夜明けの街は静かだった。  むろん、その迷宮のように入り組んだローズフラウの街が、清冽な朝日の元にさら けだしているのは、その静寂の世界にはあまり似合わないものだったが。例えば、昨 夜の乱闘騒ぎによる血糊のあとや、壁に描かれたなんらかの呪術に関係すると思われ る文様や、生贄に捧げられたのであろう動物の死体等が、そこ、ここに残っている。  しかし、そのまだ薄闇が残る歓楽街はいずれにせよ、熱が去った後の熱病患者のよ うに気怠い空気に満たされていた。その惰眠を貪る街の裏路地を二人の男が歩んでゆ く。 「ねえ、まだつかないのぉ」  後ろを歩くでっぷりと太った男が、あくびを噛み殺しながら言った。前、歩く細身 で長身長髪の、そしてしゃれた遊び着に身を包んだ男が答える。 「もうすぐつくから、待ちなって、ジークさん。だいたいあんたが、しゃきしゃき歩 かないから時間がかかるんだよ」 「なんだよぉ」  ジークと呼ばれた男は眉をしかめる。そのきらきらと光る金髪の下の青い瞳は、真 夏の空のようであったが今は眠さのためか多少曇っていた。 「なんでおれが、あんた呼ばわりされるんだよぉ」 「ちゃんと、ジークさん、てさんづけにしてるじゃん」 「じゃんて、」  でっぷりと太ったジークは、むふうとため息をついた。 「態度でかいよ、おまえ。一銭ももだずにさんざ飲み食いして踊り手、歌い手も呼ん で乱痴気騒ぎしたあげく、金はもってないから家まで取りにこいとかいった立場のく せして」  その細身の優男はにいっと笑った。 「まあ、怒りなさんなって。払わないとはいってないじゃん」  その柔らかな笑みとどこか優雅な物腰には、怒る気持ちを削ぐものがある。優男は 言葉を続けた。 「だいたいさ、そりゃ金の無いやつに飲み食いさせるほうが悪いよ」  それはそうかもしれない、とジークは思う。けれど、 「だからといってさあ、偉そうにしていいっていう理由にはならないよ」  ジークの言葉を優男は手で遮った。 「ほら、」  優男は薄暗い路地の奥を指差す。そこには仄暗い影につつまれた、古めかしい館が あった。どうもいつのまにかローズフラウの中心からはずれ、居住区に入っていたら しい。というか、おそらく居住区と歓楽街のちょうど境目あたりに、その館はあった。 「あそこだよ、おれの家は」  ジークはやれやれと肩を竦める。 「待ちなよ」  優男はジークを押しとどめる。ジークは明るく輝く青い瞳で、じろりと優男を見た。 「なんだよぉ」 「あんたさ、格闘技やってるんでしょ」  ジークは瞬きして、優男を見なおす。 「だからなんだよぉ」 「うちはさ、ああ見えても武道の修練所なんだわ」 「それがどうしたのよ」 「いやさ、あんた強そうだから。うちにはね、強いやつを見ると黙ってないやつがい っぱいいるんだわ。あんたがさ、うちにはいるときっと大変だよ」  優男はにやにやと笑う。ジークはむふう、とため息をついた。 「なんだよ、大変って」 「いや、だからさ、きっと道場破りにきたと思われてね、ただでは帰れないよ」  ジークはむうと唸ると、なぜか上機嫌な優男と、路地の奥の館を見比べる。確かに、 なにかいやな殺気のただよう建物だった。 「で、どうしたいわけ?」 「ま、見てのとおりあそこの館は出入り口はひとつ。つまりさ、逃げることはない。 ここから先はおれにまかせなよ。おれが一人でいって金持って帰ってくりゃあ、すん なり片付くんだよ」  ジークは目を凝らして館を見る。シンプルな作りの建物だった。確かに出入り口は 一つしかなさそうだ。 「んじゃ、おれはここで待っとくから、さっさと戻ってこいよ」  ジークの言葉に優男はにっこり笑って答えると、懐から何かを取り出した。それを ジークにほうる。 「なんだよ?」  ジークは反射的にそれを受け取ると、優男に尋ねる。 「ま、あんたにゃ手間かけたし、ちょっとした礼だよ」  ジークは手にしたそれを見る。鎖だった。水晶の細工ものがついたネックレスらし い。ジークは会釈すると、それを懐におさめる。そして、手ではやくいけと優男に指 示する。  優男は頷くと、小走りで館に向かった。ふわあ、とジークは大あくびをひとつする。 太陽は次第に明るさを増し、あたりは暖かくなってきた。  ジークは目を擦る。いつもなら仕事を終えて、眠りにつく時間だ。酒場の用心棒と しては、とんだ時間外労働ということになる。  一人残されると、えらく疲労感が沸いてきた。何しろ、乱痴気騒ぎに一晩付き合わ されたのだから、麻薬に酔って暴れ出したやつを店の外にたたき出したり、無理やり 踊り手の女の子を口説こうとするやつを張り倒したり、結構な重労働をやったわけで ある。疲れていないわけがない。  それにしても。  静か過ぎる。  それに戻ってくるのが遅すぎた。  ジークはその疲労で鈍った頭で、のろのろと考える。 (一杯くわされたのかよ)  ジークは修練場の中に踏み込んだ。  しん、と静まり返った天井の高いその部屋には、誰もいなかった。  修練場らしく、木剣や革の防具が並べられている。しかし、部屋の空気はどう考え ても長い間そこが使われていなかったような匂いを漂わせていた。ジークは部屋の中 央にゆく。木の板が敷き詰められた床は、埃が積もっている。どうも、ここは空き屋 らしい。 「何かここにご用ですか?」  突然、背中から声をかけられ、ジークはあわてて振り向く。入り口のところにひと りの老人が立っていた。 「ここはもう、使っていないのですが、何かようですかな?」  その痩身で背が高い老人は、鋭い瞳でジークを見つめている。ジークは、寝ぼけた ような声で老人に尋ねた。 「ここは、武道の修練場なの?」 「そうだったというべきでしょうな。私はここの主、アッキといいます。何しろ道場 主である私がこの通り老いてしまったもので、武道の指導はとてもできませんので」  ああ、とジークは頷くと、大体の状況をアッキと名乗った老人に説明する。  老人はふむふむとうなずいて、話を聞いていた。 「その男の名はなんといいますかな?」  アッキの問いに、ジークは答える。 「ええと、確か。そう、カイルといってたと思うよ」 「なるほど」  アッキはうなずく。 「私のせがれの名です。もう何年も昔に縁を切りましたがね」  ジークはもう一度、アッキの顔をじっとみつめる。その端正で彫りの深い顔は、ど こかあの優男の面影があるようにも思えた。  アッキは入り口のそばの床を蹴る。がこん、と板張りの扉が床に開いた。そこには 地下通路へ続いているらしい、暗い口がある。 「カイルは、ここを通って逃げたのでしょうな。多分、もう街の外へついてますよ」  ジークは強烈な脱力感を覚え、その場にへたりこんだ。 「なんで、こんなとこに抜け道があるんだよう」 「武道の修練場というのはやっかいなところでしてね、時折物騒な連中が道場破りと 称してやってきたりします。そうしたときに、いちいち相手をしていられないので、 この抜け道からこっそり抜け出すんですよ。相手を入り口の外に待たせておいてね」  はあ、とジークはため息をついた。目の前が少し暗くなる。 「まあ」  アッキは、ジークに語り掛ける。 「縁を切っているとはいえ、わが子のしたこと。私がかわりに金を払ってもいいとは 思うのだが」 「だが、かよ」  ジークは、あまり期待していない目でアッキを見る。 「いくらですか、カイルのやつがつかったのは」 「金貨10枚ほどかなあ」 「ほう、よく一晩でそんなにつかいましたね」 「まあ、なんせ、踊り手、歌い手を呼んだ上に、友人という女の子がわんさかいて、 店中の酒をのみつくしたからねえ」 「それだけの金となると、さすがにただでというわけにはいきません」  そうだろうね、とジークは頷く。 「で、おれになにしろと?」 「あなた、ジークさんでしたな。強いのでしょう」  まあね、とジークは多少投げ遣りに答えた。 「強いよ」 「相当なものでしょう」 「地上最強を名乗っているさ」  うむ、とアッキは頷く。 「私も若いころはそこそこ強いと思っていましたが、今のあなたほどではないと思い ます」 「で、何させたいのよ」  ジークはのっそりと立ち上がった。その瞬間。  光が疾ったようにしか、見えなかった。短刀がジークの喉元につきつけられている。 もし、ジークが左手でその短刀を止めていなかったら、間違い無くその短刀はジーク の喉を貫いていただろう。  短刀をジークの喉元につきつけているのは、アッキである。全くの自然体、殺気も なく、姿勢も自然なままであった。  短刀の刀身は、ジークの左手に握り締められている。その左手には幾重にも包帯が 巻かれていた。  アッキは、無造作に短刀を引く。包帯が切れ、はらりと床に落ちる。そこに現れた のは、夜の闇。魔物が持つ瘴気を微弱に放つ、闇色の左手であった。  アッキは無表情であったが、その瞳には感嘆の色がある。 「なるほど、黒砂掌ですな。ラハン流格闘術を学ばれたと見える」  ジークは漆黒の左手をたらすと、不機嫌に言う。 「ためされるのは嫌いだよ」 「なにしろ、金貨十枚ですからねえ」 「判ったよ、判った。んで、なっとくしてくれた?」 「もちろん。鋼鉄よりなお硬いというれる黒砂蟲で左手を覆った方なら、地上最強を 名乗られても不思議はない。私のたのみを聞いていただければ、金貨十枚払いましょ う」 「だから、そのたのみはなんなのよ?」  ここではなんですからと、アッキはジークを館の外へ導き出す。アッキの自宅はそ の修練場である館のすぐ隣にある、こじんまりとした家だった。  アッキはそこで簡単な酒の支度をする。酒を飲みながら、ジークは話を聞いた。 「私はあなたほどではないにしても、若いころはそれなりに強かった。公式の試合は 五十数回経験してますが、負けは一度もありません」  だろうねえ、とジークは呟く。さっきの短刀での突きは、並のものであれば間違い 無く死んでいたはず。 「その私がたった一度だけ、勝てなかったことがあるのです」  ふむふむと、ジークは頷く。確かにいくら強くても、世の中には色々なことがある ものだ。 「それは公式の試合ではなく、いわゆる野試合でした。そして賭け試合でもあったの です。それは無謀な賭けだったのですが、私はその時自分を過信していました。私は その試合に負け、賭けたものを失い、武道をやめました。つまり、それが私の最後の 試合だったのです」  ジークは杯から、ぐいと酒を飲む。そして、アッキに尋ねた。 「何を、賭けたわけ?」 「妻の命です」 「そりゃあ」  ジークはふうと、息をつく。 「馬鹿なことしたもんだねえ」 「まったくです。私は慢心していましたから。その試合に負けて、妻を失い、腑抜け となった私は道場を閉めました。その私を憎んだのか私への反発として息子は放埓三 昧の生活をおくり、諌める気力を失っていた私は息子との縁を切ったのです」 「で、おれに何しろと?」  アッキの瞳が強く輝き、ジークを見据えた。 「私の負けた相手と戦ってほしいのです。そうしなければ、妻の魂は解き放たれませ ん」  ふうん、と言ってジークはアッキを見る。 「じゃ、その相手のところへいこうか。今からいけるとこ?はやく片付けたいんだよ ね」 「それが」  アッキは突然、言い淀んだ。 「なによ、はやくいこうよ」 「いや、行くといいますか。その相手がいる場所はこの世ではないのです」 「この世じゃない???」  そう、と静かにアッキは頷く。 「夢の中なのです」 「なんだよ、それ。だめじゃん」  はあ、とアッキは力なく頷く。 「じゃあさ、あんたは負ける夢を見て武道をやめたっての?夢のせいで妻を失ったの?」 「その夢の直後に妻は死んだのです」  はっ、とジークは笑いとばした。 「偶然だろ」 「病も怪我でもなく、夢から目覚めると妻は死んでいたのですよ。しかも…、」  ジークは言葉をさえぎる。 「どうでもいいけどさあ、夢の中の相手、しかもあんたの夢の中の相手じゃあ、闘い ようがないよ。ふむう、期待して損した」  いえ、とアッキはジークに短刀を差し出した。先ほどの短刀である。よくみると、 とても凝った造りを持つ、美しい短刀であった。名の有る刀工が造ったに違いない。 「夢の相手であっても、あなたは会えます」 「んな馬鹿な、どうやってそんなことできるのよ」 「この、短刀」  アッキはジークの目の前に短刀を突き出す。 「この短刀には魔が宿っているのです。私がこの短刀を手に入れたときに私はその話 を信じていませんでした。この短刀の前の持ち主は、私にこういいました。この短刀 を枕の下にいれて眠ると、夢の中にこの短刀に宿る魔があらわれると。私は面白半分 でそれを試したのです」  ジークは少しうんざりしたように言った。 「それで魔と会って、そいつと賭け試合したって訳ね」  アッキは頷く。 「それでおれもその短刀を枕の下にいれて寝ろというのね?」  アッキは頷く。 「でも、寝ろっていわれてもなあ。そうほいほいと眠れるもんでも」  けれど、とアッキは言った。 「眠そうですよ、とても」  確かに。  疲れきった体に、適度な酒。眠るために必要なものは、揃っていた。ジークはしか し、本能的にやばいものを感じている。断ったほうがいいと思った。でも、眠りを欲 する疲労と酔いが別の答えを求めている。それと、ジークは面倒くさくなっていた。 「んじゃ、寝ようか。その短刀を枕の下におくのね」  ぱあっと、アッキの顔に明るさが宿る。礼をいいながら、アッキはジークを客用の 寝室へ案内した。  ジークは煩そうに手をふる。 「金貨十枚。忘れないでよ」  はいはいというアッキの答えを聞きながら、ジークは眠りの世界へ堕ちていった。  そこは林の中だ。ジークは気がつくとそこにぼんやりとしながら、立っていた。  むくり、と闇色の左手から何かが起き上がる。それは、漆黒の肌を持つ小さなフェ アリーであった。体長10センチほどのそのフェアリーはジークにとり憑いた魔が、 ジークの左手の黒砂蟲を使って身体を作り出した姿である。  ジークの左手は黒砂蟲でできていた。黒砂蟲とはメタルギミックスライムと呼ばれ る魔法生命体の一種であり、それは生き物の体の一部を食らうと、その食った体の部 分を擬態しながらその生き物と共棲するという性質を持った存在である。  ジークにとり憑いている魔は若くして死んだ魔族であり、その魂はアイオーン界に 帰ることができなかったため、地上をさ迷っているのだがジークの体が居心地がよか ったのかとりついたまま離れない。そして時々、ジークの左手を使って自分の体を作 ったりする。名はムーンシャインといった。 「よお、ムーンシャイン」 「なにが、よお、よ」  ムーンシャインは、小さな足でジークの耳を蹴る。そして、そのままジークの肩に 座った。 「痛てて、なんだよ、ムーンシャイン」 「あんたは、なんだってそんな馬鹿なことにばかり、首をつっこむのよ」 「まあ、つっこんだっていうかなあ」  ジークは茫洋として答える。 「眠かったのだわ、つまり」 「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿、大馬鹿のでぶやろう。悪魔の豚。もう、どうしようもないわね、 あんた。ねえ、ちょっと、どこにいくのよ、こら!」  ムーンシャインは、ぽかぽかジークの頭を叩く。ジークは痛て、痛てといいながら、 歩いていく。 「いや、あっちのほうが明るいからさ」 「知らないよ、ここに棲む魔と出会っても」 「いや、その魔と戦わないと、金貨十枚がさ」  気がつくと、林を抜けていた。とても美しい風景が目の前に広がる。  エメラルドグリーンに輝く水を湛える池があった。  その池の中央には、小さな島がある。色とりどりの花の咲き乱れるその小さな島は、 楽園という言葉を連想させる美しさがあった。そしてその島の中央には、白亜に輝く 小さな建物がある。  ジークの足元から金色の橋がその島へ向かって延びていた。ジークの耳元で、ムー ンシャインがぽつりと言う。 「なんだか、いやな感じのところね」 「え、綺麗なとこじゃん」 「何いってんのよ、魔の気配がこんなに濃いのに」  ぽつり、と冷たいものを頬に感じて、ジークは空を見上げた。 「雨?」  空は晴れていた。しかし、沸いてでるように黒い雲が広がってゆく。瞬きする間に、 空は雨雲に覆われていった。 「あらら」  ジークは慌てて、橋を渡り島へ入る。白亜の建物の軒下についたときには、雨は土 砂降りになっていた。  つい、とジークの目の前で白亜の建物の扉が開く。  そこに姿をあらわしたのは。 「あんたが、」  ジークは絶句した。  そこに立つものの美しさに、言葉を失ったのだ。  流れるように長く黒い髪、そして黒曜石のように輝く瞳、肌は雪のように白く、唇 は深雪の中に一滴垂らされた血の色である。  そしてそのこの世のものとも思われぬ妖艶な笑みは、まさに『魔』のものであった。 屍衣のように純白の長衣に身を包んだ、その女の姿を持つものは、優雅に一礼する。 「ようこそ。よくぞおいでくださりました。さあ、雨がひどいですから、どうぞ中へ 入ってお休みください」  ジークは躊躇無く建物の中へ入る。ジークの耳元で、あーあとムーンシャインが呟 く。 「魔にとりこまれちゃったよ」 「ていうかさ、よく考えたら、おまえも魔だろ」 「何いってんの、あれにくらべたら」  何か?とその女の姿をしたそれはジークを振り向く。いやいやと、ジークは手を振 る。 「別に、何もありません」  ジークは客間らしき部屋へ通された。広い窓が四面にあり、そこから美しく輝く池 と花々が見える。ソファに腰をおろしたジークの前に、酒の支度がなされた。 「ええと」  ジークは目の前に座った魔に呼びかけようとするが、呼び方につまる。まさか魔と 呼ぶわけにもいかない気がした。 「レイラとお呼びください」  レイラと名乗った魔は、にっこりと微笑む。 「ああ、レイラさん。あんたが、その、アッキさんと賭け試合をやったわけ?」 「ええ、その通りです。あなたもその賭け試合をしに来てくださったのでしょう?」  うん、まあ、と少し煮え切らない答えをしたが、レイラは極上の笑みで答える。 「賭けるものは、あなたにとって最も大切なものと決まっています。何を賭けてくだ さるのでしょう?」 「大切なもの、ねえ」  ジークはむう、と考える。 「ないね、特に」 「困りますね」 「ま、強いていえば、おれ自身が無くなったらちょっとまずいわな」 「では、賭けるのはあなたご自身ということで」  うむ、とジークは頷くと、とりあえず杯をあおった。 「それはそれとして、もし、おれが勝ったらなにくれるの?」 「何がお望みでしょうか」  レイラの問いに、ジークは答える 「あんたさ、レイラさん。あんたがアッキさんの奥さんの魂をとりこんでるの?」 「ええ、その通りです。賭けに負けた人が賭けたものはここにあります」  レイラは、とん、と床を蹴る。ふうっ、と床が透明になり、その遥か向こうに、ご うっ、と暗い穴が開く。その天空の彼方のように暗い穴は、闇が渦巻いていた。その 濁流のように蠢く闇の中には、様々なものが垣間見える。  それは、人の姿のようでもあり、獣の姿のようでもあり、何か不定形の得体の知れ ぬもののようでもあった。ジークは薄ら寒いものを感じ、レイラを見る。 「あそこに、アッキさんの奥さんの魂があると」 「ええ」  レイラは涼やかに答える。 「この世界はあの闇の中に人々のの持つ情念を蓄え、その力を引き出すことによって 成立しています。もう、何百年も前からこの世界はそうやって、ひとびとの情念を食 らってきました。あそこから、ひとつの魂を開放することは可能ですわ、もし」  すう、と床が元に戻る。黒い瞳がまっすぐにジークを見つめていた。 「あなたが賭けに勝てば」  耳元でムーンシャインが囁きかける。 「やめとけば。負けたら闇に落ちるのよ」  ふむう、とジークはうなる。 「で、あんたが戦うのね、おれと」 「ええ、そうですわ」  すっ、とレイラは立ちあがる。重さを持たぬような軽やかな動作。ジークはその姿 を追って、部屋を出てゆく。  そこは天井の高い、真っ白な部屋だった。異様にその場所は広い。外から建物を見 たときには、そんな広い部屋があるとは思えなかった。  その部屋のほぼ中央に、黒い棺が置かれている。レイラはその棺に手を置いた。 「よくないものだわ、あれ」  ジークの耳元で、ムーンシャインが囁く。レイラは笑みをジークに向けたまま、が たん、と棺の蓋をずらした。 「では、私の武器をあなたにお見せします」  ジークは、無意識のうちに構えをとった。闇色の左手を前に出し、下にたらした独 特の構え。  さあっ、と夜の闇がジークの前に広がった。反射的にジークは後方に向かって跳躍 する。空中で回転するジークの首筋を、一瞬冷たい冬の光が掠めてゆく。  とん、と着地したジークは漆黒のマントに身を覆った水晶の人形を見た。しかし、 それはほんの一瞬のことである。その夜の闇を纏った人形は、漆黒の風と化してジー クに襲いかかる。  再び、冬の光を宿した刃がジークの首筋へと疾った。ジークはサイドステップで身 をかわしながら、その刃を黒砂蟲に覆われた左手で受ける。  がしっ、と左手に刃が食い込んだ。  その透明な刃は、もし鉄で受けていたならそれを切断していただろう。ただ、ジー クの左手を覆っているのは、生きた流体金属である。液体のように刃に絡みつき、そ の粘性を高め刃を止めたのだ。  透明な刃にはワイアーがついていた。そのワイアーは、水晶の人形の左手へつなが っている。透明な刃は、それも水晶でてきているようだ。  ジークは、ぐいっ、とそのワイアーを引くと、水晶の人形へ向かう。その無数の細 かな色彩の断片が氾濫している水晶の人形の顔は、驚くほど端正で美しかった。神の 愛した可憐な少女を思わせるその人形の顔めがけて、ジークは右の拳を放つ。  再び闇がジークの前に出現する。ざっ、とその闇は後ろへ退き、ジークの拳は宙を 切った。  水晶の人形は、とん、と距離をとってジークに対峙する。そのカレイドスコープの ように光が渦巻く顔は、夢見る少女のように可憐であった。ジークは自分の足元に、 人形の左手が落ちているのに苦笑する。  左手を捨て、逃げたようだ。 「どうかしら、私の人形は?」  レイラは、妖艶な笑みを浮かべジークを見つめている。 「手強いねえ、でも」  ジークは笑みを返す。 「勝てないこたあ、ないね」 「どうかしら」  レイラの言葉が終わると同時に、人形が纏う闇色のマントから水晶の右手がつきだ された。その手にあるのは、先ほどと同じ水晶の刃。しかし、その色は太陽が沈みゆ く空の闇のように、紅を内に秘めた黒であった。 (やばいな)  ジークはそれが何か知っていた。闇水晶。通常の水晶より高い硬度を持つがゆえに、 闇水晶の刃は通常の水晶の刃より薄く速いと聞く。  死を秘めた黒い光が、ジークめがけて疾る。ジークはかろうじて、左手でその刃を はじいた。その闇色の刃はすぐに身を翻し、ジークに襲いかかる。  ジークは刃をはじいてかわすのが精一杯だ。とてもさっきのように、受ける余裕は ない。 「一体どうやって」  操っているんだ、とジークは呟く。レイラは特に体を動かしている様子も無い。魔 のすることだから、なんらかの魔道が関係しているのかもしれないが、それにしても。 「歌だよ」  ジークの耳元でムーンシャインが呟いた。 「歌だって!」  ジークは闇色の刃をかわしながら、ムーンシャインに叫ぶ。 「歌なんて聞こえないぞ!」 「魔の歌う歌だもの。人間の歌より遥かに速いスピードで歌われているのよ」  ジークはなるほど、と思う。しかし、 「判ってるんだったら、なんとかしてよ」 「なんとかって?」 「いやだから、人形の操作を中断させるとか」 「できるわけないって」  鋭い角度で闇色の刃がジークに襲い掛かる。闇水晶の刃を、ジークはかわしきれな かった。ざっ、と血が飛び散る。  そう深い傷ではなかったが、胸元を切り裂かれた。滴る血と一緒に、ぽとりと鎖が 落ちる。その瞬間、人形の動きが一瞬止まった。  ジークは、鎖を拾う。それは、カイルが別れ際に渡したネックレスだ。そのネック レスには水晶の管のようなものがついている。 「それだわ!」  ムーンシャインの叫びと同時に、人形の攻撃が再開される。ジークは再び、闇色の 左手で刃を払いのけねばならない。 「それって、何よ」 「だから、それを貸しなさいって」  ジークはムーンシャインにネックレスを渡した。ムーンシャインはその水晶の管を 手に取る。 「そう、これよ。これは笛だわ。この笛なら魔と同じ速度で音を奏でることができる」 「どうでもいいけど、できることがあるなら早くしてくれぇ。もう、もたないよ」  人の耳には聞こえぬ歌を歌う魔。その顔は妖艶で美しい。そして、その魔の操る水 晶の人形は、夜の闇を纏った冬の日差し。兆速で舞いながら、死の刃を繰り出す。  魔の瞳が曇る。それは、恐怖かもしれない。  刃は再びジークの肉体を切り裂いた。肩甲骨のあたりを切りつけられたジークの体 から、錆びた鉄の色をした血が迸る。  ムーンシャインは、ジークの肩に座ったまま、水晶の笛を口元にあてた。聞こえぬ 音が放たれる。 「ああ」  魔の口から声が洩れる。それは、苦鳴だろうか。  水晶の人形の動きが止まった。ジークは風のように走る。ジークの視界の片隅に、 レイラの顔が映った。その表情は、まるで哀しみに満ちているように見えた。  愛するものを、失うときの顔。  ジークは一瞬、奇妙な戸惑いを感じる。しかし、右の拳は確実に水晶の人形の頭部 に向かっていた。  ジークは自分の勝利を知る。可憐な顔を持つその人形は、粉砕されるだろう。  そのとき。  突然襲い掛かった闇が、ジークの意識を消した。 「ジークさん、ジークさん」 「ふえっ?」  間抜けな声をあげてジークは目覚める。そこは、アッキの家の客用寝室だった。ジ ークは自分がベッドの中にいるのを知る。 「なんだ、もうちょっとだったのに」 「え?」  ジークの言葉にアッキは、少し慌てる。 「いや、随分ひどい悲鳴をあげておられたので」 「悲鳴を?おれが?」 「ええ」  ジークは反射的に自分の体を確かめる。傷は残っていない。しかし、体の奥底に痛 みはある。  夢は夢だったようだ。しかし、 「魔を倒し損ねた」 「いや、もういいのです」  ジークは怪訝な顔で、アッキを見る。 「ああ、金貨はお支払しますよ。でも、もういいのです」 「いいって?」 「先程、あなたが魔の世界にいった後、私も少しまどろみました。そして夢をみまし た。その夢で、妻に会ったのです」 「へぇ?」 「妻はもういいと。もう終わったのだと。そう私にいいました。そう、終わっていた のでしようね。きっと。随分昔に」  ジークはベッドから出て立ち上がる。 「まあ、いいけどね。魔は倒せていないけど」 「魔などいないのですよ。多分。その短刀はただの短刀です」 「ま、いいけどね。でも、ちょっともったいなかったなあ」  え、とアッキがジークの顔をみる。 「いや、せっかくだからさ、もっと飲んどきゃよかったなあ」  ジークはうん、と伸びをしてあくびをする。 「うまかったんだよ、魔の飲ませてくれた酒」