「血の臭いがするねぇ、あんた」  その声に、彼女はゆっくりと振り返った。純白のコートが、闇の中で揺れ る。雪が降っていた。雪は、世界を静かで清浄なものへと塗り変えてゆく。  彼女に声をかけた少年は、コンビニの脇にある階段に腰をおろしていた。 少年は真冬というのに、Tシャツ姿である。  少年は、白い雪が降り積もった歩道を歩き彼女の前に立つ。古くからの友 人に見せるような笑みを見せた。 「ねぇ、いい薬があるんだ。こないかい」  白いコートの女性は、自分に声をかけてきた少年を冷たく冴えた瞳で見つ める。世界は黒と白のモノトーンと化していた。闇の中に白く長身を浮かび あがらせたその女性は、まったく表情を変えぬまま降り向くと立ち去ろうと する。 「残念だなあ。とても気持ちよく死ねるんだけど」  彼女は足を止めた。再び少年のほうを向く。 「私に死ねというのか」  彼女は少年に問いかける。少年はにこにこと、笑みを浮かべて応えた。 「それが望みだと思ったんだけどね」  彼女はゆっくりと首を振った。静かな夜。二人以外に動くものの気配はな く、雪に白く染められたもの以外は全て闇の中にある。 「それは望みというよりは、恩寵だよ。しかし、」  彼女は笑みを浮かべる。それは、仮面に彫られた微笑であった。あるいは レプリカントの見せる機械的な笑み。 「おまえが死ぬところを見とどけてやってもいい」 少年は楽しそうに笑った。 「ありがとう。とても親切だね」  少年は振り向くと歩き始める。闇の中へと。夜は優しく少年を包み込み、 その姿を闇へ溶けこます。彼女はゆっくりとその後を追った。少年は前を向 いたまま問いかける。 「あんたの名前を教えてよ」 「ツバキ・ロングナイト」  少年はくすくす笑った。 「ああ、外人さんだったんだ」 「みょうに上機嫌だな、おまえ」  ツバキと名乗った女性の問いに、少年は突然表情を真顔に戻して振り向く。 「死ぬにはいい日和だったからね」  ツバキはその黒い瞳を正面から受けとめた。少年はふっと笑う。 「ロングナイト家というのは、ある意味で有名ではある。闇に棲むものたち にとってはな」  少年は再びくすくす笑いはじめた。 「とても楽しくなってきたよ、ねぇ、ツバキ」  闇の中に巨大な建物が現れた。それは闇の中に聳える白い墓石である。  その無気質な建物に二人は近づいていった。 「学校か」  ツバキの問いに、少年に肯いて応えた。 「パーティーは始まっているよ、いそごう」  建物に足を踏みいれたとたん、無気質な金属音が聞こえ始めた。ダンスミ ュージックのリズム。それは、死せる巨獣のようなこの建物の中で響く、金 属でできた心臓の鼓動であった。 「なるほど、レイブパーティーの真最中といったところか」  ツバキの問いに、少年は無言で肯く。いつのまにか笑みは消えていた。酷 く蒼ざめている。金属の獣があげる咆吼のようなダンスミュージックの音が、 少年を内から斬り刻んでいた。  対象的にツバキの表情も変わっている。瞳に硬質の光が宿った。それは戦 士の瞳である。  ツバキは無言で音の源へと向かう。苦悶の表情さえ浮かべる少年は、影の ように後を追った。  階段を昇る。2階の奥の部屋に明かりが灯っているようだ。音はそこから 聞こえる。ツバキはその教室の前に立った。扉の上に、音楽室と書かれてい る。防音設備のある教室からこれだけの音が聞こえてくるということは、中 ではかなりの音量で音楽が流れているに違いない。 「なあ」  少年の声にツバキは振り向く。少年は、小さなカプセルを放ってよこした。 「これをきめなきゃ、入れないよ」  ツバキは素直にそのカプセルを噛み砕き、呑み込んだ。  扉を開く。  白い手足が散乱している。  内臓がのたうっていた。  床は無数の薔薇の花を散らしたように、血にまみれている。  切断された首が、無造作に机の上に置かれていた。  轟音が響く。  千の闇の寺院で、死者を弔う鐘が鳴らされるように。  狂乱の戦士たちが、機銃を乱射して戦っているように。  部屋の奥にはピアノがある。この部屋の守護神であるかのように、荘厳な たたずまいをもってそのピアノは置かれていた。  その前に少女がいた。全裸の少女の体は血まみれである。おそらく彼女の 血では無く、この部屋に散乱する人体の破片が流した血だろう。  ツバキは始めて人間の笑みを浮かべた。 「闇のものに喰われたな」  少女はけたたましく笑った。 「闇のものと戦うしか能の無い戦闘機械ね、あなた」 「そうともいう」 「どうでもいいわ、血がたりないの」  少女は官能的な笑みを見せる。欲情した赤い唇が歪む。血に染まった幼い 乳房を自ら揉みしだいていた。 「ノスフェラトゥ、高貴なる不死のものであった闇のものがそこまで飢える とはどういうことだ。おまえたちは狩るものだろう。しかし、今のおまえは 追いつめられた獣だぞ」  少女は売笑婦の笑みで応えた。 「帰らないといけない。あの暗黒の流れへ」  少女の動きは肉眼で捕らえられるものではなかった。少女は突然ツバキの 目の前に出現した。その手に持たれていた日本刀が振りおろされる。 ツバキはかろうじて左手で受けた。  少女は怪訝な顔で見る。ツバキの左手で刀が止まったためだ。 「対刃対弾の素材を使ったコートでね」 「あらそう」  赤い唇がもう一度歪む。 「でも無駄よ」  刀が引かれる。闇の中に金属の輝きを持った血が迸しった。ツバキは呻い て片膝をつく。 「ほうら、とっても素敵。暖かくて優しい臭い。とてもいい血だわ、あなた のは」  少女は皮肉な笑みを見せる。 「ただの戦闘機械のくせにね」  少女は刀で天を指す。 「さあ、見てよ」  遥かな高み。そこには、暗黒の流れがあった。大いなる螺旋を描き、地上 で鳴り響く巨大な轟音は天上へと流れてゆく。  憎悪と狂乱の情熱が渦となって立ち昇った。少女の白い裸身は、咆吼する 闇の嵐の中で輝く白い月である。 「見なさい、あの闇のゆく果てを」  少女は自分の体を震わせる大いなる欲情に絶えかねているように、叫んで いた。 「あれは人類、いいえ、世界よりも古いの。神と呼ばれるものなど、あの流 れの前には、悲しいくらいちっぽけな存在よ」  音は生きていた。流れてゆく音は、世界そのものを超えて果てしなく昇っ てゆく。淀むことも、乱れることもなく。  いまや斬り開かれた永遠を目前として、少女は思うままにその激しい音の 流れに身を委ねていた。無数の黒い獣に犯されているように、少女は身をよ じる。  吐息がその赤い唇からもれた。ツバキは無言でその様を見つめる。 「世界より古き音。創造を超えた音の流れ。それは血を捧げることによって 顕現する。私たちはそこから来た。そして今、そこへ帰る」  宇宙よりも深い闇。それは暗い熱狂の音たちがあれ狂う、果てしない螺旋 の彼方にある。少女は恋こがれるように、その螺旋の流れへ手を伸ばす。  その時、ふとツバキが立ちあがった。 「馬鹿だな」  ツバキはそういうと、残った右腕でコートをはだける。腰には長剣がつる されていた。その剣を片手で抜く。 「そこには何もない。永遠なぞない。闇の流れなどまやかしだ。判らないの か」  ツバキのその剣は奇妙な形をしている。双胴の剣。二本の刀身を持つその 剣は、刀身の間に金属の糸がはられていた。  剣というよりもむしろ、楽器を思わせる。金属で造られた竪琴のようだ。 その剣を見つめる少女の瞳に脅えが走る。 「やめて」  少女は呟くように言った。 「知っているわ。それは竜破剣。全てを破壊する剣」  後ずさる少女に、ツバキは近づく。 「破壊するものなど無い」 「ちがうわ、私は愛するものを失った。だからあの向こうに愛を見つけにい くの」  ツバキの剣が音を立て始める。それは澄んだ透明な音。無数の水晶の破片 が散らばっていくような音。  それは闇の流れをうち消すように立ち昇る。  ツバキは剣を振りあげた。 「聞くがいい。創世の和音を」  静寂が落ちてきた。  ふっと闇が訪れる。  雪明かりが音楽室に忍び込む。  そこにあるのは、黒い棺のようなグランドピアノに横たえられたふたつの 体。ひとつは少年のもの。もうひとつは少女のもの。  少年は既にこときれていたが、少女は微かに息があった。しかし、その手 首から流れる血はもう少女の命が長くないことを示している。  部屋に散乱していたはずの人体の破片はもうない。流された血は少女のも のだけ。ツバキは気配を感じ、振り向く。そこには、あの少年がいた。 「ありがとう、ツバキ」 「暗黒を呼び出したのなら、なぜその流れとともに去らなかった」  ツバキは、少女を指さす。殴られた後。破かれた衣服。股間に流れる血の 後。何があったのかは、見当がついた。少年のほうは、頭蓋骨が砕けている ようだ。 「絶望して狂ったのであれば、その絶望と添い遂げたらいい」  少年は苦笑する。 「意外ときついね、あんた。本気じゃないだろ」 「ではなぜ、暗黒の流れなどを呼び出した」  少年は薄く笑いながら言った。 「あれがあるのは知っていた。呼ぶ為に血が必要なのも知っていた。あの娘 は僕の死に絶望して死んでくれた。だからお礼に少し垣間見せてあげようと 思った。あれを直接呼び出すのは僕には辛い仕事だからね。音が僕を無に押 し戻そうとする。彼女は人間にしては霊感が強い。僕の血を与えれば呼ぶこ ともできた」  ツバキは吐き捨てるように言った。 「無意味な行為だ」 「そういうなよ。彼女は愛に殉じた。ある意味幸せだったじゃないか。それ で僕も滅ぼすのかい」  ツバキは首を振る。 「もう終わった。去れ。恋愛ごっこにこれ以上つきあう気は無い」  死体が身を起こした。陥没した頭蓋骨は元に戻っている。ツバキと話をし ていた少年は姿を消している。 「ノスフェラトゥよ。夜の一族よ。惑わすだけなら人と関わるな」  少年は首を振る。 「だって彼女は何も持ってなかったんだよ。何もなかったけど生きていかな くちゃいけなかったんだ。だったら愛に死なせてあげてもいいじゃない」  ツバキはなげやりな口調で応える。 「現実で失ったものがあるのなら、現実で得なければならない。おまえたち の愛はまやかしだ」  少年はけたたましく笑い始める。 「あんたも見ただろう。あれを。カプセルに入った僕の血を呑んだんだ。見 れたはずだ。あれは彼女の望んだものだ。恋人を殺され、自分も犯され、狂 った果てに陶酔を見つけたんだ。まやかしじゃない。真実だよ。真実の愛だ よ」  少年は笑い続ける。 「私はおまえを滅ぼすべきなのだろうが、そうしない。おまえが狂っている からだ」  ツバキは呪うように少年へ語る。 「世界が糞まみれであるのなら、糞まみれで生きるべきだ。永遠などを招喚 するのではなく」  そして、ツバキは立ち去った。  やがて夜明けとともに少年も去る。  雪は降り続けていた。全てを清浄な白い闇へ帰すように。  真白き朝が来たときに、残っていたのは死体が一つだけだった。