17時50分。  私が家に帰る時間だ。その日もいつもの通り、いつもの時間に私は帰宅した。 そして仕事用のスーツを脱いで部屋着に着替え、父親と弟のために夕食の支度 をする。もう10年以上、この生活を行っていた。私の体にはこの生活のリズ ムが染みついている。高校を卒業するころに私の母は病に倒れた。それからず っと私はこの生活を行っている。  父は、母が長い闘病生活の末5年前に死んだ時、壊れてしまった。記憶に混 乱をきたし、私が誰なのか判らなくなっている。私のことを母の名で呼んだり、 誰か知らない昔の恋人の名で呼んだりした。父は自分の追憶の中に生きている。 その中で私に色々な役割が当てられるらしい。私は父の幻想に逆らわず、その 時に応じて役割を変えた。  私は、父が壊れ会社をやめてから、家計を支え家事を全て引き受けている。 弟は、大学に通っているが、いつのまにか家によりつかなくなった。週の半分 は外泊している。それでも私はいつも家族3人の食事を用意した。私の父と弟 の3人。外から見れば、とうに形骸化した無意味な家族なのかもしれない。し かし、私にとっては生活の全てであり、生きる理由だった。  母が病に倒れてから幾度か恋のようなものも経験している。一度離婚歴のあ る男性との見合いの話もあった。結局私はその全てに背を向けている。私は、 女である前に家族の一部であると思っていた。私自身が作り上げた私の世界で ある私の家族。私はその中から踏み出そうとは考えていない。  そしてその日も私は、いつものように食事の支度を始めていた。私の家の近 くには、小さなスーパーが3件ほどある。そのどれかでいつも買い物をして、 家へ帰る。献立は、だいたいいつも買い物をしながら考えていた。  その日、私の日常は唐突に中断される。それは、玄関のチャイムの音で始ま った。私は弟が帰ってきたのかと思い、何も考えずに玄関の引き戸を開けた。  そこに佇んでいたのは、白衣の女性である。既に日の暮れた屋外で、彼女が 身につけている白いコートは輝くように浮かびあがって見えた。鋭い意志を秘 めたような黒い瞳が、私の目の前にある。美しい女性であった。宗教画の中の 女性が持つ無個性で、造り上げられた美しさである。  その女性は私に語りかけた。 「トオノ・ミナコさんですね」 「ええ」 「あなたに渡したいものがあります。私は、ツバキ・ロングナイトといいます。 あなたは、カゲヤマ・アキオさんをご存じですね」  私は、その名前に軽いショックをうけた。とっくに忘れ去ったはずの名前だ。 しかし、その名の響きは私の心に生々しい動きを呼び覚ました。 「カゲヤマさんが録音した一巻のテープがあります。もしも、あなたが必要な いと仰るのであれば、私はこのまま帰ります。あなたがそのテープを受け取ら れるのならば、お話しておくことがあります」  私は、ツバキと名乗るその女性を家にあげることにした。私はツバキを、夕 餉の支度が途中である食卓の前に案内する。私がツバキの前に腰をおろすと、 ツバキは封筒を束ねたものと一巻のカセットテープを取り出した。 「まず、このテープが私のところへ来た経緯をお話しておきます」  ツバキは感情のこもらない声で話す。彼女はまるで、アンドロイドのようだ った。「私は、普段は探偵をやっていますが、副業として拝み屋のようなこと もやっています。拝み屋とは、いわゆる悪霊を祓ったり憑き物を落としたりす ることです。私のところにこのテープが来たのは、その副業の関係です。この テープに呪いがかけられているようなので、祓ってほしいとの依頼でした。こ のテープはカゲヤマ・アキオが最後の演奏を自分で録音したテープですが、演 奏した本人以外に3人の人間が聞いています。その3人ともが死にました。皆、 衝動的な自殺です」  ツバキは、私の目の色を読んだらしく、話を中断する。 「呪いを信じる信じないは別にしてこのテープには、呪いのようなものはかか っていません。私の話が信じられないのであれば、このまま帰りますが」 「いえ、そうではなくて」  私は、ツバキを見据えた。マネキンのように美しく無個性なその顔を。 「アキオの最後の演奏といいましたね。では、アキオは」 「カゲヤマ・アキオ自身も、半月前に自殺しています。このテープは死の直前 に録音されたものです。ラベルを見てください」  私は、そのテープを受け取りラベルを見た。そこには、こう書かれている。 『君の思いで。トオノ・ミナコへ』 「ご存じなかったのですか、カゲヤマ・アキオの死を」  私は無言で頷く。 「そうですか。このテープは、彼の恋人であった女性の手に渡ります。彼女は そのテープを友人の音楽評論家へ送ります。その音楽評論家はさらにそのテー プを女流ピアニストの友人に送ります。そのピアニストは霊感の強い女性で、 彼女の依頼で昔御祓いをしたことがあります。彼女はこのテープを聞いて何か を感じたらしく、私に送りつけてきました。私は、このテープを聞きましたが、 呪術に関係するような力を感じることはできませんでした。けれど、多分演奏 者はこのテープがあなたのもとへ行くことを望んでいたのだろうと思い、ここ へ来たのです」 「アキオは」  私は自分の中に何かが満ちていくのを感じた。その何かは、名付けることの できないものだったが、私の体を次第に熱くしてく。 「アキオは音楽関係の仕事をしていたのですか」 「彼は、ミュージシャンです。決して有名ではありませんが、現代音楽の演奏 家としてはそれなりに認められた存在です」  私は、眼差しでツバキに話を続けるよう促した。ツバキは頷き、話を続ける。 「3人が自殺したといいましたが、自殺と断定できる訳ではありません。最初 に死んだカゲヤマ・アキオの恋人は自宅のマンションの階段から転落して死ん でいます。事故かもしれません。しかし、足を滑らすような状況でもなく、恋 人の死で酷く動揺していたようなので、自殺とも考えられます。次に死んだ音 楽評論家は、トイレで死亡しているのを発見されました。死因は致死量を越え た麻薬の摂取によるショック死。これも事故と考えることもできます。3人目 のピアニストについては、自動車事故で死亡しています。スピードの出しすぎ が原因ですが、彼女は熟練したドライバーで、めったに制限速度を越えて車を 走らせることはありませんでした。3人とも死因に共通点はありません。  私はテープを聞きましたが、死んではいませんし、死ぬつもりはありません。 ただ、あなたにこのテープを聞くことを勧めるつもりはありません。このテー プが存在していることを知っていただければ十分だと思います」  ツバキは、言葉を止める。彼女は自分の言葉が、私に届いていないと思って いるようだ。事実、私はそのテープを手にとってラベルをじっと見つめていた。 呆然としていたとっていもいいだろう。 「自殺だと思います」  唐突な私の言葉に、ツバキは私を見つめる。 「3人のかたは、自殺したのだと思います。ありがとうございました、このテ ープを私にとどけてくれて」  ツバキは、少し会釈すると何も言わずそのまま帰っていった。私は見送るこ ともせず、そのテープを手にしていた。  私はそのテープを聞くつもりで小型のカセットレコーダーを持ってくる。そ のカセットレコーダーは小型ではあるがスピーカーもついていた。そこにアキ オのテープを納める。  ふと、私は封筒の束を手にとった。三通の封筒があり、その中には手紙が納 められたままだ。私は、そのうちの一通を取り出してみる。それは最後にテー プを手にしたピアニストがツバキに送ったものだった。私はその手紙を読んで みる。 『先日、お話したテープを送ります。  演奏自体に不思議なところがあるようには思えないのですが、このテープそ のものが私の心に何かを残したような気がするのです。この演奏を行った人は 自殺したそうなのですが、何かとても透き通った美しい演奏でした。それは言 葉では言い表せない形で、私の心を惹きつけています。  彼の演奏は、誰にも似ていません。まるで凍てついた荒野に雪が静かに舞い 降りてゆくような、死の静謐さにも似た美しさを持った音楽です。けれど私が 引きつけられるのはその美しさのためではありません。  なんといったらいいのでしょうか。  喩えてみれば、とても美しい草原があり、色とりどりの花が咲き乱れている のだけれど、その下には無数の死体、しかも惨たらしく殺された死体が埋まっ ているのを私は知っているような。その無惨な死体の山は草原の美しさとは関 係ないのだけれど、それが同時に存在していることによってどうしようもなく 私を引きつけるような気がするのです。  演奏自体にそんなことを感じさせる要素がある訳ではありません。演奏は厳 密に計算された幾何学的な美すら連想させるような完璧なものであり、現代芸 術にあるようにある意味で感情を排したものです。  けれど私はその底にある凄惨な情念のようなものを感じてしまうのです。多 分、これを演奏した人が死んだという理由からなのでしょうけれど。  あなたなら、何か判るのではないかと思います。もしも、このテープに死者 の想念がとりついていて、それが』  突然電話が鳴り、私は手紙を読むのをやめた。受話器をとる。そこから聞こ えてきたのは、弟のテツオの声だった。 「ねえさん、オレだよ」 「テツオ、昨日はどこにいたの。あれほど外泊するときには連絡してって頼ん だのに。今日は帰ってくるんでしょう」 「ねえさん、オレさ」  テツオの声は静かだった。その落ち着きから私はただならぬものを、感じ取 った。「オレ、人を刺したんだ」  私は息を呑む。 「どういうことなの」 「来て欲しいんだよ、ねえさんに。オレは、はめられたんだ。金がいる」 「何言ってるのよ、テツオ」 「ねえさん、これからいう場所に100万円持ってきてくれ」  テツオは、一方的に場所の説明をしだした。街はずれのさびれた場所を、テ ツオは指定する。私の職場から少し離れた場所だった。  テツオは話終えると、一方的に電話を切ってしまう。 「どうしたんだい、ナミエ」  声をかけられ、私は顔をあげる。私の父だった。ナミエというのは、私の母 の名前だ。今、私は父の妻となっているらしい。 「テツオがトラブルに巻き込まれたようなの。すぐ来て欲しいって」 「判った」  父は重々しく頷く。 「すぐに行こうじゃないか」  私は、父に詳しい事情を説明する気力が無かった。手近なものを手当たり次 第にバッグへ詰め込み、父を伴って外へでる。服は着替えず、ジーンズパンツ にトレーナーといった部屋着のままだ。  既に日が沈みきって、闇に押し包まれた通りに出た。タクシーをつかまえる。 父と共にタクシーへ乗り込んだ私は、弟から聞いた場所を行き先として指示し た。車でだいたい、20分程かかる場所だ。  私は、バッグの中から封筒を取り出す。音楽評論家からピアニストに宛てた 手紙を読んでみることにした。 『例のテープを送ります。  正直いって、僕にはこの演奏をどう判断していいのか判らない。いや、演奏 自体にいうべきことはあまり無いのかもしれない。見事なまでに隙の無い、完 璧な演奏。というよりは、徹底的に余剰なものを削ぎ落としてゆき、最後に残 ったコアなものだけで構成された音楽。狂気に犯されたものが、ほんの一瞬手 に入れた正気の静寂を刻みつけたような透明感。  僕はかつてヴィニ・ライリーが、シンプルなほうがアナーキーだと言ったの を思い出した。けれども、この演奏はミニマルミュージックにあるような叙情 性すら排除されている。ステンレスとコンクリートで構成されたオブジェのよ うな音楽。  表面的に見れば、そう結論づけるべきなのだろう。けれども、僕の中の何か がそう結論づけることを拒んでいる。ただそれを言語化することができない。  君には前に話したことがあると思うが、僕はアムステルダムを放浪していた ころ、色々な麻薬を試してみた。ダウナー系の麻薬というやつがある。精神が 地下の奥深くへ入り込んでゆき、そこで内なる豊穣さと出会う感覚。  この演奏がドラッグによるトリップと同じ効果を持っているとはいわない。 麻薬と同じ効果を持つ、そんな便利な音楽があれば誰も苦労はしない。そうで は無い。けれども、もし僕がこの演奏を、いや、この演奏の背後にあるであろ う何かを表現しようとすれば、そう言うしか無い。  僕に言えるのはここまでだ。あとは、君自身でこのテープを聞いてみて欲し い。君は僕が最も信頼している演奏者だ。君になら、この演奏に隠された秘密 が判るのではないかと思う。演奏者としての君になら、僕には判らない色々な ものが見えるのでは無いだろうか。  それと参考になるかは判らないが、このテープを僕に送ってくれた僕の友人 であり、カゲヤマ・アキオの恋人であった女性の手紙も同封しておく。読んで みて欲しい。僕以外の人間の感想も役に立つだろう。  君の感想を待っています』    カゲヤマ・アキオの演奏。  かつて、そう、私が高校生のころ何度も聞いた演奏。私の心に過去の思いで が甦ってくる。  私たちは同じ高校の生徒で、同じ演劇部に所属していた。彼はいつも舞台の 上で電子ピアノを弾いていた。  私たちは、色々なところでゲリラ的に活動を行った。屋外の時もあるし街の 小さなホールや、学校の中庭を使うこともある。  私たちは予告無く出現し日常を麻痺させてしまう、演劇で武装したテロリス トといってもよかった。そこに立ち会わせた者は否応なく私たちの『演劇』に 巻き込まれてしまう。  私たちは、稲妻旅団と名乗っていた。高校に所属する演劇部としてはあまり に破格の存在だったかもしれない。学校の主催する行事に参加したことは一度 も無く、いつも私たちは独自にスポンサーを見つけて公演を行っていた。  私たちのリーダーだったミツオは、父親が広告代理店の重役だったため色々 なところに顔がきいたし、金は必要であれば必要なだけ調達してきた。ミツオ は単にスポンサーとのパイプ役だけでは無く、私たちの理論的な主導者でもあ る。  スタニラフスキーの演劇理論は当然のこととして、彼の理論のバックボーン となっていたのは19世紀末から20世紀初頭にかけてのシュールレアリスト たちだった。アンドレ・ブルトンや、トリスタン・ツアラ、アルフレッド・ジ ャリにジャン・コクトーあるいは、バタイユのような思想家も彼の理論を構成 する一部である。そうした過去の思想を、デリダやドゥルーズ、ボードリヤー ルといった現代フランスの哲学理論を経由して再構築したのがミツオの演劇理 論だった。  ミツオが議論して負けるところを見たことが無い。凄まじいまでの頭の回転 の早さと、圧倒的な知識量で相手を封じ込めてしまう。ミツオにとって高校教 師を相手にすることは、幼稚園児を言いくるめるのと同じことだった。  私たちの稲妻旅団が学校に所属しなければならない理由はあまりなかったよ うに思う。ミツオにとって、それはひとつの遊びのルールだったようだ。稲妻 旅団自体が彼のおもちゃといってもよかったし、学校は彼にとって嘲弄し破壊 するための遊び場だったのだろう。そして、私たちも楽しんでいた。彼の遊び を。  私たちは、日常が破壊されのっぺりとした無限の荒野、無秩序の平原が出現 する感覚を楽しんでいた。それは、神の放逐された祝祭であり、破壊を聖性へ と祭り上げる儀式なのだ。  アキオはミツオの親友であり、ミツオに稲妻旅団専属ピアニストとして引き 込まれたようだ。アキオの祖父は芸術大学の音楽科教授であり、アキオ自身バ ッハからベートーベン、プロコフィエフやシューマン、シェーンベルクにスク リャービン、サティやガーシュインに至るまで多彩に弾きこなす技術がある。 また、即興で演奏させても実に巧みに私たちの望むイメージの演奏をすること ができた。  稲妻旅団は、パーマネントなメンバーがいる訳ではなく、ミツオとアキオ以 外のメンバはよく入れ替わるし、私自身が参加していた公演にしても半分位だ ったと思う。ただ、ミツオとアキオの二人だけがいつも行動を共にし、稲妻旅 団の公演では必ずアキオのピアノ曲が演奏された。  稲妻旅団の公演は、厳密にいえば演劇の範疇から逸脱したものだ。例えば、 私たちのよくやったことは観客と演者の関係を逆転させることだ。観客の一人 をいきなり舞台にあげてしまい、私たちは全員客席に腰をおろす。舞台にあげ られた観客が動いたり何か言うたびに、無茶苦茶に喝采を浴びせたりブーイン グを行ったりする。  あるいは、舞台に客席と対面する形で椅子を並べ、私たちが舞台の上から観 客を観察し、囁きあったり拍手を送ったり歓声をあげたりした。舞台の上にも う一つ舞台を作り、演劇を行う人を見る観客を舞台の上で演じたこともある。  私たちは色々なことを行ったが、同じ事を二度行うことはなかった。  私たちは観客に『主催者側は劇場内で起こる全てのことに責任を持たない』 と書いた文書を渡し、それに同意するサインをとった上で観客をいれたことも ある。私たちの公演は物理的に安全なものばかりではなかった。建築機材やド ラム缶、コンクリートブロックを持ち込んで、やたらと破壊して回ったことも あるし、ガスバーナーやチェーンソーを使ったこともある。  酷い時は、灯油をぶちまけてその上で松明を振り回すといったことまでやっ た。私たちに小屋を貸した者は、大抵二度と私たちに貸そうとはしなかった。 いつもアキオが豊富なコネを利用し、またうまく口先で騙して場所を確保した。  私たちは、はじめは無名だったかいつのまにか固定のファンができ、雑誌の 取材を受けたりもした。ミツオにはある種のカリスマがあった。  全てが遊びである。そして私たちは、疾走し続けた。  ある日突然、全てが終わるまで。  全てが終わって家に帰った時、私の母は病に倒れた。 「お客さん、ここを入るんでしたかね」  私はタクシーの運転手の声で回想から現実に戻る。私は、もう一度行き先の 指示を行った。運転手は頷くと、再び無言で運転に専念する。あと5分ほどで 着くところまで来ていた。私は最後の封筒を手に取る。アキオの恋人が出した 手紙だ。航空便らしく、ニューヨークから送られたらしい。 『この前にお話ししたテープを送ります。  これは、私には必要の無いものです。いえ、私が持っているべきものではな いのでしょう。これは私の知らない誰かの思いでに、捧げられているのですか ら。多分、このミナコという女性は彼が渡米する前につきあっていた恋人なの でしょう。私とアキオは、サンフランシスコで初めて出会いました。それ以前 の彼を私は知りませんし、アキオは決して過去を語りませんでした。  このテープの演奏を聞いて、私は私たちが初めて会った時のことを思い出し ました。会ったといっても彼はステージの上で、私はただの観客でしたが。そ れは、薄暗く麻薬の香りのするライブハウスでした。演奏よりも客の怒鳴り声 のほうが大きいようなところです。そこに来る者は音楽を聞くというよりも、 そこで買ったドラッグを試してみたり、ガールフレンドと愛を交わしたり、く だらないおしゃべりをすることが目的のようでした。  私はその時とてもうんざりした気持ちで、そこにいました。言い寄ってくる 男を壁のように無視し、どこかここでは無いところに視線を向けていました。 あのころ私の魂は泥沼の底に沈んでいましたから。  その時、突然ライブハウスが静まり返ったのです。  アキオの電子ピアノが鳴り始めた瞬間でした。  アキオはピアノとヴァイオリン、プレシジョンベースにドラムから編成され る奇妙なバンドにいました。東洋人はアキオだけのようでした。  それはなんとも奇妙な瞬間でした。闇の闇の果てで、突然自分の見ていたも のより遙かに広大で無限の宇宙の闇に出くわしてしまったような。あるいは、 全てのものが形を失い原初のカオスへ還ってしまい、その無定型の渦の中で途 方にくれてしまったような。  そんな演奏でした。  彼らは、予言者であるにも関わらず行くべき道を指し示さず、ただ私たちか ら言葉を奪い思考を停止させたのです。彼らの音楽は何にも似ていませんでし た。ただシンプルな、どこか見知らぬ国での宗教的儀式に使われるような、そ んな印象をもたらす音楽です。  私たちはそのライブハウスでクラッシックコンサートを聞く聴衆のように、 沈黙したままその演奏を聞きました。彼らが嘲るような笑みを浮かべ、無言で 立ち去るまでその静寂は続くのです。そして、演奏が終わった瞬間には拍手も 起きず、彼らが立ち去った後、何事もなかったように喧噪が甦りました。ただ そこにいた人々の意識の底には、彼らの演奏が暗く深い澱のように残っている のです。  そのバンドでピアノを弾いていた東洋人が私と同じアパートに住んでいるこ とを知ったのは、その少し後です。私はアキオを訪ね、そのまま彼と暮らすよ うになりました。  アキオはバンドをやめた後、もっと無機的で現代音楽として判りやすい演奏 をするようになります。彼は次第に認められるようになりましたが、私は彼の 曲から初めて彼の演奏を聞いた時のような衝撃を受けることはありませんでし た。  でも、このテープは違います。  いえ、演奏だけをとれば、最近のものです。  バンドに所属していたころとは、全く違う曲です。  けれど、私の受けた印象は、あのライブハウスでの奇妙な瞬間そのままでし た。  私は、彼がなぜ拳銃で頭を打ち抜いたのかは判りません。私は結局彼の何を 知っていたのでしょうか。ただ、私が彼を愛していたことだけは真実のつもり でした。  でも、それすら今では不確かに思えます』  アキオは変わっていなかった。稲妻旅団が終わり、私が日常にしがみついて いた時にも、アキオは変わっていなかったようだ。アキオは魔術師である。文 字通りの意味での。彼はその魔術を使っていたのだ。  私が稲妻旅団で与えられた役割は、歌をうたうことだった。ミツオの作った 詩をある時は朗読のように、ある時はアキオの曲に併せて歌う。  稲妻旅団では、あまり演劇の練習はしなかった。ただ、コンセプトを固める ためのディスカッションばかりを繰り返していた。しかし、私の歌とアキオの ピアノはある程度の練習が必要だった。アキオの両親は実業家で資産家らしく、 アキオは音楽室のある大きな屋敷に住んでいた。私たちはその音楽室でよく練 習した。  アキオと二人の時もあったが、大抵はミツオが顔を出す。その日、アキオの 祖父から音楽的魔術の話を聞いたのは、アキオと二人きりの時だった。  アキオの祖父の父親は亡命ロシア人だったらしい。その男は、グルジェフの 弟子であり、スタニラフ・スタヴローキンという名だ。  スタニラフ・スタヴローキンは、グルジェフの理論を音楽の分野において展 開することを目的として研究を行っていた。アキオの祖父は、戦前の満州でス タヴローキンから彼の研究の成果を教えこまれる。戦後、日本に戻ったアキオ の祖父は、スタヴローキンの理論、感情をコントロールする音楽を大学の研究 設備を利用して科学的に立証しはじめる。  アキオの祖父は、スタヴローキンから受け継いだ自分の理論をこういった。 「この音楽はレトロ・ウィルスのように作用する」  よく晴れた、穏やかな日差しの差し込む日だった。アキオの祖父は、柔和な 笑みを浮かべながら私たちに語る。 「この音楽は、ようするに脳内細胞の遺伝子を変容させてしまう。その結果、 この音楽を聞いた人間の脳内分泌に変化がおきる。鬱病や精神分裂病もある意 味では、脳内分泌の異常によって起こるものだ。ドーパミンやエンドルフィン といった快楽物質の分泌や不安を増幅する分泌物質などの代謝異常がおこれば、 人間の精神は破壊されることになる。逆にそうした分泌の代謝異常から引き起 こされた精神異常は、分泌が正常に戻ればなおるということだ。  いいかね、脳を構成する細胞は当然、遺伝子によって作成されていく。その 遺伝子を音楽によってコントロールできれば、脳内分泌は自在に変化させるこ とができる」 私たちは、それを聞いた時に大笑いした。音楽が遺伝子を書き 換えられる訳が無い。アキオの祖父は穏やかな調子で説明を続ける。 「記憶がどのようなメカニズムで行われるのか知っているかね。人間の脳は、 神経細胞のシノプシスによって構成される電磁気的な機械として見なすことが できる。しかし、脳内にあるシノプシスの量から考えると、人間の記憶の全て を電磁気的に保持するのは到底不可能であることが判るのだ。記憶は電磁気的 な方法以外の、つまりなんらかの化学的物質に変換されて保持されていなけれ ばならない。  人間の体内に存在し、多大な情報を保持しうる化学的物質、それはDNA、 つまり遺伝子と考えるのが妥当だ。人間のDNAは、ジャンクDNAとよばれ るなんのために存在しているのか判らない情報が大半を占めている。もし、こ のジャンクDNAが記憶を保持するために使われているとすれば辻褄が合って くるんだ。  もちろん、DNAを書き換えることはできない。ただし、レトロ・ウィルス による書き換えをのぞいて。レトロ・ウィルスはDNAを書き換えてしまうこ とができる。  私の父、スタニラフ・スタヴローキンは奇妙な仮説をたてた。 人間の脳の内部には、人間と共存し寄生しているウィルスが存在し、そのウィ ルスが記憶保持のメカニズムにおいて重要な役割を担っていると。  私の父の時代には当然、レトロ・ウィルスなどという概念は存在しない。ス タヴローキンはそれこそ魔法的直感によってそれを見抜き、理論化したのだ。 私は、大学病院の設備を借りてその仮説を裏付ける試みを行っている。しかし、 まだ完全に解明することはできていない。  私の実証されていない仮説はこうだ。人間の脳内には人間に寄生し、共存し ているレトロ・ウィルスが存在する。そのレトロ・ウィルスは脳内で電磁気的 情報に置き換えられた音楽や映像を化学的情報に変換し、ジャンクDNAへ書 き込むことができる。私はその変換のシステムをある程度つかんだ。ただ、人 間の遺伝子を書き換えてしまうような実験はできないので、実証がとても困難 なのだがね」  私はその話を信じてはいなかった。終わりの日がくるまで。  その瞬間まで。 「つきましたよ」  私は運転手の言葉によって、再び現実に戻った。私は料金を払い、父ととも にタクシーを降りる。  目の前にテツオの指定したビルがあった。そのビルは既に廃ビルとなってお り、一階はいつもシャッターが降りた状態だ。しかし、地下に降りる階段は開 いており、その地下には小さなライヴハウスがある。テツオはそこにいるはず だ。  私は父と共に、地下への階段を降りる。その壁には、派手に落書きが行われ ており、足下には空き缶やゴミが散乱していた。  重いドアを押して、ライヴハウスへ入る。とたんに、スポットライトを浴び せられた。声がかけられる。 「ステージにいきな」  ステージといってもフロアと段差がある訳ではない。私と父は、機材の並べ られたステージに立つ。照明がより強くあたった。  薄暗いフロアには、4、5人の若者がいるようだ。そのうち一人が立ち上が る。テツオだった。 「ねえさん」  薄暗くてよく判らないが、顔にあざがある。殴られた後のようだ。服も破れ ている。「ねえさん、金は持ってきてくれたかい」 「何いってるのよ、100万円なんてうちにあるわけないでしょう」  また一人、若者が立ち上がる。 「こまるなあ、おねえさん」  金髪で鼻翼にピアスをした若者だ。悪魔の絵の描かれたTシャツを着ている。 金髪の若者は、傍らのスキンヘッドの若者を立たせた。スキンヘッドは足に包 帯を巻いていた。 「みろよ、こいつを。こいつの足をナイフで刺したんだよ、あんたの弟はよぉ。 なあ、こいつは、サッカー選手になるのが夢だったんだぜ。この怪我のおかげ で一生走れなくなっちまったんだよぅ。え、とんでもねぇ話じゃねぇか」  スキンヘッドはがりがりに痩せており、目の下には隈があり瞳はうつろだ。 どうみてもシンナーのやりすぎである。サッカーをやったら走る前に、ボール を蹴った時点で骨が折れそうだ。  金髪は話を続ける。 「金をもらえば、こいつも納得するさ。しかし、それがねぇってんなら、しょ うがない。警察にいくぜ。あんたの弟はよう、犯罪者だ。前科ものだ。それが いやならなんとかしろよ。風俗とかよう、AVとかよう、色々あるじゃん。あ んたが風俗いきゃあおれも客としいってやるぜぇ、なあ、どうよ」 「刺すところを間違えたみたいね、テツオ」  私は静かにいった。 「どうせなら心臓をひと突きにすればよかったのよ」 「ねえさん」 「てめぇ」  金髪の顔色が変わり、一歩前へ出る。 「やめとけ」  若者たちの後ろから声がかかる。ひとりの男が立ち上がった。年は30前後 だろうか。長髪で漆黒のスーツを身につけている。果てのない遠くを見つめて いるような、奇妙な目つきの男だった。 「あんたさぁ、稲妻旅団のミナコだろ」  黒衣の男は、私を見据える。私は頷いた。このライヴハウスは記憶にある。 私たちはここでギグをしたことがあった。 「おれがさあ、まだこいつらみたいにガキだったころだよ。10年以上昔にな るよなあ。忘れられないよ、あんときのことはよ。あの時のあんたの歌はよぉ。 忘れたくても、忘れられねぇ」 「サカキさん」  金髪が割って入ろうととするのを、サカキと呼ばれた黒衣の男は目で制する。 「なあ、ミナコさん。どうだい。もういちどあのころの歌を、聞かせてくれね えか。それでおれが満足できりゃあ、100万の話は無しにしようや」 「サカキさん!」  金髪が詰め寄る。サカキは目を私にむけたまま、ドスの利いた声を出した。 「てめぇ、おれのやることに文句があるのか」  金髪は少し逡巡し、後ろに下がった。 「どうだい、ミナコさん」 「稲妻旅団は終わったのよ。随分前に」 「残念だな」  サカキはつぶやくように言った。 「あんたの弟は、傷害罪だ」  テツオが叫ぶ。 「ねえさん、頼むよ。なあ、おれのために歌くらい歌ってもいいじゃねぇか。 おれたちは、姉弟だろ。家族だろ。なあ、ねえさん」  私はため息をつく。 「いいわ。聞かせてあげる。稲妻旅団の最後の歌を」  私は、カセットレコーダーを取り出すと、中のカセットを抜いた。それをサ カキに放り投げる。 「このテープをかけて」  サカキはカセットを若者の一人に手渡し、指示を出す。サカキは私の方に向 き直って言った。 「なあ、ひとつ教えてくれよ」  私は黙ってサカキの視線を受ける。 「なぜ、稲妻旅団は終わったんだ」 「死んだからよ」  サカキは目で問いかける。 「稲妻旅団は稲妻旅団を作った男、ミツオの死と共に終わったの」  電子ピアノの音が響いた。  アキオのピアノ。  あの時のピアノ。  終わりの日にアキオが弾いていた、あの曲が流れる。  ミツオが死んだ日。  あの日のピアノ。  私は再び記憶の中へ沈んでいく。  ミツオはある日、稲妻旅団の終了を宣言した。ミツオの気まぐれで始まった ものであれば、ミツオの気まぐれで終わっても不思議はない。しかし、当時の 私とアキオ以外のメンバは納得せず、終了する理由をミツオに問うた。ミツオ は笑みを浮かべ、私を見つめながらいった。 「愛したからさ」  あっけにとられたメンバの前で、ミツオは平然と宣言した。 「ミナコをおれが愛したからだ。もうミナコの歌をおれ以外の人間に聞かせる 気は無い」  その理由は、本気かどうか判断しかねた。いずれにせよ、馬鹿らしくなった のか、メンバは質問する気を無くし、そのまま議論することなく帰っていった。 私を含めて。後に残ったのは、アキオとミツオだけだった。  その日の夜。  アキオから電話がかかってきた。アキオは言った。 「君のための曲を作った。聞きにおいで」  場所はミツオのマンション。昼間、ミツオが終了宣言をした場所だった。私 がその部屋へ入った時、アキオはその曲を弾いていた。  真冬の夜。  野に晒された白骨を、玲瓏と輝く月が照らす。  そして、そこへ静かに雪が降りそそぐ。  そんな、曲だった。 「ミツオはどこなの」  私の問いかけに、アキオは唐突に演奏を中断する。  カーテンを開き、向かいのビルを指さす。そこは、ミツオの住むマンション と同様の高層マンションだった。そこから、一人の男が飛び降りる。  悲鳴。  しばらくして、サイレンが鳴り出す。 「まさか、今のが」  私の言葉にアキオは、少し皮肉な笑みを浮かべ答える。 「君の歌は、君だけのものだ」  そして今、あの日の曲が流れている。アキオは祖父の理論を理解し、それを もとに曲を作ったのだ。脳内分泌を変容させ、数日以内に鬱病の発作を起こす ような曲を。それはメロディには直接関係なく、リズムと音程のある組み合わ せによって、脳内に寄生するレトロ・ウィルスをコントロールするはずだ。ま ちがいなくミツオはあの日、アキオの曲によって鬱病の発作をおこして死んだ。  私たちは死ぬ。  私たちはみんな死ぬ。  そう思うと、何か静けさが私の心に満ちてゆく。サカキもテツオも金髪も、 みな言葉を発することなく、アキオの演奏に耳を傾けている。私たちは魔法の 調べに運ばれ、死の国へと向かっていた。 「しっかりしなさい、ミナコ」  突然、後ろから声をかけられた。父だ。父が私に語りかける。 「まだ、終わっていない。戦いなさい。生きるために」  父は無意味なことを言っている。しかし、父は私をミナコと呼んだ。それが 私を酷く混乱させる。生きる?もう手遅れだ。みんなアキオの曲を聞いた。  いいえ、そうでは無い。  あの日、私とアキオはこの曲を聞いた。でも、私はその時死んではない。  アキオは死を免れるための解除キーを設定した。  私はあの日、そう、歌ったのだ。  私は無意識のうちに、アキオの演奏に合わせて歌った。解除キーは、その歌 のはずだった。  そして私は、歌った。あの日の、思いでの歌を。一度作動したレトロ・ウィ ルスは、解除キーとなる歌とピアノ曲が混交したものにコントロールされ、変 更した遺伝子を元に戻していく。私は私の中で何かが終わってゆくのを感じた。 私は日常にしがみついて生きはじめた時、全てを終わらせていたつもりだった。 しかし、何も終わっていなかったのだ。今、ようやくアキオの手によって終わ りが訪れた。  その日、沈黙したままのサカキたちをライブハウスに残し、私たちは家に帰 った。その後、サカキたちは何も言ってこなかった。不思議なことに私の父は、 その日から正常に戻った。記憶の混乱は消滅し、働けるようになる。  あの日から5年。父は再び会社勤めをしいたが、2年前に死んだ。私たちの 家も取り壊されて、既に無い。今では、大きなマンションが建っている。弟は 大手電機会社の広告課に就職し、広告デザインの仕事をしているようだ。私は 会社をやめ、音楽のインディーズレーベル事務所で働いている。かつてアキオ が出したCDを扱っているレーベルだ。  弟と会うことは、めったに無い。  私の手元には、まだあのテープが残っている。アキオが私に残した唯一のも の。ラベルにはこう、書かれていた。 『君の思いで。トオノ・ミナコへ』