[024]「『映画とは何か』とは何ごとか!?」(20020125b)
「一本のフィルムの肌理、その織り合わせを愛でることは、ひとりの理想的な観客を立ち上げることである」と、『映画とは何か』(みすず書房)の著者・加藤幹郎は書く。あるいはそれは「フィルムの重層的、多元的な意味合い、その生成変化の現場に立ち会い、意味のうねりに身を投ずる観客を想定すること」である、とも。
さて私は、「愛でる」、「立ち上げる」、「うねり」といった表現は好まぬ者だが、続けてこう敷衍されると、その程度の嫌悪感は別の共感によって呑み込まれる。
「この観客は、初見でありながら一本のフィルムのすべてのショット、すべてのシーンの視覚的、聴覚的相関関係に高度に自覚的な実践家である。はじめてその映画を見ながら、それが自分のうちに巻き起こす感情の奔流に身をまかせ、しかも各ショット、各シーン、各シークェンスの構成を映画の全体的文脈のなかで的確に反芻しながら見る(聴く)ことのできる観客」。
音楽のような時間芸術を引き合いに出しながら同意したって著者は納得すまい――だからこそ大袈裟にも「映画とは何か」なのだ――ところを、まして静止した空間芸術としての絵画をあつかう人間が、何が共感だ。いや、作品を何度も見直しお勉強もしてようやく発せられる言葉など厳密には「批評」でも何でもない、その含意に共感するからだが、ただし、そうした共感もつかの間。かかる「批評」(と明言はされないが)からも距離をとる著者のスタンスが、直後の文章に明記されるのである。――「わたしたちはこのような理想的な観客を想定することで、映画のより十全な記述に到達することができるだろう」と。
まあしかし、こんなのは些事だ(笑)。映画については一愛好家を自称するのもいまだ気恥ずかしい私にとって、その媒体に係るベーシックな「記述」の語彙と手続きに満ちているだけで、本書はじゅうぶん有益である。さあ、映画のお勉強である。
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