憑依と一口でいっても、様々な形態がある。陰陽師が使役する式神や、修験者 の使う護法童子も一種の憑き物といえるだろう。その他に犬神筋や、いずな、く だぎつね、おさきぎつねのような動物の精霊もいる。ものに憑けば付く喪神にな るし、場所(屋敷)に憑けば座敷童子だ。又、生き霊、死霊も当然人に憑く。 祓うことができるのは、一般的には呪詛といった呪術によって意図的に憑かさ れた憑き物といえるだろう。むろん、すべての憑き物を祓う対象にできるはずだ が。 憑き物とは、ようするに偶発的な現象に形態が与えられた状態といえる。偶然 を意味のある物語の一部へ転化する力の発現を、憑依といってもいいだろう。 たとえば、ある一家が病で全滅したとする。病の発生自体は偶発であるが、そ れがその一家がある修験者の恨みを買いその呪詛を受けたということになると、 必然へと転化させられるわけだ。 祈祷師の中にある力とは、偶然を必然へと転化する力であり、無意味な現象を 物語の一部分へと取り込む能力といっていい。私の中にはおそらく、その力があ る。 それは、こういってもいいだろう。人は物語の中に生きている。ただ、人は時 として物語からはずれ、物語の形成される以前の混沌とした世界に落ち込む。そ ういた人は、概して誤った物語に憑かれる。それが憑き物。祈祷師とは、そうい った人を正しい物語へと戻すのが役目だ。 私の中にそうした力があるのは、確かである。過去、そうした祈祷師としての 役割を果たしたこともあった。ただ、私自身はその力をコントロールする事がで きない。ようするに、私の兄が私に憑依した時、私は私の周りをひとつの物語の 中へ組み込むことができる。 私と私の兄は、愛し合っていた。当然、許されることのない愛である。私と私 の兄は私たちを支配していた祈祷師のいうなれば組合のようなものから、逃走を 企てた。しかし、兄は私を守るため死んだ。あたかも、それが予定調和であった かのように。 組合は、時の権力者と結びつき、呪詛による政敵の調伏、あるいは呪詛に対す る祓いを行っている。兄は絶大なる能力を持っていた為、元締めが逃亡を許さな かった。兄を放置するのは、危険すぎると判断したのだろう。私には兄のような 能力はない。その為、元締めも兄が死んだ以降、私に手をのばすことはなかった。 私は、兄とともに死ねばよかったのかもしれない。しかし、兄の憑坐となった 今、死ぬに死ねず、生きるに生きれない状態だ。 私は、鏡修羅の友人であり、デルファイの売人でもある塔秋夫の家の前にいる。 塔秋夫の父親は、さる電気会社の重役であり、その家は高級住宅であった。防犯 設備も念入りらしく、カメラにより訪問者を監視できるようになっている。 私は、塔秋夫の家のインターホンを押した。母親らしい女性がでる。私は、私 が仕事を貰っている保険会社の名前を出した。必要に応じて使用できるように作 ってあるその保険会社の調査員の肩書きの入った名刺を、カメラに向かってかざ してみせる。 私は、さる事件の保険支払にからんだ調査をしており、その事件を目撃したら しい塔秋夫に話を聞きたいと訴えた。インターホンの女性は私に入るよう、告げ る。鉄の大きな門がゆっくりとモータ音を立てながら自動的に開いていく。 私は、玄関の前に立った。扉の開いたのは、青年というよりは、少年に近い男 の子だ。塔秋夫らしい。 「入ってよ」 秋夫は、私を招くと応接間に招きいれた。子鹿のように華奢な体の少年は、落 ち着いた澄んだ瞳をしている。とうてい麻薬の売人とは思えない。 コーヒーカップを私に渡した秋夫は、黒くきらきら輝く瞳を私に向ける。私は 話を切り出そうとした。 「ちょっとまってて、かあさんも一緒に話を聞くといってたから」 私は苦笑する。秋夫は部屋から出ていく。 「今、かあさんを呼んでくる。コーヒーでも飲んでいてよ」 邪気のない笑顔につられてコーヒーを口に含んだ私は、急に眠気に囚われる。 私は自分でも気づかぬうちに、眠りへ落ちていた。 そこは、海の底のような静けさに支配されている。冥界のように、心地よく湿 った薄暗さに満ちた空間。私は、荘厳さを漂わす木造の建築物の中にいる。 凝った曲線の装飾を施された階段の手すりを辿り、玄関ホールを二階へと上が った。そこは、水晶の煌めきを持ったシャンデリアに照らされる、黄昏の空間で ある。玄関ホールの上は不思議と霧の立ちこめているような気配のある、薄闇に 閉ざされたロビーだ。 優美な曲線を描く階段から離れ、私の身長の2倍はありそうな大きな木の扉に 手をかける。金属のひんやりとした感触が、手に伝わった。 扉の向こうは、画廊である。部屋の両脇に、百号くらいの大きな絵が並んでい た。天井は高く傾斜しており、天窓から紅い血のような夕日が差し込んでいる。 私は少し軋み音を立てる木の床を踏みしめ、冥界の神聖なる気配を持ったその画 廊の中を歩きだす。 その画廊の絵はすべて凄惨な場面を、宗教画の厳粛さを持って、描いたものば かりだ。神に祈りを捧げる敬虔な瞳を持った女性は、斧で顔面の半分を断ち割ら れており、受胎告知を受ける聖母は悪魔に肉を喰われている。 聖人は妖婦に屈し、赤子を踏み殺し、信徒たちは異教徒を焼き血祭りにあげて いた。それらの絵は太古の黄昏のようなうっすらとした黄金の光につつまれてい るようであり、宗教画特有の毅然とした情景描写を持っている。 私は、ゆっくりと画廊を歩む。私は画廊の中に居るのが私一人では無いことに 気がつく。片足を失った老人が、憑かれたような顔をして杖をつき、傍らを通り 過ぎてゆく。黒いドレスを着た、片手のない貴婦人が私の前を横切る。 私は、正面の扉を開き次の部屋へ入った。そこにも、同じように絵が並んでい る。私は絵の中から抜け出してきたのかと想う程、体の一部を失っていたり、血 の滲む包帯を顔面に巻いていたりする人々の間を進む。 やがて、一際昏く、神聖な静けさに満ちた部屋に入り込んだ。その部屋の奥に は優美な放物線を描くドームに覆われたステージがある。天井は、曲線を描き高 い。教会の礼拝堂を思わせる場所だ。 正面のステージの奥には、二百号くらいの絵が飾られている。絵の中で一人の 裸体の女性が海の中から誕生したばかりの美神のように夢見る笑みをみせ、佇ん でいた。 それは、写真のように緻密で写実的な絵である。その女性は、美しく微笑んで いるが、その手は血塗れであり、日本刀を握っていた。日本刀は死肉の脂がつい てはいるが、冬の日差しの鋭利な輝きを放っている。その足下には、惨殺された 死体が幾つも転がっていた。その死体は切り刻まれ、手や足は胴から離れ、破壊 された人形の部品のように放置されている。 私は、その絵の中で笑みを浮かべる女性を凝視した。その女性は私と同じ顔を している。その女性は、私だ。そう、思った瞬間、私は絵の中にいた。ステージ の上から、白いコートを身に纏った私を見つめている。その、私が見つめる私は 叫びだすように、口を開いた。 私は、自分の叫び声で目覚めた。私は塔秋夫の家の、応接間のソファで目覚め る。大きく息をつく。素肌の感触が自分が全裸であることを、知らせる。左手に 持っているものが、日本刀である事を確認した。 私は自分が夢の中で見た、絵の中の自分の姿と同じ状態である事に気づく。部 屋には紅い薔薇の花びらを散らしたように、血の滴の後がある。私は、その血痕 を辿った。部屋の外の廊下にも、血は続いている。 私は血を辿って、階段を上がった。一つの部屋の前で、血の後は途絶えている。 順当に考えれば、この部屋に私はいたのだろう。そして、血塗られた日本刀を持 ち階下の応接間で眠った。 私は、ドアのノブに手をかける。開かない。ドア自体には鍵穴はないことから 考えると、どうやら内側で鍵がかかっているようだ。 私は、ドアに体当たりをする。二度目でドアは開いた。まず、私の目に飛び込 んできたのは血の赤だ。 部屋は沈みゆく太陽の深紅の光が照らし出したように、飛び散った血によって 紅く染められている。死体が屠殺場の肉のように、無造作に放り出されていた。 その体は、かつて人間であったとは思えぬ程、ばらばらに斬られている。 肉の切断面は、とても鋭利な刃物で斬られたものと思えた。私の手にしている 日本刀のように。転がっている手足と胴の数を勘定してみると、3人が死んだよ うだ。 一人は女性、一人は男性、一人は少年。肉体からそう判断する。少年は塔秋夫 であり、二人の男女は両親だろうか。 私は、少年の切断された首を探す。見あたらない。外でサイレンの音がする。 警察らしい。 鬱蒼とした森に覆われたその建物は、老いた王のように荘厳さを持った木造の 館だ。私は、錆びた鋼鉄の重い門を開ける。門は苦鳴のような軋み音をたてて開 く。 人の手の入ったことの無い、原始の森を思わす木々が私の前に立ちふさがる。 穏やかに微睡む老いた王を守る、緑の巨人のようだ。 私は地面を埋め尽くした羊歯や、茨を踏み分け、建物へ向かう。私は、建物の 玄関に立った。 私は、塔秋夫の家から逃げだし、途中事務所に立ち寄り塔の家で手に入れた衣 服を処分し、自分の服に着替えてここにいる。私はこの館へ入る必要があった。 大きな、身長の倍はある扉を開く。扉の奥は玄関ホールであった。床には水が 満ちており、玄関ホールは冥界の湖と化している。 ホールの奥には優美な曲線を描き上方へと延びる、二つの階段があった。その 階段は静かな湖から飛び立とうとする黒鳥の翼のように、玄関ホールの両側へと 柔らかな曲線を描いて広がっている。 私は、幽玄の闇につつまれ深緑の色をした水を湛える玄関ホールへ、足を踏み 入れた。水に踏み込んだ足が、神聖な静寂を破り、水飛沫の音が館のうちに響く。 酷く古びて荒れてはいるが、この建物は塔秋夫の家で見た夢の建物と同じだ。 玄関ホールを過ぎ、階段に足をのせる。腐りかかった木の階段は、それでも私 の体重を支えた。私は二階のロビーへ出る。 撃ち落とされたガラスの天使のように、シャンデリアが床に墜ちていた。落ち た星が散らばっているような、ガラスの破片を踏み分け奥へ進む。 大きな木の扉をあける。そこは、深海の静けさを湛えた画廊だった。破れた天 窓から光の柱となった日差しが、差し込む。 腐りかけ、軋む床を歩んで行く。壁面には絵は無く、ただ、華麗な彫刻を施さ れた額縁だけが残っている。 私は荒廃している以外は夢の通りである事を確認し、先の部屋へ進んでいく。 私は、荒れ果てた部屋を突き抜け、最奥の礼拝堂を思わせる作りの部屋へたどり 着いた。 そして、そこで私を待ちうけていたのは、予想したとおりの人物である。半ば 崩れたドームに立つ、中世絵画の天使が見せる無垢の笑顔を浮かべたその少年は、 塔秋夫であった。 いや、塔秋夫はおそらく死んでいる。 「君が、鏡修羅か?」 少年は、笑った。 「樹理のもってきた写真を見たんだろう」 「写真とは違うが、顔は変えれるからな。私が塔秋夫の家にいつた時、君は、も う塔秋夫とその両親を殺した後だった。私が眠りについた後、目覚めるころを見 計らって警察へ通報し、惨殺を起こした現場に潜んで私を待つ。私が来て警察の サイレンを聞いて逃走した後に、部屋から逃げ出した」 少年は無邪気な笑みを見せたままだ。 「なんの為にそんな事を僕がしたんだ?」 「私に、物語を与える為だろう。呪詛の為のプロセスといってもいい。私に人殺 しのスティグマを与え、塔秋夫の怨念を憑依させる事により、自分を祓う為のプ ロセスに入らせないようにした」 少年は髪をかき上げる。物憂げな瞳が私を見る。少年は、酷く老いたふうに見 えた。 「僕が鏡修羅では無いように、あなたも椿真夜子ではないね」 私は頷く。 「私は、椿破瑠夫だ。真夜子の兄になる」 少年は肩を竦める。 「いつ憑依した?」 「君が、塔秋夫とその両親を生け贄にして呪詛を行おうとした瞬間。死者の念が こもった密室は、心霊的エナジーが高まる。そこに入った瞬間、真夜子の意識が 飛んだ。君が呪詛をしかけようとしたそのタイミングは、私にとっても憑依する タイミングであったのでね」 ステージの上に腰を降ろした少年は、膝に肘を置き、頬杖をついた。その瞳が きらきらと楽しげに輝く。 「君はようするに私と会いたかったと見える。なぜだ」 「あなたなら、気づくと思ったんだよ」 「ここが君の見せている夢だということにか?」 少年は首を振る。 「確かに僕は、あなたの心の中からこの館を選び、夢を編んだ。生き霊として真 夜子に憑依することにより、夢の中でこの館に居ればあなたと会えるだろうと思 った。そんな事じゃない。僕は何者だい」 「鏡修羅に憑依した霊、ではないね、君は」 「もう一度聞くよ、僕は何者だい」 「シュラウト・ローゼンフェルト。ああ、そういうことか」 私は、手で目を覆った。 「すべては、夢」 それが私、ツバキ・ロンドンナイトのキーワードであった。 甦る記憶が巨大な渦となって、私を巻き込む。私は、その渦の中に巻き込まれ 自分自身を失っていく。暗黒が私を覆い、私は意識を失った。 私は、寝床から飛び起きる。深い喪失感は、残ったままだ。私は慌てて着物を 身に纏うと、部屋から飛び出る。 広間には、長老たちが集まっていた。長老たちは、私の蒼ざめた顔に気がつき、 頷きかける。 「あなたの兄上、ハルオ様が亡くなりました」 長老の言葉に、私はがくがくと頷く。 「やはり、感じ取られましたか」 「死ぬ前に、兄は私の所へ来ました」 長老たちは、頷く。私は奇妙に想う。長老たちは、ロンドンナイト家の当主を 失ったというのに、絶望感もなく、落ち着き払っている。私には魔道の能力は無 く、兄の後は継げない。ロンドンナイト家は途絶えるしか無いはずなのに。 「幸いにして」 長老は、禍々しい笑みを見せ、言った。 「ハルオ様の記憶は、ここに留めることができました」 長老の一人が、赤い水に満たされた水槽を掲げる。そこには、白い半球体のも のが浮かんでいる。人の脳髄を林檎の実ほどに小さくしたもの。 私は吐き気を堪えていった。 「夢見虫ね」 長老は喜びの笑みを見せる。なんとういうことだ。兄の魂は、この醜い無様な 虫けらに囚われた。あの気高く美しい兄を、こんな形で貶めるとは! 私の声は、怒りで震えた。 「あなたがたは」 「とてつもない僥倖ですぞ。我々は当主を失った。しかし、この夢見虫をあなた の脳に埋め込むと、ハルオ様は甦る」 「ばからしい、兄が甦るのではなく、その虫が兄の夢を見るだけです。このよう な冒涜は」 「すばらしい事です」 長老たちは私の言葉なぞ、聞いていない。死ぬ前に兄が私の元へ来たのは、警 告だったのか。 「あなたは、意識を失い死ぬのとおなじ事になるかもしれない。しかし、あなた の内にハルオ様が甦るのです。あなたも、この奇跡に感謝せねば」 「馬鹿な、あなたがたは、虫の僕になりさがるのか」 長老の一人が印を結び、呪文を唱える。私の視界は、きらきら煌めく光の破片 に覆われた。これは、知っている。魔道の夢だ。私には逆らうことはできない。 私は無限に広がる煌めきの中へ、墜ちていった。 私は、記憶の渦の中にいる。私はすでに、自分が何者であるかを知らない。夢 見虫は私の脳髄にその触手を絡みつかせ、私の脳へハルオ・ロンドンナイトの記 憶を植え付けた。 私は、ハルオかもしれないし、ツバキかもしれない、あるいは夢見虫の見る夢 かもしれない存在となっている。私は、ゆっくりと目覚めた。 全裸のまま、私は起きあがる。祭壇の前らしい。私は、寝かされていた寝台か ら降りると、その部屋から出る。長老のひとりと出会った。 「ハルオ様、甦られたか」 私は、その長老の頭をつかむ。異常なパワーが私の身体に流れているのを、感 じる。意神術、その力が私の内に横溢していた。私は自分でコントロールしきれ ぬ力を手に入れたようだ。私の脳に埋め込まれた夢見虫が、私の中に眠っていた 力を開放したらしい。 私は、恐怖に震えている長老を掴む手に、少し力を加えた。凄まじい絶叫があ がる。私は老人の頭を、握りつぶしていた。果実を握りつぶしたように、血と脳 奬が撒き散らされる。足下にできた深紅の水たまりの中へ、私は死体を捨てた。 長老たちが集まってくる。血塗れの私を見て、長老たちは悪魔の石化の呪いを うけたように凍りつく。私は、長老たちにいった。 「おまえたちは、私を、私の妹を、殺した。その償いをせねばならない」 長老たちは、呻くようにいった。 「ハルオ様、お気を確かに」 私は、死の颶風と化し、走り抜けた。 私はツバキの夢から開放され、目覚めた。月影の家のソファに、私はいる。耳 の奥から夢見虫が抜け出していくのを感じる。月影に飲まされたスコッチに入っ ていた眠り薬による夢を見ていたらしい。  ツバキが夢見虫を飛ばし私とおそらくジュリを同時に自らの夢へ引き込み、自 らが月影のしかけた夢から目覚めると共に、私たちも目ざめさせたようだ。その 時ツバキの意識が逆流して、彼女の記憶を一部分を共有した。夢の後半はツバキ の経験の追体験だった。 隣の部屋へ続く扉をあける。そこにはやはり、ジュリとツバキがいた。 「あら、いい夢がみれたようね」 私の顔をみるなり、ジュリがいった。 「まだ、夢の途中だろう。おれたちはまだ、あの地下室の棺桶に寝ているわけだ からな。月影の野郎はどこだ」 「月影ではない」 ツバキが、託宣を下すように言った。 「彼がシュラウト・ローゼンフェルトだ」 私は頷く。ツバキと記憶を共有した為、ツバキが月影の正体見抜いたのが判っ ていた。 「やつを、引っ捕らえて王国へ戻ればいいわけだ」 「どうやって?」 ジュリの言葉に、私の目は点になる。 「帰りかたは、ツバキ、あんたが知ってるんじゃないか?」 「まさか。デルファイからの帰りかたなんて、誰も知らない。帰ってきたものは、 みんな偶然帰れただけだ」 私は、眩暈を感じた。 「よくわかったよ、今回の仕事がいきあたりばったりの計画で進められていたこ とが」 「まぁいいじゃん。人生なんて、そんなものよ。さぁ、シュラウトに会いに行き ましょ」 そういうと、ジュリが次の部屋へゆくドアを開ける。薄暗いその部屋は三方が 窓であり、水晶の欠片を散りばめたような、夜の街が見えた。その部屋は光の破 片の浮かぶ夜の海を進む船の、船橋を思わす。 月影、いや、シュラウトは、大きなディスプレイの前にこちらを向いて座って いる。ディスプレイの蒼ざめた光を背にうけ逆光になっている為、表情は見えな い。 「ようこそ、兄さん。いや、姉さんと呼ぶべきだろうかな?」 「ジュリと呼びなさい、シュラウト。何をしているか、見にきてあげたわよ」 「そいつは、どうも」 シュラウトは笑っているらしい。 「ジュリ、あなたには、眠っておいてもらおうと思っていたのに。あなたに見て もらいたくない事を、するんでね」 「何をする気?」 「簡単なことさ。世界の破壊」 「おもしろそうね」 「いや、気に入らないって顔してるよ、ジュリ」 シュラウトは立ち上がった。 「いこうか、ジュリ。ここが、どこかを教えてあげる」 「ここがどこかって?知ってるわよ。いわれなくても」 「へえ、デルファイとは何か判っているの?」 「ええ。ここは、星船の中」 私は驚いて、ジュリを見る。 「星船ていうのは、あの神話にでてくる星船か?」 「そうよ」 神話では、邪神グーヌは金星にある次元牢から星船に乗って地球へ来た事に、 なっている。次元牢を覆う次元渦動を抜け出すのはとても困難な事であり、星船 は地球についた時には、傷つき飛ぶ力を無くしていた。 ただ、星船は神話だけでは無く、現実に存在する。神話に語られているように 邪神が地上へ降臨する為に作られたものかどうかは、判らない。むしろ、一般的 な見解としては、人類がこの惑星へ降りるのに使用されたと考えられている。 王国は、その星船を復活させる為に存在しているといってもいい。3千年前、 王国が建国される時、最初の王エリウス一世が魔族と聖なるヌース神、そして邪 神グーヌと、人類が星船を復活させるという約定を結んだと伝説では語られてい る。 星船は王国が分裂し、混乱していた時代には、その存在を忘れ去られていた。 しかし、エリウス四世が王国を再統一した際に、星船も見いだされ、再び復旧作 業が始まったらしい。 むろん、どこまでが真実であるのか、私には知るすべもない。 シュラウトは、背後のキーボードを操作する。そこにテキストデータが表示さ れた。シュラウトは皮肉な笑みを見せ、ジュリにそのデータを示す。 「じゃあ、真実もすべて知ってるんだな、ここにあるような」 ディスプレイを私たちは見る。 『 −以下は物理学者クライン・ユーベルシュタイン教授による今回の事態の要約である−  それは人類がはじめて月に立った時点からはじまった。いや、厳密にいえば超 国家機関であるゼータ機関が、月からそれを持ちかえることをUSAへ指示した 時点ではじまったというべきなのだろうが。  それは一切公開されることはなかった。人類が月面上で見出し、そして持ちか えったもの。それは巨人の死体である。人類は月面上で見出した巨人の死体から その体組織の一部を切りとって地球へ持ちかえったのだ。  月面上に巨人の死体があることをなぜかゼータ機関は知っていた。ゼータ機関 のものたちは、月はかつて巨大な宇宙船(=星船)として機能しており、その乗 組員が巨人たちだと”知って”いたらしい。  そして、ゼータ機関は、その巨人の体組織の研究を日本に命じた。その決定に は、おそらく西欧諸国を危機に陥れる可能性を低くしたいという意図があったも のと思われる。  もちろん、日本政府も見返りとして何がしかを手に入れたのだろうが。  しかし、それは西欧諸国にとって事態の進行を少し遅らせたにすぎなかったの ではあるが。  巨人の死体から切り取った体組織の分析のプロジェクトチームには私も加わっ た。私たちは、そこから生きたウィルスを見出すことになる。私たちはそのウィ ルスを亜空間ウィルスと命名した。それは時空間の性質を変容させてしまうウィ ルスだった。  時空間を変えるといってもそのウィルスの周囲のナノメートルの範囲でしかな い。  よって、それが直接的に宇宙を変容させるわけではなかった。  しかし、結果的にはそれは私たちにとっての宇宙を変容させてしまうことにな るのだが。  さて、時空間の性質を変容させるとはどういうことか。私たちの宇宙は、超弦 理論によればもとは10次元であったことになる。しかし、私たちが認識可能で あるのは、あくまでも4次元のみである。ビッグバンにおいて、6次元がプラン クスケールまで圧縮されたため、私たちには認識できなくなったということだ。  亜空間ウィルスはこの6次元を再び拡張する(といってもほんのわずかばかり の単位でだか)。6次元が拡張されるとどうなるか。元々素粒子というものは圧 縮された6次元の範囲内で振動し、ふるまいを決めている。しかし、その6次元 の幅が拡張されたとしてみよう。素粒子つまり量子のふるまいは圧縮時より、は るかに多彩なものになる。  量子脳理論からするとニューロン神経間の接合部分にある軸策内のマイクロチ ューブルにて波動関数の収縮がおこり、それによって意識が発生するということ になる。さて、脳内に入りこんだ亜空間ウィルスが微細管であるマイクロチュー ブル内の次元を拡張してしまったとしよう。それはマイクロチューブルの波動状 態(つまり量子の重なり状態)をより多彩なものへ変容するということだ。  それは恐るべき結果を生み出した。  量子力学におけるコペンハーゲン解釈に従うのであれば、観測が波動関数の収 縮を引き起こす。多世界解釈に基づけば、それは量子的に重なり合っている世界 から一つの世界を選択するということになる。そしてその量子的重なり合いが6 次元の拡張によって多彩なものになれば、必然的に蓋然性が変容してしまう。心 理学的な言葉をつかえば(つまりいわゆるユング心理学の用語に従えば)シンク ロニシティが発生する可能性が飛躍的に高まるということだ。  それは平たくいえば、魔法を実現するということだ。  亜空間ウィルスは私たちが徹底した防疫体制を敷いたいも関わらず、次々と研 究者の脳を侵していった。そのウィルスはどうも量子トンネルを通じて感染して いくようであり、物理的に感染を防止するのは不可能だということが判った。そ して、発病したものは間違いなく発狂し、かつその周りでは不可解な事象が続発 した。  例えば、妖精たちの乱舞を私は見た。  一瞬、異界への扉が開き、発病者がそこへ吸い込まれるのを見た。  何も無いところから炎が立ち上るのを見た。  悪魔や天使を、龍やその他様々な妖魔を見た。  おぞましく奇怪なもの、清浄で美しいもの、色々なものを見た。  亜空間ウィルスは一旦地球に持ち込まれたが最後、誰もその感染を食い止める ことはできない。感染者を隔離しておくことによって広がるのを遅らせることは 可能かもしれないが、空気感染ではなく、亜空間を通じて感染するウィルスを食 い止めようがない。  私たちは人類が発狂して全滅するのを食い止めるため、ひとつの方法をとるこ とにした。それは亜空間ウィルスの効果を打ち消すような作用を持つウィルスを 創り出すことだ。そして、そのウィルスのデータはゼータ機関によってもたらさ れた。よって私たちはそれにゼータウィルスという名を与えることになる。  私たちはゼータウィルスを完成させた。  しかし、それには大きな問題が潜んでいた。  私たちは一度拡張された6次元を再び圧縮する。つまり、亜空間ウィルスの作 用を止めるのではなく、あくまでも一度拡張されたものを再圧縮するということ だ。6次元は一度拡張されると影の物質とでもいうべきダークマターを引きこむ。 ダークマターは、光子にも電磁波にも反応しないので、私たちは認識することが できない。しかし、ダークマターは重力子に反応する。つまり、私たちの質量は 見た目には変わらないにも関わらず増加してしまう。  6次元が開かれた状態であればダークマターは量子的重なり合いの中に存在す るため、質量の増加は感じられない。しかし、6次元を閉じてしまうと、量子的 な重なり合いが制限されるのでダークマターは実体化してしまう。私たちはダー クマターを消すことはできないことを知った。  人類は発狂から免れたとしても、今度は膨れ上がった体重によって身動きがと れなくなることになる。私たちはゼータウィルスにひとつの機能を追加する。  ゼータウィルスによって私たちの遺伝子を組替え、身体を半分の大きさへ変え ることとしたのだ。骨格や筋肉の強度、そして心肺機能はそのままで身体を半分 にする。そのことによってダークマターによる質量の増加に私たちは耐えれるこ とになった。  私たちは、ゼータ機関の指示によって人類補正計画を発動した。  人類のサイズを半分にするゼータウィルスを世界中へ撒き散らすこと。それが 人類補正計画である。』