私的ファンタジィ論はようするに僕にとってファンタジィがどういうものかにつ いて書こうとしているものであって、ファンタジィとは何かということについて概 説的に述べようというものでは無い。「私的」の私というのは、私小説の私みたい なものである。 さて、僕がファンタジィについて語るにあたり、まず学生時代に書いた文章の引 用から開始したい。これは、学生時代サークル活動として絵を描いていたころの文 章である。 @以下引用@ 「現実逃避と幻想」 現実逃避には、二つの側面があります。一般には、片方の側面のみが、問題とさ れています。第一の側面は例えば、次のセリフのような形をとります。 「現実のあれこれ…柵とか…有益とされるものとか…やり方とかに耐えられず…無 用のものの中でやっと安らげる」(三原順「はみだしっ子」白泉社) 第一の側面とは、ようするに現実との関係を拒絶することです。あるいはこういう いいかたもあります。 「押しつけがましい何ものもなく、人を不必要に疲れさせる関係もなく」 人間は、生きていく上で、様々な関係を事物や他人との間に成立させます。ある いは、ある世界が、ある主観に応じて生成してくるともいえます。それをずらせる のが、現実逃避の第一の側面です。 第二の側面は、あまり言及されることはありませんが、やはり逃避を形成する上 での、不可欠の要素です。それは現実からずれたところに、新しい関係を出現させ る行為です。新しい関係は、現実に対して、幻想と呼ばれます。幻想はそれ自体と して自立できません。現実逃避の重要な点は、現実との関係を全面的に拒絶するこ とではなく、現実の中にとどまりながら、なおかつ幻想により観念を補強すること にあります。 我々は、世界との関係を全面的に拒絶した時、通常の意味での生から疎外されま す。精神分裂病は、この関係が崩壊していく病です。現実の崩壊は例えば、次のよ うなものです。 「私が椅子とか、水差しとかを、眺めると、その使用法とか機能を考えるのではな くて、その名前や、機能や、意味を失ったものとして感じるのでした。」(セシュ エー、村上仁・平野恵訳「分裂病の少女の手記」) あるいは、人間は、次のように表現されます。 「しかしそれは私には操り人形であり、ボール紙の書割りの一部分でした。」(同 前) 我々が世界を見る場合、決して事物や人間を、事物そのものとして見ているわけ ではありません。それは、様々な意味や関係が付与されたものです。我々にとって 生きるということは、世界と意味関連の秩序を形成していくことだといえます。 形成される世界は、個々人にとって、異なる様相を示すと考えられます。そして 人間が、共同体を形成する場合、世界像の共通の部分が現実として成立します。現 実は、最も根底的な世界像といえます。 では現実とは、どのようなものでしょうか。現実において、事物は、生存という 目的にむかって、編成されます。例えば、鍬は単に金属器のとりつけられた棒では なく、生産のための道具として、とらえられます。すべての生産活動は、最終的に は、人間自身の再生産につながります。 こうした世界像は、価値(=効用)といった概念に支配されます。すべての事物 は価値(=効用)によって測られ、それらの価値は生存という目的にむかって意義 づけられます。 このような実体的な価値概念に対し、物神的な事物像があります。あるいはフェ ティシズムと呼ぶことができ、我々は共同幻想として事物を固定します。例えば商 品のブランド、デザイン、ファッション性は、我々の共同幻想内において意義づけ られます。このような共同幻想は、実体的な世界像の上に覆いかぶさっており、事 物の認識の際に、重要な役割をはたします。 このように事物はそれ自体として存在するのではなく、様々な意味に覆いかぶさ られて存在します。事物は元来、様々な可能性にむかって開放されていると言えま す。しかし、事物のもつ意味は、共同体の支配下におかれることによって一義的に 限定されていきます。この現象を意味沈殿と呼ぶことができます。古代における神 話体系、中世における宗教体系、現代における資本主義(社会主義)的生産体系は、 こうした意味を一義化させ、秩序づけるものです。我々がこの共同観念から脱落し た時、あるいは共同観念が衰弱した時に、意味は後退します。例えば死との接触は、 生存という目的に向かって編成された世界像をゆるがします。「あらゆる行為は、 限定された視界を前提とする。ただ自殺の場合だけは例外だ。というのも、それは ある広大な視界から−あまりにも広大にすぎるために他の一切の行為が無益なもの にも、実現不可能になってしまう視界から、生まれるからである。」(E.M.シ オラン、金井裕訳「悪しき造物主」法政大学出版局) 我々は死と直面する時、意味を失い、意味を失った時、死に直面します。J.ボ ードリヤールは次のように述べています。 「死の不在だけが、諸価値の[経済的]交換と、等価物の組み合わせを可能にして いるのだ。死がほんのわずかでも注入されるだけで、実に豊かな過剰と両義性がた だちに創造されるので、一切の価値の組み合わせが崩壊してしまうことになりかね ない」 共同体は死の重要性を認識しており、それを支配し、利用してきました。供儀や 戦争、革命、テロリズムが共同体による死の活用です。 我々が一義的に限定された世界から解き放たれると、我々は多義的な無限の可能 性をもった世界へ、突入します。そうした意味が重層化した状態を、我々は幻想と 呼びます。幻想の成立が現実逃避の第二の側面です。我々は、幻想的空間において、 世界を再び濃厚な意味を持った場としてとりもどします。こうした世界について、 中村雄二郎は次のように述べています。 「そして濃密な意味をもった場所とは、つよい方向性を含むとともに顕著な象徴性 をもって区別され、布置された場所のことである。その区分はなによりも聖と俗の 二分法、あるいは聖と俗と汚れの三分法にもとづき、実用性ではなくて象徴性−深 層の意味作用を表す象徴性−の観点からなされている」(中村雄二郎「術語集」岩 波新書) 幻想世界において象徴は重要な役割を果たします。 「人間存在の超越性は象徴によって灰色の記号的世界から意味を解放しようと企て るのである」(笠井潔「戯れという制度」作品社) 我々は濃厚な意味をもつ幻想的世界から自己を疎外していくことにより近代をう ちたてました。事物は象徴性を失い、一義的に編成されていきました。しかしそう した世界像が、やはり近代という一つの幻想ではないかということが現代において 問題にされています。あるいは、我々はもっとも強固な幻想を現実と呼んできたの かもしれません。 逃避とは一つの幻想(近代という幻想)から、別の幻想(神話的世界という幻想) への移行のことでは、ありません。逃避の最中ですら、我々は現実の内に踏みとど まっており、幻想(神話的世界)はあくまでも虚偽でしかありません。幻想という 虚偽体系が、真理体系に変化した時、幻想は現実となり、それは逃避ではなく、世 界は再び一義的に編成されなおされます。 幻想は、それ自体としては形をもたない動的な情念のようなものですが、イメー ジやシンボルを与えることによって形を持ちます。それは夢のようなものに終わる 場合もあれば、絵画やオブジェといった形に定着する場合もあります。我々は幻想 をイメージとして定着させる時に、事物と魔術的関係をとりむすびます。事物と人 間が魔術的関係をとりむすぶ例として箱庭療法があります。我々はそこで、事物が 多義的世界にむかって開放され、生き生きとした意味のきらめきを見せているのを 見ることができます。 こうした幻想はなぜ生じなければならないのでしょうか。一つの解釈として、有 用=合目的性の完遂が、我々の信じているほどには強固なものではなかったことが あげられます。1930年代に、資本主義経済体制は危機に直面しました。(正し くは1929年10月24日ニューヨーク、ウォール街の株価大暴落にはじまる世 界的経済大恐慌のこと)その際にR.E.ハワード、H.P.ラブクラフト、C. A.スミス、ロード・ダンセイニといった、強烈な幻想を抱いた作家が出現したの は無関係なことなのでしょうか。彼らはゆらいだ近代世界から多義的世界への逃避 をこころみた者たちだったのではないでしょうか。 我々は根底的なところで一義的世界からのがれ、多彩な意味のきらめきを持った 世界への回帰の欲求を、持っているといえます。そしてその欲求は現実が衰弱した り、個人の世界像が衰弱したときに噴出するものなのです。 @引用終了@ 文章的におかしいところもあるかとは思ったが、あえてそのままにした。手をい れだすときりがないためだ。ようするにこの時なにがいいたかったかというと、幻 想というもの(=ファンタジィ)は現実からの逃避を実現することにより、癒しに つながるのではないかといいたかったのである。 ここで問題にしたいのは、この文章の趣旨では無く、なぜ僕はこのようなことを 書かねばならなかったということだ。学生時代僕が直面していたのは、思想と表現 の一致という問題である。 思想と表現の一致とは何か。それは結局のところアカデミズム批判であり、体制 批判であるといえる。ようするに思想と表現の一致とは現状を打破し、新しいムー ブメントを起こそうとする運動への意志と考えられるだろう。とりあえず、以下に 具体的に考察してみたい。 まず、アカデミズム批判としての思想であるが、これは表現の自由を希求する観 念だと思う。例えば、ディアギレェエフ・ロシアバレエ団について考えてみよう。 従来ロマン主義的な、ある意味で英雄崇拝的な中世的な概念に対して、ディアギ レェエフ、ストラヴィンスキーの叩きつけたものは土俗であり、土俗的な祝祭のも つ原初的な力であった。又、さらにピカソ、サティ、コクトーが結託してディアギ レェエフのムーブメントに乗ったときには都市の混沌をつきつきけた。 これらは結局、硬直し新しいものを産み出すことのできなくなった、つまり価値 の保守システムを破壊する力であった。ニジンスキーにしろピカソにしろストラヴ ィンスキーにしても徹底的に評論家からたたかれ、観客のブーイングに晒され続け た。ただ、天上桟敷の若者たちの圧倒的な指示だけがあった。 こうした時代のダイナミズムというものは、19世紀末、あるいは20世紀初等 であるから成立したものだともいえる。ピカソやストラヴィンスキーといった時代 の破壊者たちは結局新しいアカデミズムを造り上げ、新しい価値の保守システムを 成立させたにずぎない。革命は自らが反革命を体現し、革命を裏切るという奇妙な 事象はソビエトのように政治的な場面だけではなく、芸術の世界においてもまた同 様であったといえる。ただ、程度の問題はあるにしても。 しかし、資本主義が高度化し、価値が多様化するにしたがってアカデミズムその ものが急速に意味を失ったというのも事実である。ようするにかつて圧倒的な威力 を持って君臨したアカデミズムが第二次大戦という世界戦争を経験し、その中で英 雄崇拝めいたロマン主義的価値観を徹底的に剥奪され、さらに泥沼のベトナム戦争 で戦後民主主義の幻想を破壊されたのちに、とても脆弱なものになってしまったの である。 つまり、僕たちは思想と表現を一致させることにより既成の価値との戦いを目指 したが、その価値とは張り子の虎にすぎないという状況があった。しかし、アカデ ミズムが無くなったといっている訳ではない。それは奇妙な形で残っており、それ は微温的で曖昧な権力として君臨している。 例えば日展というものがある。ここには表現の自由さや、美の追求などという概 念は存在しない。美を通じて真理を追求しようなどというのは寝言にすぎないよう な世界がある。 ようするに作家たちの作った派閥がその勢力を維持する為に日展を利用し、日展 もまたその権威を維持するために派閥を利用するという構造がある。優れた作品と いう観念は消失しており、社会的に認知された派閥に属するということが重要とな る。 派閥の中は完全に日本的な年功序列の世界であり、派閥の頂点にたつものは、世 襲制度によって受け継がれてゆく。ここにあるのは空疎な、美とはかけ離れた権力 のシステムであり、この無意味な権力システムが戦後市民社会の教養を支えている のだといえる。 ではこうしたものを破壊することになんらかの意義があるかというと、それもま た、無意味に思えてしまうのだ。つまり、ほうっておけば自壊するだけの無意味な システムを破壊する為に費やす労力は、持ち合わせていないということだ。表現の 自由さを実現しようとすれば、単純にそうした下らない人たちと関わらなければい いだけである。 例えばアンデパンダン展のように無資格無審査の展覧会があり、自由な表現を発 現する為の場は様々な形で保証されている。そうしたものに参画せずに、尚、既存 の体制打破を目指すとすればそれは社会批判であり、体制批判ということになる。 体制批判は学生が社会に関わる為の唯一の経路だともいえる。では、体制批判とは 何かということになる。 体制批判とは戦後市民社会とはなんだったのかということから始まる。ようする に、第二次大戦において近隣諸国を侵略、植民地支配し、アジアにおいて帝国主義 的圧政を行った日本人。その日本人が戦争被害者となり、被害者としてうけた傷を 癒すことによって成立せしめた戦力を持たない軍事大国日本。この日本をどうとら えるかという問題だと思う。 まず60年安保をどうとらえるかなのだけれども、僕はその時生まれていなかっ たので伝え聞く話からの推測になるのだけれども、植民地支配者である日本人が戦 争被害者となるところまではしかたがない(何しろ被爆国であるし)ことだとして も、再び加害者となるのはだめなんじゃないかということだと思う。そこは民族の 誇りをかけて死守すべきだ、ということになったんだと思う。 つまり、米国の軍事的拠点になるということは、明白にアジアに対する脅威とし て復活するという意識があったのではないか。それがアジアの民衆に対してあまり に恥知らずではないかということだと思う。 長崎浩が述べているけれど、結局60年安保は通過儀礼だったのではないか。安 保闘争の中で死者がでた時に、ここまでやったんだからというムードになったらし い。 つまり日本がかつて支配したアジアの諸国に対して、我々は死人がでるとこまで がんばったけどやっぱりだめでした。がんばりだけは評価してほしい。というムー ドになったということだ。 結局のところ背後にマルクス主義があったけれどもこの闘争は組織化されたプロ レタリアートの戦いではなく、階級闘争では無かった。日本における階級闘争とは 常に賃金闘争として資本主義を延命させる方向にしか働かない。 ということはやっぱり誇りの問題であって、死者つまり殉教者をだすことによっ て民族としての意地と誇りは守られたということだろう。60年安保を経て日本は 高度経済成長を迎える。 それでもやっぱりおかしいよという人はいても当然だと思うし、そうした人がマ ルクス主義により理論武装して戦い続けることになる。いわゆる全共闘というやつ である。しかし、理論が目指すところの階級闘争はいかなる形でも民衆蜂起と繋が ることは無かった。 例えば三里塚闘争である。農民が空港建設により土地を奪われることに抵抗した この闘争に、マルクス主義で理論武装した学生が参加したのであるが、三里塚の農 民は決してプロレタリアートとして組織された訳ではない。彼らは「天朝様から戴 いた土地を逆賊佐藤栄作が略奪しようとしている」と言っていた訳でむしろ農民の 長としての天皇陛下に繋がっていたわけである。 ようするに、マルクス主義ははじめから破綻していたはずだ。そのマルクス主義 は浅間山荘を経てより明確な形で自己破綻をさらけ出す。すなわち内部テロルによ る虐殺行為である。これはカンボジアのポルポト派による300万人の死者を出し たオートジェノサイドへと繋がってゆく。 おそらく僕らに唯一のこされていた体制批判のための武器は、出発の時点から破 綻をしはじめ、カンボジアの虐殺においてその崩壊は頂点を迎える。それでもマル クス主義を武器として使うのならば、屍を乗り越える決意がいる。そんなものと関 わる理由も意欲もない。そんなものは表現にとってむしろ可能性を切断するものに すぎなかった。 むろん体制批判として戦後市民社会を批判し、空疎で無意味化した教養主義を維 持する為のシステムとして公共システム(僕らにとっては京都市美術館)を批判す ることは可能であり、その上でマルクス主義を利用していくらでも理論武装するこ とはできた。しかし、そこまでくると破綻した廃墟の上に砦を築くようなものであ り、これはもう倒錯した批判の為の批判と化しているといえる。 ただ、こうした戦い続けようとする人たちとの議論はやめる訳にはいかないとこ ろがあり、結局のところこれらの作業は僕にとって敗戦処理であった。つまりもう 僕らは負けているのだからその事実を認識して出発するしかないでしょうと、説得 するしかなかったのだ。この時は自分自身に対しても、そう言わねばならなかった のだ。 最終的に僕がたどり着いたのは、「日曜日にケーキを焼くように表現活動を行う」 というところだった。たんに、あらゆる思想から表現は自由であるというだけでは、 僕自身納得できなくなっていた。表現に積極的な価値を見出すべきではなく、それ は個人的な楽しみだといわねばならなかったのだ。 そこでようやく僕は心の平和を見出すことができた。と、同時に僕はひどく不安 になった。「日曜日にケーキを焼くように表現活動を行う」という言葉は僕のまわ りの人間にそうではないだろうと反発をうんだ。例えばパチンコをやっているより は絵を描くほうが有意義な時間の過ごし方ですよというある種教養主義的な考えを 否定したかったのだけれど、つまり積極的にひま潰しと思うことであらゆる思想と の戦いから逃れたくなったのだけど、それも何かが違うといわざるおえなかった。 それはある意味で倒錯していた。体制批判の為の表現が倒錯しているように、す べてから切り離された表現も倒錯していた。そこで僕は別の観念にいきつくことに なる。それがファンタジィであった。 そこで冒頭の引用に戻る訳である。僕はファンタジィというものを現実と対比さ せ、それに対立するもの、そこから逃れうるものとして規定していく。ようするに 僕は思想と表現を分離して、体制批判を拒否したが、現実と和解することはできな いといいたかったのだ。体制とか社会とかいうものよりも、もっと深いレベルで現 実を受け入れきれないといいたかったのだ。 この現実と相容れないものとしてのファンタジィを、僕はもうすこし観念の中で 具体的にイメージしていくことになる。 吉岡平という作家が昔ファンタジィについてこういうことを書いていた。 「ヒロイックファンタジィというものはそもそもR.E.ハワードから始まってい るけれども、あれは自国固有の神話を持たないアメリカ人が自分の神話を持つため に書いたものであって、それを日本人がまねるのはおかしい。アメリカ人はベトナ ム戦争などを経験して現代社会の破綻を感じ、神話へ遡りたいと思ったのだ。ハワ ードにしてもムアコックにしても自民族の神話を持たないが故に架空の神話を構築 したのであり、神話を持つ日本人は自民族の神話から始めるべきではないか」 ハワードはいうまでもなく第二次世界大戦より前の作家である。ムアコックがイ ギリス人でハワードより30年ほど後に自分の国のケルト神話を題材にしてファン タジィ小説を書く人というのはご愛敬として、結構面白いことを言っている。つま り今の日本のファンタジィは架空の神話の上に組み上げられた架空の神話が原点と なっているということだ。さて。架空の神話の上の架空の神話と、自民族の神話が どう違うのかということになるのだが。 民族固有の神話とは何かという問題がある。デュメジルの三機能分類という説が ある。単純にいえば、主要な神を祝祭を主催する神、豊饒の神あるいは土俗の神、 戦争の神と三機能に分類し、支配民族の神と被支配民族の神の二系統に神々を分類 可能であるという観点から類型比較を行った場合、北欧神話−ギリシャ神話−イン ド神話(−日本神話)に同一の起源を認められるというものである。日本神話はデ ュメジル自身は語及していないが、吉田敦彦のような日本の神話学者が唱えている 説である。 実際、わざわざ三機能分類を持ち出さなくてもオルフェウスの神話のようにギリ シャ神話の中にイザナギ、イザナミの神話とよくにたエピソードを見出すことがで きるし、ハイヌ・ウェレ型神話のようにアジア一般に流布されている神話もある。 あるいはバイトゴゴ神話のようにレヴィ・ストロースがインディアンの神話の中で みいだしたものと、日本のスサノヲが同型であるというものもある。 さらにややこしい話をすれば古事記をベースに考えるのは当然として竹内文書は 無視していいのかとかそういう話もある。又、極論すれば縄文民族という日本原住 民に対してあとからきた民族が外国からもちこんだ神話が古事記ともいえる。とす れば梅原猛のような方法論こそ正しいのかとも考えられるが、少し話しが広がりす ぎた。 簡単にかんがえれば民族固有の神話というのは曖昧なものであり、たいていの神 話はそれの土台になっている神話を持っていると思われる。民族固有というのはあ まり考えなくてもいいだろう。むしろ、人類固有の神話と考えたほうがいい。つま り僕はユングの集合無意識のことを言っている。 ユングは人間の意識の底には共通している無意識があり、そこから神話がたちあ らわれるといっている。つまりものすごく単純化しているが、すべての神話の土台 となっているのは集合無意識であり元型であるということになる。 元型とは祖型となる無意識の中に潜んでいる人格であり、アニマ、アニムスのよ うに異性のイメージの象徴化やグレートマザーのような母のイメージ等がある。こ の祖型としての人格、元型につきあたるようなキャラクターが神々であり、その神 々が与えられた機能を演じるのが神話となる。 結局、架空の上に作られた架空の神話がユングの唱える元型につきあたるかとい う問題ではないか。そもそも、神話とはなにかというところに戻ってみよう。 フレイザーという人類学者がゴールデンバッフ(金枝編)というものを書いてい る。この中で描かれるのは殺される司祭であり、神話的物語の中で滅びる世界とと 古い司祭が対応し、甦る世界と新しい司祭が対応する。 神話に描かれるのはミルチャ・エリアーデが「聖と俗」の中で分析してみせたよ うな、世界の滅びと甦りの物語である。これは山口昌夫が中心と周縁理論で分析し たような、日常とそれに対立する聖なる時間(創造と破壊の時間)を巡る物語とい える。 このフレイザーのゴールデンバッフに始まる滅亡と甦りの物語は、エリオット (ミュージカル、キャッツの原作者として知られている)の荒れ地によって小説化 された。この概念は、J.R.R.トールキンの指輪物語にも受け継がれていく。 いきなりトールキンへとんでしまったが、トールキンは第二次大戦後のイギリス の作家であり、トールキンに先行してハワードがいる。ハワードはウィアードテー ルズという怪奇小説雑誌で活躍した作家であり、ラブクラフトのクトゥール神話に 大きな影響を受けている。先の引用した文章の中で触れたように、彼らは1930 年代のアメリカの作家だ。 さらにその前の作家というと、ロード・ダンセイニということになる。まず、ロ ード・ダンセイニという作家が、それまでフェアリーテールとして呼ばれていたお 伽噺を小説化した。これがいわゆるファンタジィ小説と呼ばれるものだ。 このダンセイニの後にラブクラフトたちがいると思われるが、ここには明白な断 絶がある。ダンセイニは精神的には世界大戦を経験する依然のロマン主義的なとこ ろに立っている。しかし、ラブクラフト=ハワードにあるのは黙示録的(=神話的) 破滅の幻視である。 この黙示録的破滅の幻視は例えば神々の黄昏のようなエッダの世界にあるもので あるが、先述したゴールデンバッフに対応する形で滅亡と甦りの物語へと展開した りもする。ハワードは暗黒を幻視するにとどまるが、トールキンは明確に甦りを意 識している。これは神話的神秘性をバックボーンにもつナチスに蹂躙されたイギリ スが復興されるプロセスになぞらえられたりもする。 いずれにせよ、ファンタジィにとって闇(ユングの元型でいえば影)とその統合 (甦り)が重要なモチーフとなるということだ。ル・グインのゲド戦記において影 は実体化して主人公を脅かす。ファンタジィは影に象徴される暗黒性、そしてその 奥にある黙示録的破滅を巡る物語である。 この影をうまく統合したと思われるのはル・グインであり、トールキンである。 それに失敗したと思われるハワードは拳銃で頭をぶち抜く。 こうしたファンタジィはムアコックにおいて、別の局面を迎える。ムアコックと ハワードの間には又、断絶がある。ムアコックの物語の中にも黙示録的破滅の幻視 はある。しかし、それは主人公の外にあるものとなる。主人公は神話的世界の破滅 と甦りをトールキンの物語のように自己の中で内面化するのではなく、それに翻弄 されることとなる。主人公は世界の甦りよりも、破滅と甦りのサイクルから解放さ れることによって平穏をえる。ムアコックは神話的サイクルの外という概念をもち こむ。 もはや神話は生きられるものでは無い。そしてムアコックよりさらに後、つまり 現代の日本のファンタジィにおいては、黙示録的破滅そのものが不要なものとなっ た。ファンタジィはもう元型につきあたる必要がなくなった。 ファンタジィはすでに一つの形態であり、ひとつのファッションであり、シュミ レーションのシュミレーションとしてのシュミラークルなのだ。実体として集合無 意識に繋がる必要は無い。無根拠の差異性としてのみ認識可能なものである。 つまり、ユング的な元型の概念がもう不必要なものになったということだ。元型 が(つまり黙示録的破滅=影)有効であったのはユングの生きた時代、中世のロマ ン主義的価値観や精神が近代によって扼殺される時代のみであったと思われる。滅 び行く多様な象徴性が元型として投影され、近代の初期に機能した。しかし、もう そのようなものは破綻している。すなわち、僕らが見ているのは架空の上に築かれ た架空、出自を、すなわち根拠をもたない神である。 中世的なロマン主義的精神は現代のファンタジィにおいては、トールキンのよう に内面化され生と同一化するような性格のものではなく、ムアコックのように個人 の平穏と対立し個別の人格を翻弄するようなものではない。ムアコックの時代、す なわち冷戦体制も崩壊している。現代のファンタジィは中世のロマン主義的精神を ゲームの上でのひとつのルールとして演じられるものとして扱っているように思う。 ここで意識しているのはロールプレイングゲームのことだ。精神の暗黒面の克服も、 自己犠牲の精神も、ゲームのキャラクターのひとつの機能であり、演じられるもの となる。 かつて近代に抹殺されていった時代精神の悲鳴がユングに元型の概念をもたらし た。それはナチスとともに、旧時代の近代に対する反逆の崩壊という形で滅んだと 見ていいのではないか。黙示録的破滅の幻視とそこからの甦りはひとつの時代精神 が終焉を迎える時には有効であったのかもしれないが、すでに意味を失っており、 現代を読み解くには不向きである。あたりまえのことだとは思う。問題は、そのあ たりまえのことに僕が気付いていなかったことだ。 僕がユンクの元型からファンタジィを解き明かそうとしたのは、結局のところ表 現を思想から解放する作業において陥った倒錯の延長だと思える。もう僕にはファ ンタジィを書く理由はなく、根拠もない。 今後、僕がファンタジィを書くとすれば、その無根拠を根拠として書くことにな るだろう。山田風太郎が忍術小説を無意味なものを構築する為に書いたように。こ れはシモーヌ・ヴェイユの不在の神を待ち望む信仰にも似ている(笑)。 あるがままに現実へ向かい合うこと。僕が立ち戻らなくてはならないのは、その 地点である。あるがままに現実へ向かい合うことにおいて、僕は現実との齟齬を見 出した。 現実を受け入れるとはどういうことか。ようするにそこで生きることができると いうことのように思う。そこで生きる目的を見いだせること。 人間は生と死の問題をクリアするために宗教を作り出したように思える。その宗 教は今なお猛威を一部でふるってはいるものの、かなり曖昧なものになってきたよ うに思える。 ここで一度、宗教について考えてみたい。宗教とはもともとは人間がよりよく生 きるために産み出されたものだと思う。しかし、宗教の歴史は虐殺と迫害の歴史で ある。南フランスを中心に広まった異端キリスト教とされるカタリ派。そのカタリ 派のキリスト教徒を虐殺したアルビジョア十字軍はヨーロッパ史上最大の虐殺とさ れる。又、イスラム教徒との戦いの中でもキリスト教徒、イスラム教徒双方に対す る虐殺行為は幾度か行われている。宗教戦争というものは、常に殲滅戦争であり、 異端宗教を信じるものを根こそぎ虐殺する行為である。つい最近においても、イス ラエルのカエタフ(キリスト教右派民兵)と呼ばれる人々は、イスラム教徒の一つ の村をまるごと虐殺するという行為を行っていた。兵士や民間人の区別はつけず、 赤ん坊を含むすべての人間を殺していたのである。 僕らが信仰心を持っていなかったにせよ、教会などの場所で抱くであろう敬虔な 気持ち、その気持ちが祈りを産み出すと思うのであるがその敬虔な気持ちと現実に 今なお中東で行われているであろう神の名のもとに行われるテロルとは大きな隔た りがある。その両者を宗教という括りで同一のものとして結合するのに、無理を感 じざるをえない。 なぜそのようなことになっているのか。どうも僕らが現実を受け入れようとし、 その時にそこに意味を見出そうとする観念の動きの中からこの殺戮が派生していっ ているように思える。 そこで宗教というものがどのように発生し、どのように構築されていったのかを 見直してみたい。そうすることによって、いかに現実を受け入れるべきかを、問い 直したいと思う。 宗教の起源を問うと、それは神話へと遡るものと考えている。神話とはある種の 説明体系であるように思える。世界の起源を説明すること。私たちがなぜここにい るのか説明すること。私たちがなぜ死ぬのか説明すること。これらが神話に与えら れた役割であり、使命であるように思える。 しかし、今日我々の目から見て説明体系と映るものであっても、本当にその神話 が語られた時代にそれらが説明体系であったとは思えない。神話は語られるもので あったと同時に生きられるものであったからだ。神話的な時間と空間が存在し、人 々はその中で神話を「生きて」いた。そして神話が生きられる瞬間は、祝祭ともい える。 とりあえずこの「生きられる」神話を実存的な神話、説明体系として「語られる」 神話を超越的な神話と呼んでおく。神話はそもそも実存的なものであった。それが どこかの時点で超越的なものへと切り替わったように思える。 私の考えでは祝祭=生産→財の収集→蕩尽であった時代が実存的な神話の時代で あり、祝祭が戦争へ転化し、生産→財の蓄積→生産手段の変革、拡大の時代が超越 的な神話の時代であると考える。前者はジョルジュ・バタイユが言うところの普遍 経済学的論理で動く時代である。 普遍経済学とは、なぜ蕩尽という行為が発生するかを説明したものだ。バタイユ は地球には過剰なエネルギーが降り注いでいると主張する。なぜなら地球へ降り注 ぐ太陽光線によってもたらされるエネルギーの総量と地上で消費されるエネルギー の総量とでは圧倒的に前者のほうが多いからだ。 ただ、これは酷く奇妙なところがある考えだ。なぜなら本来どこにもあるはずの ない標準的エネルギー量というものを暗黙の前提としてそれに対する過剰なエネル ギー量を語っている為だ。我々には地球が全てである。もし地球に過剰なエネルギ ーが降り注がなければ、地球は火星のように冷え切った星になっただろう。我々は あくまでもこの地球という環境に適応したのであって、標準的なエネルギー量の星 から過剰なエネルギーに満ちた世界へつれてこられた訳では無い。 蕩尽は利用可能なエネルギー量が過剰であるから発生するとはいえない。もしも それが過剰であったとしても、そこに至る(つまり蕩尽に至る)必然性を説明でき ない。蕩尽が発生するのは確かに過剰なものがあるのだろう。それはむしろ僕たち の内的必然性の過剰であり、地球に降り注ぐ外的エネルギーの過剰では無い。 僕らは内的必然性として過剰なものを持っている。これを僕はこう言い換えるこ とができると思っている。僕らは過剰な生命力を持っている。 生命は生存に必要な生命力以上に過剰な生命力を持っている。例えば進化という 現象はこの過剰性のひとつの結果と考える。又、その過剰さは僕らに超越的な問を 発することを強いる。生きる意味と目的、そして自分たちの根拠を問うことを命じ るといっていい。僕らにできるのは神話を生きることによってその問を解消するこ とと、その問を論理的に学として解き明かすこと、つまり超越的神話をもつことの 二通りある。 この根元的問について考えてみたい。 過剰性とは何か。生命の目的は一見自己再生のようにも見える。遺伝子という情 報体がエントロピーの増加という情報損失への力に逆らって情報保持を続けること。 それは自己複製を無限につくり続けるという行為によって実現される。それを生殖 ともよべるだろう。それは単に複製を作るという行為として完結しえない。結果的 に進化というものが発生している為であり、その進化を過剰性ということができる と思う。 自己複製の作成とはある情報体から別の情報体への情報伝達として捉えることが できる。情報伝達においては必然的に情報損失が発生する。しかし、進化という現 象は、情報伝達を行い続けるうちに伝達していく情報量が増加していくという現象 である。進化という過剰性が情報を増殖させているというべきなのだろうか。 この僕らの知りうるあらゆる物理的、科学的言語体系によって説明しえない力、 すなわち進化という過剰さが存在している。そして今尚、おそらく今この瞬間もこ の理解しえない力に僕らはさらされ続けているといっていいだろう。これこそ生命 力の過剰であり、僕らに回答不能の問を発せさせるものといっていいと思う。 原理的に僕らは自己の起源を語りえない。それはあらゆる言語化を超越したとこ ろにあるからだ。同様に僕らは世界も語り得ない。すべての言語体系は情報系とし て過剰さにさらされ続けているのであれば、僕らに可能なのはヘーゲルの歴史哲学 のように無限にその完結を先延ばしにしていける仕組みしかないだろう。 神話が「生きられて」いた時代においては、過剰さは神話の中に解消された。な ぜなら神話を生きるということは祝祭の中で蕩尽するということであり、祝祭にお いて世界の破壊、再生を生きるということだからだ。世界を再生つまり、再創造す る。無限に繰り返される創造の力の「蕩尽」。過剰さは祝祭の中で創造として顕現 し解消されることとなる。 しかし、「語られる」神話は別である。「生きられる」神話が過剰さを蕩尽する 安定したシステムを保証するものであったのに対し、「語られる」神話は閉じるこ とを許さないシステムを作り出す。神話そのものは語りきることによって自己完結 を目指すが、原理的に回答不能の問題に対する解として提示されるため、それは超 越的な言語体系として閉じることを僕らに要求する。 僕らは自分たちを原理的に語りきることができぬ存在として敬虔さにたどりつか ざるおえないはずだ。あらゆる自己の根拠、生の目的を語る言語は本来不毛である。 それは、実存的に生きることによってしか意味を持ち得ない。しかし、それを超越 的な閉じうる一つの体系として成立せしめようとすれば、必然的に権力の存在を要 請する。対立するものを絶滅させる全滅戦争の繰り返しによってしか超越的言語は 成立しえない。その超越的言語こそ世界宗教と呼ぶべきものだ。 世界を語りきろうとする全ての試みは、常に破綻を約束されている。それは僕ら が宿命的に背負わされている過剰さを解消できうるものでは無いためだ。過剰さは 世界を語りきろうという試みの中では対立するものを抹消する全滅戦争への情熱と 転化される。それは限りない自己破綻と不毛な殲滅戦争の鼬ごっこに思える。 現代ではその世界を語りきる言語が自己破綻をのりこえる権力を提示できなくな っている。求心力を失ったシステムは不正動作によって全滅戦争ではなくただひた すら無意味な死を量産していくだけである。例えばオウムによって、不全な形で超 越的な世界を語ろうとした試みがシステムの不正動作としかいいようのない形で無 意味な死が量産されたように。 不完全な世界観が大量のバリエーションを得てばらまかれていっているのが現代 だろう。ファンタジィもまたそのバリエーションの一つといえる。 しかし、本来僕らができること、あるいは許されることは語りきるこことでは無 かったはずだ。語るのでは無く、又、神話を生きるのでも無く。ただ、完結しない あるがままの世界に対して敬虔な気持ちを持って祈りを捧げること。 ただひたすらに、祈りを捧げること。 語れざることにはただ沈黙し。 敬虔な気持ちと祈り。 それが唯一僕に許されたこと。 さて、現実とは何かという根本問題を問い直した時、神秘性について語る欲望に 僕らは直面せざるおえないばずである。例えば唯物論というものがある。ある意味 で目の前にある現実が全てであるという考えなのだろう。 ではこの目の前にある現実とは何か。  僕が高校生のころの話である。当時は公務員がスト権ストをやっていたころで、 ある数学教師が美術教師にストライキに参加するように説得しにいった時、美術教 師は一言で議論を打ち切った。それは、 「あなたは今、目の前にあるこの机が実在すると思いますか。私は実在するとは思 いません」 という言葉だった。 つまり史的唯物論者は事物の実在を論理的に言語によって証明すべきだというこ とだろう。僕がその数学教師だったとしたら、その答えとしてとりあえず殴る。殴 ったあとにこういう。 「あなたはこの拳が実在すると思いますか。実在しないと思うのなら、あなたの今 感じている痛みは何ですか。それも存在しないものですか」 ようするに唯物論の問題は事物と私の相関関係の問題となっていく。トランスパ ーソナル学派のケン・ウイルバーが「意識のスペクトル」という著作の中でインド の王様の話を紹介している。 あるインドの王様は、自分に講義を行っている僧侶が本当に自分で自分の言って いることを信じているのか疑問に思った。そこで試してみることにした。 王様の講師である僧侶が自分の庭に入ってきたところで、興奮した牛を僧侶に向 かって解き放った。牛は興奮して僧侶を追い回し、僧侶は血相を変えて逃げ出すと 慌てて木によじ登って牛から逃れた。 その様をずっと見ていた王様は、おもむろに僧侶に問いただした。 「全てが幻影であるのなら、あなたを追い回していた牛も又、幻影ではないのか」 僧侶は頷いて答えた。 「あなたの意識の中で、幻の牛が幻の私を追い回した。あなたは幻を見たのだ」 何か問題が巧妙にすり替えられたような気がする話である。王様のいいたかった のは自らに危害を加えるものの実在を否定しては生きていけないでしょうというこ とだと思う。どうもそれに対する明確な答えは無い。結局、事物と私との相関関係 に還元されるのではないかという話になる。 さっきの机の話を例にとれば、こうなる。 「机が実在していることを論理的に言語によって証明することはできない。しかし、 あなたと机の関係が疎である状況においては、その机の実在を疑うことができるが、 あなたがもしその机でものを書こうとして時、その机が実在していないかもしれな いという理由でその机を使うことをやめるだろうか。あなたと机の関係が密である 時には、その机は明白に実在している」 唯物論とは世界に関与していこうとする時に、その実在をアプリオリな前提とせ ざるおえないということだろう。これは多分、受入やすい話だ。神秘性の入り込む 余地は一見どこにも無い。 しかし、論理的に実在の根拠が証明できないという問題は残る。結局、事物の振 る舞いは論理的に記述しえるものであり、ある法則のもとでその動きを予測できる ということで実在の代償としておくことになる。史的唯物論者の言っているのは、 科学的に説明可能なものの実在は受け入れることができるということだ。 神だの精霊だの因果的論理法則で記述できない存在については、その実在を疑う 必要があるが、ニュートン力学及びアインシュタインの相対性理論においてその運 動を記述しうるものについて実在を疑う必要は無い。 ということを唯物論者はいいたいのだと思う。それはたいへんもっともな話であ るにも関わらず、そこには危険な落とし穴がある。つまり量子力学である。 僕は前々から唯物論者の人に聞いてみたかった。 「事物の存在を無前提につまりアプリオリに信じるのなら、あなたのいっている事 物とはなんですかね。たとえばあなたの目の前にあるこの机は原子でできているの ですが、その原子は結局のところハイゼンベルグの不確定性原理によれば、確率的 にしか実在を記述できないはずですが」 残念ながら、そういう唯物論者(個人的には物理学ファンダメンタリストとも呼 ぶ)とは話をする機会が無い。物理学は元々世界の実在を保証するものではなかっ たはずだ。しかし、物理学ファンダメンタリストとでもいうべき人々には物理法則 は聖書と同様の効力を持つようだ。そうした人たちは量子力学の仕掛けた罠に陥る ことになる。量子力学は事物の実在に積極的に関与する理論であるが、その結論は とても奇妙なものだ。 そこから神秘性を語る欲望へ直結してしまう。物理学ファンダメンタリストほど、 実在への渇望から神秘性へ逃げ込んでしまう。しかし、それは罠である。 量子力学は一見単純なことを言っているように見える。例えば電子のような微細 なものについては、測定する場合測定という行為そのものが電子に対して影響を及 ぼすのでそのふるまいを特定するのは困難である。 位置を知ると、運動量を測定できなくなるし、運動量を知ると位置を特定できな くなる。量子力学とは一見そういうことを言っているようにも思える。観測しなけ ればどこにあるか判りませんね。ただ観測手段が限定的なので不可測要素が多いで すよ。 問題は、電子が波であると同時に粒子であるということだろう。学校の教科書で は原子核の周りを小さな粒である電子が回っている形で、原子はモデル化される。 さて、この原子にエネルギーを与えた場合、電子の起動は広がってゆく。ただし連 続的ではなく起動は飛躍する。これはニュートン力学的には表現できないものだ。 不十分な測定手段であっても電子の動きは記述される。それは波として、つまり 波動関数として表現される。量子の世界では、実在は波動関数として表現される確 率的なものとなる。 やっかいなのはここからである。量子は物質である。これは疑うことができない 事実である。又、量子は波である。これも疑うことができない事実である。では問 題は、波である量子はいつ物質に変化するのか。 波である間は波動関数により確率的に偏在している量子は、観測した瞬間に物質 になるということらしい。ここからアインシュタインが決して受け入れることので きなかった結論が導き出される。物質は観測によって創造される。 シュレディンガーの猫という有名なパラドックスがある。猫を箱にいれる。箱の 中にはふたつのスイッチがある。Aスイッチに放射線があたると毒ガスが放出され 猫は死ぬ。Bスイッチにあたれば何もおこらない。放射線は波であると同時に物質 である。波の間は放射線は偏在し、波動関数によって表現される。A、B両方のス イッチに対して、放射線は照射される。しかし、現実にスイッチが入るのは放射線 が物質化した時であるから、観測という行為が成された時になる。 僕らが箱をあけ、結果が確認されるまで猫は生きているのと死んでいるのと二重 の状態で存在する。結果を確認するという行為を行ったとたん、猫はどちらかの状 態へ収束する。いわゆる平行宇宙のパラドックスである。 確率的にありうべき宇宙が平行して存在する。その宇宙に対して主観が介入する ことにより、一つの宇宙が選択される。アインシュタインはこれに激しく反発し、 これもまた有名なEPR実験を行う。実験とはいえ思考実験である為、実際に行っ た訳ではない。 これを極端に単純化してみる。 一つの光源に対して、二つの観測者を設定する。この二つの観測者は互いに光源 に対して180度反対側に位置する。さて、光は観測される前は波動関数で表現さ れ、両方の観測地点に偏在する。しかし実際にはどちらかの観測地点で光子が検出 される。一方で検出されればもう一方では検出されない。 要するに、一方の観測が光子を創造するのなら、もう一方に光子が創造されない という状態がつくりだされる。だが一方で光子が創造されたという結果が何らかの 形でもう一方に通知されなければもう一方で光子が検出されるという状況は起こり 得ない。 この観測者は光源に対して180度の位置に存在する。ではある一方で光子が創 造されたという事実がもう一方に瞬時に通知されるには、何ものも媒介されない非 因果的連関が二地点間でおきるか、超高速の通知が行われねばならない。 前者はニュートン力学で否定され、後者は相対性理論で否定されている。よって 観測者の観測により物質が創造されるという量子力学の理論は捨て去るべきである といったものだ。 このEPR実験は現代においては実際に行われ、こうした事象が起こることは確 認されている。そういう意味ではアインシュタインは誤ったのである。 ここでとてもやっかいな結果が導き出されていることに気付くべきだ。 まず一つ。 量子力学に基づけば、僕らは選択可能な偏在する平行宇宙の中から一つの有りう べき宇宙を選択している。 もう一つ。 量子力学に基づけば、因果的な連関がなく、非媒介的であってもなんらかの連関 が二つの主観の間に起こりうる。 これはユングがシンクロニシティの理論で主張していることそのままである。非 因果的かつ非媒介的な連関はテレパシーの実験においてユングは統計学的に証明さ れていると主張する。そしてテレパシーのように非媒介的な連関は起こり得ないと いう主張は、前述の量子力学の結果に基づくかぎり非科学的なものとして退けられ てしまう。 また、偶然というものについても、ユングの指摘するような意味のある偶然は、 ありうるべき平行宇宙からの選択という意味において成立してしまうことになる。 魔法的な世界においては偶然というものはありえない。又、非因果的世界を魔法的 世界というのであれば、魔法とは偶然を必然に転化させることともいえる。 それらは物理学的に承認されてしまい、むしろその否定に固執することこそ、ア ーサー・ケストラーの言い方を真似れば因果論的世界像という迷信に縛られること である。 こうしてファンタジー的世界が物理学的な裏付けを与えられてしまう。これは非 常にやっかいな罠といえる。 まず、ユングの言説、又、それを支持した物理学者たち(例えばユングとの共同 著作を行ったパウリ等)の言説は超越論的なものである。つまり世界の根幹に対し て、説明体系を構築してそれがどのようなものか語ろうとする試みである。 前回述べたように全ての超越論的言説は破綻を必然化されている。ところが、量 子力学を前提におく限り、その破綻を乗り越えているように感じてしまうのだ。 つまり量子力学はアインシュタインの相対性理論において完成を見たような論理 的因果関係に基づいた世界像をあくまでも物理学の言説の中で展開し破綻させ成立 させたものである為、破綻をのりこえたところに設立したもののように見えてしま う。しかし、超越論的であることについては、アインシュタイン的世界も、量子力 学的世界も同じである。問題は実存的にどう世界へと関与するかというところにあ るのだから。 今回の最初で述べたように、机が実在的であるかどうかはさして問題では無く、 その机と僕らの連関が疎であるか密であるかによって、机の存在は規定されてくる。 ファンタジー的世界は机の存在様式を変容させたとしても、僕らとの連関を強化す る訳でも断つ訳でもない。 先に述べた僧侶のように全てが幻であるとすることも可能である。僕らがどう世 界と関与するかという選択において、それも又、ひとつの選択であることは否定し ない。 ただ、その根拠が超越論的であるのならば、それは暴力的な排他的否定を産み出 す危険を孕んでいることは認識すべきである。僕らは、神秘性への欲望を持ちうる。 それは形をかえた実在への渇望にすぎない。 超越論的立場に立つ限り、ファンタジー的世界も、唯物論的世界も大差は無い。 神秘性はそれを語ろうとすることによって開示されるのではなく、ただ不在の神を 待つがごとく空白の思念により望み続けることによってもたらされるものであるこ とを、忘れてはならない。