ジジ、ジジジ ジ、ジジ ジジ、ジ ジ、ジ ジ ジ 虫の羽音。 微かな振動、ノイズ。 仄暗い世界での吐息のような。 ジ、ジジ、ジジ ジジ、ジ それは、生有るものの囁きと、自然の風が紡ぐ音との中間に位置するもの。 それは私の中から聞こえてくる。 それは私の手から。 胸の奥から。 頭の中から。 ジジ、ジジ ジ、ジジ ジジ、ジジジ ジジ ジジジ、ジ ジジ、ジジジジジジジジ、ジジジジジジジ ジジ、ジジジジジジジ、ジジ ジジジジジ、ジジジジジ、ジジジジジジジジジジ ジジジ、ジジジ ジジ ジジ、ジジジジジ、ジジジジジジジ ジジジ、ジジジジジジジジ、ジジジジ、ジジ ジジジジジジジ、ジ、ジジジジジジ ジジ ジジ、ジジ ジ ジ 闇の中で怜悧な輝きが放たれる。 私の両腕は、刃。 強靭な鋼のような、二つの刃。 それは、闇に覆われた空を切り裂く三日月のよう。 私の顎にも、巨大な牙のような刃がある。 私は刃で闇を切り裂く。 闇はねっとりとした、濃厚な果汁にも似た血を流す。 地面が濡れる。 どろりとした。 紅い。 ジ、ジジジ ジジ、ジ ジジジ、ジジ ジ、ジジ ジジ、ジ ジジ ジ、ジジジ ジジ、ジ ジ、ジジ 背中で羽根が鳴く。 吐息のような。 ノイズ。 それは、意味という境界の向こう側にありながら、生有るものの叫びを確かに内包した。 血が。流れる。 どろりと。 ゆっくりと。床を。 紅く。 染める。 ジ ジ ジ ジジジ、ジジジ ジ、ジジ ジジ、ジジジジ ジ、ジジ ジジ、ジジジジジジジジジジジ、ジジジジジジジ ジジジ、ジジジジジジジジジジジジ、ジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジ、ジジジジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジ、ジジジジジジ、ジジジジジジジジジジジジ、ジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジジジジジジジジ、ジジジジ ジジジジジジジジジ、私の、ジジジジジジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジジジ ジジジジ、ジジジジジジジジジジジ、吐息、ジジジジジジジジジジジ、ジジジジジジジ ジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジジジジジジ、ノイズ、ジジジジジジジ、ジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ、向こう側、ジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジ、ジジジジジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジ、ジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジ、 ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ 血が 流れてゆく。 闇が覆う。 私を私が見つめる。 白衣を纏った私。 ジジジジジ、ジジジジジジジジ、ジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジ ジジジジジ、ジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジジ ジジ、ジジジジジジジジジジジジ、ジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジ、ジジジジジジジジジジジ、ジジジ、ジジジジジジジジジジジ ジジジジジ、ジジジジジジジジ、ジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジ ジジジジジ、ジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジジ ジジ、ジジジジジジジジジジジジ、ジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジ、ジジジジジジジジジジジ、ジジジ、ジジジジジジジジジジジ ジジジジジ、ジジジジジジジジ、ジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジ ジジジジジ、ジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジジ ジジ、ジジジジジジジジジジジジ、ジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジ、ジジジジジジジジジジジ、ジジジ、ジジジジジジジジジジジ ジジジジジ、ジジジジジジジジ、ジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジ ジジジジジ、ジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジジ ジジ、ジジジジジジジジジジジジ、ジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジ、ジジジジジジジジジジジ、ジジジ、ジジジジジジジジジジジ  私は唐突に夢から目覚めた。夢の内容はよく覚えていない。けれども、それが定番の 悪夢であることは判る。耳の奥にはいつものように、あの音が残っていた。  あの音。虫の羽音。  それはまだ私の体の奥深くに残っているかのようだ。それは熱病の夢から醒めた後、 高熱の名残りが全身の奥深く澱のように残っている感覚に似ている。  微かな振動とノイズ。  それが私の体をほんの少し震わせていた。夢の中では他に色々なものを見る。奇妙な 人間のような姿をした怪物たち。刃物となった私の手。そして、白衣を着たもう一人の 私。  私は部屋を見まわす。  相変わらず、殺風景な部屋だ。  いつからこの部屋に監禁されているのか、思い出すことができない。そもそも、私は この部屋へ閉じ込められる以前の記憶が全く無い。  部屋の広さは10メートル四方くらいだろうか。結構広く感じられる。天井も高い。 3メートル近くはありそうだ。  その天井近くに窓が一つだけある。とても高い位置にあるので外を見ることはできな い。ただ、光は少し差し込むので、今が昼であるのか、夜であるのかの判断をつけるこ とはできる。  部屋にはドアが二つ。どちらも頑丈そうな鉄製のもので、ひとつは、バスルームへ続 くドア。もうひとつは、多分外へ続くドア。いつも閉ざされているため、その向こうが どうなっているのかは想像することしかできない。  天井には通気口があり、蛍光灯がついている。壁に蛍光灯のスイッチと思われるパネ ルがあるが、操作することはできない。パネルについている液晶画面には、センターコ ントロール中というメッセージが表示されている。  夜になると自動的にスイッチが入るようなので、不自由は感じない。ただ、窓から入 る光の量は少なく、夜になっても蛍光灯の光はとても弱いのでこの部屋はいつも薄暗か った。  壁や床は剥き出しのコンクリートだ。部屋の家具はベッドと机があるだけ。壁や床に ついている擦り傷などから想像すると、この部屋にはもともと色々家具があったのでは ないかという気がする。  ベッドは、病院によくあるような、鉄パイプ製のものだ。机はスチール製の事務机。  机の上にはパソコンが置かれていた。ただ、置かれているのは本体と液晶ディスプレ イのみで、キーボードもマウスも接続されていないため、操作することはできない。  ディスプレイには常にブラウザが立ち上げられ表示されている。そこには、ストリー ミング配信されているらしい動画が映し出されていた。  動画といっても、それは無意味なものにしか見えない。無数のドットが画面上を無秩 序に動いているだけなのだ。  黒い微小な点が細かく振動し、動き回っている。それが画面を覆っていた。それはい うなれば、映像化されたノイズのようなものだ。  画像には時折、音声が伴う。無機質な女性の声。私はその声が私の声であるように思 える。ただ、私自身がそんな録音をした記憶が無いので、それが私によくにた声の人間 が録音したものなのか、私自身が録音したものなのか判断することはできない。  その声が語る内容は私にとっては無意味なものだった。それは数式や化学式を淡々と 無機的に語っているだけなのだ。  もしも、私に記憶が戻ればそれは意味を持つものなのかもしれない。私がメモとして 残したものなのかもしれない。  私は画面を見る。無秩序な点の運動。でも、私はその点の動きに微かな意味を感じる。 生命の匂いとでもいうべきもの。  その個々の点をじっと見ていれば判る。それは虫だった。凄く小さな虫たちの集合。 その虫たちが蠢く様を、パソコンのディスプレイは映し出している。  虫たちは蠢いていた。  ざわざわ、と。  ざわざわざわと。  虫たちは。  蠢いている。  ざわざわ。  ざわざわ。  ざわざわ。  ざわざわ。  ざわざわ。  私の耳の奥で、虫の羽音が聞こえた。  ジジジと、  鳴る音が。  ジジ、ジジと  画面のざわめきに合わせ。  ジジ。  ジジジ、ジジ、ジジジ。  ジジジジ、ジジジジジジジジジ  ざわざわざわざわざわざわざわ  ざわざわざわざわざわ  ジジジ、ジジジジ、ジジジジジジ  ざわざわざわざわざわ  ジジ、ジジジ、ジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジジジジ  ざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわ  ざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわ  ジジジジ、ジジジジ、ジジジジジ  ジジジジジ、ジジジジジ、ジジジ  ジジジジジジ、ジジ、ジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジジ  ジジジジジジジジジ、ジジ、ジジジジジジジジ、ジジジジ、ジジジジジジジジジジジ ジジジジジ  ジジジ、ジジジジジ、ジジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジ  ジジ、ジジジジジ、ジジジジジジ  ジジジジジジジジジ、ジジジ、ジジジジジ、ジジジジジジジジジ  ジジジ、ジジジジジジ、ジジジジ  ジジジジジ、ジジジジジジ、ジジジジジジジジジジジジジジジ、ジジジ、ジジジジ、 ジジジジジジ  ジジジジジ、ジジ、ジジジジジジジジジ、ジジ、ジジジジジジジジ  ジジジジジジジジジ、ジジジジ、ジジジジ、ジジジジジジジジジ  ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ、私の、ジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ、意識は、ジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジ、ノイズに、ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジ、飲み込まれる、ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジ ジジジと、 耳の奥で鳴る。 ジジ ジジジ ジジジ と、 体の中で虫が鳴いている。 暗い。 場所。 そこは、地下。 私は地下室の中に立っている。 広い場所。遠くのほうは完全な闇に飲み込まれて、見ることができない。 私の立っている場所は仄かな明かりに照らされている。 私は、夜空に上った満月のように白い裸身を晒していた。 果実のように膨らんだ丸い果実のように乳房を、 小さな草叢のような下腹の翳りを。 仄かな薄い光の元に晒して。 手を見る。 白い陶器のような手。 その奥で音が。 ジジ、ジジジと。 音が。 鳴る。 ジジ、ジジジと、 音が、する。 光が広がり、私の前の闇が退く。 異形の者たち。 人と獣、その中間のような生き物。 それらが壁際で蠢いている。 がちがちと。 牙を鳴らせながら。 異形の者たちは、鎖で壁に繋がれている。 その紅く光る瞳は私を見つめていた。 飢えと。 欲望。 それを眼差しに乗せ、私へ飛ばしてくる。 異形の者たちは私を喰らいたいようだ。 歪んだ手。 それが差し出される。 鎖が鳴った。 がちがちと。 私の中で、異形の者たちの飢えに呼応するように、虫の羽音が高まってゆく。 ジジ、 ジジジ、 ジジジジジジ 音が。 鳴る。 かちりと、 鎖が乾いた音を立てる。鎖は全て解き放たれた。異形のものたちは、自由の身となり私 のほうへ這いずってくる。満足に立てぬその足で。まともに物を掴めぬその手で。 私のほうへ。 群がってくる。 私の中のノイズは狂ったように高まってゆく。 それは。 意味の崩壊する轟音。 ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジ、私の手が歪む、ジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジ 白い手。 それが裂けてゆく。 中から 現れたのは刃。 頬が裂ける。 ジジジジジジジジジ 羽音が ジジジジジジジジジジジジジジジ 私を ジジジジジジジジジジジジ 包む ジジジジジジジジジジジジジジジ 頬から現れたのは二つの刃のような顎。 異形の者は飢えを唸り声にまぜ、全身を軋らせながら私にせまる。 背中で。 轟音が、 高まる。 ジジジ、ジジジジジ、ジジジジジジジジジ、ジジジジジジジジジ ジジ、ジジジジジ、ジジジジジジ ジジジジジジジジジ、ジジジ、ジジジジジ、ジジジジジジジジジ ジジジ、ジジジジジジ、ジジジジ ジジジジジ、ジジジジジジ、ジジジジジジジジジジジジジジジ、ジジジ、ジジジジ、ジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジ、血がどろりと、ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ、床に垂れる、ジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジ  再び目覚めがくる。目覚めはいつも唐突だが、眠りもまた、同様だ。私はいつ自分が 眠りにおちたのか全く記憶にない。  いつも気がつくと、ベッドに横たわっている。そして、あの悪夢の記憶。虫の羽音。  私は頭を押さえる。あたまの中ではまだ鳴り響いていた。あの、意味と無意味の境界 を押しつぶし、全てをノイズの中に埋めてしまうような羽音。  私は首をふる。  私は誰なのだろう。  鏡が無いので顔を見ることができないが、私が女性であることは間違い無い。年齢は 二十歳から三十歳の間だろう。痩せてはいないが、太ってもいない。背はそれほど高く ないように思う。四肢のバランスから考えて、ごく平均的な体格。  自分自身の記憶は無いが、それ以外に知っていることから考えると、普通程度あるい はそれ以上の教育を受けたことがあるように思う。  身につけているのは、入院患者が着るようなガウン。  私は、病気なのだろうか。  そう考えると辻褄が合うような気がする。精神的な病気。私の記憶の片隅に、精神病 を患った者の記録がある。ある日気がつくと、閉じ込められていて治癒していくに従っ て自分が病院にいると気づいていく者の話。  それは誰かから聞いた話のように思うのだが、実は自分の話なのかもしれない。  眠りがいつか判らないのは、投薬のせいなのだろうか。  私は、少なくともこの部屋に閉じ込められてから数十回以上朝晩が入れ替わるのを、 見ている。それにしては、私は食事をしたことがない。  もしかしたら、私が眠っている間に点滴がなされているかもしれない。腕に注射の跡 は見当たらないが、点滴は腕からするものとは限らないと思う。全身をくまなく探せば、 見つかるのだろうか。  そして、排泄した記憶も無い。口から食べ物を入れなければ、おそらく排泄する量も 少なくなるだろう。  点滴によって投薬され、奇妙な夢を見る。治療の記憶は失われ、治療後に私はこの部 屋に戻され眠りにつく。  一応、それで説明はつくような気がする。しかし、私は狂っているのだろうか。狂人 は自身が狂人であることを理解できないものなのかもしれないが、私の思考に特に曇り は無いように思える。  もしも、治療が行われているものなら医者と話をしてみたかった。しかし、その術は ない。この部屋の中で外界と繋がっているように思えるのは、パソコンだけだ。しかし、 それは一方的に情報を送りつけてくるだけのもの。  今日も、私の声により、数式と化学式が語られている。それは何か催眠効果があるの だろうか。無機的に語られてゆくその言葉に、何か意味があるようには思えない。私に とって耳の奥で聞こえる羽音と大差は無かった。  画面に映し出されているものは、今日はいつもと少し違う。単なる点の集合の無秩序 な運動には違いないのだが、今日のそれは白かった。  白い虫。しかも、いつもよりそれは大きい。まるでまるまると太った無数の蛆虫が、 うねうねと蠢いているようだ。  画面は白い塊が無意味に蠢く様を映し出している。しかし、私は見つめているうちに、 それがひとつの形をとろうとしているのに気がついた。  それが何か私は理解した。  脳だ。  人間の脳。  無数の蛆虫は、人間の脳そっくりの形をとろうとしている。  そして、私はずっと語られていた私の声が止まっているのに気がつく。  パソコンは初めて私の声で意味のあることを語った。 『記録。夢見虫の画像。記憶の転移にはじめて成功』  その時、ノイズが私を襲った。  ザザザ、  と。  ノイズが。  私に。  襲いかかる。  ザザ、  と。  耳から  ぽとりと。  白いものが落ちた。  ザザザザザザザザザザザザザザザザザザ  ザザザザザザザザザザザザザザ  ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ  ザザザザザザザザ  ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ  ザザザザザザザザザザザザザザザザ  ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ 「夢見虫」  床の上で蠢く蛆虫のようなそれを見て私は呟いた。 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ カツ カツ カツ 後ろから 音が迫る。 カツ カツ カツ カツ カツ カツ カツ カツ カツ 私は 廊下を 走る。 走る。 私は裸足だ。 服も身につけていない。 走ると乳房がゆれる。 廊下の角を、幾度も曲がった。 全力で走っている。 でも、背後に聞こえる足音は 少しも離れない。 カツ カツ カツ カツ カツ カツ 追いつかれてはいけない。 恐ろしい。 後ろからくるものが 何か知っている。 いけない。 考えては。 足が竦む。 羽音が。 私の中。 鳴る。 ジジジ、ジジジジジジジ ジジジジ、ジ、ジ、ジジジジ ジジ、ジジジジジジ、ジジ ジ、ジジジジジ、ジジジジ ジ、ジジ、ジジ、ジジ、ジジジ ジジ、ジジジ、ジジジジジ カツ カツ カツ カツ カツ カツ 行き止まり。 もう走れない。 怖い。 カツ。 足音が止まった。 後ろにいる。 彼女 いえ、 私が。白衣を着た私。 私は、 ゆっくり 振り向く。 白衣を着た私の手にしたものが火を吹く。 絡みつくワイアー。 迸る青白い火花。 電撃。そして。 ブラックアウト。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 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ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジ ジジジジジジジジジジ  目が醒める。私の声が聞こえた。パソコンから聞こえてくる私の声。それはもう無意 味な数式の羅列を語ることをやめたようだ。 『記録、黒砂蟲と夢見虫の合成。成功例。夢見虫には私の記憶を転移。黒砂蟲には私の 遺伝子情報を注入。両者は適合した。はじめての成功例』  画面中央には白い脳の形をとった蛆虫の塊がある。その周りには黒いドットの集合が あった。無秩序に動く無数の点が、白く蠢く脳を囲んでいる。  黒いドットはしかし、ある秩序を形成しつつあった。それは骨格を形成しつつある。 黒い骨格。頭蓋骨が蠢く脳覆い、胸骨が持ちあがってきた。骨盤が形成されてゆき、細 長い手足の骨が浮かびあがってくる。  そして、その骨格に紅い染みが付着し始めた。肉だ。肉が骨についてゆく。それは調 度、腐敗し崩壊していく死体の映画を、フィルムを逆回しにして見ているようなものだ。  紅い皮を剥がれ肉を剥き出しにされた死体。しかし、その紅い肉に白い染みがつく。 皮膚だ。皮膚が生まれはじめている。  次第に、それは人間の姿を形成しはじめた。それが誰の姿か私には判る。  私だ。  私の造られた様子を映しているのだ。  パソコンが語る。 『日記。7月29日。スポンサーは私に通告した。成果がでなければ、私の研究への資 金の供給は打ち切ると。心配は無い。実験はとうとう成功したのだから。アラブの富豪 であり、いくつかのテロ組織へ資金を供給しているスポンサーは私の学術論文を読んで、 私に研究を依頼してきた。人造人間兵士をとくれと。黒砂蟲。南米の奥地で私が見つけ た奇妙な蟲。体長がナノメートル単位のその微細な蟲は、喰らった相手の遺伝子情報を 取込んで相手の姿を擬態する。人間を喰えば人間を擬態するのだ』  パソコンはいつものように、無機的な口調で語っている。いつもと違うのはその内容。 意味のある言葉が続けられる。 『私はその黒砂蟲から人造人間兵士をつくろうとした。できたのは異形の者。できそこ ないばかり。兵士には頭脳がいる。私はそれも見つけ出した。夢見虫。チベットの奥地 に棲むその虫は、人間の記憶を蓄える。私はその虫を私の脳の中にいれた。そして、取 り出すと、黒砂蟲と一緒にしてみた。その虫たちは協力しあってひとつの形をつくりあ げた。私自身とそっくりの体。私は生み出されたもうひとりの私に戦闘の術を教え込ん でいった。虫で出来た私は、できそこないの異形の者たちとの闘いで、戦闘を憶えてい った。私は成功した。人造人間兵士をつくりあげたのだ』  ドアがあいた。  そこにいるのは、私。  もう一人の私。  白衣を着た私。 「判ったでしょう」  白衣の私は言った。 「あなたは戦うために造られたのよ。さあ、いきましょう」  白衣の私は手招く。  ジジ  ジジジジジジ  ジジジ  ジジジジジジジジジ  ジジジジ  虫が  鳴いている。  白衣の私が、  怪訝そうに私を見る。  刃が  煌く。  ごとりと。  首が  床に  落ちる。  床から私が私を見上げる。  空ろな目。  頬が裂け、顎が突き出す。  白衣の死体が膝をつく。  どろりと。  血が  刃と化した手から  滴り落ち  床を  紅く  染める。  ジジ  ジジジジジジ  ジジジ  ジジジジジジジジジ  ジジジジ  虫が  鳴く。  背中で。  羽音が、次第に  激しく。  激しく、  ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ  ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ  ジジジジジジジジジジジ  ジジジジ  ジジジジジジジジジジ  体が浮く。  窓へ  光へ  飛ぶ。  ノイズが  絶叫。 ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ  夢から醒める。自分の部屋。マンションのベッド。窓から生暖かい空気が入る。いや な夢。私は窓を閉め、エアコンのスイッチをいれる。  寝汗がぐっしょりと寝巻きを濡らしているが、着替える気力がおこらない。ひどい夢 を見てもしかたない。私は私を殺したのだから。  虫から造った私。でも、失敗だった。私の命令には従順なはずだったその虫は、私に 襲いかかってきたのだ。虫をスタンガンで眠らせると、解体用の毒物を注入して殺した。  私は私を殺した。  でも、  本当に死んだのは  誰?  記憶が混乱している。  私は、失敗作の、虫の死体を始末すると、車を運転して郊外の研究所から自宅へ戻っ たはず。  なのだが。  もうひとつの記憶。  紅く染まった床から私を見上げる生首。  死んだのは誰?  夜空への飛翔。  羽音が  ノイズが  空を満たす。  ジジと。  ああ、  私が私なら、この耳の奥でなる羽音はなんなのだろう。  ジジジと。  鳴る羽音。  私は、  誰?