一度批評について真面目に考える必要があるのではないかという思いに捕らわれたの で、以下に書いてみる。 さて、辞書で批評をひいてみると以下のように書かれている。 「事物の善悪・優劣・是非などについて考え、評価すること。」 ということはおそらく批評は大別すると、以下の二つのことについて判断を行うとい うことだ。 1.事物の善悪(是非) 2.事物の優劣 事物の善悪とは、倫理の問題である。そして、事物の優劣とは差異の問題といえる。 であれば批評について考えるとは、倫理的な判断と、差異についての判断を考えるこ とといってもさしつかえないだろう。それでは、これから倫理と差異について語るこ ととする。 ではまず、倫理の問題。 スピノザは道徳と生態の倫理を区別する。つまり、善悪を判断する超越的な思考のレ ベルを、錯誤として退ける。それは私たちが無知であり恐れているからこそ、陥る錯 誤なのだと語る。そして、生態の倫理だけがある。 スピノザは楽園を追放された原人アダムについて以下のように語っている。 「アダムは原因について無知なために、神はただたんに木の実を摂取すればどういう 結果になるかを彼に啓示しているにすぎないのに、神が道徳的になにかを禁じている と思い込んでしまうのだ。」                         「スピノザ」ジル・ドゥルーズ 木の実をアダムが取り込むと、アダムの構成要素が分解される。ただたんに、それだ けの事実であり、アダムの力能が低下しただけでアダムは決して「悪」を為したわけ ではない。そもそも「悪」とは何か。 それは、個人の力能を低下させてしまうような出来事を理解できずただ恐怖に捕らわ れたものが錯誤の末、「悪」として断罪したものにすぎない。人を服従させ罰するこ とが可能な「悪」もなければ「善」もない。 そもそも神(=超越的真理)は、何かの否定であるということがありうるだろうか? 神とは「悪」の否定としての「善」であるはずがなく、神は決して否定によって汚さ れることのない唯一にして多であるような無限低の肯定である。「善」「悪」二原論 によって、つまり「悪」を否定することでなりたつような「善」によって、弱められ ることのない存在である。神=世界とは何ものかに分節してなりたつものではない。 とすれば、そもそも善や悪という概念を錯誤して退けるべきなのだ。 そもそもこの世界には、善や悪はない。あるのは「いい出会い」と「わるい出会い」 だけである。 「いい出会い」とは何か。 つまりそれは、その出会いによって個人の構成要素が拡大され、力能が増大するよう な出会いである。そして「わるい出会い」は個人の構成要素を分解し力能を低下させ てしまうような出会いとなる。 ではなぜ私たちは、善悪を判断できるという錯誤に陥るのだろうか。 それは私たちが不完全であるからだろう。私たちの意識は私たちの身体の為しうるこ と全てを知っているわけではない。にも関わらず、意識は全てを支配しているような 錯誤に陥っている。その錯誤こそが、自身の力能の拡大や低下を正しく理解すること ができず、結果として道徳的判断を下してしまう原因である。 では、私たちにできることは何か。「いい出会い」を祝うことである。 私たちが言説において何かができるとすれば、善悪の判断を行うことではなく、「い い出会い」をこそ祝い、その喜びを語ることである。私たちは自身の力能の拡大を喜 び、それを祝福すべきなのだ。 もし批評のめざすべきところがあるとすれば、第一に「祝福」であるということにな る。 次に、差異の問題。 ベルグソンは私たちの自由な創造性は問題を設定するところにあると語っている。つ まり私たちの自由や自主性は、私たちが与えられた問題を解くという行為にはなく (それはつまり教師と生徒にみられるような隷属である)、私たちの直面すべき問題 を自ら設定することにあるという。 そして、私たちが真に対処すべきなのは、誤った問題設定を退けることにある。誤っ た問題設定とは、二種類の差異を混同することによって起こるような事態だ。 「質的な差異があるところに段階的な差異を認めてきたのだというのが、ベルグソン 哲学のライトモチーフである。」                     「ベルグソンの哲学」ジル・ドゥルーズ 質的な差異とは本性の差異である。全ての生命現象はそもそもこの差異が潜在性の中 から顕現してくる事象であったといってもいい。私たちもまた生命現象のひとつであ り、私たちの中の創造性に基づいて「本性の差異」を顕現させていく存在なのだとい える。私たちの作品は、「本性の差異」が現れたものである。 問題は本性の差異について語るべきなのか、段階の差異について語るべきなのかであ る。優劣の問題には、明白に二つの差異の混同がある。 人間は内部にある潜在性を新たなる差異として形にする。それが作品である。 しかし、人間はまた、反動的な側面を持つ。つまり、新たなる差異に対して否定的な 態度をとり、抑圧的制度によってそれをとりこもうとする。すなわち優劣をつけ、本 性の差異を段階の差異へとすりかえてしまうというのは、そういうことだ。 新たなる創造性の力を恐れる反動性が、優劣をつける。 私たちは段階の差異に捕らわれる必要はない。すべての差異を「本性の差異」として、 祝福すればいいのだ。そして、全ての本性の差異との出会いはまた、「いい出会い」 でもある。 私たちが批評においてなすべきことがあるとすれば、それは差異を認め祝福すること である。差異を過去の判断基準から段階的な基準に当てはめる必要はない。それこそ、 創造性からの後退である。 以上に語ってきたように、批評とは作品を祝福するためにあるべきものである。 ここでもうひとつ問題を考えてみたい。 批評は、作品のメタレベルに属するものであるかという問題だ。 批評は作品を高みから見下ろし、自身を手の届かぬ上位平面に置くものだろうか。 メタレベルに位置しうるものとはおそらく、善悪を決定したり、優劣を決定したりす るようなつまり、錯誤に基づく意識がつくりあげる言説であろう。それはウィリアム ・バロウズのいうところの「死んだ言語=ゾンビの言語」といってもいい。 批評がいい出会いを、個人の力能の拡大を、そして本性の差異の顕現を祝福するもの であるのならば、批評はまたひとつの作品であり、本性の差異であり、私たちにいい 出会いをもたらすものだ。 そして、批評は自身が作品であることによって、批評する作品の力能をも拡大するべ きである。批評はまた、批評の批評と出会うべきであろう。批評も作品であるのなら ばその出会いもまた祝福されねばならない。批評はメタレベルではなく作品と同一の 平面に、ひとつの作品として存在すべきなのだ。 私たちが批評を行うときに、決して忘れてはならないことがひとつある。 私たちは決して、批評を行う作品を測っているのではないということだ。もしも測ら れているなにものかがあるとすれば、それは批評する私たち自身である。そう、私た ち自身の力能の拡大を、その強度の増大を測るのだ。批評が現すのは批評される作品 の身の丈ではなく、その出会いによって拡大されたものが何であるかということだ。 それでは真に美しい作品としての批評とはどのようなものだろうか。 つまり、批評する作品の力能をも拡大する批評とはどのようなことか。批評は幽霊を 呼び覚まさなければならない。作品に付着し姿を隠している幽霊たちを呼び出し、白 日のもとに晒さねばならない。それが、作品の力能を拡大するということだろう。 幽霊とは痕跡過剰性といいかえてもいい。 ベルグソンは芸術とはそもそも差異の過剰性を解き放つものだとしている。言語とい うものはそもそも差異の過剰性を抑圧する働きを持つ。例えば、同じ木の葉という言 葉を思い出していただければいいのではないか。 個々の木の葉はいうまでもなく、色合いも大きさも葉脈の具合も異なり、同じ木の葉 などありうるはずがない。しかし、私たちは「同じ木の葉」という言葉によって様々 な差異を圧殺することができる。 芸術はその差異を解き放つ。 音楽や絵画は感性や感覚の差異の過剰性を解き放つのだ。 しかし、言語が解き放ちうる差異とはなんだろうか。 それが痕跡過剰性である。ありうるべき未来はひとつではなく、過去の中には無数の 潜在性としての差異が眠っている。それらは顕在することはなかったが、あくまでも 潜在性として、つまり痕跡過剰性として作品の中に秘められている。その痕跡過剰性 を解き放つ、つまり幽霊たちを解き放ち、作品もまたひとつの幽霊と思わせてしまう ような解放とは批評だけがなしうる仕事といっていいだろう。 具体的な例をあげてみよう。 デュシャンの有名な作品に「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」と いうものがあり、これは通称「大ガラス」と呼ばれる巨大なガラスによって構築され た作品と、「グリーンボックス」と呼ばれる緑のヴェールがかけられた箱からなる作 品の二つがある。二つの作品に同じ名がつけられけたのか、二つはひとつの作品であ るのか様々な解釈がなりたつところであろう。 そして「グリーンボックス」の中に収められているのは、大ガラスの作成日記のよう なものである。つまりそこには実現されなかった構想、大ガラスがもしかしたら取っ たかもしれない、別の形が納められている。それらはいうなれば、幽霊として箱の中 に潜んでいる。 その幽霊たちを解き放ちうるものがあるとすれば言語以外になにがあるだろうか。 ただ、言語だけが。 そう、痕跡過剰性、つまり本性の差異とのよき出会いを祝福する言語である「批評」 だけが、幽霊たちを解き放つのだ。