って聞く姿勢を取る。彼女は続けた。 「いわゆる、超常現象の相談にくる人も中にはいます。そういう人から聞いたこ とがあります。 ある人が行方不明の息子を探していた。その男の子は、見つかった時には、過 去の記憶を失い、全く別の人格、別の性格を持った人間へと変貌していた。その 男の子にとりついた憑き物を祓った祈祷師の能力を持った探偵がいると。 その探偵の名は、椿と聞きました」 私はため息をつく。 「あなたの弟も憑かれていると?」 「私の弟、修羅はデルファイという麻薬を常用していました。この麻薬によって、 別の世界の別の記憶を得ることができるといわれています。はっきりとは言えま せんが、修羅の中には、別世界での彼が潜んでいたように思います」 「私は祈祷師ではない」 「ええ」 樹理と名乗ったその女性は、静かに笑う。 「でも、受けて下さるのでしょ」 私は、再度ため息をついた。 「誤解をとく為に言っておくが、私が祈祷師ではないと言ったのは、祈祷師の能 力を持っているのは、私の兄だと言いたかったんだよ。十年前に死んだ私の双子 の兄こそ、憑き物を祓う力を持っている」 樹理の目が大きく見開かれた。 「その私の兄が、私に憑いている。兄が憑依し、トランス状態になった時だけだ。 私が祓うことができるのは」 私は、驚きの表情をした樹理に言った。 「受けよう、この仕事。多分、兄ならそうするだろうからな」