雪原のワルキューレ3

 下りの階段は、意外にすぐ見つかった。真っ直ぐ降りる階段を、ケイン達は下る。
降りた所は、大広間のになっていた。
「おい、」ゲールが、絶望的な声を出した。「嘘だろ」
 そこには、十人以上の魔族の戦士達がいた。一人残らず、漆黒の肌の上に銀の鎖
帷子をつけ、抜き身の剣を提げている。
 その天空に輝く満月のような瞳が、ケイン達を見つめた。黒曜石の彫像のごとき、
漆黒の屈強の肉体からは、闘竜のような生命力に溢れている。そして彼らの周囲か
ら、ぞっとするような瘴気が漂ってきた。
「ふっ」金色の髪をかき揚げた魔族の戦士が、蔑みの笑みを見せ、呟く。「戦いの
前に、家畜が迷い込んできたようだな。とりあえず、腹ごしらえとするか」
 奈落の底のような闇色の顔に、野生の獣のような、高貴で美しい笑みを浮かべ、
その戦士は一歩踏み出す。
 ゲールが絶叫し、走りだした。火砲が火を吹く。その榴散弾は、上方へ逸れた。
膝をつき、うずくまったゲールの背中から、剣の切っ先が見えている。
 先頭に立っていた魔族の戦士が、剣を放ったのだ。魔族の戦士は、野獣のような
優雅さをもって、うずくまったゲールに近づく。頭を掴み、顔を上げさせると、無
造作に剣を抜いた。
 ゲールは、屠殺場で殺される動物のように、力無く泣いた。ケインは一瞬、全身
が凍り付くような、冷たい波動を感じる。渦巻くような、強烈な瘴気があたりを満
たしていた。
 麻薬の幻影の中にいるように、世界が歪む。その中で、魔族に頭をつかまれたゲ
ールが、幾度か痙攣する。やせ衰えた老人のように変貌した、ゲールの死体を、魔
族の戦士はゴミ袋を捨てるように、投げ出す。ケインは自分の足が、震えているの
を感じた。
 残りの魔族たちが、ケイン達を見つめている。逃げようにも、足が動かなかった。
後ろをみせれば、ゲールのように、剣を投げつけられるような気がする為だ。「ま、
ひとつやれるだけ、やろうや」ジークが、妙に晴れ晴れと言った。ケインも覚悟を
決める。本当に、家畜のように、黙って殺される気は無い。
 ケインは、想念をまとめ始める。いきなり闇水晶で斬りかかるつもりだ。闇水晶
で首を落とせば、魔族といえ、生きてはいまい。
 ジークも左手を掲げ、すり足で魔族達へ近づいてゆく。ケインはジークの後ろに
ついた。捨て身で戦って、活路を見いだすしかない。
 突然、魔族の戦士達が、踵をかえした。ケイン達と反対方向へ、歩いて行く。ケ
イン達など始めから存在していなかった、というように。
 広間の反対側にも、階段がある。その階段の奥から、足音が聞こえていた。魔族
の戦士達は、散開して待ちかまえる。
「へぇっ」ジークが感心する。「やつらに、戦う気を起こさせる相手が、来るみた
いだぜ」
 確かに、ケイン達と対峙したときの魔族達には、鼠をいたぶる猫のような残忍さ
しか無かった。今の魔族達には、戦う者の持つ、緊張感が感じられる。
 そして足音の主達が、姿を現した。先頭は、煤色のマント纏ったブラックソウル、
そしてその背後に長身の戦士が二人、さらにその後ろには、黒衣の魔導師ドルーズ
にクリスが続く。
 ブラックソウルは、パーティ会場に遅れて現れた主賓のように、微笑んでみせる。
その体には、さっきケイン達が浴びたものとは比べものにならないような、暗黒の
波動が浴びせられていた。ブラックソウルは、常人であれば衰弱して即座に昏倒し
てしまうような瘴気を、そよ風ほどにも感じていないようだ。
 見ているケインのほうが、吐き気を感じ始める。広間の反対側であるにもかかわ
らず、目眩を感じさせるほどの精神波を、魔族達は発していた。ブラックソウルは、
楽しげに言う。
「やれやれ、またですか。逃げ出してもいいんですよ、クレプスキュールの皆さん。
あなた達を殺すのは、本意じゃない。欲しいものさえ得られれば、さっさと帰りま
す」
 魔族達は、無言であった。ブラックソウルは、微笑む。その笑みには、侮蔑が混
ざっていた。
「家畜とは、口をきかない、ということですか。じゃあしかたありませんね」
 ブラックソウルは、後ろへ下がる。剣を提げた、長身の戦士達が前へ出た。その
戦士たちは、異相の持ち主である。
 その顔と腕には、炎を思わす形の入れ墨がなされていた。両腕の入れ墨には、何
か呪術的な意味を持つ文字が、組み込まれている。
 体には、ごく軽い革の防具のみを、つけていた。頭の髪は、頭頂部のみを残し、
全て剃り上げられている。むき出しになった側頭部にも、火焔の入れ墨は彫られて
おり、隈取りされた顔は、伝説の魔物を思わせた。
 そして頭頂部に残った紅い髪は、天に向かって逆立てられている。まるで、燃え
盛る炎が、頭上に乗っているようだ。
 見事に鍛え上げられた肉体を誇示し、二人の剣士は長剣を構える。その片刃の剣
は、黄金色に輝いていた。鍔は無く、根元のあたりには何か文字が彫られており、
その文字は鬼火のような紅い光を放っている。
 魔族の戦士達は、怯えたように、後づさった。明白に長身の剣士達に、威圧され
ている。ケインは感嘆した。自分達の時とは、全く逆の立場にその異相の剣士達は
いる。
「やりなさい、フレディ、アニムス」
 ブラックソウルが声を掛ける。二人の剣士、フレディとアニムスは黄金色に輝く
剣を掲げ、前へでた。
 一人が無造作に、剣を振り降ろす。金色の残像を残し、剣が振り降ろされた後に、
魔族の黒い腕が剣を持ったまま、床に転がった。
 腕を失った魔族は、声にならない精神波の絶叫をあげた。その凄まじい衝撃に、
ケインは鈍器で頭を殴られたようなショックを感じ、目の前が暗くなる。
 フレディ達は、全くその精神波を感じていないように、剣を奮う。腕を失った魔
族の胸に、黄金色に輝く剣を突き立てる。あたかも、燃え盛る枝を突きつけられた
ように、魔族の胸が煙を上げた。再び精神波の絶叫が上がる。ケインは、その広間
が歪んだように、感じられた。
 フレディ達は踊るような動作で、魔族を斬ってゆく。闇を裂く、夜空のクレセン
トムーンを思わせる黄金色の剣が走った後は、必ず魔族の四肢の一部が地に落ちた。
 魔族達の体が裂かれ、首が落とされる度に、煙が上がる。まるでフレディ達の剣
は、金色に燃えているようだ。そしてその剣に彫られた、緋色に輝く文字が、魔族
達を怯えさせているらしい。
 十人以上いた魔族の戦士達は、あっさり全滅した。フレディ達は、息を切らした
様子もない。魔族達の死体は、床の上でくすぶっている。まるで焼き場のような、
臭いと煙が立ちこめた。
 平然としているブラックソウルやフレディと比べ、ケイン達は魔族の精神波の影
響を受け、すっかり蒼ざめている。そのケイン達の方へ、ブラックソウルの一行が
近づいて来た。
「驚いたな」ブラックソウルが黒い瞳を、煌めかせながら言った。「なんにも魔族
と戦う為の装備を持たずに、こんなところまで入り込むとは。とっても勇敢だね、
あなた達は」
 その言葉に、ジークがいきり立って応えた。
「勇敢だと?いままで卑怯だとか、悪辣非道とかいわれたことはあるけど、そこま
で馬鹿にされたのは、始めてだ!」
 ケインが嘲笑する。
「マジに怒るな、ばか」
 ケインはブラックソウルを、探るように見た。
「確かにおれ達は間抜けだがね、それなりに腕は立つよ」ケインは、多少慎重に言
った。「どうだい、おれ達を利用してみちゃあ。戦力としては、意外と使えるかも
よ」
 ブラックソウルは、クスクス笑った。
「面白そうな人たちだな。我々はさらに下るけど、ついて来ますか」
「ああ」ケインは、蒼ざめた顔で言う。「ここまできたら、行けるとこまでいくよ。
おれの名は、ケイン。そっちのデブは、ジークだ。よろしくな」ケインは、言い終
えると、異相の剣士の一人に近づく。
「恐ろしい剣だな、それは。ええと、あんたは」
「フレディだ」剣士は名乗ると、剣を見せる。「持ってみるか」
 ケインは、渡された剣を手に取る。その剣は既に、黄金色の光を失っていた。根
元に彫られた文字も、輝きをなくしている。
「ほう、木刀か。珍しいな」
 その剣は、木で造られている。木にしては、えらく重かったが。ケインはフレデ
ィに木刀を返しながら、言った。
「噂に聞いたことがある。西方の王都トラウスには、聖樹ユグドラシルが生えてい
ると」
 ケインは、微かに目を細めて続ける。
「ユグドラシルは、遥か遠方からでも聳えているのが見えるほど、巨大な木だとい
う。かつて黄金の林檎が王国にあった時には、そのユグドラシルの根元に置かれて
いたと、聞いている」
 フレディは、無言で聞いていた。
「伝説ではユグドラシルの枝には、黄金の林檎のエネルギィが残っており、ユグド
ラシルの枝からのみ、魔族を傷つけることが可能な武器がつくれると」
「その通りだ」
 フレディが頷く。
「こいつは、ユグドラシルの枝から造った」
 ケインは、驚きの声を上げる。
「へぇ。そんなものが、この東方の地で見れるとはね。あんた達はトラウスから来
たのか?ヌース教団の神官兵士だとか?」
 フレディは曖昧に笑った。
「どうだかな。あんたこそ、西方の人間らしいな、ケイン」
「まあね」
「そろそろ行くぞ、フレディ」ブラックソウルが声をかける。フレディは頷いた。
一行は、再び階段へと向かう。その階段はさらに下へと、続いていた。

 エリスは、フレヤに笑みを投げかける。
「いずれにせよ、クラウス様にお会いになっては、いかがです?ロキ殿もそのつも
りで、いらっしゃったわけでしょう」
 ロキが、頷く。
「クラウス殿の眠る場所へ、案内してもらおうか。そこで待とう。彼が目覚めるの
を」
 エリスが立ち上がる。その時、一人の魔族の男が、部屋に入ってきた。エリスの
耳元で、何事かを告げる。エリスは頷いた。
「ロキ殿、クラウス様の眠る部屋へは、この者が案内します。私は暫く、場をはず
させていただく」
 ロキが無言で、問いかけるように、視線を向ける。エリスは、苦笑して言った。
「人間が侵入して来たのですが、どうも手を焼いているようなので」
「人間に手を焼く?この宮殿ができて三千年たらずだったと思うが、そんなことは
一度もなかったはずだな」
 ロキは面白がっているような、口調で言った。エリスも、困惑しているというよ
りは、楽しげだ。
「エリウスV世以来でしょうな、魔族に手を焼かせる人間とは」
 そして、エリスは会釈すると、立ち去って行った。ロキは、フレヤに声をかける。
「いこうか、フレヤ」
 フレヤは、嵐の過ぎ去った後に晴れ渡る青空のように青く輝く瞳で、静かにロキ
を見つめた。
「私がクラウスに封印を解かれれば、お前に従う理由も、なくなるわけだな」
 ロキは、肩を竦める。
「ああ、お前がそれを選べばな、フレヤ。その時は、好きにすればいい」
「ロキ、お前は」フレヤの美貌には、迷いはもう無かった。「私が記憶をとりもど
して尚、お前に従うと確信しているのだな」
 ロキはその言葉に、応えなかった。
「ロキ、お前は何者だ?私に何を隠している」
 ロキは、賢者のような、笑みをみせた。
「隠してはいない。ただ、今のお前に説明しても、しかたないことことがある」
 ロキは、真っ直ぐフレヤを見つめ返す。
「おれは、聖なる神、ヌースの手によって作り出された模造人間だ。おれの本当の
体は、ヴァーハイムの地底に眠っている。今、地上を動き回っているこの体は、仮
のものでしかない」
「お前の目的はなんだ」フレヤの問に、ロキが応える。
「人間達を導き、人間の手によって、黄金の林檎を天上へ返す為の、星船を復活さ
せること」
「人間の手によって?なぜお前自身が、それをやらない」
「善神ヌースと邪神グーヌは、賭けをしたんだよ。瞬く間ほどの短い生を生きる、
愚かで脆弱な生き物である人間、その人間がもし、天上世界まで飛び立てる星船を
復活させることができれば、邪神グーヌも金星の地下にある牢獄へ戻ると」
「まずは、」フレヤは静かに言った。「記憶をとり戻す。それからもう一度、話を
しよう、神の造った岩石人間よ」
 ロキは頷く。傍らに控える、魔族の男に声をかけた。
「いこうか、この宮殿の主が眠る場所へ」

「ブラックソウル様、お待ち下さい」
 影のように、一行の最高尾に従っていた黒衣の魔導師ドルーズが、口を開く。先
頭のブラックソウルが振り向く。
「どうされた、ドルーズ殿」
「魔族の魔導師が、動き始めました。ユグドラシルの枝から造った木刀だけでは、
対抗できない相手が来ます」
「ほう、」ブラックソウルは、黒曜石のような瞳を、キラキラと輝かす。「どうし
ますかね、ドルーズ殿」
「先に進んで下さい、ブラックソウル殿。ここは、私がくい止めます」
 ブラックソウルは不機嫌そうに、眉間にしわをよせる。
「しかし、」
「この先は、クリスがいれば十分です。封印は彼女の手で、破壊させて下さい。私
の役目はここで、魔族の魔導師と戦うことです」
 ブラックソウルは、ドルーズを見つめ、そしてクリスを見る。クリスはゆっくり
頷いた。ブラックソウルは、ドルーズに向き直る。
「では、お任せします。帰りにもう一度、ここで合流しましょう。アニムス!」ブ
ラックソウルは、火焔の入れ墨の剣士の一人に、声をかける。
「ここに残ってドルーズ殿を守れ」
「不要です」ドルーズは、きっばりと言った。
「しかし、」
「魔族の魔導師にしても、誇りがあるでしょう。人間の魔導師を殺すのに、剣を使
いますまい」
 ブラックソウルは、多少苛立たしげにドルーズを見る。黒衣に包まれた美貌は、
闇を照らす朧月のように、薄く輝いているようだ。
 突然、ブラックソウルは笑みを見せた。
「判りました。では、のち程」
 ブラックソウル達は、そのまま立ち去った。ドルーズは冥界に佇む死神のように、
ただ一人その場に立ち尽くす。
 そこは、長い渡り廊下のような場所である。通路は、馬車がすれ違うことができ
そうな程の幅があり、天井はとても高くアーチを描いていた。
 所々に光石の照明はあるが、薄暗く、天井から差し込む蒼ざめた光線が、光の柱
を造っている。ドルーズはその静寂が支配する廊下で、ゆっくりと振り向いた。
 彼らが通り過ぎてきた道、そこに大理石のように白い僧衣に身を包んだ、魔族の
男が姿を現す。闇色の肌は、秘められた凶暴なまでに激烈な、生命力により黒い光
を発しているようだ。
 瘴気が風のように、駆け抜ける。その魔族の男は、恐怖と残酷さを身に纏ってい
た。近づく者をね狂死させかねない、邪悪な黒いオーラを漂わせている。
 夜明けの太陽を思わす、黄金の髪をかき揚げ、魔族の男はドルーズの前に立ち止
まった。
「下等な生き物にしては、立派なものだよ。こんな所まで入り込むとは」
 ドルーズは無言である。他界に通ずる穴のような黒い瞳で、魔族を見つめていた。
「名乗っておこう。私は、エリス。事実上、この宮殿の支配者だよ」
「私は、破戒魔導師ドルーズ。今はライゴールのジゼルに従っている」
「ふむ。始めようか、ドルーズ。三千年前には、夢にも思わなかったよ。再び戦う
ことの喜びを味あわせてくれるのが、家畜の魔導師とはね」
 言い終えると、エリスは声にならぬ叫びを放った。それはほとんど物理的な力を
持つ、精神波動である。黒い津波のような不可視の力が、ドルーズを飲み込む。 
波涛が崩れ落ちるように、精神波が通り抜けた後に、エリスは立ち上がった影のご
とく、佇んでいた。その表情には、なんの変化も無い。ただ、冴えわたる美貌が闇
の中に浮かぶ月のように、輝いて見える。
「基本的なブロックは、できるようだな。では、本当の魔法というものを、見せて
やろう」
 夕闇を貫く、宵の明星のように、エリスの金色の瞳は、冴えた輝きをみせる。空
間が撓むように、あたりの光景が歪み始めた。
 物理的な音にはならないが、耳の奥で空間のきしむ音が、確かに聞こえる。立ち
尽くす闇のようなドルーズの周囲に、ぽつり、ぽつりと、光の粒が出現し始めた。
 微細な光の粒子が、粉雪が降り積もってゆくように、ドルーズの周囲に集まって
ゆく。それは麻薬の幻覚のような、この世のものではない、実に鮮やかで美しい色
彩を出現させ始める。
 ドルーズの周囲に球状の宇宙が、姿を現しつつあった。ドルーズの視界には、天
上世界のような、極彩色の光景が開けつつある。
 宝石をはめ込んだように、透明で明るく煌めいている青い空。ガラス細工のよう
に繊細で、肌理の細かい漣をたてる湖が、足元に広がる。夢の中で描く為の顔料か
ら着色されたような、赤や黄色の花々が咲き乱れ、宝石で羽を造られたように、透
明で清冽に輝く鳥が、頭上を舞っていた。
 それが、いかなる世界かは、判らない。ただ、今まさにドルーズにとって実在す
る世界であるのは、間違いなかった。
 魔法と幻術は、よく似ている。ほとんど同じ、といってもいい。ただ一点を除い
ては。
 それは、幻術の場合、幻はあくまでも、幻であるが、魔法は、幻を見せられてい
る当人にとっては、まぎれもなく実在しているのだということである。
 ドルーズは今まさに、物理的に存在する、別の宇宙へと送り込まれようとしてい
た。ドルーズの周囲は、宝石で造られたカレイドスコープのように輝いている。ド
ルーズの目には、ゆるやかな波紋が渡ってゆく静かな広い湖が映っていた。
 頬を撫でる湿った風、頭上を舞う鳥の声、すべてが本物である。今や地底の宮殿、
ナイトフレイムは遠い夢のようであった。
 こうして魂が別の世界と同調した時、人間の肉体もまた別の宇宙へと同調する。
かつて暗黒王ガルンをオーラ軍が迎え討った時、数万もの兵士がガルンの魔法の術
中に陥り、鎧だけを残し肉体ごと別の宇宙へと消えたことがあった。その鎧は墓標
のように、いまだに戦場に残されている。
 ドルーズは完全に、極彩色の球体に包まれた。その球体は、次第にしぼんでゆく。
 人間の頭ほどの大きさから、拳大へ、そしてあぶくほどの大きさになり、完全に
消えていこうとした。
「この程度のものか」
 エリスは、侮蔑の笑みを見せた。突然、光の球が炸裂し、あたりに光の渦が巻き
起こる。
「何!」
 エリスは、思わず後ずさる。水球が弾け、水がまき散らされるように、無数の色
を持った光があたりに流れてゆく。そして瞬く間に、光は消えていった。後には元
の通り、影のような黒衣に身を包んだドルーズが、佇んでいる。
「どうやった、貴様」
 エリスの問いかけに、ドルーズは凄絶な笑みを持って応えた。
「簡単ですよ」
 ドルーズの美貌は、内から溢れようとする何物かによって、歪められている。そ
れは、笑いの形をかろうじてとっていた。
「私自身の、内側を見つめていたんです。そこにある真っ黒な死のリアリティは、
あなたの見せた宇宙より、あるいは、この宮殿よりも遥かにリアリティを持ってい
たんです」
「馬鹿な」
 魔法のつくり出す世界、それがそれを見る者にとって、単なる幻と化せば、魔法
はただの幻術となる。エリスが呻いた時、ドルーズは静かに言った。
「あなたの術がこれで終わりであれば、こちらから反撃させていただきますよ」
 ドルーズはすっ、と黒衣の胸元をはだける。陶器のように白い肌が露になった。
エリスは、目を見張る。その胸に、女の顔が浮かんできたからだ。
 神々の愛娼のごとき美貌を持つ女の顔は、微睡んでいるかのように、瞳を閉じて
いる。その顔は次第に前方へ迫り出して行き、頭部そのものが現れいでようとして
いた。
 ドルーズがふっと瞑目した時、胸の女の目が見開かれた。銀に輝く瞳が、エリス
を見る。薔薇の花びらのように紅い唇が、微笑む形に歪む。
「お、お前は」
 エリスは、驚愕の声をあげる。女の頭部は完全に胸から外へ出ており、銀色の長
い髪が床近くまで垂れていた。細くて長い首がドルーズの胸元から伸びてゆく。女
の口から、快楽による呻きのような声が漏れた。
 それは明らかに、竜の首である。青ざめた爬虫類の鱗を持つ細長い首の先に、官
能的な美を備えた女の頭がのっていた。
 突然、黒いものが二つ、ドルーズの背後に出現する。羽であった。巨大な竜の羽
が、黒い天使の羽のように、ドルーズの背に生えた。
 そして首に続いて、竜の前肢が出現する。背中からは、羽に続い巨大な大蛇の胴
のような、尾が現れた。それが床の上で身を捩らせ始めた時、後肢が背から現れる。
 そこに出現したのは、女の頭を持つ竜であった。ドルーズの上半身は、今や竜の
背に乗せられている形になっている。
「まさか、こんなことが」エリスの目は、驚きに見開かれていた。「エキドナよ、
竜の女王であるはずのお前が、家畜ごときの使い魔まで成り下がるとは」
 邪竜エキドナは、美しい若い女の声で笑った。淫猥に口を歪めてみせる。
「お前は、魔導師エリスかい。我が主ドルーズを家畜と呼ぶのであれば、お前はい
ったい何様だい」
 エキドナは、売笑婦のように微笑む。
「善神ヌースの僕である天使達が、地上を蹂躙するため天から降りてきた時。幾万
もの天使達が真っ白に大空を覆った時、お前たちはどうしたね」
 エキドナは侮蔑の笑みを見せた。
「戦ったのは、私たち竜の一族だ。それとあの、恐るべき巨人達。お前達魔族は、
私たちの影で震えていただけじゃないかい」
 エリスの顔が、屈辱で歪む。エキドナは歌うように、続けた。
「このドルーズはあきれた男だよ。私を支配する為に、自分の肉体を私に食べさせ
た。そして、その肉体の骨身に刻み込まれた呪縛の呪文が、私の中へ取り込まれた。
それで私を束縛するのに、成功したのさ」
 エキドナはクスクス笑う。
「お前達魔族には、この退廃的な地下の巣穴が似合っているよ。確かに人間には、
世界を動かしてゆく力がある。それがどこへ向かっているかは、知ったこっちゃな
いがね」
「しゃべりすぎだ、竜の首領」
 エリスの瞳が輝き、再び異界への扉が開き始める。
「無駄よ、無駄!」
 エキドナが、勝利の雄叫びをあげる。虹色に輝く光の渦を貫いて、エキドナは、
エリスに向かって跳躍した。
 七色のガラスが砕け散るように,光の破片が散らばってゆく。エキドナの体は、
異界への扉を打ち砕いた。
 エキドナの紅い唇が、恋人に口づけするように、エリスの喉笛におしあてられる。
ざくり、とエリスの首が喰いちぎられ、床に転がった。
 エキドナは啜り泣くような歓喜の声をあげ、エリスの肉体を貪り喰ってゆく。内
臓が引きずり出され、心臓へ、あるいは肝臓へ愛おしげに、エキドナは紅い口づけ
を与えていった。
 最後には、骨のかけら、血の一滴すら残さずに、エキドナはエリスの肉体を喰ら
い尽くす。そして、満足気に銀の瞳を、閉じた。
 その時ゆっくりと、ドルーズの黒い瞳が見開かれる。眠りについたエキドナは、
再びドルーズの胸の中へと戻っていった。
 羽が背中へと畳まれてゆき、尾が縮み背中へと消えてゆく。首が胸へと入り込ん
で行き、微睡む美しい女の顔だけが残った。
 その顔も次第に薄れてゆき、黒衣の下へと隠される。後に残ったドルーズは、力
つきたように、膝をつく。その顔は死者のように青ざめ、消耗しつくしていた。
 さすがに、ドルーズにとって魔族以上に古く、邪悪な存在といえる竜を操るのは、
凄さまじい労力を必要とするようだ。ドルーズはうずくまり、体力の快復をじっと
待った。

 それは、巨大な吹き抜けであった。円筒の吹き抜けが、遥かに深い奈落の底から、
ノースブレイド山の底部に向かって突き抜けている。
 ブラックソウルの一行は、その吹き抜けの周辺を、螺旋状に下ってゆく階段にい
た。ジークが階段から身を乗りだし、地下を眺める。巨大な砲身の中に、いるよう
だ。
 その、定かに見ることのできない暗く深い地底には、確かに何か居る。その邪悪
な気配は、まるで火山の火口から、立ち昇ってくる熱気のように、ジークの顔をう
つ。
「あまり、覗きこまないほうが、いいわよ」
 灰色のマントに身を包んだクリスが、声をかける。
「この奈落の底には、あの邪神ゴラースがいるわ。ゴラースは、目覚めようとして
いる。へたをすれば、魂を引きずり込まれるわよ」
 ジークは晴れた空のように青い瞳を輝かせ、笑った。
「おっかないところだね。でも、おれは魂なんてないから平気さ」
「馬鹿いいなさい」クリスがあきれ顔になる。
「本当だよ。おれ唯物論を信じているから」
「この馬鹿は、ほっといていいです」
 ケインが口をはさむ。
 その時、背後から人の近づいてくる気配があり、一番後ろにいたクリスが振り向
く。アニムスであった。
「ブラックソウル様」
 声をかけられ、ブラックソウルが振り向く。
「ドルーズは、魔族の魔導師をしとめました。ただ、体力を使い果たし、動けませ
んが」
 ブラックソウルは、少し微笑んだ。
「まあ、いい。帰りにひろうさ」
「ブラックソウル様」クリスが言った。「ドルーズは、ここで片づけておくべきで
しょう。今が彼を倒せる、唯一の機会かもしれません」
 ブラックソウルの瞳が、くらく煌めく。
「おれに指図するのか?」
 クリスは無言で、ブラックソウルを見つめる。ブラックソウルは、クリスに微笑
みかけた。
「我々の目的は、黄金の林檎だ。ゴラースにもジゼルの野望にも興味はない。やつ
らが、たとえオーラを魔力で蹂躙したとしても、どうでもいいことだ。この手に黄
金の林檎があればな」
「判りました、ブラックソウル様」
 ブラックソウルはクリスに頷いてみせると、先へ進み出す。ブラックソウル達の
一行は、巨大な縦穴の周囲を回る階段を、下へ下へと降りてゆく。
 あたりを覆う薄闇がしだいに濃くなり、冷気と瘴気が合わさったような、闇のも
のの気配が強くなってきたころ、階段の終着点にたどり着いた。そこには、巨大な
鉄の扉がある。その扉には、半神半獣の姿が、浮き彫りにされていた。
 フレディとアニムスがその扉に手をかけ、開けようとする。その巨大な扉は、悲
鳴をおもわす、甲高い軋み音をたてて、ゆっくりと開いていった。
 重々しい音が響き、扉は止まる。そこは、清浄な青い光に満ちた、礼拝堂のよう
な場所であった。ブラックソウル達は、そこへ、足を踏み入れる。
 緩やかな曲線を描く円柱が二列に並び、真っ直ぐ奥へと続いていた。ブラックソ
ウル達は、その円柱の間を進む。正面には、聖壇の上に棺が置かれており、その後
ろには荘厳な壁画が描かれている。それは、かつて黄金の林檎の光が地上に満ち溢
れていた時代の、光景であった。
 金色の光を放つ黄金の林檎の回りには、歪んだ体を持つキメラや、青銅の色に輝
く鱗に身を覆った竜、完璧な美を備えた真人である巨人達、そして、漆黒の肌に輝
く黄金色の髪を持つ魔族がいた。それは、ノスタルジィと憧憬、そして夢見るよう
な安らぎに満ちた世界である。そこに描かれた世界こそ、原初の黄金時代といえた。
「ここか、魔族最大の魔導師といわれる、クラウスの眠る場所は」
 ブラックソウルが、呟くように言った。聖壇を登り、棺の前に立つ。その口元は、
不遜な笑みを浮かべ、瞳は挑むように、煌めく。かつて人類を家畜として支配した
魔族に対する畏れは、微塵もなかった。
 ブラックソウルは、棺に足をかける。そして、言った。
「クリス、頼むぞ」
「は?」
「クラウスに、起きてもらわねばな。そうしないと、黄金の林檎を、どこにやった
のか教えてもらえまい。クラウスの精神へ呼びかけて、目覚めさせてくれ」
「はい」そう応えたクリスの顔は、蒼ざめている。クリスは、蒼白の、しかし決意
に満ちた顔で、聖壇のブラックソウルの横へ、上がった。
「ここは、任せる」
 嘲るような笑みをクリスに投げかけ、ブラックソウルは聖壇をおりた。
「さて、我が友人たち、ケイン君に、ジーク君」
 ブラックソウルは、ケイン達に向かい、言った。
「ここで我々の旅は、終わりだ。幸い何事も起こらず、君達の手を借りることもな
かった。そこでだ」
 ブラックソウルは、邪悪な笑みをみせる。
「選ばせてあげよう、君達に。私がこれからクラウスから聞き出す話は、君達に聞
いて欲しくない。どちらがいいかね、ここで我々と戦って死ぬか、この上の階で魔
族と戦って死ぬか?」
「そういうことなら」ケインは獣のように笑う。
「あんたらを殺して、そのユグドラシルの枝から作った木刀をいただくよ。そして、
この先へ進む。どうだい?」
「残念だったね、ブラックソウルさん」ジークが朗らかに言った。「おれ達は、無
敵なんだよね、人間相手なら」
「さて、どうかな」ブラックソウルは無言で、フレディに合図を送る。フレディは、
ジークの前に立った。フレディは、入れ墨で隈どられた魔神のような顔に、笑みを
みせる。
「嬉しいね、無敵を名乗る強い男と戦えるとは」
 そういうと、腰の木刀をはずす。もう一方の腰につけた、通常の長剣はそのまま
だ。木刀を傍らに置くと、フレディは構えをとる。
「始めようか、無敵の男よ」
 ケインは、アニムスを見て言った。
「ということは、おれの相手はあんたかい」
「いや」ブラックソウルが、楽しそうに言った。「アニムスにあんたの相手は荷が
かちすぎる。おれが相手になろう」
「ほう」ケインは、値踏みするようにブラックソウルを見る。どの程度の実力かは
判らないが、ケインの技を見抜いているようだ。おそらく、魔族のいた広間で、闇
水晶剣を手にしているところを、見られたのだろう。
 ケインがユンク流の剣技の使い手だと知り、なお戦いを挑んで勝てると思ってい
るのなら、相当な技の持ち主のはずである。ケインは、間合いを測りながら、ゆっ
くり歩く。
「おっかないね、あんたは」ケインは、ブラックソウルに向かって言った。普通、
戦いが始まる前というものは、独特の緊張と不安があるものだ。命のやりとりをや
るのであれば、どんなに場数を踏もうと、気持ちの昴ぶりは抑えきれない。しかし、
目の前のブラックソウルは、緊張のかけらも感じさせない、リラックスした笑みを
見せている。
 もしそれが、見せかけだけで無いのなら、ケインは、とてつもない怪物を相手に
していることになる。
(こりゃあ、いきなり本気だすしか、無いな)

 ジークは、左半身を前に出し、直角に曲げた左手を揺らす、いつものスタイルを
とった。スリ足で近づこうとする。
(なに?)
 ジークは、フレディのとった構えを見て、足を止める。その構えは、ジークのと
った構えと、全く同じであった。火焔の入れ墨が彫られた左腕を、ジークと同じ形
に曲げ、ゆっくり揺らせている。
「ほう、」フレディは、面白そうに笑う。「同じ技か。その左手、黒砂掌だな。お
れにお前の技が通用するかな、無敵の男」
 ジークの表情は、変わらない。相手がどうであれ、自分のスタイルを崩すつもり
は無かった。
 ジークは、間合いを測る。フレディは、長身を微かに屈めるようにして、フット
ワークを使っていた。
(まともに、行ってみるしか無いな)
 ジークはラハン流格闘術の、最もオーソドックスな戦法を、とることにした。す
なわち、左手で動きを止め、右手でとどめをさす。意身術の為、ジークは思念の統
一を始めた。
 全くジークと同じポーズをとったフレディは、ジークと同じように、フットワー
クを使いながら、間合いを測り始める。二人はいつの間にか、円を描いて動いてい
た。
 互いに見えない中心の回りを、間合いに入るぎりぎりの所で、ゆっくり回ってい
る。目に見えない力が、二人を押しとどめているようだ。
 突然、ジークがしかけた。前に踏み込み、黒い颶風のように左手を放つ。金属の
ぶつかり合う音が、礼拝堂の神聖な静寂を破った。
(なに!)
 相手の左腕を切断し、胸に食い込むはずだった漆黒の左手は、フレディの左腕に
止められている。意身術に入る為、ジークの動きは、一瞬止まった。しかし、完全
に捕らえられる間合いなのに、フレディも動かない。
(えい、いっちまえ)
 全身の力が右の拳へ、集中する。フレディの右腕のガードごと、その胴体を粉砕
するつもりであった。
 ジークはその時、信じられないものを、見る。フレディが、鏡に映った自の姿の
ように、右手を腰に構え、自分に向かって掌底を放つのを。
(意身術もあやつるのか!)
 ジークの全身の力をのせた右拳へ、フレディは右手の掌底を合わせた。鋼鉄の塊
を殴ったような衝撃が、ジークの右腕へ走る。
「うがっ」
 ジークは、苦しげに呻く。後ろへ跳び、間合いを開けた。フレディも動きを止め
る。
(やられた)
 ジークの右腕は、下へさがったままだ。構えをとることが、できない。肩の関節
が外れている為だ。
 後ろに退がったフレディは、同じ構えをとる。右拳は、腰のあたりで構えられて
いた。
 ジークが辛うじて、左手のみで構えをとろうとするのを、フレディは鬼神のよう
な顔に笑みを浮かべて見ている。そして、動きを止めた。
「さすが、黒砂掌だ」
 フレディは、左手を上げる。その皮膚が裂けており、鉄の肌がのぞいていた。
「クワーヌで買った人造皮膚が、裂けてしまったよ」
 フレディは、肘から先の腕の皮膚をむしりとる。そこに現れたのは、鋼鉄で造ら
れた、腕であった。
「流体金属の義肢か」ジークが、呻くように言った。
 体温の変化や、微弱な神経電流を感じ、形態を変化させる金属がある。その流体
金属とよばれる素材の性質を利用し、自在に操ることのできる義肢がオーラにはあ
ると聞いたことがあった。フレディの左手は、まさにそれである。
 フレディは、鉄でできた骨のような、左手を動かしてみせた。滑らかな、普通の
手と変わらぬ動きである。
「肩をはめなよ、無敵の男」フレディは鉄の左手を、ゆっくり揺らしながら、言っ
た。
「もう一度だ。始めてだよ、思いっきり意身術を使えるのは」
 ぞっとする程、楽しげな声である。ジークは辛うじて笑みを口の端にのせた。
「ちったぁ、手を抜けよ。何事も余裕を持つ、そのほうが、人生をエンジョイでき
るってもんさ」

(最初の一撃で、けりをつける)
 ケインは、左手で勝負するつもりだった。意識を鮮明にしてゆく。ユンクの技は、
意識を越えたスピードで肉体を動かすところに、奥義がある。
 例えば、ある種の麻薬を吸引した時、世界が止まってしまったように見える状態
に、なることがある。意識の流れが、日常とは別の流れに入り込んでしまう為だ。
 又、麻薬を使用せずとも、極限まで肉体の能力を酷使した時、一瞬世界が止まっ
て見えることがある。脳内麻薬とよばれる物質が、神経を伝う情報量を、飛躍的に
増大させてしまう為だ。
 すなわち、意識の底には別の時間流に従属する、もう一つの意識がある。無意識
の底の意識とでも、いうべきものだ。ユンクはそれを単純に、「想」と呼んでいる。
 ユンクの技は、麻薬の使用や、肉体を極限状態に置くことをせずに、想を呼びさ
ますものであった。ケインはその想を、今まさに、呼びさましつつある。
 極度の精神集中により、視界が一瞬暗くなり、轟音のような耳なりに聴覚が狂う。
しかし、その直後に、よりクリアな世界が開けるのだ。
 世界は、水晶の中に閉じこめられたように、明るく輝きだす。空気の粒子一つ一
つが、見えるように思える程、感覚が研ぎ澄まされる。
 ケインは、夢見るような、表情になった。その瞬間には、世界は止まっている。
空間把握は、とてつもなく広い範囲になり、なにもかもが、凍り付いたように、動
きをとめていた。
 頭上から降り注ぐ光は、無数のスペクトルに分かれ、鮮やかな色の光線となり、
ケインの視界に映る。自分の心臓の鼓動が、ゆっくりと打ち、それに従って、目の
前の光の色が、移り変わってゆく。
 煤色のマントに身を包んだ、黒い髪の男が動いた。その男、ブラックソウルはガ
ラスの壁を叩き割るように、ケインの間合いへ踏み込む。
 ケインの意志を越えたところで、判断がなされ、左腕が動いた。想のレベルで、
ケインの身体は動いている。ケインの意識は呆然と、自分の体の動きを見ているだ
けであった。
 闇の中で燃える炎を封じ込めたような、闇水晶の剣が、疾風となり空間を裂く。
甲高い音をたて、闇水晶の剣が弾かれた。
 目に見えぬ壁に、跳ね飛ばされたように、闇色の半月型の水晶片は、ケインの左
手へもどる。
(そういうことか)
 ケインは、ブラックソウルの左手に自分の持っている物と同じ、闇水晶の剣を見
た時、奇妙に納得してしまった。むしろ、正体を見抜けた安心感を、憶える。
 相手も又、ユンクの技を学んだということだ。ブラックソウルの余裕は、それで
説明がつく。後の問題はただ一つ、どちらの技が、優れているかだ。
 ブラックソウルの口元には、相変わらず余裕の笑みが浮かべられている。
(いけ好かねぇ野郎だ)
 ケインはエルフの絹糸を操り、二撃目の準備に入っていった。今や、ケインとブ
ラックソウルは、常人の感じることのできない、スピードの世界へ入り込んでいる。

 ジークは、右肩を無理矢理はめ込む。再び、右腕は動くようになる。しかし、今
の右腕では、意身術を使った技は使えない。
 フレディとジークでは、技のレベルは、ほぼ互角であった。そうなると、体を構
成する肉の量で力は決まってしまう。さっきジークの右腕が押し戻されたのは、フ
レディのウェイトが、ジークを上回っていた為である。
 ジークが右肩を外したのは、右手の骨が砕けるのを、防ぐ為であった。関節が外
れることにより、力が逃げ、骨は無事で済んだわけである。
 意身術はあくまでも、体の力のすべてを一点に集中する術であるから、体にある
力の総量までしか、でない。それが劣っているのなら、勝負は決まっていた。ジー
クには、一分の勝ち目もない。
 しかし、一つだけ方法がある。危険な賭になるが、それしか手は残っていない。
ジークは、右半身を前に出し、左手を体の後ろへ退げた。丁度、フレディと逆の構
えに替えたのだ。
「ほう」
 フレディが、感嘆する。それは、捨て身の構えであった。右手は捨てる、という
ことなのだ。
 生身の右手では、フレディの鋼鉄の左手は、防げない。当然、右腕は切り落とさ
れるだろう。ただ、黒砂掌の左手と、フレディの右手がぶつかりあえば、フレディ
の右手は砕ける。
 運がよければ、相打ちとなる。ただ、フレディの鉄の義手がジークの右手を切断
し、胴体に食い込んだとしても、心臓までは届かない。せいぜい右肺を、貫く程度
だ。ジークには、十分勝算があった。もし、フレディが、剣を抜かなければの話で
あるが。
 ジークが右半身を前に出すということは、剣を防げないということだ。もし、ジ
ークがフレディの立場であれば、躊躇わずに剣で斬りかかる。
 しかし、目の前の男は、違うはずであった。戦いを、楽しんでいる。そんな終わ
りは、望んでいないはずである。
 フレディは入れ墨に色どられた顔を、微笑みで歪めた。腰の剣をはずし、床へ投
げ捨てる。
「楽しい男だね、あんた」ジークは、笑みを返して言った。「けど、最後に立って
いるのは、おれなんだけどね」
 火焔の入れ墨をしたフレディの、その姿の通りの鬼神が現前したかのような、凄
まじい殺気が、ジークの顔を打つ。
「次で終わりだ、あんたの無敵は」
 ジークは子供のように、青い瞳を輝かす。
「本気にしたの、無敵というのを?うそに決まってんじゃん」そして、ジークはた
まらなく楽しげな笑みを、浮かべた。「でもなぜか、勝っちゃうんだよな」


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