天使の羽毛が世界を覆い尽くし、静寂が降臨した。あたりは野に晒された骨のよう な真白き雪に、満たされている。  どこかでリン、と鈴の音に似た響きが聞こえた。それは、水晶の鳴く音である。  白き静寂の野には鋼鉄でできた異形の兵士たちが、立ち尽くしていた。そして、僕 の傍らには、沈みゆく太陽の紅で雪を染めてゆく魔法使いが倒れている。  天使は雪の中でほほ笑みながら、全てを見ていた。  リン、ともう一度水晶が鳴く。  そして影が空に舞った。  夜を身に纏った水晶の人形が、真白き雪煙をたて静かに大地へ降りる。  僕は僕を支配してゆく狂気にあらがうため、もう一度叫ぶ。  そして、静かに宴が始まった。  朝起きると、お母さんが死んでいた。お母さんは、獣化ウィルスに体のほとんどを 冒されつくしていたようだ。その死体は、豚のそれと見分けがつかなくなっている。  獣化ウィルスに冒されたものは、動物に姿を変形させていく。その進行の速さはま ちまちだが、場合によっては一晩で進行を完了することもある。  お母さんの場合は、昨日の夜には全く兆候が見えなかったので、おそらく夜の間に 病はその支配を終えたのだろう。獣化ウィルスに冒されて変形した身体は動物とはい え、どこかいびつで歪みを持っている。  つまりあちこちに人間だった面影を、残しているものだ。お母さんの場合は、豚と なった顔になんとなく人間だった時の面影が残っていた。  そして、お母さんの左腕だけは人間のままである。左手の薬指にはめられたままの 銀色の指輪は、間違いなくお母さんのものだ。  その豚の死体から生えている、優美な女性的な優しさを残した白い左手には包丁が 握られている。お母さんは自分が獣化ウィルスに冒され獣化病を発病したと知って、 自分で命を断ったようだ。  お母さんの寝床は豚の首から流れでた血で、深紅にそまっている。獣化ウィルスに 冒されたものは、理性を失ってゆく。  獣となった時には、大抵は狂乱状態となり、やがて全身の穴から血を噴き出しなが ら死の舞踏を踊って死ぬことになる。お母さんは豚になりつつも、自ら命を断つ理性 が残っていただけましだろう。  多分、お母さんは僕と同じで、いつも枕の下に包丁を置いて寝ていたのだと思う。 お父さんは、そうはいかなかった。  お父さんは朝起きた時には、ほぼ猿に変形しつくしていたのだ。獣化ウィルスが動 きだすのは、大体寝ている時である。獣化病は睡眠と密接な関係を持っているらしい。  起きている時ならば、死を選ぶことはたやすいだろう。寝ているときに訪れる病は それを許さない。  お父さんは、狂った毛むくじゃらの獣となっていた。その獣は血の交ざったよだれ をたらし、狂気の咆哮を上げながら、かの子に襲いかかる。僕とお母さんは、死に物 狂いでその獣を殺した。  獣化病は、決して治ることのない病だ。病に捕らえられたものは、殺すしか無い。 お母さんがつかまえた獣と化したお父さんの身体を、僕は包丁で突き刺しまくった。  お父さんは刺しても、刺しても死なない。でも、なんとか殺すことができた。 「お兄ちゃん」  かの子の声に、僕は振り向く。後ろ手に寝室のドアを閉めた。 「何しているの?」  僕は首を振る。 「何でもない」  僕はかの子の身体を振り向かせると、その背を押す。 「さあ、いこうか、かの子」 「いくって、どこへ?」 「四国のおばさんのところへさ」 「ふうん、お母さんは?」 「お母さんはいかない。僕らだけでいくんだ。お母さんには、そう言っておいた。さ あ、支度を始めるよ」  かの子は少し怪訝な顔をしていたが、やがて僕の指示に従い始めた。僕は前々から 準備していたものを、バッグにつめてゆく。  それは米軍のサバイバルマニュアルに書かれている野営の道具一式と、最低限必要 と思われる着替え類だ。当座持ち歩けるような、保存食もつめこむ。  僕らは家を出た。あたりは静かだ。この数箇月必要なものを調達する以外、ほとん ど出歩かなかったが既に街が廃墟であることは知っている。  獣化ウィルスは日本中に蔓延していた。汚染された都市は封鎖され、次々と切り捨 てられてゆくだけだ。ウィルスを防止する手だてはない。  僕はかの子をつれて歩き始める。この街は一応東京都の中にある街だが、もう随分 前に封鎖されていた。大半の人はそれでも脱出したらしい。  でもどこへいっても多分同じだ。遅かれ早かれウィルスは追い付いてくる。残った 人達は皆静かに病が訪れるのを待ち、自決していったようだ。  かの子は従順に歩いている。かの子はお父さんが狂った獣になって死んで以来、現 実を直視することを止めたようだ。  かの子の中では今でも静かな日常が流れている。日本がウィルスに飲み込まれる前 のあの日常。毎日変わらず学校へゆき、休日には友達と遊びに行くようなあの繰り返 しの日々。  僕はそれを否定するつもりは無い。かの子が生きていくためには、それは必要なも のなのだろう。  僕は幹線道路に出た。この道をゆけば、いずれ高速道路のインターチェンジにでる はずだ。僕は高速道路を伝って四国へ向かうつもりだった。  広々とした片側二車線のその道路は、世界が崩壊する前は車にいつも埋めつくされ ていた道だが、今そこにいるのは僕たちだけだ。  冬になったとはいえそう寒くはなく、歩くのは苦にならない。そういう意味ではあ の家を捨て去るには、ちょうど善い時期だったのだろう。  僕らは、道の中央近くを歩いていた。前方遠くに人影を見つける。  僕はいやな予感を感じ、歩みを止めてあたりを見た。気付くのが遅かったらしい。 もう回りを囲まれているようだ。  獣化ウィルスは進行が遅ければ、何箇月もかけて人を動物に変えてゆく。その場合 理性の失われてゆく速度も、病と同様に緩慢ではある。しかし、大体において半ば獣 と化した人間たちは、凶暴で破壊的であった。  彼らは見境なく、病に冒されていない人間を傷つけようとする。病院は彼らを受け 入れ収容していたが、都市の崩壊がこれだけ進行した今となっては、その半ば獣であ り半ば人間であるものたちは野放し状態だろう。  僕らは今、半獣人たちに取り囲まれようとしている。彼らは僕たちを中心にして、 半径十メートルほどの円を描いて取り囲む。  彼らの姿はまちまちだ。牛のような頭を持つもの。馬の足を持っているもの。身体 は巨大なライオンだが顔だけは人間のものもいる。また、上半身は鳥であるが、下半 身は人間というものもいた。  皆一様に虚ろな瞳をしている。彼らの望んでいるものは、僕らの生き血だ。彼らは 正常な人間の生き血を飲むことによって、病の進行が押さえることができ、苦痛を和 らげることができると信じていた。事実、そうなのかもしれない。いずれにせよ僕は 彼らに生き血をやるつもりは無かった。  僕はジャケットのポケットの中に手を突っ込んでいる。その中には拳銃がはいって いた。その拳銃の元の持ち主である警官は、自分で頭をぶち抜いて死んだ。その時警 官の身体は、半分ほどオオサンショウウオとなっていた。  拳銃はリボルバーであり、弾倉には四発残っている。多分この拳銃で、できる事と いえば、僕とかの子の命を断つことだろう。相手の数が多すぎる。  それでも僕は逃げるつもりでいた。拳銃を威嚇に使えば多少は半獣人もひるむだろ う。運がよければ、その隙に逃げられるかもしれない。  正面にいる牛男が咆哮した。回りにいる半獣人たちも呼応して吠える。半獣人たち は意味の無い舞踏のような仕草で歩き回っていた。その瞳には、狂った欲望しかない。  僕の手は震えていた。無力すぎる。僕の持っている拳銃はこの狂気の前にはほとん ど意味がない。  僕は後ずさり、夢中でかの子を抱き締める。かの子は笑っていた。その視線は宙を 泳いでいる。  僕はその視線を追った。牛男の向こう。道路の中央くらいのところ。そこにきらき らと光るなにかがあった。 「お兄ちゃん、来るわよ」  かの子の言葉と同時に、きらきらとした光は数を増してゆく。あっというまにそれ は獰猛な光の洪水となった。  天空から光の球が投げ付けられ、砕け散ったかのように、光の洪水があたりを満た した。その物理的な力を持つかのような光の流れは、一瞬僕らの視界を閉ざす。  光の洪水が流れ去り、僕らが再び世界を見ることができるようになった時、まず最 初に目に飛び込んできたのは、馬であった。  黒くて巨大な馬。その馬は普通の倍以上の、大きな身体を持っている。その馬が馬 車を曳き走ってきた。  逃げ遅れた牛男は、巨大な馬に踏み潰される。馬は僕の目の前まできた。馬車に乗 った灰色のマントを纏った御者が、手綱を引いて馬を止める。馬は激しく嘶くと前足 を高々と上げた。  僕はかの子を抱えて必死にその蹄から逃れる。巨大な馬は、僕の目の前で止まった。  その瞳は明けの明星のごとく燃え上がり、その吐息は逆巻く炎である。思わず後ず さる僕の前に、灰色のマントを纏った御者が飛び降りてきた。思ったより小柄なその 御者は呟きをもらす。 「なんという世界だここは」  半獣人たちは、その馬車が出現したパニックからあっという間に立ち直る。という より、さしてその馬車の出現を気にしていないようだ。  彼らの視線は、灰色のマントの人に向けられている。マントの人はフードを払いの けた。僕はそこに現れたその人の美しさに、思わず息をのむ。  燃え盛る太陽のように輝く金色の髪、そして夜の闇を貼りつけた漆黒の肌。瞳はそ の暗黒の宇宙に煌めく恒星であり、その姿は闇と光の婚礼によって生み出されたもの のようだ。そしてその顔を形どる柔らかなラインは、間違いなく少女のものであった。  上半身が鳥の人間が羽ばたきながら、鋭い嘴を突き立てようとその人に襲いかかる。 その漆黒の肌の人は、灰色のマントを翻し、優雅な舞踏のようなステップでその攻撃 をかわす。そして、明瞭な声で詠唱を始めた。 「遥かなる大地の果てに住まう、偉大なる火炎地獄の覇者にして、死せる大地を渡る 神秘なる力の顕在化である炎の精霊よ、いにしえに捧げられた我が一族の血と肉によ って為された約定を果たす時が今きた」  その歌うような、叫ぶような詠唱は優雅な舞踏とともに続けられてゆく。その詠唱 は廃墟と化した街に響き渡っていった。世界は金色の髪を持つ彼女の声によって、支 配されていくようだ。  一瞬、雷鳴を光に変換したような世界の亀裂が中空に走り、生命を持った炎が出現 する。その炎は深紅の龍を思わせる姿を持ち、瞬時にして鳥人間を焼き尽くした。  炎はさらに獲物を求めて、地を這いずり回る。闇色の肌を持つ少女は女神のように 静かにほほ笑む。  僕は、はっと気が付いた。鰐のように変形した顔を持つ男が、馬車の荷台のそばに 立っている。その手に持たれた斧は、振りあげられていた。荷台にあるものに向かっ て、今まさに振り下ろされようとしている。  その時僕のとった行為は、殆ど無意識のうちになされた。僕はポケットの中に入っ ていた拳銃を取り出すと、鰐男を撃つ。  弾は鰐男に命中し、鰐男は尻餅をつく。拳銃弾はあまり鰐男には深手を負わせなか ったが、それで十分だった。銃声に気が付いた灰色のマントの人は、拳を鰐男に向か ってつきだす。  それに応えて紅蓮の炎が渦を巻きながら、鰐男を覆う。鰐男は一瞬にして炭の固ま りとなった。  十人ほどいた半獣人たちが黒焦げになるのに、おそらく一分もかからなかかったろ う。凶悪な真紅の炎は、満足げに大地をひと嘗めすると、再び時空の裂け目へと戻っ ていった。  静寂が再びあたりを支配する。巨大な黒い馬は、彫像と化したように動かない。金 色の髪の少女は、ゆっくりと僕の前に歩いてくる。  その金色に輝く瞳が真っすぐ僕を貫いた。 「礼をいわねばならないようだ」  少女は凛とした声で僕にいった。その口調は大人の、それも訓練された兵士のよう な堅い調子を帯びている。まるで戦いが日常化した世界からきた人のようだ。 「礼といったって、僕らのほうが助けてもらったようなものだし」  少女はふっと身を翻すと、荷台にあるものを確認する。僕は、それを彼女の肩ごし に確認した。それは頑丈そうな漆黒の材木でつくられた棺桶だ。 「死体が入っているの、それ?」  僕の言葉に彼女は少し笑みを見せ、僕を手招いた。 「ここにあるのは世界を救うものだ。見るか?」  僕は頷くと、彼女が蓋を持ちあげた棺桶を覗き込む。棺桶の内側は血で満たされて いるように、紅いビロードが内貼されている。  その棺桶に寝かされているのは、漆黒の闇だ。正確にいえば闇のような漆黒のマン トを身に纏った死体であった。頭部の上には鐔広の帽子が置かれているのでどんな顔 かは判らない。マントから少しだけ露出している手には包帯が巻かれていて肌の色も 不明だ。  大人というには少し小振りな身体であり、子供というには少し大きい。おそらく僕 と同い年くらいで死んだのだろう。 「死体が世界を救ったりするわけ?」  僕の言葉に彼女は少し苦笑のようなものを浮かべる。 「それは死体じゃない。人形だよ」  人形だとしても、世界を救えないのは同じようなもんだろうと思ったが、僕は口に ださなかかった。彼女はその思いを読んだように言葉を続ける。 「その人形は大昔の偉大な王、凶悪な王、崇高にして残忍な王、エリウス・ザ・ブラ ックを模して造られたものだ。今は眠っているが目覚めがくればその身体を巡る水銀 が人形を駆動し、いにしえの王と同じ能力を発揮する」  僕は少し肩を竦めた。さっきの炎の魔法を見ていなければ、ただの妄想で片付けた だろうが、それにしても信じがたい話だ。少女は僕のそぶりを気にとめたふうもなく、 棺桶の蓋を閉めると馬車に飛び乗る。 「おまえたちも乗るがいい、さっきの礼だ。おまえたちの行きたいところまで送ろう」  僕は荷物を拾いあげると、かの子を連れて歩きだす。 「礼はいらないよ。助けてもらったのはお互い様だ」 「ここは危険なところだ。おまえたちだけで、目的地に着くことは適わぬだろう」  僕は肩を竦める。 「そりゃそうだが、名乗りもせず、どこから来たのか判らない得体のしれない人を信 用するのも、危険なことには変わらないんじゃないの?」  少女は思ったよりずっと朗らかな笑みを浮かべる。そして、僕に名乗った。 「私の名はスーザン。さっきおまえが見たように魔導師のはしくれだ。アルケミアか ら王国へ向かうところだった。なぜこの世界に来てしまったのかはよく判らない」 「僕は啓一、こっちは妹のかの子。僕らは四国へ向かうところだ」  僕はスーザンと名乗った少女の馬に目を向ける。 「ああ、その馬はスレイプニル。魔道で動く鋼鉄の馬だ。おまえたちが荷物に加わっ たところで、スレイプニルにとってはどうとういうこともない」 「そうみたいだね」  僕とかの子はそうして、スーザンの馬車に乗ることになった。  その朝目覚めると私のお母さんは、包丁で喉を突いて死んでいた。自殺の理由はよ く判らない。もしかしたら、啓一兄さんが殺したのかもしれない。どうでもいいこと だ。私達家族は、随分前から壊れてしまっていた。  兄さんは、お父さんがお母さんを殴ったあの日からおかしくなっていた。いわゆる 引きこもりというやつだ。あの日を境に兄さんにとって世界は、敵意に満ちた破滅的 なものになったらしい。  兄さんは、部屋にこもって同じテープばかりを繰り返し聞いていたようだ。それは 聖書の黙示録を朗読したテープだった。  あの日のことは兄さんが高校二年生、私が高校一年生だった年のことだ。あれから 一年がたった。崩壊がおこるのは、遅すぎたような気もする。  お母さんとお父さんが離婚しなかったのは、多分兄さんのせいだ。お父さんは出張 と称して月に数回家に帰ってくる以外は総て外泊だった。実際エリート商社マンで仕 事中心主義のお父さんに出張が多かったのは確かだろう。  でも、私のお父さんはあの女の家に泊まっていたんだ。名前も知らないアジアの遠 い国からきた、キャバクラでお父さんと出会った女。  決して治ることのない性病を、お父さんとお母さんに染した女。  良家のお嬢さんとして育った私のお母さんは、殆ど分裂症寸前のノイローゼに陥っ た。それでも崩壊寸前の兄さんの精神を現実に繋ぎとめるため、覚醒剤漬けになりな がらでもお母さんは家庭を立て直そうとしていたんだ。  ある日お母さんの心の中で何かが崩壊した。だからお母さんは包丁で喉をついたん だ。どうせならお父さんの胸を刺してやればいいのに、と私は思った。  兄さんはお母さんの死体の前で立ち竦んでいる。私は兄さんに声をかけた。 「お兄ちゃん」  私の声に、兄さんは振り向く。兄さんは後ろ手に寝室のドアを閉めた。 「何しているの?」  兄さんは首を振る。 「何でもない」  兄さんは、私がお母さんの死体を見たことに気が付いていないようだ。私も兄さん に、合わせることにした。  兄さんは私と一緒に旅に出るという。兄さんは一年間引きこもり続けた部屋からで て、兄さんにとって凶悪そのものである世界に向かって足を踏み出そうというのだ。  私は兄さんが好きだった。兄さんと一緒にどこまでもいこうと思う。それが世界の 果てであろうと。  その日、スーザンと私達が会ったのは、街の繁華街の片すみでだ。私達はいかにも 家出した兄弟のように見えたのだろう。私達は街の不良に絡まれた。  その時、私は何かを感じて兄さんに囁きかける。 「お兄ちゃん、来るわよ」  私の言葉と同時に、獰猛な光りの洪水が私達に浴びせられた。それは大きな漆黒の ワンボックスカーのヘッドライトだ。  その車から現れたのがスーザンだった。スーザンは、兄さんと同い年らしかったが、 ひどく大人びて見える。きっと放浪生活を続けていたからなのだろう。  そこからスーザンと私達の放浪生活が始まった。スーザンは自分のワンボックスカ ーにスレイプニルという奇妙な名をつけ、鋼鉄の馬と呼ぶ。その後部は窓がなく、座 席も取り外されていて、漆黒の頑丈そうな棺桶が置かれていた。  その棺桶の中には死体が置かれている。スーザンはそれを人形と呼んだ。私には人 形には見えなかったが、漆黒のロングコートと包帯で覆われた身体を、見ただけで死 体かどうか判別するのは不可能だった。  とりあえず私は、スーザンのいうことを信じることにする。スーザンは炎を使う大 道芸人だ。彼女は自分のことを魔導師と呼ぶ。そういっても不思議はないほど、彼女 の芸は見事なものだ。  スーザンは、自分の人形を「世界を救うもの」と言っていた。なぜ人形が世界を救 うのかよく判らないが、そういうものらしい。彼女らは救う世界を求めてあちこち放 浪してきたのだ。  スーザンとその人形が世界を救うかどうかは判らないが、兄さんを救ってくれたの は間違いない。兄さんとスーザンの語りあっていることは私には全く意味不明だった が、二人には通じ合っているようだ。  兄さんはあの日以来、そう、お父さんが「病気」のことを告白し口論の末にお母さ んを殴ったあの日以来、初めて理解しあえる相手に出会ったようだ。  二人はどうやら同じ世界の住人らしい。私の知らない世界の住人。  僕らはスーザンの馬車に乗って、四国へ向かった。高速道路の上は、乗り捨てられ た車が時折あるだけで、人間も半獣人も姿を見せない。予想通り、高速道路は安全な ルートらしい。  スーザンがスレイプニルと呼ぶその鋼鉄の体を持つ馬は、決して疲れることを知ら ず、餌も水も必要としないようだ。僕らは順調に西へと向かって進む。  僕は馬車の上でスーザンに、僕らの世界が崩壊していった経緯を説明した。なぜ獣 化病という、奇妙な病が蔓延することになったのか。 「始まりは東京の新宿だった。そこにある生化学研究所が爆発事故を起こした。その 時からなんだよ、奇妙な病気が流行り始めたのは」  事態は大衆に知られることはなく、静かに進行していった。初期に発病したものは 手際よく国立病院に隔離されている。そしていつのまにか電気、水道、ガスといった ライフラインは自衛隊の管理化におかれており、機動隊はいつのまにか都市を封鎖し ていった。  気がつけば政財界の要人は皆、海外へ脱出した後で、マスコミは全く真相を報道し なかった。完全に東京の封鎖が完了したころから、一気に崩壊の加速が始まる。 「僕らは何も知らされていなかった。でもある日を境に最低限の情報が公開されるよ うになった。生化学研究所から漏れた、実験によって造りだされたレトロウィルスが 東京全体を汚染したと。そのレトロウィルスつまり遺伝子情報を書き換えてしまうウ ィルスは、獣化ウィルスと名づけられたんだ。なぜなら、そのウィルスは人間の身体 を動物に変化させてしまうから」  スーザンは美しい顔を、少し曇らせる。 「たちの悪い魔道のようなウィルスだな、そいつは」  僕は苦笑する。 「全くその通りだね。情報が公開された時には機動隊が都市を完全に封鎖していた。 獣化病の病人は、既に病院に収容できないほどの数になっていたので、隔離されるこ とはなかった。もっとも、空気感染によって広まってゆく獣化ウィルスは、その時に は東京中を汚染しつくしていたから、あまり隔離には意味がなかったんだけどね」  今、僕らは獣化ウィルスに汚染されている大気を吸っている。 「では私たちもいずれ発病するということなのか?」  スーザンのもっともな問いに対して、僕は肩を竦めて答えるしかなかった。 「さあね。ウィルスは僕らの体内に入り込んでも必ず獣化病を発病させる訳ではない らしい。どうも僕自身理解しきれていないのだけれど、獣化病というのは厳密には病 気とは呼べないらしい」  スーザンは問い掛けるように、片方の眉をつりあげて見せる。 「ようするに、獣化病は僕らの体内に潜在している記憶を、広げてみせるものらしい んだ」  獣化病は厳密には病ではないらしい。むろん、それは人間の身体を死に至らしめる 危険な存在なのだけれど、それはたんに僕らの細胞に潜在している形質を目覚めさせ ているにすぎないということのようだ。  僕らは受精卵から細胞分裂を繰り返し、人間へと至る。その過程でよくいわれるよ うに個体発生は系統発生を繰り返すわけだから、様々な動物の形態を経て僕らは人間 へとなるわけだ。僕らは個体発生の過程で魚類となり、両生類、爬虫類を経て、哺乳 類へとなってゆく。  その別の生き物への進化の可能性は、僕らの細胞内に「記憶」という潜在する形質 として刻まれているらしい。獣化病はその潜在する形質を発現させるにすぎないので あり、僕らは、僕らの体内に内在している「別の生き物」へ変化しようとする力に耐 えられなくなって、最終的に死に至るそうだ。  スーザンはその話を聞いてため息をついた。 「それはまさに魔道だな」 「うん、なんとなく言ってること判るよ」  そして僕らの潜在している形質が発動するかどうかは、結局のところ僕らの深層心 理によって決まるらしい。僕ら自身が僕らの体を変化させていくトリッガーを引くの だ。  スーザンは訝しげに尋ねる。 「それは獣化病にかかるものは、自分自身が獣になりたいと望んでいるということな のか?」 「いや、そうじゃないんだ。むしろ、人間であり続けようと思う心が崩れたときに発 病するらしい。普通、僕らは心と体が一致している。獣化ウィルスはその関係を破壊 してしまう。そういうことらしいんだ。眠っているときは、意識の身体に対する支配 が一番薄れる時らしい。そうすると、僕らの潜在する形質が発動する」  受精卵には最終的に人間の身体へ至るような、潜在的形質が折り畳まれて存在して いる。それと同じ理屈で僕らの身体には、他の動物に変化しうる潜在的形質が「折り 畳まれている」。それが発動しないのは、僕らの意識が潜在的形質の発現をセーブし ているからだ。  例えば、進化について考えてみればいい。進化はゆるやかなものではあるけれど、 あれもまた「折り畳まれている」潜在的形質が発動するものだ。獣化病はある意味で 狂った進化だといえる。  やがて日が沈みはじめ、夕暮れが訪れた。僕らは、サービスエリアに入り込み、野 営の支度をする。僕らは完全に日が沈む前に、野営の準備を終え食事を済ませた。  かの子がポツリという。 「お父さん、今日出張から帰ってくる日だったっけ」  僕は首を振る。かの子はお父さんが死んだことを知らない。 「いや、今日じゃないよ」 「お父さん、私たちがいなくなったのを知ったら、驚くだろうね」 「大丈夫だよ、お母さんが説明してくれるさ」  僕の心の中にたまらない切なさが込み上げ、かの子の身体をぎゅっと抱きしめる。 その時、かの子はむしろ僕を慰めるかのような静かな瞳で見つめていた。僕はかの子 を頭を優しく撫でる。 「さあ、心配することは何もないから眠っておいで」  かの子は頷くと寝袋の中へと入り込んだ。  僕は、ラジオをつけてみる。  ラジオやテレビはもう随分前から情報を流すのをやめていた。崩壊が完遂すること によって、情報を流す意味がなくなったのだろう。  それでも放送する機能だけは、生きていた。ライフラインが、街が崩壊した後も生 きていたのと同様に、一説によれば自衛隊に配備されていた遠隔操作のロボット兵士 によってライフラインや放送局、電話局は生かされ続けているということらしい。  僕はそれを信じていなかったが、では放送を流しているのは誰かと聞かれても僕に は答えられなかった。それは大体、なんのために流されているのか、判らない内容な のだ。  ラジオから流れてくるのは、聖書の朗読だった。テレビをつけても同じものを聞く ことができる。ラジオはこう語った。 「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金 の燭台が見えた。  それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子の ような方が見えた。  その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎 のようであった。  その足は、炉で精練されて光り輝く真鍮のようであり、その声は大水の音のようで あった。  また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝 く太陽のようであった。  それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし 彼は右手を私の上に置いてこう言われた。『恐れるな。わたしは、最初であり、最後 であり、 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。ま た、死とハデスとのかぎを持っている。  そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。  わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められ た意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会であ る。  エペソにある教会の御使いに書き送れ』」  スーザンは驚いたように僕を見て、尋ねる。 「それはなんだ?」  僕はスーザンにラジオの説明をした。電磁波とそれを音波に変化させる仕組みにつ いて。スーザンはその説明を聞いて、首を振る。 「その朗読されている詩のことだよ」 「ああ、聖書だよ」  僕はスーザンの声に怯えのようなものを感じたので、スイッチを切る。 「二千年くらい前に、死んだ神の子が語ったことを記録したものだといわれてる」 「神の子なのに死ぬのか?」 「ああ、彼はなんでも人間が死んでも甦るものだということを示すために、死んだら しいよ」 「では、彼はどこかに生きているのか?」  僕は肩を竦める。 「どうも、そのあたりはよく判らないんだ」 「なぜ、詩の朗読を止めた?聞いていたかったのだろう」  僕は苦笑する。 「いや、もういいんだ。何度も何度も聞いたから、覚えてしまってる。そらでいうこ ともできるよ」  僕は聞き覚えた聖書の一節を暗誦する。 「私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。騎兵は、火のよう な赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、ししの頭の ようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。  これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、 人類の三分の一は殺された。  馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、 その頭で害を加えるのである。  これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、 悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともでき ない偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった」  スーザンはため息をつく。 「奇妙な詩だな」  僕は頷いた。 「そうだね、僕もそう思うよ」  月の明るい夜だった。スーザンの瞳は真夜中の太陽のように金色に輝き、僕を真っ 直ぐ見つめている。 「おまえは知っているのだろう」  スーザンの唐突な言葉に、僕はスーザンを見つめ返す。 「何を?」 「おまえの妹が既に発病していることを」  僕は頷いた。 「知ってるよ。かの子は天使になったんだ」  私たちはスーザンのワンボックスカーに乗って、西へ向かった。車の中で、運転し ているスーザンは兄さんと何か話をし続けていたが、私にはその内容を全く理解でき ない。それはどうやら、ここではない、どこか別の世界の話のようだ。  夕暮れになって、私たちの乗る車はサービスエリアに入った。私たちはサービスエ リアで食事をし、車の中に戻る。今日は車の中で眠るようだ。  私は兄さんに問い掛けてみた。 「お父さん、今日出張から帰ってくる日だったっけ」  兄さんは首を振る。 「いや、今日じゃないよ」 「お父さん、私たちがいなくなったのを知ったら、驚くだろうね」 「大丈夫だよ、お母さんが説明してくれるさ」  兄さんは物凄く切なそうな目をして、私の身体をぎゅっと抱きしめる。私は心の中 に暖かいものが溢れてくるのを感じた。私は心の中で兄さんに囁きかける。 (恐れることはないわ。たとえ世界が凶暴で破滅的な狂気に満ちていても、私は兄さ んと一緒にいる。兄さんのことは理解できないけど、ずっと一緒よ)  兄さんは私の頭を優しく撫でる。 「さあ、心配することは何もないから眠っておいで」  私は頷くと寝袋の中へと入り込んだ。  夢うつつの中で、ラジオのニュースが聞こえてきた。サイコキラーのスーザン・マ クドゥガルが指名手配を受け、逃走中という言葉が聞こえる。スーザン・マクドゥガ ルの特徴は全て、私たちと一緒にいるスーザンのそれと一致した。  兄さんはラジオのスイッチを切る。  兄さんは黙示録の暗誦を始めた。兄さんは、スーザンと会話しながら、時折黙示録 の一節を暗誦しているようだ。 「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、 生きている者である。わたしは死 んだが、見よ、いつまでも生きている」  兄さんの暗誦はやがて終わりをつげる。 「これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、 悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともでき ない偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった」  なんとなく、私は黙示録は今の私たちのことを語っているような気がした。兄さん が黙示録のテープを繰り返して聞いた理由が、判ったような気がする。  私たちは死んで生き延びたものだ。  私たちは家族の崩壊から生き延びたものだ。お父さんとお母さんの子供としての私 たちは、とっくの昔に死んでいる。私たちはお父さんとお母さんを軽蔑し、恐ろしい 殺人者を最後の友として生き続けるものだ。  でもそのことを、悔い改めることなんてしない。絶対しないんだ、私は。  私の意識は本格的に眠りの中に落ちていく。  最後に兄さんがこういうのが聞こえた。 「知ってるよ。かの子は天使になったんだ」  翌朝僕らが目覚めたとき、世界はしんとした静けさと、真っ白な雪に覆われていた。 僕らは毛布を身体に巻きつけて馬車にのる。  漆黒の鋼鉄で造られた馬は、雪を蹴たてて快調に走っていった。僕はひどく楽天的 な気分になってきた。あっという間に四国に着くような気がしてくる。  四国には発病せずにすんだ人たちが集結し、コミューンを作っているらしい。むろ んあやふやな情報ではあるが、そこに行ってみる以外にすることもないし、僕はいけ ばなんとかなるような気がしていた。  でも、旅の終わりはひどく唐突に訪れる。  巨大なヘリコプターが僕らの頭上に出現した。全部で7機。軍用の輸送ヘリのよう だ。そのヘリは明確に僕らを意識している。  やがてヘリは僕らの前後に降りてきた。スーザンは馬車を止める。ヘリは僕らの前 方に四機、僕らの後方に三機着陸した。  ヘリの中から兵士たちが降りてくる。その姿を見て、僕は息を呑んだ。それはロボ ット兵士だった。自衛隊が遠隔操作のロボット兵士を使用しているという情報は、ど うやら本当だったようだ。  兵士は一見人間のような姿をしているが、その動作の不自然さによって明確にロボ ットだと判る。ロボットたちは四体一組になって行動しているが、それらの兵士の動 きは機械的正確さで連携がとれていた。皆、寸分違わず同じ動作をして展開してゆく のだ。  二足歩行の兵士の他に、四足歩行のロボットもいた。大きさはスレイプニルと同じ くらいであめうか。その背にミサイルランチャーを背負っており、顔にあたる部分に は重機関銃が装備されている。  二足歩行の兵士たちは自動ライフルを構えていた。それは人間の兵士が使用するも のと全く同じ種類のもののようだ。  兵士たちは都市迷彩の施された装甲をつけている。手(マニュピレータ)の長さが 人間の倍近くあり、足(歩行装置)の長さは人間の半分くらいであった。類人猿のよ うに歩行の際にはその長い手も使用しているが、結構移動速度は速い。  ロボット兵士たちは五十メートルくらいの距離をおいて、僕らの前後を封鎖した。 一体、他の兵士より高い身長を持つロボットが歩みでてくる。その兵士は顔の部分に 液晶ディスプレイが取り付けられていた。  その背の高いロボット一体だけが僕らの十メートル手前まで近づく。スーザンと僕 は馬車を降りた。  ロボットの液晶ディスプレイには、初老の男が映っている。その男がしゃべり始め た。 「天川啓一とかの子だね」  僕は返答しない。それを気にしたふうもなく、男はロボットを通じて話を続ける。 「私の指示に従いたまえ。殺すつもりはない。見て判るように、君たちは逃げること はできない。むろん君たちに逃げる理由はないはずだがね。我々はあくまでも君たち を保護しにきたのだから」 「どうするつもりだ、僕らを」  僕の問いに男が答える。 「私は国立生化学研究所所長、佐川というものだ。獣化ウィルスを造ったものだとい ったほうがいいかな」  僕は息をのむ。 「世界を滅ぼしたのはおまえか」 「馬鹿をいっちゃいかん。確かに日本では一億近くの人間が獣化病で死んだが、それ は大した問題じゃない。才能のある優秀な人間は皆海外へ脱出しているし、日本以外 の国では特に混乱はおきていない。世界にとって日本という国はそれほど重要な存在 じゃあないんだよ」  僕は目の眩むような憎悪を感じた。 「一体なんのためにおまえは」 「実験だよ。獣化ウィルスは元々人間を進化させるために造られたものだ。残念なが ら、生体実験は殆ど失敗に終わっている。しかし、私は確率的には成功する例があり うると思っていた。そのためには大量の人体実験をする必要があった。天川君。君の 妹はその一億近くの実験の果てに生じた、唯一の成功例だ」  僕は静かに言った。 「かの子をどうするつもりだ」 「大事な検体だ。大切にするよ。ただ、彼女の意思は無くさねばならん。彼女は世界 を改変しうる力を持つ。それを彼女自身の意思によってコントロールされてはたまら ないからね。私たちは急いでる。君の妹が目覚める前に確保し、マインドコントロー ルを完了させないといけない」  僕は拳銃で液晶ディスプレイを撃った。哄笑が響く。  ディスプレイの破壊されたロボットは、全く変わらぬ口調で話しつづける。 「そんなことをしても意味がない。天川君、君に事態の危険性を理解してもらいたか ったが、無理なようだね。しかたない、始めようか」 「今判った」  スーザンは前に出る。  呪文の詠唱と同時に炎が発生し、ロボットが火に包まれた。 「この世界は、救われることを望んでいる。私は、啓一、おまえの妹によってこの世 界を救うために呼び出されたのだ」  ロボット兵士たちが動き出す。  ロボットたちは、一斉にグレネードランチャーを撃った。弧を描き、僕らの足元に 次々と催涙弾が落ちてゆく。催涙ガスがあたりを覆い始めた。 「天空を渡る力にして、大地を渡り、渓谷を走り抜け、木々を震わせる大いなる風 の精霊よ。世界が歌う声を我のもとにもたらせ。いにしえに我が一族が空に捧げた血 と、肉体。それをあがなうためになされた契約を果たせ」  スーザンの叫びに答えるように、風が巻き起こった。催涙ガスは風によって、運び 去られてゆく。  詠唱を終えたスーザンは、がっくりと膝をついた。ひどく疲労しているようだ。僕 は慌ててスーザンを抱き起こす。ロボットたちは前後から迫ってきていた。  スーザンは、僕を払いのける。 「邪魔だ」 「スーザン、どうしたんだ。ひどく疲れているみたいだけど」 「うるさい!」  スーザンは詠唱を始める。 「遥かなる大地の果てに住まう、偉大なる火炎地獄の覇者にして、死せる大地を渡る 神秘なる力の顕在化である炎の精霊よ、いにしえに捧げられた我が一族の血と肉によ って為された約定を果たす時が今きた」  時空が裂け、紅蓮の炎が出現した。炎がロボットたちを襲う。しかし、炎はロボッ トの足を止めることはできなかった。  ロボットの自動ライフルが、銃声を轟かせる。  スーザンは膝をつく。苦鳴がもれ、膝の間に赤い染みができる。 「スーザン!」  スーザンは苦しげに語る。 「やはりこの世界は伝説に語られるデルファイだったようだ。全ての魔道の発現が阻 害されるところ。魔道とは幻想の現実化だ。意識を持たぬ、機械の存在を前にして、 魔法を発現させるのはひどく困難だ」  ロボットたちは間近に迫る。スーザンは叫んだ。 「スレイプニル!」  漆黒の馬は馬車から解き放たれ、ロボットたちへ向かう。四足歩行のロボットの背 にあるミサイルランチャーが火を噴いた。  爆煙が漆黒の馬を包む。炎と煙が去った後に、身体を両断されたスレイプニルが姿 を現す。鋼鉄の馬は横たわったまま、動かない。  もう一発ミサイルランチャーが発射される。それは馬車に命中した。僕は爆風にな ぎ倒される。意識が遠のいた。 「ケイイチ!」  スーザンの叫びで、僕は気づく。かの子は、雪の上にほうりだされていた。気を失 っているようだ。助けに行こうとしたが、身体が動かない。  スーザンももがきながら、雪の上を這いずっている。その先にはあの棺桶があった。 棺桶はほうりだされ、蓋が開いている。その中がどうなっているかは、判らない。  ロボットたちは、かの子のすぐそばまで来た。  僕は絶叫した。 「ごああああうううううおおっ」  僕は自分の声に驚いた。獣の声だ。僕は自分の両手を見る。それは既に、狼の前足 に変化しつつあった。  さっき一瞬気が遠のいた時に、発病したらしい。僕は全身を覆ってゆく快感のよう な苦痛のような、どうしようもなく狂おしい感覚に身悶えする。  僕の心の中には暴風が吹き荒れていた。意識を飲み込み、全てを紅蓮に燃やし尽く そうとする破壊衝動。殺したかった。血と肉を喰らいたい。  僕は狂ってゆく!  リン、と水晶の鳴る音がした。  僕は一瞬、正気に戻る。  激しい暴風雨が、台風の目に入ることによって一瞬途切れるように。  熱病患者が解熱剤で一瞬正気を取り戻すように。  僕の前に黒焦げになったロボットが立っている。ロボットはかの子を指差して言っ た。 「見ろ。奇跡が顕現するところをお前は見ることができる。祝福するがいい」  黒焦げのロボットは関節から火花を散らし、ぎしぎしと身体を軋ませながら言葉を 続ける。 「ウィルスは人間の身体に刻まれている『折り畳まれた』潜在的形質を発動させる。 その潜在的形質は、世界そのものに『折り畳まれて』いる潜在的形質をも発動させる のだ」  かの子は立っていた。  僕を見て微笑む。  その背には七枚の翼が開いていた。  かの子が言った。 「お兄ちゃん、見て」  その瞬間、静寂が降臨した。あたりは野に晒された骨のような真白き雪に、満たさ れている。  リン、ともう一度、水晶の鳴く音が響く。  白き静寂の野には鋼鉄でできた異形の兵士たちが、立ち尽くしていた。そして、僕 の傍らには、沈みゆく太陽の紅で雪を染めてゆく魔法使いが倒れている。  天使は雪の中でほほ笑みながら、全てを見ていた。  リン、ともう一度水晶が鳴く。  そして影が空に舞った。  夜を身に纏った水晶の人形が、真白き雪煙をたて静かに大地へ降りる。  僕は僕を支配してゆく狂気にあらがうため、もう一度叫ぶ。  そして、静かに宴が始まった。  世界を救う人形。  鐔広の帽子を目深に被っていても、水晶で造られた肌の輝きは見ることができる。 その透明の肌の下には、微細なガラスの血管があり、そのガラス管を輝く水銀が激し く流れていた。水晶は歌う。世界を救う歌を。  包帯がとれた手足は、やはり水晶でできている。銀色のワイアーでできた筋肉は、 縦横に流れる水銀の力によって駆動されていた。  さあっ、と雪が舞う。  自動ライフルが一斉に射撃されたが、人形を捕らえることはできない。  その速度は人の属する速度ではない。異界に棲むものの速度だ。  人形は叫ぶ。 「天使には正気を失うような苦痛に見えるのだろうが、地獄の火のなかで私は精霊の 楽しみと歓びに満たされていた」  僕の足元でスーザンが呟いた。 「エリウス人形は、人形であるがゆえに自身の言葉を持たない。彼の言葉はいにしえ の詩篇から引用される」  人形は剣を抜いた。その刀身は半ばで断ち切られている。息を呑んだ僕に、スーザ ンが囁きかけた。 「心配するな。あれは金剛石の刃を刀身の中に仕込んだ剣、ノゥトゥングだ。ワイヤ ーで金剛石の刃を操り、あらゆるものを切断する」  人形は疾駆する闇と化し、飛来する銃弾をかわしながら、もう一度叫ぶ。 「獅子の咆哮、狼の唸り、嵐の海のうねり、破壊の剣は、人間には計り知れぬ永遠の 栄光の一端である」  透明の光が中空を走り抜ける。ノゥトゥングの一振りで、十体ものロボットが胴を 両断され、地に倒れ臥した。青白い火花が大地を這い回る。  人形はもう一度叫ぶ。 「雷鳴と炎を持つ王は、星の軍勢を率いて荒地を進み、十の命令を広めた。暗く沈ん だ海に刺すような視線を投げながら」  透明の刃はロボットたちを切り裂く。その鋼鉄の腕を。足を。  ロボットたちは鋏で切り刻まれた紙片のように、無造作に断片へ切り刻まれてゆく。 宙を舞う金剛石の刃は、飛来する星の煌めきであり、人形自身の姿は漆黒の風のゆら めきとなっている。  水晶のあげる叫び声は轟音と化していた。僕らは、水晶の液が瀑布となって世界へ 雪崩落ちてゆく、そのただなかにいる。  僕は獣と化し、四足で立った。  人形は水晶の爆音を貫き、もう一度叫ぶ。その刃は、さらにロボットたちを死にお いやる。 「帝国は消滅した。獅子と狼の戦いは終わる」  全てのロボットは地に墜ちていた。精緻な構造を持つ機関部をさらけ出したロボッ トの死体は、大地の上で青白い火花に包まれている。  軍用輸送ヘリもまた、そのボディを両断され、死を迎えている。その様は、まるで 巨大な鯨が、陸の上で解体された姿のようだ。  スーザンは眠り落ちるように目を閉じた。その身体は、真白き雪の中へ静かに沈んで ゆく。  気がつくと、僕の傍らにかの子がいた。四足で立つ僕は、かの子を見上げる。眩く輝 く七枚の翼につつまれたかの子は、とても美しい。 「見て、お兄ちゃん」  僕はその時、僕がとてつもなく世界を誤解していたのではないかという感覚に囚わ れる。全ては誤解だったのだ。全てはあるようにして、あっただけなのだと。  僕は、二本足で立つ。  周りに多くの人たちがいた。  高速道路の上は様々な人たちで満たされている。  お父さんもいた。  お母さんもいた。  大人も、子供も、老人も、様々な人たちがいた。  皆、祝福している。僕とかの子を。  全ては誤解だったのだ。そう知ったとき、全ては終わった。  皆が光に包まれ、かの子が空に舞い上がる。天空には巨大な暗黒の穴が開いていた。 その彼方に銀河が渦巻いているのが見える。  かの子はその暗黒へ向かって飛んでゆく。光につつまれた皆も、かの子に続く。全 てがその暗黒の穴へ吸い込まれていった。  穴は閉じられる。  僕は再び、四足で立つ。僕は眠るように目を閉じている魔導師と、役目を終え再び 眠りについた人形に、別れをつげる。  僕は雪を蹴たてて走り始めた。  西へ向かって。  私たちは翌朝、雪につつまれた高速道路を西に向かって走り出す。気がついたとき には、私たちは機動隊の包囲の中にいた。  スレイプニルと名づけられたワンボックスカーは雪の中に横転する。後の記憶は断 片的だ。  スーザン・マクドゥガルは銃に撃たれて、大地に倒れる。その身体の下の雪は、真 っ赤に染まってゆく。兄さん狂ったように叫びながら、四つん這いで這い回る。  私は朦朧とした意識の中で、自分の身体が雪の中に埋まっているのを感じた。機動 隊員が私の回りにいる。  リン、と水晶の鳴る音がした  その瞬間、静寂が降臨した。あたりは野に晒された骨のような真白き雪に、満たさ れている。  リン、ともう一度、水晶の鳴く音が響く。  白き静寂の野には灰色の制服を着た機動隊員たちが、立ち尽くしていた。そして、 兄さんの傍らには、沈みゆく太陽の紅で雪を染めてゆく魔法使いが倒れている。  私は雪の中で、全てを見ていた。  リン、ともう一度水晶が鳴く。  そして影が空に舞った。  夜を身に纏った人形が、真白き雪煙をたて静かに大地へ降りる。  兄さんは身体の中からわき起こる狂気を絞り出すように、もう一度叫ぶ。  そして、静かに宴が始まった。  棺桶の中に入っていたのは、スーザンの弟、エリック・マクドゥガルだった。ほん とうのサイコキラーは、そのエリックだったらしい。エリックは刀身が半ばで断ち切 られている日本刀を抜き、数人の機動隊員を切り伏せる。  その日本刀は折れているにも関わらず、凄まじい切れ味を持っていた。機動隊員の 手足が無造作に切り落とされていく。  銃声が何度も轟いたが、漆黒の風となったエリックを捕らえられない。  人形のように切り刻まれた機動隊員たちは、雪の中に沈む。切り刻まれた胴体から 内臓がはみ出し、大地をのたうつ。真白き雪は、深紅にそまってゆく。  エリックが斬る度に、水晶の鳴く音がする。  その半ばで断ち切られている日本刀には、鋼の刃の替わりに、水晶の透明な刃が付 けられているらしい。  エリックは叫んだ。 「雷鳴と炎を持つ王は、星の軍勢を率いて荒地を進み、十の命令を広めた。暗く沈ん だ海に刺すような視線を投げながら」  それは、ウィリアム・ブレイクの詩編の引用のようだ。 「帝国は消滅した。獅子と狼の戦いは終わる」  しかし、エリックも取り押さえられた。  私は雪の中に埋もれている。歪んだ視界の中で兄さんが光に包まれるのを見た。  私はふと思う。  私はとんでもない誤解をしていたのだと。  本当の世界を知っていたのは、兄さんだけだったのだと。  兄さんは光に包まれたまま、空へ昇ってゆく。灰色に閉ざされた空の中に、一ヶ所 だけ漆黒の部分がある。兄さんはそこへ吸い込まれていく。  私は高速道路の上にいろんな人がいるのを感じた。お父さんもいる。お母さんもい る。お母さんは死んでなかったんだ、と思いながら私は気を失った。  今、私は精神病院にいる。  医者がいうには、私に兄さんなんていないらしい。戸籍上も存在しないし、私の回 りの人たちもそんな人はいないという。  でも兄さんはいるんだ。たった一人本当の世界を知った人として。  私はそう思うがゆえに、精神病院にいるらしい。  どうでもいいことだ。  本当の世界はあの時、兄さんがひとりで行ったところなのだから。  ここは偽りの世界。  そして、それが私の生きる場所。