これは、私があなたに語ることができる、最後の物語です。  なぜなら、私が語り終えたときに、世界は終末を迎えるからです。  おれは闇の中にいた。  何も見ることができない、宇宙の深淵のような闇。  おれがいるのは、そういう闇だ。  おれはその闇の中を宙吊りにされているように、漂っていた。  無限に落ちていくように、あるいは無限に上昇していくように。  果てしなく漂い続ける。  いつからそこにいるのか、おれには判らない。  この闇の中にくる前にはどこにいたのかも、判らない。  ただ、そのどこか優しく暖かさすら感じる闇のなかに、おれはいた。  そして、そこには声が谺している。  無数の声だけ存在する幽霊たちが浮遊し、囁きあっているようだ。  その声を、はっきりと聞き取ることはできない。  風のそよぐ音のように、それはざわざわと気配だけを漂わせている。  ただ、その女の声だけは、時折明瞭に聞くことができた。  その女は、おれに語り掛けているようだ。  闇の彼方にその女の気配を感じる。  おれは、その姿すら思い浮かべることができた。  美しく、しかし孤独を身に纏った女。  その女の声は、こう聞こえた。 (私たちは、世界を終わらせるわけには、いかないのよ)  私たちの乗った大型の四輪駆動車は、山の奥深くに入り込んでいった。私たちは、高 速を降りてからもう随分と長い時間、走り続けている。  街を出たのは昼過ぎだったが、気がついた時にはもう夕暮れが迫りつつあった。西の 空が深紅に染まりはじめたころ、ようやくその施設が私たちの前に姿を現す。  私たちの前方に現れたのは、高く聳える塀。その上には、高圧電流の流れるフェンス がある。そして、鋼鉄製の頑丈な門。その門には、こう書かれていた。 『反町精神病院』  助手席に座った男は車を降りると、鋼鉄の門の傍らにある小さな窓を開く。そこには カードスロットと、操作パネルがあった。  男はカードスロットにカードキーを差し込むと、素早く操作パネルについている文字 キーを操作する。  ゆっくりと巨大な門が開いてゆく。助手席に男が戻り、私たちの乗った四輪駆動車は ゆっくりとその敷地内へと、入っていった。  その中にあったのは、意外と平凡な建物だ。その建物をとりまく庭園も、ごくありふ れたものである。  その五階建てのシンプルな造りをした建物の正面玄関の前に、四輪駆動車は横付けさ れた。  私は、左右をスーツ姿の屈強な男に固められた状態で、車を降りる。とんだ、ビップ 扱いだ。もう一人の男が、車の荷台から長大なケースを引き出す。男はそれを手に提げ、 私たちに続く。  正面玄関の大きなガラスの扉が開き、中から制服姿のガードマンが二人、姿を現す。 ガードマンの一人が私の前に立つと、手にした携帯端末と私の姿を見比べる。その腰に は、物騒なスタンロッドが提げられていた。 「お名前をどうぞ」  ガードマンの慇懃な声に、私は静かに答えた。 「落合恵理香です」  ガードマンは満足げに頷くと、私を建物の中に招きいれる。私は後ろの男からケース を受け取ると、その建物の中へと入った。  その玄関ホールは天井の高い、明るい場所だ。正面にエレベータホールがある。そし て、そのエレベータの前に、痩せた長身の男が立っていた。 「ようこそ、落合さん。待ち兼ねましたよ」  そういうと、男は私のほうに歩みよる。唇の薄い口元に笑みを浮かべていたが、その 怜悧な光を宿した瞳は決して笑っていない。  男は、まっすぐ私を見つめたまま、右手を差し出す。 「ここの院長をしております、反町です」  私は反町と名乗った男と握手をすると、名刺を渡した。その名刺にはこう書かれてい る。 『犯罪臨床心理学研究所 所長       犯罪臨床心理学士         落合 恵理香   』 「落合です。よろしくお願いします」  その名刺を受け取った反町は、少し皮肉な笑みを浮かべて私と名刺を見比べる。私の 名刺の肩書きは、客観的に見ればとても胡散臭いものだ。そうした反応にはなれている。 しかし、相手は素人ではない。 「何か?」  私の問いに、くすくすと笑いながら反町は答える。 「いや、思ったよりお若いかただったので。それと、思ったより美人でいらっしゃる」 「若いというのは、お互い様ではありませんか?それに」  私は反町を真っ直ぐに見据えた。 「私たちの扱おうとしている事件は、経験の役に立つ類のものではないでしょう」  反町は、ふん、と鼻で笑った。 「私たちではありません。あなたの扱う事件です。いずれにせよ、立ち話ではなんです。 場所を変えましょう」  私たちはエレベータで五階へ移動する。反町は、IDカードを使って会議室への扉を 開く。五十人くらいは入れそうなその会議室は、私たち二人には広すぎる。反町は壁面 にかけられた巨大な液晶ディスプレイを背に、腰をおろした。机の上には、座席の前毎 にノートパソコンが置かれている。  私は、反町から少し離れたところに腰をおろす。 「率直な意見を言わせてもらえば」  反町は、顎を手におき少し身を乗り出して私を見つめる。 「あまり、あなたの調べようとされている事件には、関わりたくない」  私は少し肩を竦める。 「内閣調査室から、協力の要請は受けておられるはずです」 「協力しないなどとは言ってませんよ」  反町はノートパソコンを開く。それに繋がったマウスを操作すると、反町の背後にあ る液晶ディスプレイの電源が入り、画面が明るく輝く。  そこに映し出されたのは、一人の男の顔。とても若いように見えるが、逆にずいぶん 老いているようにも見える。痩せていて、肩までのばした髪はシャギーにされていた。  その目は落ち窪みくまがあるが、眼光の光は異様に強そうだ。顔立ちは整っているが、 何か見ているものを不安にさせるものがある。  反町は、相変わらず皮肉な笑みを浮かべたまま、言った。 「北野明夫。二十八歳。自称ミュージシャン。ただ、拳銃不法所持、麻薬不法所持、強 盗、傷害、恐喝の前科があり、思想的に問題があるサークルに関わったりもしている」  反町は画面を切りかえる。そこに今度は穴が映し出された。東京のビル街にある空き 地。その中心に穿かれた穴の映像。 「このまあ、ありふれたアウトローの男が、ある日警官五十人を殺すという事件を起こ した。ですね?」 「一応、外部への発表はそうです」  反町は、堪え切れぬように笑い声を漏らす。 「実際に起こったのは、五十人の人間の消失。そして、数名の人間が発狂。目撃者の証 言によれば、北野はギターを弾いてこの穴をあけたらしい。消えた警官はこの穴の中に 消えたと」  反町は、ディスプレイに映し出された穴に向かって手を差し出す。 「新宿の真中に!穴ぼこをあけたと!しかも、ギターを弾いて地面に穴を穿つとは!」  反町はにやにやしながら、私を見つめる。 「あきれた事件じゃありませんか?」  私は肩を竦める。 「この北野を私の病院で引き受けたわけですが、私としても色々調査をしてみたつもり です。しかし、あなたもおそらくご存知でしょうが、北野は全く平凡な男です。いや、 平凡な犯罪者というべきなのでしょうが」  反町は、私のほうに身を乗り出す。 「私は当然この北野を調査するのであれば、それなりのチームが派遣されてくるものと 考えていました。単に心理学的な面から北野を追求しても意味が無い。その社会的背景 や、洗脳の可能性、場合によってはESPや生化学兵器の関与も含め、スペシャリスト 集団による調査が行われると思っていました。でも、来たのはあなた一人です。しかも、 美人ときている!」  反町は真っ直ぐ私を見つめると、言った。 「なぜ、あなたなんです」  私は笑みを、反町に投げかけた。 「美人は色々得なんです。ということに、しておきます」  反町は立ちあがると、鋭い瞳で私を見つめる。 「まあ、いいでしょう。結局私のたどり着いた結論としては、得体の知れないものには、 関わるべきでは無いということです。北野は私の理解を超えている。そして、おそらく あなたも」  反町は、ブラインドを引き上げる。窓が顕わになった。窓の外は中庭のようだ。この 病院は四角形を構成し、中庭を取り囲んでいる。そして、外部から見ることのできない その中庭に、円筒形状の建物が聳えていた。真紅の西日に照らし出されたその建物は窓 もなく、出入り口も見当たらない。  反町は、その円筒形状の建物を指差す。 「あれが、当病院の特殊病棟です。北野はあそこに居ます。どうします?これからお会 いになられますか?」  私は笑みを浮かべたまま頷く。 「もちろん。そのためにきたのですから」  私たちは会議室を出ると、中庭の特殊病棟へ向かう。特殊病棟へは、五階の渡り廊下 を通じていくようになっているらしい。普段は、渡り廊下は病院の建物の内部に収納さ れており、外側の建物から特殊病棟へ行く時のみ、姿をあらわす。  私は渡り廊下への入り口に立つ。ガードマンに守られたその通路は、空港へのゲート にも似た所持品チェックのシステムが設置されている。  私はそのゲートを潜り抜けた。私の持っているケースもその所持品チェックシステム を通りぬける。ゲートの向こう側から、反町が声をかけた。 「それでは、ごきげんよう」  私は、踵を返し去っていく反町を見送ると、渡り廊下へのドアに向き合う。ガードマ ンは私が反町から受け取ったゲスト用IDカードをカードリーダに通し、ドアをあける。 私はIDカードを返してもらうと、長大なケースを手に提げ渡り廊下を歩いていった。  特殊病棟の入り口には、カードリーダがある。そこにIDカードを通すと、ドアが開 いた。二人のガードマンが私を迎えいれる。携帯端末を手にしたガードマンは、言った。 「落合さんですね」  私が頷くと、私をエレベータに案内する。私と二人のガードマンは階数表示の無い、 直通用らしいそのエレベータに乗って降りてゆく。私の感覚では十階分くらいの時間を 降りたところで、エレベータは止まった。  真っ直ぐ伸びた廊下のつきあたり。そこにある部屋へ、案内される。 「ここで、お待ち下さい」  ガードマンにそういわれた部屋は、片面がガラス張りの殺風景な部屋だった。椅子が こちら側にひとつ、そして透明なガラスの向こうにもうひとつ置かれているきりで、な にも無い部屋だ。私は手にしていたケースを床に下ろす。  案内を終えたガードマンたちは、出て行く。私はその殺風景な部屋に腰を降ろし、暫 く待つ。  しかし、そう長く待つ必要はなかった。  透明なガラスの向こう。  向こう側の部屋のドアが空き、二人の屈強な看護士につきそわれた痩せた男が入って くる。看護士は、腰にスタンロッドを提げているようだ。  痩せた男は椅子に腰を降ろす。それを見届けると、二人の看護士は退出していった。 映像で見たときよりも髪は伸びており、髭も生えている。  しかし、間違い無い。  その俯いている男は、北野明夫だった。  私は立ちあがる。そして、私と北野明夫の間にある透明なガラスに拳を叩きつける。  ガツン、と音がした。  北野は、顔を上げる。  落ち窪んだ目。くまにふちどられたその目は、異様な力を持った瞳がはめ込まれてい る。その瞳が私のほうへ向く。なぜか見るものを不安にさせる、しかし、どこか繊細な 美しさを持ったその顔立ち。 「来たわよ。私よ。私が落合恵理香」 「ああ」  北野の声はとても落ち着いており、むしろ寛いでいるように感じられた。 「あんたが、落合さんか」 「さあ」  私は北野を見下ろす。 「何が有ったのかを、説明して」 「説明ねえ」  北野は少し微笑む。 「まあ、いいだろう。物語をはじめようか」  おれが、そのアルバイトの募集広告を見つけたのは、とあるインターネットカフェで だった。例によって下らない諍いから女の部屋を出たおれは、これといって行く所のあ ても無いまま、二十四時間営業のインターネットカフェに腰を落ち着けている。  おれの荷物といえば、友人から預かっているエレキギターが一本あるきりだ。所持金 の少なさから言って、明日から暮らす場所を探さないことには、どうしようもない。そ のおれにとって、そのアルバイト募集広告は、とても魅力的なものだった。  それは、掲示板に書きこまれたアルバイト募集である。書き込まれてから一週間ほど たっているようだが、誰もレスをつけていないようだ。何しろその内容はえらく胡散臭 いものだった。  そこには、こう書かれている。 『ペットの世話のできる人を求めています。  一週間の間、旅行で家を留守にします。  その間、ペットの世話をしてもらいたいのです。  世話といっても、食事を与えるだけでけっこうです。  できれば、一週間泊り込みができる人を望みますが、通いもOKです』  これに応じるやつがいたら、どうかしている。というよりも、こんな募集を行うほう も、かなりどうかしていると思う。  おれが想像するに、おそらくこの書きこみは特定の人間に向かって発信されたものだ ろう。しかし、一週間書きこみに対するレスがついてないということは、その特定の人 間とは連絡がつかなかったということだ。  求められているのは、ペットの世話ではなく、人間、しかも、なんらかの理由で保護 の必要な人間の世話だと思われる。文面からは、そういう気配が漂っていた。それにし ても、なぜそんなことを掲示板に書きこむのだろうか。  おれは、それがまるで自分に向けられたメッセージのように思えた。そんなことを認 めるほどには、おれは狂っていなかったが。なんにせよ、一週間の間住処を確保できる 上に金も得ることがてきるそのバイトは、とても魅力的だ。当然なにかヤバイ話が絡ん でいるのだろう。多少のヤバイ話は、おれにとってはいつもついてまわることだ。  おれはとりあえず、その掲示板にレスをつける。おれは自分の携帯電話のメールアド レスを書きこんだ。  書きこみを終えたおれは、ギターケースを抱えてインターネットカフェを出る。細長 い階段を降りると、そこは風俗街の真中だ。夜が明けて間も無い街の大気は冷たく、淀 んだ空気の中に長くいたおれにとっては、心地よい。  おれは酔っ払いの反吐や、昨夜の乱闘騒ぎによる血糊の後まで残っている、薄暗い路 地裏を歩いてゆく。どこかで、女が激しく罵る声がしていた。しばらく続いたその声は、 唐突に肉を打つ音で打ち切られ、変わって泣き声が響く。  道端には、浮浪者ともただの酔っ払いとも見分けがつかないような連中が時折転がっ ている。既に夜明けを迎えたこの街は、眠りの中に沈みつつあるようだ。  この猥雑な街は中途半端に裏の社会に足を踏み入れているおれにとって、住み心地の いいところだった。しかし、表の社会が不景気であれば、裏の社会にも仕事が溢れてい るはずはない。  結局、まず職にあぶれるのは中途半端なアウトローであるおれのような連中だ。アル バイトの稼ぎが悪くなれば、本職のミュージシャンに戻るしかない。しかし、音楽で食 えれば元々アルバイトなどする必要は無いわけだ。  おれは、街はずれにある24時間営業のファミレスの中に入った。夜が明けたとはい え、まだ表の社会が目覚めるには少し早い時間だ。そこにいるのは、仕事を終えた様子 の東南アジア系の女たちに、声高に仕事の段取りを話しあっているみるからに三下ヤク ザふうの男たち。おれは、そのファミレスの奥にギターを抱えて腰を落ち着けると、モ ーニングセットを注文する。  おれは、そっとギターをソファへ横たえた。今やおれの唯一の持ち物となったともい えるそのギターは、おれの友人の造ったもの、つまりカスタムメイドのギターだ。なぜ かエフェクターやアンプまで一体化してしまっているそのギターは、とても奇妙なもの だった。  おれの友人が市販のエフェクターを改造して組み込んでおり、アンプとの回路もいろ いろと工夫されているようなので、ちょっと普通のギターではだせないような歪んだ音 を奏でることができる。ディストーション、ディレイ、トレモロ、エコー様々な効果を 取付けられたレバーで操作できるようになっており、ある意味ギターというものを超越 してしまっているような奇妙な楽器だ。  むろん、MIDIコントローラとシンセサイザーを接続すると、音のバリエーション 的にもっと多彩なものを創り出せる。しかし、おれの友人はデジタルな操作によって創 り出される音というものに深い懐疑を持っており、アナログな操作に固執していた。  電磁気的な周波数と音の周波数のシンクロとずれ、そしてそれを人間が耳で聞いてア ナログなレバー操作でフィードバックする。そのことに、重要な意味をおれの友人は見 出していた。重要な意味、それは魔術的な意味と言い換えてもいいだろう。  おれの友人は、人間の生理的なリズムとある特定の周波数との関係に魔術的なものの 本質が潜んでいると、確信していた。それはデジタルな操作では決して到達できないよ うな、精密なレベルでの一致と歪み。ただ人間の根源的な感覚だけが、その神秘の和音、 創世の和音を実現できると信じていた。神話の時代、混沌から世界を創出するために奏 でられたであろうその和音。それは、コンピュータによって実現可能なレベルより遥か に緻密な操作によって実現されねばならないが、人間の脳の深淵にはその操作を可能な らしめるマシニックなシステムが潜在している。  おれの友人はそう信じていた。  そして、やつはおれにギターを託して消えた。世界の果てにゆくという言葉を残して。  注文したモーニングセットが届き、おれの追憶は中断される。食べ物を目の前にする と、忘れていた空腹が蘇ってきた。昨日の昼飯から何も食っていない。  トーストを手に取った瞬間、おれの携帯電話が鳴った。手にするとコール音が止まる。 メールらしい。メールには、こう書かれていた。 『アルバイトの応募の件、了解しました。  至急連絡してください  落合 征士』  そして、電話番号が記載されている。おれは、携帯電話のキーを押す。  そこは、郊外ではあるが二十三区内である住宅地だった。おれは、借り物のキャデラ ックのコンパーチブルをその屋敷の前に止める。そこは、古風な洋館だった。尖った鉄 柵のある高い塀に囲まれた洋館。それが落合征士の指定してきた場所だ。  おれは、重い鉄の門を引く。落合のいった通りに、その鉄の門には鍵がかかっていな い。開けた門から殺伐とした雰囲気の庭へ、年代もののキャデラックを乗り入れる。  庭は手入れされている形跡はなく、野生のままだ。地面に雑草が生い茂り、半ば枯れ て葉の落ちた木が放置されている。おれはくたびれたキャデラックを、玄関の前にとめ る。  ナビゲータシートのギターケースを抱えあげると、玄関のドアの前に立つ。ノックす るよりも前に、ドアは空いた。そこに、どこか猛禽を思わす鋭い瞳を持つ、痩せた長身 の男、落合征士が立っている。  見たところ、四十過ぎくらいだろうが、櫛を入れていないぼさぼさの長髪は逆巻いて おり、左手の爪は切られずに螺旋を描くほどに伸びたまま放置されていた。ダークグレ ーのスーツ姿とはいえ不精髭の浮いたその姿はホームレスのようだ。  落合は、少し甲高い声で言った。 「北野さん?」  おれは頷いて答える。落合は、黒のレザーコートに漆黒のサングラス、シャギーにし た長髪のおれをじろりと見つめると部屋の中へと招き入れた。  廊下を通って入ったその居間は、建物の古めかしい雰囲気に似合う古風な調度の揃っ た部屋だ。おれは落合に勧められるまま、腰を降ろす。 「北野さん、てさあ。CsOの北野さんだよね?」  おれは頷く。CsOとはおれの友人のつくった、そして今おれがギターを弾いている ロックバンドだ。つくった当人は消えてしまったが、バンドだけは残っている。ほとん ど機能してはいないが。  CsOとはCorps sans Oranesの略らしい。名づけたのは、おれの 友人だ。訳すと「器官なき身体」らしいが、意味はよく覚えていない。 「北野さんのギターを聞いたことあるよ。なんていうかさ、衝撃的だったね。おれはギ ターという楽器のありうるべき可能性について、何も知らなかったんじゃないかとか思 ったよ」  甲高い声で喋る落合の言葉を、おれは遮った。 「落合さん、もしかして、あの音楽評論家の落合征士なのか?」 「へぇ、おれのこと知ってるの?」  落合は少し驚いた声を出す。落合征士といっても十年ほど前に二冊くらい前衛的なジ ャズミュージシャンについての評論を書いただけの人だから、世間的知名度はずいぶん 低い。しかし、おれの友人はよく知っていたし、おれにかいつまんで説明してくれたの でなんとなく記憶に残っている。 「確か、大衆娯楽としての音楽と、芸術としての音楽が分離されることによって、観念 倒錯としての芸術音楽は死を迎えたというようなことを書いてた人だよな。知ってるよ」 「へえ、嬉しいなあ。おれの本読んだわけ?」  落合は妙に、はしゃいだふうを装っており、落ち着かない。おれは落合の言いにくそ うにしていることを、こちらから切り出してやることにした。 「落合さん、あんたが掲示板に書いていたあのペットていうのは、人間だよな」  落合は照れたような、奇妙な笑みを見せる。 「ああ、判ってたんだ」 「そりゃあ、判るさ。あんな書きこみしたらね」  落合は猛禽を思わせる瞳で、おれを見る。そして、少し厳かな口調で言った。 「娘なんだ。面倒を見てほしいのは」 「あんたの娘?」  落合は頷く。おれは少し驚いた。おれと同じ類のアウトローの匂いがするこの男に娘 がいるということに。 「いくつなんだよ、あんたの娘は」 「十六だ」  おれは苦笑する。落合は四十の半ばは過ぎているはずだから、十代の娘がいても不思 議はない。それにしても、十六の少女とは。 「いいかい、食事を与えるだけでいい。日に三度。それ以外のことはしないでくれ」 「判った。どこにいるんだ、その娘は?」  落合は立ちあがると、蔓のように螺旋を描く爪が生えた左手の人差し指で、部屋の片 隅を指差す。床には地下へのドアがあった。要は地下室に監禁しているということか。 よくこんなヤバイ仕事をはじめて会ったおれに頼むもんだと、おれは呆れる。まあ、落 合の瞳が放つ、どこか常軌を逸した光を見ているとその行動に納得させられてしまうも のがあった。 「で、あんたはどうする?」  おれの問いに、落合は微笑みながら答える。 「おれは、一週間の間この家を空ける。電話は止められているからかかってくることは ないはず。電気だけは繋がっているから生活には困らないよ。冷蔵庫には一週間分の食 料が入っているから好きに使ってね。多分ここに訪ねてくる物好きもいないだろうけど、 誰かきてもほっとけばいいから」  落合の猛禽のような目はおれを見ているようで、どこか心は別世界にあるようにも見 える。おれは、ふと思ったことを聞いてみた。 「あんたは、ひょっとするとおれに見せるためにあの掲示板に書きこんだのか?」 「まさか。偶然だよ。まあ、偶然などこの世には存在しないという考えもあるかもしれ ないけどね」  おれは肩を竦める。 「そうだな。で、本当に帰ってくるんだろうな」 「あたりまえだよ。当面必要な生活費を渡しとこう。バイト代はおれが帰ってから渡す」  落合はおれに一万円札が数枚入った封筒を放ってよこす。 「この家のどの部屋でも好きに使っていいよ。ただひとつだけ忠告」  落合は、ぐっ、とおれのほうに身を屈める。 「この家でギターは弾かないほうがいいね」  なぜと問い返す前に、落合はさっと身を翻すと部屋を出ていってしまう。 「じゃあね」  落合は、廊下に出たおれに軽く手をふると、そのまま家から出ていった。落合は見か けによらない速歩で、さっさと家を出ていってしまう。  残ったおれは、とりあえず家の中を一通りチェックすることにした。おれは、各部屋 を見てまわる。二階へ上がったところ、客用の寝室らしい部屋を見つけた。その部屋に 腰を落ち着けることにする。  おれは友人から預かっているギターをケースから取り出すと、電源コードを接続する。 別にギターを弾くつもりではないが、半ば習慣のようなものになった行為だ。なんとな く、おれはそのギターにおれの友人の魂が宿っているような気がしている。バッテリー をフルチャージにしておくのは、ギターのバッテリーが切れてしまうとそこに宿った魂 も失われてしまうような気がするからだ。  時計を見て時間を確認すると、もう正午を過ぎていた。食事の支度をする時間だ。お れは階下へ向かう。  台所をチェックする。備え付けられた冷蔵庫は結構古いものだったが、容量は随分大 きい。  そこに入れられている冷凍食品や野菜は、人間二人であれば半月くらいは過ごせそう な量だ。戸棚に格納されている缶詰や保存食を合わせると一月位は、十分生活できるだ ろう。  おれは戸棚にあったパンを取り出すと、包丁で切ってゆく。サンドイッチでも作るこ とにした。  野菜やハム、チーズをはさみ、二人前ほどのサンドイッチを作りあげる。おれはその サンドイッチを大皿に盛り付けた。  おれはその皿と冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターのペットボトルをトレイに 乗せると、居間へ向かう。居間の片すみにある地下へと続く扉を開く。  暗い穴の中を細い階段が地下へと下っていっている。おれは、その階段へと足を踏み 入れた。  闇がねっとりとおれを包み込む。おれは暗闇を手探りで下っていった。思ったより階 段は深い。  ようやくおれは地下へたどり着く。片手にトレイを持ち、空いたほうの手で扉を探す。 手が金属のドアノブにあたった。おれはそのドアノブを回し、扉を開く。  そこは思ったより広く、天井の高い空間だった。完全な地下にあるわけではなく、天 井近くに窓がありそこから光が差し込んでいる。  その剥き出しのコンクリートに囲まれた広い空間の中央には檻が置かれていた。鋼鉄 の柵が部屋の中心を閉鎖している。  おれはその檻の扉を開く。檻の扉には鍵がかけられていないため、人を閉じ込めるつ もりなら意味を為していない。  その檻に少女がいた。その少女を見た瞬間、なぜかおれはピカソの描くキュビズムの 肖像画を連想してしまう。  その少女はなぜか解体され再度ちくはぐに繋ぎ合わせられたような、奇妙な雰囲気を 漂わせていた。決して不自然な姿形をしていたわけではない。むしろ、その白いワンピ ースに包まれた体は端正な佇いを見せていた。  顔立ちは、彫像のように整い美しいといってもいい。しかし、全体としてなぜか、歪 んだものを感じさせる。  少女の左足の足首には鉄の輪が嵌められていた。その鉄の輪に繋がった鎖は、数メー トルの長さがあるようだが、少女の座っている椅子のそばの床に固定されている。  少女の姿は人間の背丈くらいある電気スタンドにより照らし出されており、その薄暗 い地下室の中でもくっきりと見ることができた。しかし、その電気スタンドが照らし出 しているのは、本当は少女ではない。  そのスタンドの明かりは少女のそばに立てられたイーゼルに掛けられている、キャン バスに向けられたものだ。少女の足元には絵の具のチューブや絵筆、パレットが散乱し ているところを見ると、そのキャンバスは少女が描いた絵らしい。大体五十号くらいの 大きさのキャンバスは今おれのいる位置からでは、裏面しか見ることができなかった。  檻の中にはテーブルが無いため、おれは手にしたトレイをコンクリートの床に置く。 少女から一メートルほど離れているが、繋がれた鎖の長さであれば、十分とどくばずだ。 これで、おれの用事は終わったわけだ。  しかし、おれはなんとなくそこを立ち去る気になれなかった。少女はおれになんの関 心も持っていない。おれがその檻に入ってからずっと、彫像のように身動きせずにキャ ンバスを見つめたままだ。  おれは少し興味を持った。一体そのキャンバスには何が描かれているのだろう。その キャンバスの表側を見るためには、少女のそばまでいって覗き込まねばならない。 「よう、あんたの食事を造って持ってきたぜ」  少女はおれの呼び掛けにも、全く無反応だ。おれの存在を無視しているというより、 キャンバスに全ての意識が向けられているらしい。見る限り身じろぎもしなければ、瞬 きすらしている様子がなかった。 「おれは北野といって、一週間の間あんたの食事の世話をすることになったんだ。よろ しくな。よかったら、あんたの名前を教えてくれよ」  おれはできるだけ優しく少女に語りかけてみる。別にコミュニケーションを取りたい 訳ではないが、一週間同じ家で過ごすもの同し、名前くらいは知りたいと思った。 「落合えびね」  特に少女が口を動かしたようには見えない。しかし、「えびね」という名は明瞭に聞 き取ることができた。その声は抑揚がない、感情というものを感じさせない機械で合成 したような声だ。  おれはえびねと名乗った少女のそばまで近付いてみる。息遣いが感じられるほど近寄 ってみたが、えびねは相変わらず動く気配はない。  おれは少女の前で見を屈め、絵を覗き込もうとする。 「うわあああっ」  おれは首筋に激しい痛みを感じ、悲鳴をあげた。おれの首筋に噛みついてきたえびね をつきとばす。  おれは夢中で床を後ずさり、檻の扉のとこまでゆく。首筋に手をやると、生暖かい血 がべったりと手についた。  えびねは何事もなかったようにキャンバスを見詰めている。実際、おれはおれ自身の 身に起こったことが信じられなかった。  おれは、激しく痛む傷を治療するためにその檻から出て、居間へ向かう。肉が削げて いるようすだが、軽動脈は無事らしくそう酷い出血ではない。  闇につつまれた階段を抜け、おれは居間へ戻る。居間にある救急箱から消毒液とガー ゼに包帯を出す。消毒液をかけるとガーゼを傷口に押し当て、包帯で固定した。  おれは沈痛剤を取り出す。そして台所へ行くとブランディで沈痛剤を飲み下した。出 血よりも痛みのほうがひどい。おれは、痛みのために思考能力が麻痺しつつあった。さ っき地下室でおきたできごとについて、真剣に思考することができない。  おれは寝室へいくとベッドに倒れ込んだ。部屋がぐるぐる回っているような気がする。 悪寒が襲ってきた。このままではまずいような気がしたが、体を動かすことができない。 しばらくすると、おれの意識は暗黒へと飲み込まれていった。  おれは闇の中にいた。  何も見ることができない、宇宙の深淵のような闇。  おれがいるのは、そういう闇だ。  そして、そこには声が谺している。  無数の声だけ存在する幽霊たちが浮遊し、囁きあっているようだ。  その声は微かに聞き取ることができる。その意味を理解することはできない。しかし、 その虚空を浮遊する言葉をおれは感じとっていた。 (触媒と接触しました) (予想した通りです。対象は覚醒に向かうでしょう) (触媒の活動は停止しています) (介入しますか?)  その時、女の声がした。おれの知っている懐かしさすら感じる声。その女の姿すらお れは思い浮かべることができる。 (媒体と接触する。予定通り媒体を通じて対象のコントロールを試みる)  言葉は谺し続ける。  おれは闇の中を漂い続けていた。  何か警報のような音が聞こえる。どこか遠いところで、何かベルが鳴っていた。  おれは闇の中をある一方向へ向かって落ちてゆく。それが、上なのか下なのかは判ら ないが、とにかくおれはどこかへと向かっている。  おれはベッドの中で目覚めた。気が付いた瞬間、おれは自分がどこにいるのか一瞬判 らなくなる。暫くしておれはそこが落合の家だと気付く。  何かが鳴っている。おれの携帯電話が発するコール音だった。  おれは身を起こす。全身が水を浴びたように汗まみれだ。酷く発熱していたらしい。 体の芯に独特の気怠さが残っている。  おれの携帯電話はしつこく鳴り続けていた。多少ふらつきながら、携帯電話を置いて ある場所へゆく。  手にとり番号を確認する。番号非通知だ。おれはボタンを押して電話に出る。 「北野さんね」  女の声だ。おれの知らない女の声。知らないはずなのに、なぜかよく知っているよう な気がする声。おれはなぜか、その女の姿すら思い浮かべることができるような気がし てしまう。 「あんた誰?」 「落合の家内よ」  おれは溜め息をつく。 「なぜおれの電話番号を知っているんだ。落合から聞いたのか?」 「いいえ。落合のところに来るメールは私のところにも転送されるのよ」 「で、何の用だ」  おれは電話の向こうの女の苛立ちを感じ取る。女は何かに対して怒っているようだ。 おれに対してか、あるいは今おれがここにいることに対してか。 「馬鹿なことをしたわね」 「馬鹿なこと?落合のバイトを受けたことか」  女は少し嘲るように笑う。 「そんなことはどうでもいいの。えびねに接触したでしょ」 「噛まれたことか?あれは」 「馬鹿以外の何ものでもないわね。落合の思い通りにことは運んでいる。窓の外を見て」  おれは窓の外を見てみる。塀の向こうに数台の車が停まっているのが見えた。その車 の回りに数人の男たちがいる。おれは、直感的に感じ取った。おそらくそいつらは警察 か、公安関係の人間だ。  おれは少し眩惑を感じる。 「どういうことだ?」 「見ての通り。あなたはキャリアーとして認定された。そこは封鎖されているわ」 「キャリアー?なんのだ」 「いずれ判るわ」 「ひとつ教えてくれ」  おれは、少し間をおく。 「あんたはえびねの母親なのか?」 「違うわ」 「あんたの名前を聞いていなかったな」 「恵理香よ。落合恵理香」  そういい終えると、恵理香と名乗った女は一方的に電話を切った。  おれは迷路の中に取り残されたような気持ちになる。切れた電話を見て、おれは二十 四時間気を失っていたことに気付いた。  えびねに食事を与えなければいけないと思う。  おれは台所に向かう。  サンドイッチを作ったおれは再び地下室にいた。えびなは檻の中で椅子に座っている。 まるで二十四時間の間、じっとそうしていたように見えた。  彼女の前には昨日の昼に持っていった食事の皿が置かれている。その皿が空であるこ とが、何か不思議なことのように思えた。  おれは彼女の足元にサンドイッチの乗った皿を置く。えびねは見向きもしない。おれ は少々用心しながら、えびねのそばに近付く。  相変わらず、えびねの意識は彼女の前に置かれたキャンバスにだけ向けられているよ うだ。イーゼルに立て掛けられたそのキャンバス。一体描き終えられたものなのかどう か。 「未完成よ」  はっとして、おれはえびねを見る。口元が動いたようには見えない。しかし、その言 葉は確かにおれの頭の中に響いた。  おれはえびねの後ろへ最大限の注意を払って回り込む。おれの視界にスタンドの光を 浴びせられたその絵が入ってきた。  そこにあるのは闇だ。しかし、完全に漆黒の闇という訳ではない。そこにあるのは渦 を巻く闇だった。  それは、遥か彼方の遠い世界で死滅してゆく恒星を描いたもののようにも見える。も しくは、地面に穿たれた巨大なクレーターのようでもあった。  そこには濃厚に破滅と絶望の気配がある。それが死を表現したものであるということ に、おれはなんとなく確信を持った。  その絵を見ても、それが完成したものであるのかどうか、おれには判断つかない。そ もそも、おれにはその豊饒な闇としかいいようのないその絵が具象であるのか抽象であ るのかを、区別することすらできなかった。 「この絵に必要なものをあなたは持っている」  再び、えびねの声がおれの頭の中に響く。なぜか、おれは彼女が求めているものが何 か判った。いや、彼女が求めているものという訳ではないのだろう。おそらく、おれの 目の前にある、その絵が求めているものが何であるのか。  おれは用心深く、えびねのそばを離れる。しかし、もう気をつける必要などないこと が、なんとなく判っていた。彼女は求めているのだ。おれの協力を。  おれは再び闇の中の階段を登り、居間へと出る。そして、おれは自分の部屋と決めた 客用の寝室に戻った時、再び、おれの携帯電話が鳴った。  発信者非通知だ。おれは電話にでる。 「あなたが見たものが何か知りたい?」  恵理香の声だ。 「おれが見た、あの絵のことか?」  恵理香が電話の向こうで少し笑うのが、感じられた。 「量子力学では実在というものが、どのように語られているか知っている?」 「なんだよそりゃ」  少しあきれたおれを無視して、恵理香は続ける。 「事物の実在は観測によって生じるといってもいいわ。量子力学的にはね。では観測と いうのは何かしら。それは頭、つまり脳の中で生じる電磁気的事象の一様態といっても いい」  突然始まった恵理香の奇妙な話しを、おれはあっけにとられて聞くばかりだった。 「つまり脳の中で発生するニューロンの発火パターンが世界の実在を決定しているとい うことになるわ」 「おい、いいかげんにしろよ」  恵理香はおれの苛立ちを無視して話しを続ける。 「いい、これは大事なことなの。よく聞いておきなさい。でないとあなたの身に起こっ ていることの説明はできないのだから」  おれは諦めて溜め息をつく。恵理香はまたその奇妙な話を続ける。 「では脳の中で発生するニューロンの発火パターンはどのように形成されるか。ニュー ロン間はシノプシスによって結合されている。シノプシスの末端は神経伝達物質の放出 装置とそのレセプターによって形成されているわ。さて、ここで奇妙な問題が生じる。 電磁気的な事象であるニューロンの発火は、神経伝達物質の放出というニュートン力学 的実在物の運動に置き換えられねば、観測という脳内の事象は発生しえない。つまりね、 まず世界が脳の中で発生しなければ、脳の外の世界も発生しないというわけよ。じゃあ、 観測が世界の実在を起こすのであれば、脳の中の実在を起こすのは誰かしら?」 「知るかよ」  おれは半ばなげやりにななって恵理香の問いに答える。 「脳の中に小人がいて、そいつが脳の中で観測しているんだろうさ」 「それよ」  恵理香は不思議な笑い声をもらす。 「現代物理学、分子生物学、ナノテクノロジーがたどり着いた結論はそれだったの」  おれは力なく笑う。 「馬鹿いえ」 「小人は比喩よ。私達の脳の中に寄生している生命体がいる。それを科学者たちはワー ムと呼んでいるわ。そのワームが脳の中で観測を行い、波動関数の収縮、つまり電磁気 的現象からニュートン力学的物理実在を引き起こす。私たちが世界を見ることができる のも、言語を使用した思考を行うことができるのも、このワームのおかげ」  おれは、言葉を失った。あまりに奇矯なその考えに、反論する気にもなれなかった。 「さて、ニューロンが発火しその発火を次ぎのニューロンへ指示するには、イオン濃度 差により電位差が生じている部分から神経伝達物質の放出装置へと接続している部分を 経由する必要があるわ。その部分を軸索と呼ぶ。これは物凄く細い管のようなもの。ワ ームたちはこの管の中に棲んでいるわ。もし、このワームを殺すことができるウィルス を造りだせるとしたらどうかしら」  おれは恵理香の言いたいことが突然判った。 「キャリアーとはそういうことか」 「えびねは、軸索に棲んでいるワームを殺すことができるウィルスを体内で造り出すこ とがてきる」 「造るだって」  おれは思わず呻いていた。 「馬鹿な」 「いわゆる抗原抗体反応と呼ばれるものだって人間の体の中で遺伝子情報の組み替えが 発生しているのよ。まあ、正確にいうならゼロから造り出すのではなくて、ある種のウ ィルスを造り変えているというべきなのだけれど」 「ワームが死ぬとどうなる?」 「私たちが住む世界がある一定の物理的法則の内で安定しているのは、脳内にいるワー ムのおかげといってもいいわ。そのワームを殺してしまったら、世界はあらよる可能性 に向かって開放されたものとなる。何がおこるか、私には見当もつかないわ」  おれは呻いた。そのウィルスはおそらくおれの体内にもいるということだ。 「では、あなたの見たものを教えてあげるわ」  恵理香は厳かといってもいい口調で語る。 「ワームの死によって、私たちが生きているのとは別の潜在的世界がえびねの脳内には 幻覚として到来する。彼女が描くのはその世界、そして、あなたが見たのはそれ」  おれは言葉を失った。おれはいつのまにか迷路の中に迷い込んでいる。出口の見えな い、どこに続くともしれない迷路。 「あなたの前にある机の一番下の引出しをあけてごらんなさい」  おれは言われるがままに引き出しをあける。そこにあったのは禍禍しい形をした、短 機関銃だった。イングラムと呼ばれる、銃把の中に弾倉が格納されたタイプのコンパク トな短機関銃は、おれには暗闇で静かに眠る毒虫のように思える。  おれはイングラムを手にとった。恵理香がおれに囁きかける。 「それを使う時がくるかもしれない。とっておきなさい」  それはえびねを殺せということなのかと聞く前に、電話は切れた。一体、落合征士が どういう理由でその銃を持っていたのかは見当もつかない。おれはとにかく、恵理香の 忠告に従っておくことにした。  おれは、その銃の弾倉を取り出し、五十連弾倉に弾が込められていることを確認する。 弾倉を抜いた状態でコッキングレバーを弾いてみた。薬室にはカートリッジは入ってい ない。  ヤクザとのつきあいで、銃の基本的操作は学んでいたため、とりあえずそのイングラ ムの扱いに戸惑うことはなかった。スリングで銃を肩から提げる。  その時、部屋に激しい音が轟いた。狂える野獣の咆哮のような、あるいは世界そのも のが軋みながら崩壊してあげる悲鳴のような音。  それはおれの友人のギターが放つ音だった。ギターは操作するものもいないのに、凄 まじい轟音を放っている。  おれはそのギターを手にとった。ぴたりと音がやむ。おれは何が起こっているのか、 判っていた。えびねの呼び声。彼女が地下から放った絶叫だ。  えびねの必要とするものは、間違いなくこれだろう。そして落合征士が企てて、おれ がここに来るはめになったのも、彼女がこれを必要としたからだ。  いくつかの選択肢がある。おれの持つ銃もまたそのひとつ。おれは落合の企てにのっ てみることとした。それが何を引き起こすかは判らない。しかし、おれはその先にある ものに、間違いなく惹きつけられていた。  おれは地下室へ降りる。その右手にギターを持ち、左手には銃があった。  おれが檻に入ったとき、始めてえびねはおれを見つめる。透明な、背後に人間の意識 を感じさせない視線。おれはその眼差しに、戦慄を覚える。  おれはギターと銃を床に置くと、えびねの前におかれたイーゼルの向きをかえた。そ して、おれはギターを手にとり、その逆巻く闇を見つめる。  おれは何をすればいいのか、さっきよりも明瞭に感じ取ることができた。渦を巻き、 絶望への咆哮を放つその闇の力に呼応して、おれの手にしたギターは身震いするように 低い音を放つ。おれはただ、そいつが望む通りの音を奏でてやればいい。  金属の野獣が放つ壮絶な絶叫に地下室が揺れた。頭の中で立て続けに火薬が炸裂して いくような、凄まじい轟音がその密閉された空間を満たす。  おれは狂おしい衝動をぎりぎりのところで押さえつける。それはまるで、激しく躍動 する金属の荒馬を無理やり手綱を取って乗りこなすような感覚だ。  おれはかろうじてその轟音をコントロールする。おれの身体は粉々に分解されていた。 その無数の音の破片となったような身体を、音の向かう方向に沿って操ってゆく。それ はある種の奇跡の顕現のようにさえ思えた。  音の微粒子は確かな意思を持って、暴力的に地下の空間を犯してゆく。 「ああ」  おれはえびねの吐息とも、歌声ともつかないような声を聞く。おれは彼女がこの炸裂 する無限の破壊と創造の空間の中で、始めて人間めいた存在感を持ったような気がする。  おれの目の前で闇が蠢く。それは生きているように、次第に存在を拡大していった。 おれとえびねは壮大なビジョンの前に立つ。  降り注ぐ無数の火球。地上に炸裂してゆく紅蓮の巨大な妖花。そしてそれらを包み込 む、優しく豊穣な闇。  おれはその戦慄的な地獄の実現と呼べるような凄まじい光景の、とてつもない美しさ に心を奪われる。その世界には、おれとえびねだけがいた。幻覚と呼ぶにはあまりにリ アルで、しかし現実と思うにはあまりに美しい世界。  がたん。  全ては、唐突にイーゼルが倒れることによって打ち切られた。まるで、突然疾走する 獣が撃ち殺されたように音が消える。 「行かなくては」  突然、えびねの声がおれの頭の中に響く。おれは、その意味を理解できた。おれはイ ングラムを手にとり、えびねに向ける。  タタッ、と鋼鉄の毒虫は短く咳き込み、えびねの足元に火花を散らした。おれはえび ねを繋ぎ止めていた鎖が断ち切られていることを確認する。  えびねは立ち上がった。おれは銃を肩から提げ、ギターを手に取ると、空いた手でえ びねの手を握って地上へ向かう。  おれは、屋敷の外へ出た。空は暗く曇っている。雨でも降りそうな気配だ。おれは、 えびねをキャディラックの助手席へ押し込むと、ギターを後部席へ放り出しハンドルを 握った。  エンジンをかける。アクセルを思いっきり踏み込んでギアを入れると、その古めかし いキャディラックは解き放たれた荒馬のように走り出した。  鍵のかかっていない鉄の門は、激しく開かれる。キャディラックは、道路へ飛び出し た。屋敷の周りを取り囲んでいた刑事ふうの男たちは、あわてて車に向かう。  おれはイングラムをフルオートで掃射した。丁度発進しようとしていた車がタイアを 撃ち抜かれ、横を向いて道路をふさぐ。後ろに続く車が道をふさがれたところに突っ込 んできて、派手な轟音をあげて衝突した。  おれは、落合の屋敷を後にする。行き先はなぜかはっきりと判っていた。とても、奇 妙だ。  おれたちの乗るキャディラックは住宅地を駆け抜けると、幹線道路へと出る。遠くで パトカーのサイレンが聞こえたが、主要道路は封鎖されていない。  頭の中に携帯電話のコール音が響く。おれは携帯電話を落合の屋敷に置いてきたこと に気づいたが、そんなものはもう必要無いようだ。 『やっぱりそうなったわけね』  頭の中に落合恵理香の声が響く。そのことに違和感を感じるほどの感性はおれには残 っていなかった。それ以前におれの意識は、とにかく車を急がせることに集中している。  立て続けの信号無視に、無数のクラクションがヒステリックに抗議の叫びを上げた。 おれは時折イングラムの威嚇射撃で強引に道を空けながら、東京の中心部へと向かう。  そのおれの状況にはお構いなく、恵理香はおれの頭の中で話を始める。 『あなたはあの世界を見てしまったようね。あれは原初の創生の世界なのよ。あなたの ギターは、その創生の世界を呼び覚ますものだった。だからこそ、えびねはあなたを必 要として、あなたをそばに呼び寄せたの』  おれは料金所をぶっちぎり、高速道路へと入り込む。風が物理的な流れとなって、キ ャディラックの脇を走り抜けてゆく。おれは思いっきりアクセルを踏み込んだ。 『元々人間という存在は、量子力学的な波動だったといえるわ。ニュートン力学的な局 所実在による物質的実在とは無縁の、そうね、純粋な無限に螺旋を描いて上昇する音楽 から形成される身体を持った存在。その存在は、ワームと出会うことによって変貌して ゆく。つまり、世界の実在という奇妙なものは、その波動的存在の一極面を固定するこ とによって初めてなりたつもの。時間や空間はワームと人間が出会うことによって発生 したものと言ってもいいわ。そして、言語というものもそう。言語による思考も含めて、 それらはワームが人間という波動的存在にとりつき、その一極面としての物質的実在を 完成させることによって初めてなりたちうるもの』  おれのキャディラックは高速道路を疾走してゆく。風景は溶けて凄まじい勢いで後方 へと流れていった。空気は暴力的におれたちの揺さぶり、エンジンは悲鳴をあげる。  おれは紙一重で他の車をよけてゆく。 『量子力学が確率的に存在を記述するというのは間違いがある。つまり本当の波動的世 界には確率的に記述すべきものなど何もない。確率的になるのはワームの寄生による局 所実在の世界のみ。そしてその局所実在の世界によって私たちの思考は縛られる。でも、 そのワームが死滅して、全てが開放されたらどうなるのかしら。そこにはもう局所実在 による肉体で形成された身体なんてものなくなる。人は音楽へと戻ってゆくのだから死 滅や破壊というものは恐れるものではなくなるのよ。そんなものは、ワームが形成する ひとつの偽りの状況に過ぎない。純粋音楽へと還元されるというのは、宇宙の死滅も生 成も取るに足らない無意味なことになることと同意儀といってもいいわ』  おれは高速道路の出口へと向かう。そこはパトカーによって封鎖されていた。おれは 横を走るタンクローリーのタイアを、イングラムでぶちぬく。巨獣のようなタンクロー リーは、コントロールを失い火花を上げながら猟犬の吼え声をあげるパトカーの群れへ と突っ込んで行った。  大きな、紅蓮の花が開く。 『あなたが見たもの。判るでしょう?局所実在が不要となり世界から生きるものが全て 消え去った状態。そしてそれは真の創生に向かう状態。この宇宙がワームという寄生的 存在によってもたらされた偽りの状態であれば、それが死滅した世界こそえびねの望む 世界。でも、あなたはどうなの、北野明夫。あの渦巻く闇。あの凶悪な絶望の渦こそが あなたの望むものだというの?』 「知らねえよ」  おれはキャディラックを捨てた。弾を全て撃ち尽くしたイングラムは捨てる。ギター を手にとり、えびねと手を繋いでおれは高速道路から飛び降りた。  おれは頭の中で煩くがなりたてている声に向かって叫ぶ。 「ごたくはもう沢山だ。おれはおれの音楽しか知らねえよ。そいつの指し示すところへ 行くだけさ」  おれたちは、ビルの谷間を駆け抜ける。空は暗い。絵の具で塗りつぶしたように闇が 渦巻いている。そう、丁度えびねが描いていた通りの闇が空を覆っていた。  暫くすると雨が降り出す。水の壁となった雨の中を、おれたちは駆け抜ける。そして、 新宿の真中にあるそこに、おれたちはついた。  迷路のようになった高層ビルの谷間に、その巨大なクレーターはある。なぜ、そんな ものが新宿のど真ん中にあるのか、おれには理解できない。  しかし、それは間違いなく、おれたちの目の前にあった。えびねが描いていた闇。そ れと寸分違わぬものが地上にある。地面に穿たれた巨大な渦巻く闇。  おれとえびねは、その闇の中心に向かって降りてゆく。雨が地面を泥濘へと変えてい た。そこは、巨大な沼地のようですらある。  そして、その巨大な穴は、無数の警官たちに取り囲まれていた。サーチライトが瀑布 と化している雨を貫いて、おれたちに浴びせられる。  警官たちの怒号や威嚇射撃の銃声が聞こえたが、おれは無視した。誰もこの穴の中に 踏み込んでくるものはいないようだ。  おれたちはその穴の中心につく。間に合った。どうやら間に合ったらしい。ずぶ濡れ になったおれは、思わずため息をつく。  おれはギターを手にとる。雨に濡れたそのギターがまともに作動するとは思えなかっ た。しかし、同時にそれは間違いなくその役割を果たすであろうと思える。  一つでいい。  たったひとつの和音で十分だった。  おれはギターを手にとる。雨は降り出した時と同様に、唐突に降り止んだ。恐ろしく 静かだった。おれと、おれの傍らに立つえびねには、サーチライトが浴びせられている。  銃を構えた警官たちがゆっくりと穴の中へ降りてきた。最高のステージだ。そう思う と不思議と笑みが浮かび、口元が歪む。  おれは左手でギターのネックを掴み、右手を高々とあげる。  おれは絶叫をあげながら、右手を振り下ろした。  爆音。  それは、どこか遠い地の果てで竜が放った悲鳴のようだ。  その音に呼応し、世界が厳かな吐息を放つ。そして、えびねは、ゆっくりと天上を指 差す。闇に閉ざされた空の果て、えびねの指差す先に星が生まれた。  その星は瞬く間に膨れ上がる。  それは満月くらいの大きさになり、さらにその数倍、数十倍へと膨らむ。気がついた 時には空全体をその星が覆っていた。  世界は光に満ちる。  真っ白だ。  音が聞こえる。  ギターの音。  そして全てを断ち切るように闇が落ちてきた。  おれは闇の中にいた。  何も見ることができない、宇宙の深淵のような闇。  おれがいるのは、そういう闇だ。  そして、そこには声が谺している。  無数の声だけ存在する幽霊たちが浮遊し、囁きあっているようだ。  その声は微かに聞き取ることができる。その意味を理解することはできない。しかし、 その虚空を浮遊する言葉をおれは感じとっていた。 (対象は覚醒しました) (凍結処置を実施します) (仮想世界の修復は完了。破綻した時間はコンマゼロ一秒。全ての人間の記憶修復も完 了しました) (世界は再び安定を取り戻しています)  そして女の声がする。おれのよく知っているあの女の声。 (安定といっても、一時的なものね。対象が復活するのは時間の問題。触媒はどうなっ ているの?) (触媒は再びコントロール下にあります) (しかし、この触媒を通じて対象をコントロールするというのは相当な無理があるので は?) (対象を除去できないのでしょうか) (それこそ無理だわ。対象はもうシステムの最深部まで食い込んでいる。対象を除去す るのは全てを破壊するのと同じ。私たちには触媒を通じてコントロールするしか道は無 いのよ)  そしておれはまた、眠りにつく。優しく暖かい闇。その闇がもたらす忘却の眠りへお れは戻っていった。  透明なガラスの向こうで北野は語り終えた。ひどく落ち着いた、何か満ち足りた笑み を浮かべている。 「気が付いたときには、ここのベッドの上にいたのさ。色々薬を飲まされたりはしたが、 意識は正常だよ。えびねはどうなったんだい」  私は、北野を見据える。薄い笑みを浮かべたその態度は、面白がっているようにすら 見えた。 「真実を語るときが来たようね」  北野はげらげらと笑う。 「もうごたくはいいよ」 「いい、これは本来、話をしてはいけないことなの。でも、それをしなければならない ほど、私たちは追い詰められている。さあ、あなたの記憶の封印を一部はずすわ」  突然訪れる闇。一瞬だけ、私たちは闇を共有する。北野にはそれで十分だった。  闇の中を谺する声も思い出したはずだから。  北野はもう笑っていない。さっきまでの、ある種賢者じみた余裕の表情も失われてい た。これは賭けだ。北野の精神はどこまで耐えられるのか。 「今のなんだ?」 「手短に説明するわ。私たちに残っている時間は少ないの。いい、人類はある意味で1 999年の夏に滅んだといえるのよ」 「おい」  北野の顔が歪むのを無視して、私は話を続ける。 「隕石群が地球に降りそそいだ。日本にもいくつか落ちたわ。そのうちひとつが新宿に 落ちたあれ。あなたが見たのは、その時の風景の再現よ」  北野は呻く。 「そういうことなのかよ」 「ええ。人類の数パーセントは地下シェルターへ逃れることによってかろうじて生き延 びた。でも、今の地上は環境が激変しておそらく再び人類が生活できるようになるまで 数世紀かかるでしょうね。そして、地下に逃れた人間も精神的に異常をきたしたり、食 糧不足による絶滅の危機に瀕している。だから私たちはこのシステムを創り上げた。仮 想現実システム。全ての人間に、絶滅する前の地上の夢を見させるシステム」 「これが、仮想現実というわけだな」  北野は自分の手のひらを見つめながら、そう言った。  北野は落ち着きを取り戻している。思ったよりタフな男のようだ。 「そう。私たちはワームというナノマシンを開発した。脳のシノプシス内に入り込み、 ニューロンの発火パターンを調整し、現実と寸分違わない夢を見させるマシン。でも、 とんでもない誤算があった。ひとりの少女がなぜかそのナノマシンをコントロールして、 逆にシステムを支配しつつあるのよ」  北野はため息をつく。 「その少女がえびねという訳か」 「そう。えびねはシステムのコントロールを行い始めたけれど、完全に制御できた訳で はない。そこで、彼女は自分が完全にシステムをコントロールできる存在になるために 必要なものを造りあげた。そして、それによって自分を補完することに成功した」 「それはまさか」  私は笑みを浮かべ、北野の問いに答える。 「そのまさかよ。あなたのギター」 「しかし、あれは」 「あなたはあれを友人が造ったと思っている。でも、それはえびねが与えた偽りの記憶 なの。あれを造ったのはあなた自身。その時の記憶をえびねは除去し、あなたは友人か らギターを得たものと思わされている。私たちはあなたの精神の深層から記憶を取り出 した。そして、知ったの。あのギターはえびねを覚醒させるものであると同時に、封印 するものであると」  北野は物思いに耽るように口を閉ざし、俯いた。 「さあ」  私は部屋の片隅に置いていたケースからギターを取り出すと、北野の前につきつける。 「考えている暇は無いわ。えびねは狂っている。このシステムを操って、世界を現実に 一致させようとしている。人類に二度目の滅亡を与えようとしているのよ。そんなこと をしては、私たちの創り上げた仮想現実という世界が終わっていまう」  私は北野を真っ直ぐ見詰めた。 「世界を終わらせるわけにはいかないのよ」  北野は顔を上げた。ギターを見つめる。そして、私の手の中で、ギターは雄たけびを 上げた。私たちを隔てていたガラスの壁が炸裂し、細かな破片は中空へ消失する。  北野は私の手からギターを奪い取った。私たちは、地上へ向かう。  地上は焼け焦げた荒野と化している。えびねの世界支配は予想を遥かに上回るペース で進行していた。  私たちは空を見上げる。そこにあるのは渦巻く闇。そこから無数の流星が地上へ降り そそいでいる。 「あんたは」  北野は闇に閉ざされた空を見上げたまま呟く。 「どう思っているか知らないが、おれはこのギターをコントロールできるわけじゃない。 むしろ、おれはこのギターにコントロールされていると言ったほうがいいだろう」  私は笑みを投げかける。 「どうでもいいわ。世界が望む方向を決めてくれる。あなたのギターを通じて」  地表は延々と続く紅い荒野であった。所々に紅蓮の花が開いている。空を覆った闇は 生き物のように渦巻き、時折炎の塊を地上に向かって吐き出す。  それは地獄のような光景ではあったが、なぜか人を魅了する美しい光景でもあった。 風が渦巻き、天上へ昇ってゆく。  北野は無造作にギターを弾いた。  たった一つの和音。 「これで、私の物語は終わりです」  少女はそう語り終えると、私に向かって微笑んで見せた。 「世界はそういう意味ではあなたの物語になったということね」  私の問いかけに、少女、落合えびねは穏やかな笑みで答える。 「そうね。そうです。そして、本当は物語は終わっていないのです。もうしばらく。私 がそれを完全に忘れ去るまでは残っているに違いありません」  そういい終えると、彼女は彼女の病室へと戻っていた。  この世界はもうしばらくあるということだ。  彼女の忘却の海に沈むまで。