雪原のワルキューレ1

 雪原には容赦のない陽の光が、振りそそいでいた。
 真白く輝く雪原には、死体が横たわっている。それは、銀の海に漂う黒い魚達の
ようにも見えた。そして輝く雪原につけられた染みのような血は、光の中におちた
昏い影のように見える。
 中原の遥か東北、このラーゴスの山中にて、戦いはすでに終結しつつあった。横
たわっている死体の大半は蛮族のものである。彼らは、戦いと略奪の中で生活し、
戦場にて死ぬことを誉れとする種族であった。
 蛮族達を罠にかけ、全滅させたのは北方の文明国、ライゴールの戦士達である。
彼らの目的は蛮族を排除することと、彼らの首領を生け捕りにすることであった。
そして、鋼の鎧で武装した彼らは目的を達しつつある。最後に残ったのは、蛮族の
首領のみであった。
 ライゴールの兵は、自分たちの対峙している相手が追いつめられているとは思っ
ていない。むしろ、自分たちこそが、怒れる神に差し出された生け贄だと思えた。
そう、彼らの戦おうとしているのは蛮族の王ではなく、血に飢えた戦いの武神に見
えたのだ。
 血塗られた剣を構えたライゴールの兵達が囲んでいるその相手は、身のたけが4
メートルはある巨人であった。その巨人は通常の巨人族にありがちな、身体の歪ん
だ部分が全くなかった。その四肢のバランスは美の化身といってもいいほど見事で
ある。
 その巨人は女性であった。白銀の鎧の上に、純白のマントを羽織った真白き巨人
は、輝く黄金色の髪を風になびかせ、美の女神のごとき美しい顔を怒りで曇らせて
いる。
 彼女の持つのは2メートル以上ある長大な剣であった。常人であれば二人がかり
でも持てないような巨大な剣を、片手で軽々と持っている。そしてその剣は存分に
ライゴール兵の血を、吸っていた。
 兵士達は完全に魅了されている。その美しく強大な、死の女神に。彼女は雪原を
吹き渡り、生きるものを死滅しつくす、山上の吹雪であった。その剣は凍てついた
猛風であり、青く怒りに燃える瞳は兵士たちの魂を氷つかせる。
 ライゴール兵の隊長が、気をとりなおし、叫んだ。
「怯むな、おまえ達、隊形を整えなおせ!俺とミカウの隊が正面、オーリの隊が右
、ギルの隊が左だ。コーウェン、後ろに回り込め、一斉に攻撃するぞ!」
 隊長の声にしたがって、三人一組の小隊が体勢を整え、布陣をとる。
 そのとき、美しき巨人が哄笑した。兵士達の動きが止まる。
「愚かな、なぜ逃げ出さない。死ぬぞ、貴様ら」
 怒りに燃える瞳を持った巨人は、笑顔で言った。
「おまえ達、か弱き小人ども、死ぬのか?ここで」
 正面に立ったライゴール兵の隊長は、剣をふりあげ、叫ぼうとする。巨人はその
時、動いた。
 まるで天上から落ちる雷のごとく、剣が振り降ろされる。巨人の振るう剣は、渓
谷を抜ける突風のごとき速さで走り抜けた。
 巨人族にありがちな緩慢な動作とは無縁の、むしろ常人の数倍速い動きである。
 ライゴール兵の隊長は一瞬、視界が真っ青になったのに驚く。彼が、その青が晴
れ渡った空だと気がついた時には、絶命していた。巨人の剣は彼の右肩から入り、
左脇下から抜けている。剣の動きがあまりに速かったため、苦痛すら感じる暇はな
かったはずだ。
 巨人の剣は容赦なく、猛威を振るった。振り降ろされた剣が再度ふり上げられる
時には、二人の兵を跳ね飛ばし、死の稲妻としてふり降ろされた時には、三人の兵
士が、首を跳ねられている。
 巨人は踊るように、動いた。巨大な身体は、風に舞うように、軽々と動く。それ
はまさに、死をもたらす真白き暴風であった。兵士は自分の剣で巨人の剣を、受け
ようとしたが、全く無意味であった。
 兵士の持つ長剣は、枯れ枝のように青白い火花を発して、折れた。兵士は魅いら
れた表情のまま、頭部を粉砕され、死んだ。
 兵士達の死体は、あたかも子供が紙人形を切り刻んだ後のように、切断されころ
がっている。身を守る鎧は、全く役に立たず、紙のように巨人の剣に切断されてい
た。
 最後に残ったコーウェンは、自分自身の死を見上げた。彼女は天上に住まう女性
戦士、ワルキューレのごとく美しく微笑んでいる。
 青く輝く空の下で、燃える太陽のように美しい金髪が舞い、蒼ざめた剣は天を貫
くがごとく、高く高く振り上げられた。
(ああ、俺は伝説の中で死ぬんだ)
 コーウェンは脈絡も無くそう思った。目の前の美しい巨人はまさに、伝説の詩歌
の中の存在である。
 ごっ、と風が鳴いた。コーウェンの首は宙を舞い、コーウェンは陶酔の中で死ん
だ。
 巨人は、死体の輪の中から、歩みだす。
 巨人は聞いた。風の中に、さらに大きな部隊が移動する音が混ざっているのを。
 彼女は血塗られた剣を納めぬまま、走り出す。新たなる生け贄達をもとめて。巨
人の動きにより風が動いた。
 雪原を雪を蹴立てながら、騎馬部隊が移動している。百騎以上はいるその部隊の
先頭には、漆黒の鎧に身を包んだ女戦士がいた。彼女がライゴールの王、ジゼルで
ある。ジゼルは白銀の雪原の向こうに、散らばる死体を認めた。そして、その中心
に立つ白い影、巨人戦士も。
 巨人は、待ち受けている。ジゼルは、彼我の距離が約10メートルに近づいた所
で、右手を上げた。百騎の騎士達は散開し、幾重にも巨人を囲む。騎士達はクロス
ボウや、槍を持ち、巨人に狙いを合わす。
 いかに巨人が無敵の戦士であれ、この重包囲は破れそうになかった。しかし、巨
人の美しき笑みは、静かな怒りを潜ませ、端正な顔に浮かべられたままである。 
ジゼルは面頬をあげ、浅黒く雪焼けした顔をみせた。その顔は、凍てついた荒野に
生きる狼のように研ぎ澄まされていたが、野性的な美を存分に備えている。 ジゼ
ルは嘲るような笑みを見せ、美しい巨人に叫んだ。
「剣を捨て降伏するがいい、蛮族の首領、ラーゴスのフレヤよ。お前の命はとらん
よ。お前が従順であればな」
 美しき白い巨人、ラーゴスのフレヤは、聞き馴れぬ冗談を聞いたというように、
笑った。
「小人の女王が私に降伏しろと?踏み潰されたくなければ、お前にふさわしい巣穴
へ帰れ、蟻の女王。地べたを這いずるものが、二足で立つ者に命令するとはな」 
神のごとき美貌のフレヤの言葉は、傲慢さすら感じさせない。彼女は侮辱ではなく、
当然のことを言っているのだ。ライゴールの騎士達は怒りに蒼ざめ、ジゼルに攻撃
の許可を求める。ジゼルは逸る兵士を、片手を挙げて抑えた。
「フレヤよ、では、死ぬ覚悟をするのだな。まぁいい。どちらにせよ、お前は、お
前にふさわしい見せ物小屋へ送ってやる。あわれな女トロールよ」
 ジゼルは剣を抜き、空に掲げた。
 ジゼルが攻撃命令を発する瞬間、巨人フレヤが跳躍した。白い竜巻のように宙へ
舞ったフレヤは5メートル近い上空から、鋼鉄の柱のような剣をジゼルに向かって
振り降ろす。
 ジゼルは馬を捨て、地面に飛んだ。ジゼルの乗っていた馬の悲鳴が、響き渡る。
馬は胴体を切断され雪原に倒れた。
「ジゼル、お前はここで死ぬ!」
 フレヤは叫ぶ。馬たちの間に、混乱が走る。騎士達は自分の馬を抑えるのに精一
杯で、攻撃どころではない。ジゼルは怯える馬たちの蹄を避け、地面を転がり回る。
「ジゼル、お前はここで死ぬ」
 フレヤは剣を振るう。馬の首と一緒に騎馬兵の胴体も、両断される。湯気のたつ
血と内臓が地面にまき散らされ、雪原に赤茶色のぬかるみができた。
 フレヤは車に剣を回す。その剣に馬達の胴体が切断され、死体が転がる。その様
に怯えた馬たちが、逃げようとし混乱が起こった。フレヤの前に包囲の裂け目がで
きる。
 神であるフレヤの怒りにふれた獣たちが、恐怖のあまり作った道であった。その
道の向こうに地面に墜ちた、ジゼルがいる。
「ジゼル、お前はここで死ぬ!」
 フレヤは再度叫んだ。
 ジゼルは、乗り手を失って暴れている馬を一頭捕らえ、跨る。そして、フレヤに
背を向け、走りだした。
 巨人は、ジゼルを追って走ろうとする。その前に、三体の騎馬兵が立ちふさがっ
た。
「邪魔な」
 フレヤは右から左へ、剣を薙いだ。それは凄まじい竜巻のように、右端の騎馬兵
をその馬ごと宙へ跳ね飛ばした。そのまま馬は隣の騎馬兵へ激突し、鉄槌に撃たれ
たように、3騎の騎馬兵は崩れ落ちる。
 フレヤは立ち上がろうともがく騎士を、文字通り、踏み潰した。骨の砕ける音が
響き、血が雪を染めていく。
 騎士達は、体勢を整え直し、巨人に向かって殺到するが、フレヤの大剣は草を刈
るように、騎士と馬を薙ぎ払う。雪原に怒号と馬の悲鳴が、満ちあふれた。
 再びフレヤとの間に距離を置いたジゼルは、激しく罵る。
「怪物め、手を焼かす。キース!」
 ジゼルの呼びかけに、一人の長身の兵が進み出た。
「キース、お前の出番だ。見事あの怪物をしとめてみせろ」
 兵士は頷く。その手には細長い筒が、あった。
「退け!」ジゼルは、剣を振り上げ叫ぶ。兵士達はフレヤのそばから、退いた。
 フレヤは冷たい怒りを潜ませた瞳で、ジゼルを見つめる。
「観念したか、虫の女王」
「それは、こっちの台詞だ、妖魔の首領め」
 ジゼルは、傍らのキースに合図する。キースは円筒型の砲弾を筒に入れると、狙
いを定め、引き金を引く。
 轟音と、黒煙がキースを包み、火の矢かフレヤへ向かい飛んだ。
 炎と爆音が、フレヤを飲み込んだ。爆煙か立ちこめ、フレヤの姿か消える。
「退がれ、退がれ」
 ジゼルの言葉に騎士達はさらに距離をあける。やがて煙が晴れ、フレヤが姿を現
した。
「仕損じたか」ジゼルの言葉にキースは2弾目の用意に入る。
 フレヤはゆっくりと、ジゼルに迫る。その大剣は頭上高く掲げられ、美しき瞳は
青く輝いていた。
「これで終わりだ、小さき女王」
「ああ、終わりだ」
 フレヤの剣がジゼルへ届く所まで来た時、キースの筒が再度火を吹いた。爆煙が
フレヤを再度包む。
「そろそろ、弾にしこんだ麻薬が効くころです」
「で、あればいいがな」
 フレヤはついに、膝をついた。息が荒い。風に流れた煙を吸い込んだ、馬と騎士
が風下で倒れてゆく。ジゼルのほうは風上であるため、影響はでない。
「この怪物を縛るぞ。鎖を持て」
 ジゼルが叫んだ時、フレヤは剣を振るった。ジゼルの乗る馬の足が切断され、ジ
ゼルの身体は地面に叩きつけられる。
 キースは3発目の麻酔弾を撃った。フレヤは剣でうける。爆煙に包まれながらも、
フレヤは剣を振るった。キースの首が飛び、雪の上に転がる。
 ジゼルは血塗れの地面から、煙を通してフレヤを見上げた。美しかった。燃え盛
る黄金の炎のような髪と、サファイアのように輝く青い瞳。白いマントに身を包ん
だ死の女神は、ゆっくりと剣を振り上げる。
 ジゼルは死を覚悟した。奇妙な陶酔が心に溢れてくる。再度爆音が響き、フレヤ
は煙に包まれた。
 振り降ろされた剣はジゼルをそれ、地に突き刺さる。
 ジゼルは這いずって、倒れて来るフレヤの身体を避けた。ジゼルは霞む意識の中
で、美しい白い巨人が雪の中へ倒れるのを見る。あたかも巨大な白い鳥が、雪原に
舞い降りるように、フレヤは雪の中に倒れた。

 黒衣に身を包んだ男装の女王、ジゼルは自室に魔導士ドルーズを招き入れていた。
ジゼルの部屋は、いかにも北方の辺境国らしく、様々な国の品が寄せ集められ飾ら
れている。
 壁に飾られたタペストリは東の国クワーヌのものらしく、独特の幾何学模様を描
いていた。片隅に置かれた陶器の壷は、さらに東方のカヤンの地からもたらされた
ものらしく、見事な色彩と艶をしている。
 また中央におかれた神獣の彫像は、南のオーラのものらしい、独特の金属加工が
なされていた。さらに金細工の装飾品は、南西の草原の国キタイのものらしく、緻
密な造りをみせている。
 部屋の家具は木製で、西方のトラウスあたりの細工らしい。ライゴールはどこの
国とも軍事同盟を結んでおらず、中立の立場を貫いている。そのため、西方、東方
様々な国と貿易を行っており、その利益により栄えている国であった。
「そうですか、私の麻薬は効きませんでしたか」
 若き魔導士ドルーズは、肩を竦めジゼルに言った。その後ろには女性の助手、ク
リスが控えている。
「あの怪物には本当に手を焼かされたぞ。実際、数十頭の馬が倒れたのだから効き
目は確かなのだろうがな」
「古代の巨人族は、完全無欠の戦士だったと聞きます。それを生け捕りにできたの
なら、大変な幸運といえるでしょう」
「信じられぬな。古代の巨人の生き残り?神話では邪神グーヌとともに、地底の魔
界へ降りたと聞くが。しかし、それはただの神話だ」
 黒髪の若き魔導士ドルーズは、秀麗な顔に苦笑を浮かべた。
「われらは、その神話の神、グーヌに従う者。ただの神話とはいえ、真実を含むも
のです」
「かもしれぬ。あの戦いぶりは、まさに神話の中の出来事であった。それはまあい
い。それよりも、ドルーズ、お主の仕事の進み具合はどうなのだ」
 ドルーズは、もの想いに耽る表情となる。くせなのか、額にたれた前髪をいじっ
ていた。
「グーヌの僕の神、ゴラースの封印を解くですか。八分通り終わりました。それに
しても奇妙なことをお望みだ」
 黒い長衣に身を包んだジゼルは、荒野の狼のような笑みをみせた。
「太古の邪神とは、かつて中原を支配した魔族の使役した使い魔であり、強力な魔
族の兵器であったと聞く。それを利用すれば、我がライゴールも南のオーラや、東
のクワーヌを恐れる必要はなくなる」
 ジゼルは暗き瞳を、闇の色に輝かせ、黒髪の魔導士に語った。
「我がライゴールが中立の立場を貫くには、それが必要なのだ。古代の技術を復活
させ、軍事力の強化に成功したオーラ、そして古代の秘術に通暁し、知の王国とし
てしられるクワーヌ、その二大強国の狭間の国、我がライゴールが生き抜くにはそ
れだけの力が必要だ」
 魔導士はそっと、笑った。まるで深夜に渡る黒い風のような、笑みである。
「恐るべき野望をお持ちだ。おかげで、グーヌの神殿を追放され、住むところを失
った破戒魔導士にも仕事ができたというものだが。
 ただ、忠告しておきますが、太古の神を使い魔として使用できたのは、古の魔族
の大いなる魔力があったからこそだ。この私にしても邪神を使いこなせるかどうか
は、判りませんよ」
 ジゼルは、猛々しい笑みをみせた。
「たとえ邪神が制御できず、このライゴールが滅びようと構いはせぬ。それならば、
この私の命運がそこまでであった、ということよ」
 ドルーズはそのジゼルを見ながら、さらに深くもの想いに沈んでいった。

 ライゴールの若き破戒魔導士ドルーズの助手、女魔導士クリスは、ジゼルの城を
出て街へ向かった。魔導士らしく、灰色のフード付きマントをはおり、月の女神を
想わす神秘的な美貌をフードで隠し、昼下がりの道を下って行く。
 ジゼルの城は山の中腹にあり、ライゴールの首都ゴーラの街は、谷の底にあった。
城下街であるゴーラは坂道の多い、入り組んだ地形を持つ。天然の城塞都市とも呼
ばれる。
 クリスはジゼルの家臣の館が並ぶ山の裾を抜け、街である谷の中へと入って行く。
両端を崖に挟まれ、ずっと南の街道へ続いてゆく街は、活気に満ちている。
 道端には市が立ち並び、商人や旅人たちが行き交っていた。旅人の人種は様々で、
東のカヤンの商人や、キタイの騎馬民族らしい行商人、南のオーラの傭兵らしき者
もいる。
 クリスは街道に近づいた宿場の並ぶあたりで、裏の路地へ入り込む。そのころに
は、陽は傾き夕暮れ時が近づいていた。
 薄闇に包まれた路地は、クワーヌで調合された麻薬を商う店や、トラウスから流
れてきた魔導士の店、あるいは様々な国の女たちを商う店が並び、表通りとは違う
賑わいがある。行き交う人も、クリスと同じような風体の魔導士や、傷だらけの防
具を身につけたならず者、地味な身なりの盗賊といった裏稼業の者が多い。 角に
はグーヌ神の僕を現す邪神のシンボルや、神像が置かれ、動物の死骸などの供物が
置かれている。クリスは麻薬や酒に酔ったものたちが行き交う、狭い路地を進む。
起伏が多いため、階段や歩道橋が多用され、道も狭く曲がりくねっており、立体的
な迷路のようだ。
 所々に、血のあとらしい黒ずんだ染みがあり、夜になると辻切り強盗や、傭兵同
しの、物騒な喧嘩が多いらしい。しかし、一般的には金も持たず、仕返しの恐ろし
い魔導士に手を出すものはいなかった。クリスは剣呑な通りを顔色を変えず、進ん
でいく。
 クリスは一件の酒場の扉を開く。中はまだ陽が沈まぬというのに、客で溢れてい
る。多くは傭兵か、野盗のたぐいらしい。そうした客がめあての売笑婦や、吟遊詩
人もいた。
 クリスは酔客の間をすりぬけ、片隅のテーブルで一人杯を傾けている男の前へ行
った。男はクセのある黒い長髪をしており、見た目は盗賊ふうだ。チャコールグレ
ーの地味なマントで身を包み、静かに酒を啜っている。
 物静かな様子に似合わず、男の黒曜石のように黒い瞳は、キラキラと輝いていた。
騒々しい酒場の中で、男の精神は激しく活動しているようだ。
「ブラックソウル様」
 クリスは男に声をかける。男、ブラックソウルは頷くと、クリスを前に座らせた。
「城の様子はどうだ」
「ジゼルはやはり、ゴラースを復活させるつもりのようですわ。ドルーズの準備は
整っています。でも彼は恐れています。神を自分に制御できるのかと」
「神ね、神。ある種のエネルギー生命体だろう。彼らを使いこなすのは確かにやっ
かいだろうが、大した力を持ってはいまい」
「おそらくは」
 ブラックソウルは微かに笑みを、見せる。野性的ではあるが、無邪気な明るさを
持ったその笑みにクリスは戸惑いを感じた。
「どうなさる、おつもりです」
「どうとは?」
「ドルーズは放置させておくのですか」
「好きにさせるさ」
 ブラックソウルは凄みのある笑みを、見せる。
「ジゼルがたかが魔族の使い魔ごときで、オーラに対抗できると想っているのなら、
大間違いだ。オーラはかつて暗黒王ガルンと、二百年以上戦ってきた。オーラは軍
事的にも、神霊的にも鉄壁の国であることを知るだろうよ、ジゼルは」
 ブラックソウルは杯の酒を呑みほす。
「俺がここへ来たのは、そんな事とは関係ない」
 クリスは冷静な表情でブラックソウルを見つめたが、内心は闇の中に置き去りに
された子供のように、困惑していた。誰が聞き耳を立てているともしれぬこの酒場
で、彼女の上司は自分がオーラの間者であると、公言するようなことを言ってる。
 しかし、ここのもの達は、皆、周囲に無関心であった。自分達の計略に夢中な、
盗賊たち。他人に酒をたかるのに熱心な、流れ者。金勘定の最中の行商人。羽振り
の良い客の気を引こうとする、売笑婦。そしてその女達を振り向かそうとする、美
貌の詩人。
 この雑然とした店の中では、大国の計略なぞ、おとぎ話のように、現実味が薄い。
ブラックソウルはそう考えて、ここを選んだのだろうか。クリスには判断できなか
った。
「まあ、当分は大人しくドルーズのおもりをしていてくれ。俺はいずれ、ジゼルに
会いにゆく」
「どういう意味ですか?」
 ブラックソウルは謎めいた笑みをみせた。
「ジゼルはオーラの間者とて、受け入れてくれるのさ。あれは奇妙な考えの女だよ」
 クリスは半信半疑であったが、ブラックソウルの輝く瞳は、確信に満ちている。
彼女はジゼルの、荒野の狼のような笑みを想いうかべた。目の前のこの限りなく無
神経に近い、大胆さを持った男に似ていると思う。
「そんなことよりも、ジゼルは巨人族の女戦士を捕らえたそうじゃないか」
 ブラックソウルは子供のような無邪気な笑みを浮かべ、聞いた。
「ええ、どうも本当のようです」
「ドルーズは、ブラックロータスでも調合したのか?巨人というのは不死身の完全
体らしいが」
「何かは知りませんが、クワーヌから来た麻薬のようでしたが」
 ブラックソウルは楽しそうに、くすくす笑った。
「知の大国クワーヌは別名、麻薬大国というらしいからな。俺も土産に買って帰る
とするか。オーラの闘竜を眠らせるようなやつも、あるかもしれねぇな」
 クリスはこの男に感じる戸惑いの正体が、判ったような気がした。ブラックソウ
ルは楽しんでいるのだ。ジゼルの野心や、ドルーズの危険な野望を知った上で、面
白がっている。しかし、その本心がどこにあるのかは、クリスには見当もつかなか
った。

 丁度その店の反対側のテーブル、客達のざわめきや、渦を巻く麻薬の煙、囁かれ
る陰謀、飛び交う怒号をへだてた向こう側に二人の男たちがいた。
 ひとりは流れ者の、剣士のようだ。しかし、灰色のマントに隠れた腰のベルトに
剣は、提げられていない。痩せた身体は、野に住む獣のような気を発している。そ
の男は、相棒を呆れ顔で見ながら言った。
「よく喰うな」
「ああ?」
 もうひとりの男は、顔を上げた。丸い顔である。目の上でまっすぐ切り揃えられ
た前髪は、輝く金髪であった。丸いのは顔だけではなく、胴体もである。樽のよう
な胴体に、丸太のような手足がついている。そして奇妙なことに、左手を包帯で覆
っていた。
 丸顔の男は東方のものらしい、パスタ料理を貪り喰っていた。
「何かいったか?」
「グーヌの呪いをうけた悪魔の豚だぜ、おまえは。地上を喰い尽くして荒野にしち
まう」
「何かいったか、ケイン?」
 ケインは肩を竦めると、小声で呟いた。
「向こうで可愛い娘が、お前をチャーミングだといってたぞ、ジーク」
「なんだ」ジークは粒らといってもいい、愛らしいサファイアのような青い目をキ
ラキラ光らして言った。
「俺がもてるから妬いてたのか、ケイン。あ、おねぇちゃん、これお替わりね」
 ジークは給仕の少女に料理の追加を頼むと、まるで子供のように無邪気な笑みを
ケインに見せた。
「計画を打ち合わせるんじゃなかったのか?ケイン」
 ケインは端正というには、野性味のあり過ぎる顔を優欝げに曇らせ、言った。
「めしを、喰い終わってからじゃないと、仕事の話はしないといったのは、お前だ
ジーク。あれから1時間、喰い続けてるがお前、忘れたのか」
 ジークは逆さにした兜のような、巨大な杯で酒をあおった。
「ふう、お前は真面目でいけねぇやね、ケイン。その場、その場の流れというもの
があるだろう」
「今は、めしを喰いながら話をする流れになったのか?ジーク」
「そうとも言うな」
 ジークは、にこにこと笑う。その邪気のない澄んだ青い瞳をみると、ケインは怒
る気を無くした。
「お前が言ったように話はつけて来たぞ、ジーク。明日の正午、黒い炎団の首領は
俺たちと会う」
「で、そいつは間違いなく、ナイトフレイム宮殿への入り口を、知ってるんだろう
な」
「会って話してみないと、判らん。こっちが信用していない以上に、向こうはこっ
ちを信用していない」
「むふう」
 ジークは溜息をついた。
「ラハンの弟子が、話をしたいと言ったんだろ」
「こっちのほうじゃ、そのラハンいう武闘家は有名らしいが、看板だけじゃ信用さ
れんだろう」
「まあ、いい、明日になったら判らしてやるよ、あ、おねぇちゃん、鳥の丸焼き追
加ね」そう言うと、ジークは酒の壷から杯を満たし、さらに酒をあおった。
 明日になったら、その丸い胴が倍に膨れて、肉団子と化してるんじゃねぇか、お
前はと、ケインは言いたかったが、黙って目を逸らした。
「そのナイトフレイムに宝物があるというのは、間違いないんだろうな、ジーク」
「大丈夫だよ、ケイン」
「言っておくが、今のペースでお前が喰い続ければ、あと2日で俺たちは文無しだ
ぜ」
 ジークは一瞬目を丸くして、その後ゲラゲラ笑いだした。
「そんな心配してんのぉ、馬鹿だなぁケイン。そうなったら、そのへんで強盗やり
ゃあいいじゃん」
(こいつ)ケインは、心の中で呟いた。(初めて会ったころは、元王子だとか、実
は高貴の生まれだとかぬかしやがったが、俺よりたちが悪いぜ)
 ケインの思いを知ってか知らずか、ジークは天使のように穏やかな笑みをみせた。
「これ旨いぜ、ケイン。喰ってみろよ」

 空は、黒々と頭上に広がっており、幾万もの海獣の群れに覆いつくされているか
のようだ。陽が沈んだのち、半ば氷ついた、銀の矢のような雨が降り始めた。
 ジゼルの城の、北側は山が聳えており、南にゴーラの町が開けている。そして東
西は、切り立った崖となっていた。
 西の空に、生新しい傷口のような残照が消えていったころ、幾千の刃のような雨
を含んだ風が吹き荒れ、嵐となった。ジゼルの城の西側の崖には、牢獄が造られて
いる。城の地下から、隘路を辿って下るしか行き着くすべのない牢獄であった。
 その崖をくり貫いて造られた牢獄のひとつに、明かりが灯っている。そこには当
直の兵が二人いた。食事の終わった後、当直兵の一人であるジーンは、荒れた天気
の外を眺めている。
 相棒のもう一人は今夜の宿直に備え、仮眠を奥でとっていた。この牢獄に捕らわ
れている囚人の事を考えると、安らかな眠りを得られるとは思えない。
 ジーンは壁に立てかけられている、剣を見た。その剣は、この牢獄の囚人の持ち
物である。ドワーフの細工であるらしく、2メートル以上ある剣の刀身は、繊細と
いっていいほど肌理が細かい。剣は抜き身の状態で置かれており、刀刃が真冬の日
差しのごとく、冴えた煌めきを見せている。
 その剣を見るジーンの瞳には、脅えがあった。その剣は、鋼鉄のメイスに近いも
のがあり、巨大な鉄材のように頑丈そうである。それだけに、その重量は凄まじい
ものがあり、ここに持ち込まれる時も、三人がかりであった。
 その切っ先には刃はなく平になっており、、ツーハンデッドソードによくあるよ
うに、剣の先端部の幅が少し広くなり、戦斧を思わす形になっている。この巨大で
重い剣を、この牢獄の囚人は片手で振り回し、鎧を身につけた屈強の兵士を紙人形
のように、斬り裂いたと聞いた。
 そんな技ができる巨人となると、お伽話のオーガや、神話の雷神トールのような
怪物ということになる。ジーンはその女巨人を直接見てはいなかったが、その姿を
想像し、ぞっとした。男のオーガや、トロールの類なら想像もできるが、女の巨人
となると、よけい醜悪に思われる。
 ジーンは余計な想いを振り払い、外を眺めた。時おり稲妻が走るらしく、轟音と
ともに、広がる森林と山が闇の中に浮かび上がる。
 突然、光と天上で宮殿が崩れ落ちるような轟音と共に、その男の姿が入り口に浮
かび上がった。
「何!」
 ジーンは想わず立ち上がり、腰の剣に手を掛ける。その黒い人影は、足を進め、
篝火の明かりの中に入ってきた。
「驚かせて、すまない」
 その、雨に塗れた体を火にあてながら、男は言った。
「道に迷った。怪しい者じゃない。暫く休ませてくれ」
 男は、つばの広い帽子を被り、マントの衿を立てている。その顔はよく見えない
が、目鼻立ちはよく整っているようだ。ただ、表情がほとんどなく、仮面か彫像の
顔を想わせる。歳はひどく若くも見え、老いているようにも見えた。
「道に迷っただと」ジーンは、剣の柄に手をかけたまま、男に近づく。男は火を背
に立つ形になり、再びその姿は黒い影となった。
「ここに来るには、城の地下から来るか、崖をよじ登ってくるしかない。道に迷っ
て城の地下から外に出るとは考えられない。とすれば、崖をよじ登ったということ
だ。この嵐の夜に」
 男は、微笑んだように見えた。そういう形に、顔を歪めたというべきかもしれな
い。ジーンにはその男がなぜか、妖魔の類に思えた。
「森で嵐にあった。進む道がわからず、見上げるとここの灯が見えた。嵐をしのが
ないと、凍え死にそうだったので、何とか登ったんだ。見てくれ、私は武器を身に
つけていない」
 男は、マントをはだけて、腰を見せた。腰に剣のようなものが吊るされている。
男はそれを抜いた。ジーンは、思わず剣を抜く。
「これは剣じゃない」
 男の言う通り、それは鉄鞭であり、刃はなくただの鉄の棒であった。ただ、鉄鞭
でも人を殴り殺せる。
「そいつを足もとにおけ」
 男は言われた通りにした。
「まず、名前を聞こうか」
「ロキという。ヴァーハイムの産まれだ。訳あって諸国を旅している」
「あんたは、崖をよじ登ったのになぜ息を切らしていない。疲れたふうには、見え
ないが」
 ロキと名乗った男は、肩を竦めた。
「そう見えないだけさ」
「とにかく、ここは重大な反逆者を閉じこめた牢獄だ。旅人を、泊めるところでは
ない。ここをさらに登れば、城の地下へ着く。あんたが、本当に信頼できる人物な
ら、城に入れてもらえるさ」
「間違ってはいなかったようだ」
 ロキはまるで、宣言するように言った。とたんに、とてつもない威圧感が漂い始
める。
「ラーゴスのフレヤは、ここに閉じこめられているのだな」
 ロキは、感情の全くこもらない声で言った。
「貴様、」ジーンは恐怖を感じ、数歩下がる。それを追って、ロキが近づいた。
「来るな!」
 ジーンは叫ぶと、剣でロキに斬りかかった。ギン、とロキの首筋に当たった剣は、
甲高い音を立てへし折れる。まるで、岩に剣をぶちあてた様な、手ごたえだった。
「馬鹿な」ジーンが呆然と呟くと同時に、ロキの拳が、ジーンの顎先を捕らえた。
ジーンは、一撃で意識を失い、牢獄の床へ転がる。ロキは、片隅にあった荷造り用
らしい紐で、手早くジーンを縛りあげた。
 そして、その黒衣のロキは、マントの裾を靡かせ、牢獄の奥へと向かう。

 牢獄の奥は、自然の洞窟を思わせる、岩盤をくり貫いた通路になっていた。仮眠
室で眠っていたもう一人の当直兵は、気を失わせ、縛り上げてある。
 ロキは松明を翳し、胎内のように暗い通路を進んだ。漆黒のマントと、黒く幅広
いつばの帽子を被ったその姿は、冥界へ魂を導く死神を思わせた。
 やがて、広いドームへ出る。天井の高いドームは、この牢獄の終点らしい。そし
て、その正面に岩の扉がある。その後ろに囚人がいるはずであった。
 ロキは、扉の傍らにある、鋼鉄のレバーを押し下げる。どこか、奥深いところで、
金属がかみ合う音が響き、ゆっくりと扉が左右に広がっていった。
 ロキの目の前に、他界への入り口のように、黒々とした牢獄の扉が口を開ける。
ロキは燃える松明を翳して、一歩踏み込んだ。
 真紅に燃える炎の灯の前に、純白の姿のフレヤが照らし出される。鎧を外され、
白い胴衣のみの姿で鎖に括られたその姿は、捕らわれのワイルドスワン思わせた。
その瞳は、真冬の空のように、凍り付いた冷たい怒りを秘め、炎の前で輝いている。
「お前は、なんだ。人では無いな」
 ロキを見たフレヤは、不思議そうに呟いた。ロキはそれには答えずに、言った。
「戒めを外そうか?それとも自分でやるか?」
 フレヤは少し笑みを見せた。
「戒められている?私が?」
 フレヤは、少し力を込めたように見えた。ミシッ、と音を発し鎖は引きちぎられ
る。
「縛られているように、見せかけただけだ。見張りを油断させる為にな」
 フレヤは、手足を動かす。牢獄の中でも、その美貌に曇りはない。内に燃える怒
りが、異様な生気をその美しい瞳に与えている。
「それにしても、」フレヤは不思議そうに言った。「お前は何者だ。人では無く、
魔族でも無い。エルフ族やドロウ族の系列でもない。お前のように、不思議な生き
物は初めて見た」
 ロキは、肩を竦める。
「おれの事は、あとで話そう。まずは、ここを出よう。あんたの装備も外にある」
「そうだな」
 フレヤは身を屈めると、ロキに続いて牢獄の外へと出た。先程のドームの片隅に
巨大な、純白の鎧が置かれている。それもドワーフの細工らしく、恐ろしく頑丈そ
うだが、デザインは洗練され、フレヤの見事に均整のとれた肉体のラインに合って
いた。純白のマントを、巨大な白鳥が翼を畳むように、身につけると、フレヤは呟
く。
「剣がない」
「そいつは、出口の近くだ。行こう」
 フレヤは、頷くと、ロキと共に出口へ向かった。歩きながらロキが語り始める。
「よく、むりやり出ようとしなかったな。あの牢獄は面白い造りになっている。外
側からなら、扉を開けれるが、内側からこじあけると天井が崩れ、生き埋めになる
ようになっていた。そうなれば、あんたを掘り出すのに半月は無駄にするところだ」
 フレヤは美貌を歪め、笑った。
「私も地下から這い出すのに半月もかけて、ジゼルを殺す日を延ばす気はなかった
からな。チャンスを待っていたんだ」
 フレヤは、魔神のように笑う。
「礼を言っておこう。人の姿をした、人ではない者よ。お前のおかげで今宵ジゼル
の魂を、冥界へ送ることができる」
「おれは、ロキという名だ。記憶を失った巨人よ。しかし、礼を言うのは、早いぞ」
 二人は、ジーンの居た見張り所まで、出て来た。フレヤは片隅に立てかけられた
剣を取り、抜き身のまま、腰のスリングに吊るす。その長大な剣の先端は、フレヤ
の、ふくらはぎのあたりにあった。
 フレヤは、見たものを氷つかせるような、真冬の女神のような笑みを見せる。
「なるほど。ロキといったな、お前は私と取引をしようというのか。私を助けた見
返りに」
 ロキは無表情のまま、フレヤの前に立っている。フレヤが純白の暴風であれば、
この男は、漆黒の岩石のようであった。フレヤの、白い炎のような怒りをまともに
受けながら、動じた気配すら無い。
「あんたを助けたつもりは無いが、取引はするつもりだ。あんたがおれを、手伝っ
てくれれば、あんたがなぜ記憶を失い、故郷がどこかも知らぬまま、中原をさまよ
っているのか、教えてやろう」
 フレヤの瞳が、好奇心を見せた。
「お前はそれを、知っているのか?」
「おれは、ヴァーハイムの岩石人間ロキだ。不死の一族の一人。我々の伝承の中に
は、記憶を封印された巨人のことも語り継がれている。それをお前に伝えよう」
「今ここで、しゃべる気にさせてやろうか?」
 フレヤが腰の剣に、手をかける。
「無駄だよ、脅しは。おれは、剣では殺せん。フレヤ、あんたが人間とは、取引を
しないのは、知っている。しかし、あんたの知っての通り、おれは人間ではない。
この取引は損ではないぞ、フレヤ」
「よかろう、ロキ。お前は何を私に手伝わせたいのか?」
「黄金の林檎を」
 フレヤは、はっと息を呑んだ。その瞬間だけ、無表情のロキの瞳が、求道者のよ
うに光る。
「黄金の林檎を、探し求める旅の道連れと、なってほしい。おれは地の果てであろ
うとも、地獄のグーヌの根城であろうとも赴くつもりだ」
 フレヤは低く笑った。
「いいだろう。一つだけ条件を付ける。ジゼルは殺す。それを認めるなら、旅に出
よう」
「かまわんさ。今はまずいが、ここでの用事が済めば、好きにさせてやる」
 フレヤは頷くと、牢獄の外へ出た。未だ空は、混沌と暗く、無数の妖魔が飛び交
うように、暴風が吹き荒れている。風はフレヤの輝く黄金の髪をかき乱す。
 千の針のような雨が、フレヤの頬を打つ。フレヤは、地上を支配する大地の女神
の様に、美しい笑みを見せたまま、荒れた空を見上げた。
「ジゼルよ、虫けらがわが身に手をかけたらどうなるか、教えてやろう。暫し待て、
蟻の女王」
 後ろに現れたロキが、フレヤに声をかける。
「いくぞ、フレヤ」
 フレヤは、頷くと、白い巨身を崖の縁から奈落に向かい、踊りださせた。そのま
ま、巨大な白い鳥が地上へ向かうように、崖をすべり降りてゆく。ロキは、後を追
い、身を投げだした。
 そして、漆黒の男と、白い巨人は夜の森の中へ、姿を消す。


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