040/ 2001年2月7日(水)
[この断章群から派生して『武蔵野美術』への寄稿用テクストとなったエッセイ版(現時点でのver. 2)について。]
 モダニズムの絵画が美術館の〈外部〉を志向する――本文では「そこから脱出すべき場所としての美術館」風に書いていたが――というのは、たしかにあまりにも楽天的あるいは抽象的にすぎる。だが、たとえば『モダニズムのハード・コア』を読んで真摯にその核心に思いをおよばせるとは、いまや実践としてはそのような荒唐無稽なこととしか思い描かれえないはずなのである。

039/ 2001年1月22日(日)
[ひさびさに先行文章への補足。029への、あるいは002への。ちなみにここまでの通し番号が途中からずれていた。もう直したけれど。]
 池田清彦の物言いにならって芸術を錯覚とし、芸術のその錯覚性/約定性こそを積極的に認知するところにモダニズムが存すると先に述べた。
 ところで、そこで約定主義とも言い換えられた錯覚説こそがさらに相対主義の別名を有することはたしかだが、ならばそこで宣告=決意されるべき、特権的な高みからその相対主義的状況を見下すことの不能が、ないしはその超克の決意が、その「積極的」な「認知」の謂いにほかならない。
 モダニズムは相対主義とともにあって、しかし、それを超克する地点に芸術が出現し、あるいはそのような地点に現出する価値ある〈かたち〉――C・ベルの〈意味する形態(significant form)〉の亡霊(笑)?――こそが芸術と呼ばれることを、確信する。
[きっとまた補足が必要だろう(笑)。]

038/ 2001年1月21日(日)
[『武蔵野美術』120号用の原稿「二〇〇一年、モダニズムの条件」(ver. 2)を脱稿してから初めての更新。]
 モダニズムはひとつの「結論」(「真理」という論理学的、あるいは「実在」という宗教的な、そういう語におきかえてもいい)であるが、それについて書かれるものはつねに推論でしかありえない。推論なきキャッチフレーズ――近々に実例をあげて批判しよう(ホント?)――は、世間でそう思われているのかもしれないのと逆のかたちで、モダニズムこそが忌み嫌うものである。
 ありていにいう「展開」が困難になったときに、モダニズムは逆に、「推論」する場所として、つまり本来あるべきかたちで顕われうる。

037/ 2001年1月14日(日)
[なぜこのひとりの批評家について書き続けるのか、の自問とともに――]
 1983年論文におけるフリードが分析するカロについて、かつてぼくはこう書いた――「それ[=テーブル]はたしかに作品ではないが、さりとてたんなる台座なのでもない。駄洒落ではなしに書くのだが、それは存在論的にはハイデガーの「大地」のごとくにして作品を支え、しかし同時に、認識論的には当の作品がその場所を大地から一段高まった、いわば「台地」として規定する」と(『美術フォーラム21』第2号, 2000年5月)。
 いまこの駄洒落〔レトリック〕をもう少し体よく更新することが許されるなら、ここはマルクス主義――敵方クラークがそこに属する――の名を召喚したいものだ。文化や宗教といった上部構造(作品)が土台(大地)の上にしかありえないとの決定論をマルクス主義がとるのなら、フリードのいう相互的な作品/台地の関係は当然それとは相容れまい。だが、真正のマルクス主義こそがそのような相互的な関係を主題化するものであるなら――じっさいクラークの研究はそれゆえに新しいのだが――それは同根の主張をなしているわけで、したがって対立であるはずがない。フリード対クラークの論争の、論争としての堕胎は、じっさいこの点に由来するというべきではないか、と。
 他方、同じフリードがその論文の末尾で、それまでの分析を台無しにする可能性すらを(「ここまでの考察を踏まえながらも、一歩踏み込むかたちで、最後に一言」といって)自覚しながらこう書くとき、われわれはフリード自身に導かれて、彼の1983年論文はむろん、あの1967年論文をも過去のものとする(東浩紀の『郵便的、存在論的』が浅田彰の『構造と力』をそうしたように[笑])ことができるであろうし、またこうしてあの約定拘束主義(conventionalism)から解き放たれた瞬間に、マルクス主義者クラークとの真の対立が現出する。――「《テーブル作品第二二番》が芸術であるとの確信は、徹底的分析に抗うような何ものか、たとえばそのメタリックな光輝を発する灰緑色が他のすべての要素にたいして有する適切さまで含めた、作品のなかで作動しているすべての関係の正しさ(ライトネス)に、もとづいている。批評家がまず責任を負うべきは、その種の正しさにたいうる直観なのであって、またその直観のゆえに批評家は直接に報われるのである。」

036/ 2001年1月12日(金)
[どこかですでに書いたかもしれないと思いつつ(断章形式を生きるかぎり今後もlこうしたことがどんどん起こるだろう)。]
 ゴンブリッチが芸術(家)についていったことを流用するなら、モダニズムなるものは存在しない、ただモダニストがいるだけである。
 モダニズムのインスタレーションとは矛盾する言い方であると思うが、インスタレーションが端から非モダニスティックであるというのではなく、「インスタレーションが端から非モダニスティックである」の言い募るモダニストがいる(ここに[笑])にすぎないのであって、であるならば、「インスタレーションはモダニズムである」と言い募る者が現れればそのようなものは、ある、のである(という主張がなされているのである→ほんとうだろうか[笑])。
 いや、モダニストはそんなに寛容であってはならない。
 こうしてモダニストにかんするアナーキズム(頑固と寛容が交錯する)は破綻し、逆に、モダニスト[芸術家]はいない、ただモダニズム[芸術]があるだけだ、といいうる状況が招来される(どういう論理だ?)。

035/ 2001年1月10日(水)
[エッセイ版を書きつつ、やがてそれに組み込まれるやもしれぬ内容をメモ的に…。]
 フリードは、ルイスとラウシェンバーグの関係を、カーターとケージの関係に、比定していたはずだ(「芸術と客体性」において?)。あるいは(同論文の脚注であったか?)ハービソンの名もモダニズムの作曲家の例としてあげていた(はずだ)。
 だがケージをラウシェンバーグに比することは、いまの私にはできない。むしろケージはカロを介して、モダニズムに結びつく(それは最良の作品におけるジョーンズと共通する特質である)。
029を参照。]
 ところで音楽におけるカーターは、美術におけるルイスや、ましてやポロックのような評価を得ているとはいいがたい。美術と音楽の関連(づけ)にかんするフリードの提言内容には、問題がある。あるいはこの、関連(づけ)=比較芸術(学)的視点の不能に、思いをいたすこと――。

034/ 2001年1月6日(土)d
[唐突であるようであって、しかい内容的には029につながる部分を有する。]
 「抽象」の語はわたしが美術に専門的にかかわり始めた1970年代後半にあって、すでに生き生きとはしていないまでも、その有効性を失ってはいなかった。
 その後、アメリカでのある激震が若干の時差をともなって伝わってきた。わが国では最初「ニューペインティング」といった名称でも呼ばれた、いわゆる表現主義的な、そしてこれから語ろうとする文脈と絡めていえば具象的な、そのような絵画の復活がそれである。
 それはいうまでもなく反動であったが、わたしにとっては美術を学びはじめ、いままたモダニズムの理論と実践に接して抽象「的」な絵画――抽象画ではないが具象画でないのはたしかなのでそう呼ばれるしかないもの――を描こうとしていただけに、なおのこと皮肉に思われた。*
 (*注: そう、わたしはいま個人的な経験を語っている。まだ歴史として昇華していない、しかしたしかに一個の物語である。
 歴史とは何であろうか。それは現在の、「私」が身体もて経験できる事象でさえもすでに確定した過去の出来事のごとくにいったんは視野から消して、別種の構想力をもって語り直すことにほかならない。
 わたしは抽象表現主義のことは、どのようにしたって歴史的にしか語ることができない**。いや、わたしがすでに生を享けてはいた1962年のポップ・アートの誕生の日のことも、それは実質的には歴史的対象たらざるをえない(日本かアメリカか、という話ではない)。その意味で、1980年前後とは、わたしが歴史に依らずに物語ることができる、いわば臨界点である。)
 (**注への注: いや、抽象表現主義にかぎらず、われわれは過去の事象を歴史的にでなく語ることもできる。批評的に、である。いや、この言い方は不正確である。批評は、歴史的であるか否かを超えた言辞であり、その意味では、歴史的な批評もそうでない批評もともどもに存在しうる、というべきである。いずれにしても批評は、先験的であろうとする契機を含む点で、歴史とは別種のものであらざるえない。)
 さてしかし、すでに暗示してあるとおり、抽象はすでに語としての耐用年数をその時点ですでに超えていたことは否定できない。(ここでもう個人的にでなく歴史的に語りうるのみの地点に踏み込むのだが、)それは端的にいえば、あのポップ・アートの登場の時点で告知されていた事柄にほかならない。[1960年の出来事も、1860年のことと同じほどに遠い(かな?)。]
 思い起こせば、あの具象的絵画の復活は当時、リオタールの本の影響で一気に人口に膾炙していたポストモダンの語と結びつけられたものだが、モダニストとしてそれに抗おうとするより何より、美術におけるポストモダンはその1962年の時点で成熟した実践(嚆矢はジョーンズの《国旗》である)を展開していたと、いわねばならない。[…]
 いずれにしても、抽象の時代を1912−62年の半世紀間とすることは、きわめて常識的な線である。

033/ 2001年1月6日(土)c
[これもまた唐突。そしてほとんど盲目的な走り書き――]
 われわれはいまや芸術(芸術)を美術館から守らねばならない局面にあるといっても過言ではない。
 だが、それはアースワークや、あるいはいわゆるインスタレーションの類が志向する、文字どおりの(つまり物理的な意味での)美術館の外部を必要性をいうものではない。(そのようなものこそはやがて美術館の内部にやすやすと回収されていくだろう。)
 われわれの新しい世紀になおもモダニスティックな美術があるとすれば、それはフーコーが名づけたような「美術館用の絵画」の終焉を告知するか実践するものか、であるといいたい気持ちに駆られる。
 ホワイト・キューブとあだ名されるMoMAの場合にかぎらず、美術館は作品のための中性的な場所であることが約束されているかのようにふつうはいわれるが――そしてそれ[ノン・サイト]に対置されるものとしてスミッソン流のサイト・スペシフィックが措定されるのだが――、「美術館用」というときそこがすでにセミ・スペシフィックであることは、疑いえない。
 美術館用でない、ということは、文字どおりの意味でのノン・サイトな作品ということなのであり、ならばまた、ほとんど同語反復的な意味でユートピア的なものである。
 したがってそれはたとえばこの場所で明言される必要がないし、またフリードのひそみにならっていえばこの「抽象性」こそは美術館(人)の感性を超えている。
 だが、美術館に入ることを目的としない絵画は、それによって画家を食わせていくことができるのか(笑)。
 そんなことは知ったことではない、とはいわないならば、美術館は貪欲だから事後的に作品を体内に呑み込むだろう、の別解をここに記しておくとする。つまり美術館はここで目的ではないし、また作品が美術館を変えるのである。
 ほとんど禅問答だが(笑)、フリードがカロのテーブル・スカルプチュアについていっていることの、これは言い換えといいたいところがある。そこでは作品が、それが置かれる場所をいかなる恣意的な意味においてではなくテーブル(地面より一段高くされた)であることを、抽象的に規定するのである。
 ちなみにそれは、ひとりカロのテーブル・スカルプチュアによってなされたのではなく、ステラ初期のシェイプト・カンヴァスにも同様の抽象性をみることができる。
 ところでステラの初期の佳品を所蔵する滋賀県美やいわき市美、そして東京都現美(さえ!)の、その作品が架けられた空間はじつに「美しい」が、それから晩年(まだ存命ではあるが早く逝ったほうが本人のためであるという意味でこの語をもちいておく)にいたるまでのエポックごとの大作を多数集めた川村記念美のようになってしまうと、たんに下品な、しょせんは芸術のわからぬ成金の贅沢品(美術館そのもののことである)であることがわかってくる。
 この冒頭に書いた、われわれがそこから芸術を守らねばならないとした美術館はそのようなものであるにちがいないが、同時にまた、そこよりは慎ましいが展覧会主義的学芸員のノリ(かんちがい)において下品な数多の機関がそこにふくまれることも、明記しておかねばならない。
[文章はめちゃくちゃだし、論旨にもたぶん破綻がある。が、忘れぬうちに書き留めることを優先させよう。→これもたぶん近々に書かれるはずのエッセイ版の内容となろう、たぶん。]

032/ 2001年1月6日(土)b
[まったく唐突に。]
 芸術への虐待。それに抵抗する、親権の剥奪。(2000年11月20日施行の児童虐待防止法のひそみにならって[笑]。)
 だが、たとえば保護されるべき芸術の権利を列挙していくなかでひとつ腑に落ちないのが、著作権である。
 事情は簡単だ。これは(これだけではないが)、ひとの善意を前提にするものであるからである。
 明確な悪意もて実践する者にたいして無効な議論は御免蒙りたい、と思うことがある。
 芸術にとって/にたいして著作権が守られるべき〈内容〉(?)としてあるのなら、その問題は新しい技術によって乗る超えられるべきである。
 なぜこんな話をしているのか。
 この乗り越えの議論をしているとき現在的な、しかもわかりやすい、モダニズムの最新問題のひとつが浮上してくるからである。
 アナログ的な、それをコピーするたびに精度が落ちる表現については、まさにその精度低下という問題が、著作権の侵害の度合いを弱めるのに機能している。
 が、デジタル的な表現(そしてその手法によった鑑賞)について、技術上の問題が法的でない美(学)的な――すなわちモダニズム的な――観点から、じゅうぶんに論じられてきたとは思えない。

031/ 2001年1月6日(土)a
[どのテクストへの補足であるとか、いまは明示しないが、まもなく他と結びつけられて、エッセイ版で敷衍されるだろう(…たぶん)。]
 われわれが抽象の揺籃を語るにあたって想起すべきは、またしても(ほんとうにいいかげんイヤになるが)フリード「芸術と客体性」である。
 そこでは、具象との対立が有効性を失ったがゆえにそれじたい意味を失いつつあった抽象の語が召喚され、いまたち現れつつある客体性という怪物と、対置させられることになるのだからである。(ここでは、自然に似ていることからの懸隔という、抽象にまつわって言われ続けていたことが、ミニマル・アートすなわちリテラリズムに自然主義の内在をみる[批判する]ことで、更新されている。)[…]
 ところで、フリードが批判したリテラリズムの演劇性はその後、批判にもかかわらず(だが批判などそのような、大方からは無視されるほかないものだろう)拡大の一途をたどった、と通常は表現したりするのだが、演劇性という用語の通用範囲をただそのように拡大するのははたして有効なのか。はっきりいえば、ある種の芸術――ここでは美術のことをいっている――は演劇的ですらありえない状況にまで退落したのではないか。ならば演劇性の語に代わるものは?
[最後の問いに、欄外で答えてみよう。――ガジェット性。うーん、いまひとつ、である。]

030/ 2001年1月4日(木)
[以前は前の書き込みへの補足ばかりが続いたものだが、いまは先に書いたことを忘却して新しい内容をそのつど書き始めるような錯覚に陥っている。まあしかし、何事も書かれないよりは書かれるほうが、よい(、と信じて)。]
 年頭、というよりも新しい世紀が明けたばかりの、いまだ寿(ことほ)ぐべき瞬間に、過ぎ去った世紀にパラダイムであったモダニズム*を鍵語として一文を草し始めるにあたって、最初にもう万人が首肯する類の結論を書いてしまえば、すなわちモダニズムは全般的にはすでに瀕死の状態にあるが一部にそれを死守しようとする者やあるいは端からその危機のことを頓着しない楽天家がいる、というものとならざるをえまい。
 [* そうだ、その否定のための言辞(「ポストモダン」などの)の趨勢のことも含めて、それ(ら)はけっきょくはモダニズムの生存(survival)を保証していたのだといって、かまわない。→21世紀にモダニズムが問題とならないのであれば、それはもはやクリティカルなかたちでは言及されるべきではない。→いや、この世紀においてもモダニズムは問題となるだろう(これこそ楽天的?)。→いや、そのような時限立法的なものであるならそれはそもそもモダニズムなのではない。]
 たとえば、わかりやすい例として音楽の状況をみてみよう。[→ ex.) アルゲリッチが弾くプロコフィエフの第7ソナタの興奮を語る浅田彰。…][後略、ということだが、書かれるべき内容は瞬間的にアタマに入ったのでご安心を(笑)。]
 
だが、そのような穏当な結論が本稿にふさわいしくないのであれば、[…]。[後略、ということだが、ここからあとは霧のなかである(笑)。]
 *
 「油絵の時代」を1500年から1900年のあいだと規定したジョン・バージャーのひそみにならって書けば、およそ〈抽象〉の時代は、1912年から1962年のあいだの半世紀であった、ということができるであろう。(→1912年はカンディンスキーが最初の抽象画を描いたといわれる年で、他方、1962年はポップ・アートがアメリカに興った年である。→この乱暴な規定[われわれがバージャーから学んだのはまさにこれである]の問題は、つぎなる論理展開のための素材とされるだろう。)[やはり霧のなか、か? いや、ここで昨夜のミニマル/シェイプト・カンヴァスの問題にシンクロしてくる。]

029/ 2001年1月3日(水)c
[とりとめもなく…]
 科学にかんする池田清彦の物言いを流用するなら、芸術とは錯覚である。
 ならば、その芸術を担保するモダニズムは錯覚に輪をかけた、救いようのない錯覚というべきか。いや、それは芸術が真理の表出であると信じるかぎりにおいて、そういいうるのである。
 モダニズムはこの点、むしろ芸術の錯覚性、あるいは語の十全な意味のかぎりでの仮象性が正当なものであることを、主張するのである。(というのも、「一枚の平らな表面に一定の秩序をもって色彩が寄せ集められた」にすぎないものが〈絵画〉へと変容させられるなんて、仮象=錯覚でなくてなんであろう。)
 モダニズムは芸術なるものについて認識(=批判)の点でメタ的であるが、制作/作品をつうじて芸術に内在しようとする。
 *
 芸術をつくることの男性性にたいして、芸術そのものは(開かれ、抽入され、受胎させられる点で)女性的であるといいうる。
 (199X年にパリで「feminin/masculine」展が開かれたさいのその副題は、正当にも「芸術の性(sex de l’art)」であった(「芸術における性(sex dans l’art)」でなく)。)
 ミニマル・アートの/というインスタレーションは、観者をいわば精子のごとくにしてその子宮に受け入れる。
 芸術批判(であるはずのもの)が逆に安直な図解=芸術表現に転じる瞬間?

028 / 2001年1月3日(水)b
[ほんとうの忘備録として]
 芸術とはなおもその本性は男性的にして国家的、そして西洋的なものである。それが(女性的でないにしても)中性的ないし無性的で、また非国家的かつグローバルなものであることを、軟弱な反芸術によって主張するのであれば、むしろ芸術以外のものを目指すほうが適当であるだろう。
 これは以下のように別言することが可能である――多元主義者よ、芸術は多様(多元的)であるなどと安っぽい主張をしていないで、芸術以外の表現を求めよ。西洋が措定した国家的・男性的な規範であるところのものに最終的に収斂することをこそ、むしろ潔く拒むべきではないのか、と。

028 / 2001年1月3日(水)a
[なんと4ヶ月以上もあいだが空いて、世紀も変わってからの更新は、書き溜まったメモの整理用に。(したがって文章・文脈の乱れ等はこのさいいっさい気にしない。→)]
 抽象の終焉としてのミニマル・アート。だがしかし、真にその終焉が予兆されたのが抽象表現主義においてであったことの認識を、われわれは欠くべきではない。反芸術はつねに(そして本来的に)、直近のすぐれた芸術において内包されていたプロブレマティック=秘密の暴露という共犯者的様相を呈する。
 *
 ところで、北方ロマン主義から抽象表現主義までのグリッド的連関を見抜いたローゼンブラムの指摘は、まさにそれがミニマル・アートにまで通底する問題であることの補遺をもってこそ、真の洞察となる。
 *
 埼玉近美におけるミニマル・アート展開催時の、企画者のひとりがBT誌上で語った文言の愚。彼はフリードの言葉(拙訳)を引きつつ「ぜひとも会場に足を運んでほしい(そうすればわかるから)」式に書いたのだが、ならばこの企画者はまさにその、見ればわかる式の芸術のありようをフリードが批判したのだったことを理解していないのである。
 ミニマル・アートはそのような意味で理解されることを超えた地平(フリードが降り立とうとしなかった)で、逆説的に理解されるほかない。
 *
 その意味でミニマルへの識閾に立つ初期ステラの営為、なかでもあのシェイプト・カンヴァスこそが重要であるように思われる。
 およそカンヴァス(画布)=支持体のなかでそれとして形づくられて(shape)いないものは存在しないが、それは通常は制作に先立って決定され、制作と鑑賞の時間にあってそれとして(形づくられたものとして)意識されないところにその、いわば妙味は存する(黄金比はそのための創意である)。シェイプト・カンヴァスはそれを、制作される内部が外部を規定するというかたちで、つまりその意味のかぎりで帰納的なほうへと反転をはかりつつ、(また同時に重要なことに)そのシェイプト・カンヴァスという命名をつうじてそれを認識論的出来事とする。(この命名=認識に収斂しないのが、個々の作品の質(クオリティ)である。)
 ここで美術の領域でおこる出来事の音楽の領域における対応物がプリペアド・ピアノであることは、いうまでもない。その脱臼させられた楽器によって奏される具体的な音(それにしてもケージの作品はステラのそれと同じように個別の作品として[何度も、そして他の奏者の演奏と比較しつつ]聴くべきクオリティを有する)もさることながら、それはあのシェイプト・カンヴァスがそうであるように、およそプリペア(調律)されていないピアノ(楽器)が存在しないことに思いをいたらせる。
 このとき、その仕様をマニアックに指定しながらピアノをプリペアするケージの仕草が、調律師やときにはピアノそのものを随伴してコンサートをおこなったミケランジェリや、モーツァルトのトルコ行進曲を弾くのに純正律に近い調律を施した内田光子の、それに近いことは、道理であるといえるだろう。

027 / 2000年8月20日(日)
[1ヶ月半も間隔が空いてしまって、どこが準日記形式なのだ(笑)。というわけで、今後もこの多忙の状況に変わりはないので、次の更新の予定も立たないのだが、とりあえず忘備録のごとくに1行のみ。]
 モダニストは何者にもひれ伏さない。
[注記: いずれデータをアップするだろうわがキーファー論の末尾を参照。]

026 / 2000年7月5日(水)
[またしても過去の、あまり知られていない場処に書いた文章の自己引用。内容的に020の文章につづく。]
 さて、紙幅も残り少なくなってきたところで、ほとんど唐突に、筆者自身の話をしなければならない。戦後、抽象表現主義に随伴するグリンバーグの幸福は、上の戦前段階での倫理的な響きがそのフォーマリズム批評の実践のなかに解消されることの謂でもあるが、むしろその戦前の――われわれから見てちょうど半世紀前の――倫理意識にもとらわれた危機意識=批評精神をこの現代において更新することを、本誌[020で引用した『フレーム』誌]第二号において筆者自身の課題としておいたはずである(アヴァンギャルドの延命?)。ただし、こう述べているにしては奇妙な本心を先に打ち明けておくなら、筆者はいま、かつてのグリンバーグのようにあるものを駆逐する言葉を所有しないし、むしろそれを所有しないことに苦悩すべきか否かにすでに頭を悩ませているというべきなのである――冒頭でふれた、シミュラクルの支配云々にまつわってである。
 フォーマリズムを〈脱法装置〔トランスグレッシヴ・ディヴァイス〕〉と呼んで最近にいたるまでの反芸術系の作家の手法にも適用する、ロバート・C・モーガンのような人の所見
[たしかグリンバーグ「アヴァンギャルドとキッチュ」の発表50年の特集を組んだ『Arts Magazine』誌(1989年の何月かの号)に所収されている]は筆者には空しく聞こえるだけだが、それよりもそもそも、シミュレーショニズムの名もささやかれる奇異なる文脈のなかで語られる作品の多くがじつに他愛のないものに映る。キッチュのさらなるキッチュ化によってマーケッティングにおける差別化よろしく、ささやかに芸術のシステムに参入するジェフ・クーンズしかり(本誌第二号収載のインタヴューにおいて阿部良雄氏が述べるクーンズへの愛着は、氏がわが国における唯一真正の意味での修正主義的活動者であるだけにいっそう興味深い)。あるいはわが国に目を向ければ、マネやレンブラントにイメージは拠っていても表面/空間(このばあい、これをいうことは愚かしいことだろうか)の処理においてきわめてジュスト・ミリユーのそれに類似したところを有しながら、ピンナップガールならぬボーイ[19世紀アカデミズムの画家ブーグローの裸体画をピンナップガールと呼んで露骨に嫌悪感をあらわしたゴンブリッチへの言及をうけている。以下にそれをうけた記述がつづく]醜き姿であまたの空想主義者たちを魅了してやまない森村泰昌しかり――ちなみに彼の作品には、ローゼン&ゼルナーがジュスト・ミリユーについていった「写実的〔リアリスティック〕だが非現実的〔アンリアル〕」の適確な評言をそのまま流用しておくのも相応しいが、あえてゴンブリッチのブーグロー批判にあるような言葉を浴びせる野暮も必要なく、お望みどおりただ笑って消費してやればいい。
 個々の作家についてふれているとキリがないからといって、クーンズと森村といういかにも快楽主義的な作家二人で事態を代表させることには異論もあろう。が、しかし、停滞した芸術のシステムを逆手にとってそこに寄生しておきながら、あるものが快楽主義的で他方が批判的であるというのが、そもそも偽善にすぎなく思える(いいキッチュと悪いキッチュはないといったガーダマーの言の真理を心に銘じよ)。筆者の苦悩なき苦悩は、たしかに、擬似的(pseudo-)なることを本領とするものにたいしてその廉で批判をしても有効ではないという当然すぎる点にも由来するのだが、しかしこれもあえて言明しておくなら、この寄生のシステムを駆逐する決定的な言葉をわれわれがもたないのは、とりあえずこの時点でエイズの特効薬がないのと同様の事態を指すのではない。後者の流行性疾病のばあいと異なって、われわれは、写真や文字の使用が芸術の批判につながるかの短絡的メタ思考にときに目を光らせながら、それが当代の反映論的芸術の以上でも以下でもなく、あるいはそこにシュルレアリスムの名残が付着して奇妙な混淆物〔オブジェ〕を形成しているにすぎない、その事実を、つぶさに認知してやるだけでいい
[『FRAME』第2号(1991年2月), pp. 39-41; ちなみに上の阿部良雄への言及は、このすぐれた研究者へのものとしては礼を失したものとなっていないか危惧もしたのだが、それは杞憂にすぎず、むしろひじょうに喜ばれたらしい(松浦寿夫氏の証言)阿部氏ご本人からその後、『モデルニテの軌跡』(岩波書店)をご献呈いただくこととなった。]

025 / 2000年7月4日(火)
[そうとう熱心な読者でいてくれるひと――いればの話だが――でもたぶん知らない、ブリティッシュ・ロック専門のさるマイナー雑誌のインタヴューをうけたときの記事の、またしても自己引用。うん、もちろん考えは一部変わっているが、いま書きたいことの大筋は10年前にもすでに語っている(笑)。]
 シミュレーショニストの自称は滑稽です。制度の温存にしか機能していないということで、やはり非・脱構築なものといわねばならず、したがってエイズへの譬えも上等すぎるものといわねばなりません。
 一方、逆説的に聞こえるかもしれませんが、すぐれた作品で、その構築において脱構築的でないものはないように思われます。そうして構築は、すでに60年代から課題とされたまま、今日に及んでいるのです。
 先の藤枝氏によれば、ミニマル・アートのおかげでわれわれは反芸術を気取る必要から解放されたはずなのですが、それが一方でまた終焉論にまつわる最新の言質を与えることにもなっています。たしかに、終末の意識から無縁だなんて信じられません。しかし、――本当に何度も繰り返しますが――その意識のなかで、いまだ言葉にし尽くせないものに出会うことこそが貴重なのだと思います。
 終焉のゲーム、そしてその規則への盲従は、もうコリゴリです。
[以上、『マーキー』第36号(刊行=1991年3月; インタヴュー=1990年11月6日、有楽町阪急8階喫茶「シャンブル」にて), pp. 59-62; 引用はその末尾(p. 62); ちなみに、これはそう遠くない未来に全文をデータ化してアップの予定。]

024 / 2000年7月2日(日)c
[書きたいと欲するのではないのに無理に書き足し、アップする必要もあるまい――と、さきのbのアップから20時間後に、本文なしで。]

023 / 2000年7月2日(日)b
 ところで、モダニストにたいする試練は、じつはもっと[何以上に?]過酷であるべきである。現下にあってモダニストたらんとする者もまた、過去とそして現在の、モダニズムと称される事象にたいして、非寛容であるべきである。
[019あたりへの補足となっている?――面倒だな、こういうメタコメンタリィは。]

022 / 2000年7月2日(日)a
[リセットという安易な方法はとらないでおこう。削除も含めて、過去の文章に修正を加えることはあくまでも、予定されているエッセイのほうで。いや、そうであるなら現時点でも、テクストの非在(=削除痕だけ)がそこに存在すると強弁することも可能か? またいつもの議論を欄外=余白でやっている。]
 ありうるかぎり異なった形式を有する者たちがともにモダニストであることもある、という理由で、モダニズムは形式の問題(フォーマリズム)ではないのではないか、という問いが、発せられた、とせよ。
 和尚(笑)はそのとき、そうして形式の限界が切実に意識されるものである点でそれ、すなわち形式(フォーマリズム)は、モダニズムの要諦、なのである、と答える/煙〔けむ〕に巻く。
 ところでグリーンバーグは、たしか書いてはいなかっただろうか?――モダニズムは「傾向」である、と。
[またしても「相対主義」への補足となる、か?]

021 / 2000年6月29日(木)
 芸術における最重要の問題は、なお、形式倫理に係るそれである。
 だが、形式があの造形を指すのではないように、倫理はこの道徳を指すのでは、ない。造形と道徳が恥ずかしげもなく結託したPC系のインスタレーションから決別すべきは、明らかである。
[…と、ここまでのいずれかの文章への注釈であるかなしか判然としないふうに書くには書いたが、それよりも、いちど議論をリセットしなければならない、かもしれない(笑)。この断章を予定されているもう一つのエッセイの版へと「改訂」して済ませるのではない、そんな仕方で。]

020 / 2000年6月26日(月)
[一部には「幻の雑誌」の評もある『FRAME』第2号(1991年2月)に寄せた拙文「グリンバーグ! グリンバーグ!――新たなるデマーケーションのための偏向的ノート」の末尾より引用。長いし、その途中には敷衍なしで読むことができない拙い箇所もあるが、ならばその敷衍をここでおこなってもいいし(第4段落以降は逆に019の補足・敷衍となろう)、それより何より、10年前にもほとんど同じことを書いていた証拠として(笑)。]
 […]批判した「演劇性」のますますの増大を前にしてかフリードが同時代の美術についての発言を放棄した今日、新しいデマーケーション論が求められているのは言うまでもない。フランク・ステラの駄作をシミュレーション社会の反映と見なすネオ・ジオの画家[=ピーター・ハリー
(このたびの引用時の注)]に理解されようはずもないが、ここでは、グリンバーグがキッチュについて言った「結果の模倣」が「結果の模倣の模倣の模倣の……」という無限背進の末に色気づいて、新種の芸術至上主義を招来しているのだから。
 われわれが認識論的議論に依拠していることはすでに明らかだろうが、とはいえそれはトマス・クーン流の非合理的なパラダイム論ではない。現にフラシーナのアンソロジーの第一部の序論では、バーとシャピロの対立ののちのフォーマリズムの勝利が、前者のパラダイムの勝利として粗描されているが、パラダイムの共時的並立・決着ののちにグリンバーグがその尻馬に乗るというのではハリーの図式といささかも変わりない。
 われわれが依拠すべきは、むしろカール・ポパーの合理主義をも継承するイムレ・ラカトシュ流の〈研究プログラム〉のほうに他なるまい。この語にまつわっては、抽象表現主義はそうしたプログラムなのだから作品を一点取りだして論じても仕方がないと多分に楽天的に語りえたMOMAのヘンリー・ゲルツァーラーの言も想起されるが、それよりも示唆的なのは、何事も事後的に正当化し得なかったというラカトシュによる痛烈なマルクス主義批判である。そこでは、少々の矛盾は当然とされ、むしろその強固な核〔ハード・コア〕と、それが次々と問題を引き起こす生産性こそが重視され、ここから〈科学〉だけでなく〈批評〉という出来事にも通底する内容が生じてくる。
 とすれば、1961年はグリンバーグにとって重大な年であった。その高名な論文「モダニズムの絵画」は、彼のそれまでの一連の批評のいわば結果論として言われるもので、〈自己批判〉や〈還元〉の語の突出のゆえもあってこれしか読まない自称グリンバーグ読みの輩に種々の誤解を招来したが、それは、上のミニマル・アートな内容に加えてポップ・アートもが顕在化しつつある〈状況〉が他ならぬ自らの規範の内部の弛緩にも呼応していることの認識から成立したのだった。(かの修正主義こそが明らかにしてくれた内容を思いおこしてみよう。トロツキーの暗殺(1940)よりも早く1937年ころにはマルクス主義離れが進行しつつあり、やはりそうした内部状況に抗するかたちであの「アヴァンギャルドとキッチュ」が書かれたことを。この厳しさは、たとえば1950年代後半から具象によるヒューマニズムの再来をもとめるピーター・セルツやクレーマーの反動的言説とは比較にならない。)
 さらに同1961年に刊行なった、彼自身の編となる唯一の評論集『芸術と文化〔アート・アンド・カルチャー〕』は、社会主義者としての過去をいささかも隠蔽することなく「アヴァンギャルドとキッチュ」を序論として置きながら、モダニズム−フォーマリズムがすこぶる生産的であった時代を囲いこむかたちとなる。
 こうして60年代半ばになってそのグリンバーグの口からもれる「アヴァンギャルドの終焉」の言葉の意味は、あのポスト・ペインタリー・アブストラクションを最後として〈芸術としての芸術〉が存在しないことの認知というほどに読み替えられるべきものとなる。(ただし70年代にはいってから「フォーマリズムの必要性」(1971)をものして〈現状〉にたいして最終的な抵抗をおこなっている。)
 ハル・フォスターの〈抵抗のポストモダニズム〉は1960年代のグリンバーグにも妥当するかもしれないが、とりあえずそうした逆説は、われわれに必要ない。繰り返すが、必要なのは、ポスト・グリンバーギアンの立場からの新しいデマーケーション論であり、さりとてそれは、けっしてあのポストモダンの謂ではないのである。

019 / 2000年6月20日(火)
[017をうけ、また結果的に001への補足となる?]
 モダニズムにはしかし、切断がある。
 マネの、したがってボードレールの時代のモダニズムと、ポロックの、したがってグリーンバーグの時代のそれは、異なっている(これは当然なのでは、ない)。
 われわれの時代に近い有意味な切断は、おおざっぱには(といいつつ細かく書けば)1962年から69年にかけてのそれであり、ならばわれわれもグリーンバーグのようにはモダニズムを語ってはいられないのだが、ところでグリーンバーグのテクスト、なかんずく「モダニズムの絵画」はその切断の前年(1961年)に、それ以前のパラダイムを総括するかのごとくに書かれたようなところが、たしかにある。
 われわれが「モダニズムの条件」について書くとしても、そのような総括とは無縁であろう。(望もうと望むまいと、いますぐにそのような切断は起こるべくもない。)
 いずれにしても、モダニズムについて語る営為は、その切断を意識しつつ、また同時にその切断を忘却する(させる)ものでなければならない。
 ところで、あるものへの意識を徹底することでそれを忘却するというのは、相対主義についてのわれわれの構えと相通じるものである。

018 / 2000年6月18日(日)b
[017への補足]
 フリードの批評から(歴史学へ)の撤退が、ステラの絵画から(レリーフならびにオブジェへ)の逸脱と、軌を一にするのは、それゆえ道理である。

017 / 2000年6月18日(日)a
[015への補足]
 エッセイ「モダニズムの絵画」(1961)においてグリーンバーグが述べた「平面性とその限定」が、絵画の条件をもっとも端的に表現した章句であることは、すでに周知のことがらである。
 ところで、この「限定」がほとんど「矩形」と同義であることは、歴史的にみたときに首肯される内容だろうが、しかしそれは、平面性が絵画にとってそうであるというほどには明徴な条件なのではない。(微細にみれば絵画にも凹凸があるとか、レリーフも基本的に絵画であるとかの、それじたい正当な反証は、しかしここでわれわれにとっては、ほとんど意味をなさない。)
 その、矩形が絵画の明徴な条件でないことを、言語ではなく作品をつうじて言表するのが、ステラのいわゆるシェイプト・カンヴァスであったが、このときわれわれは、その作品行為がグリーンバーグの批評と時期的にシンクロナイズするものであることこそを、忘れてはならない。
 いずれにしてもこの、矩形ならざる形式(shape)であっても/こそが絵画の形式(form)であることの、(グリーンバーグのシンクロニシティと比較したときの)メタ・コメンタリ(テ)ィが、フリードの批評がある時期、有しえた有効性の最たる要因であった。

016 / 2000年6月17日(土)d
[何にたいしてのか限定されがたい重要な補足]
 「他者」や「外部」といった語は、われわれのテクストで使われるものとしては最後から二番目か三番目のものであろう。(口にすることができないものであることを表示するためだけにあのものにYHWHの子音の連なりを与えたユダヤ人の知恵に学ぶべきと、それは思われるほどだ。)

015 / 2000年6月17日(土)c
[議論のたて直しのために(笑)、001へ?]
 形態論的にいえば(morphologically)、絵画はすでに最初からその本性において、汲み尽くされた形状(shape)、として条件づけられている(何をしたって暗闇におかれればそれらは類似している)。
 遠近法とはこの点で、その形態論上の革新であったと同時に、なおその条件の内側にあった。15世紀に確立された遠近法的規矩を崩壊させ、破壊する、19世紀後半から20世紀の最初の四半世紀の絵画が、その表現能力の還元/削減(reduction)にもかかわらずのゆえに礼賛されもするのは、
この条件の露呈の事態とかかわっている。
 その後にあらわれた抽象表現主義は、ところがすでにこの露呈そのものとは関係が、ない
 ミニマリズムはその形態論以後の絵画に抵抗するためにリテラルな事物(絵画ならざるもの)の提示をもってしたが――フリードの有名なミニマリズム批判はリテラリズムという語の案出、ただそれだけでもすでに有意味である――、それはキュビスムとその後継者の絵画や初期の抽象絵画にデュシャンが対抗したような仕方でではなく、したがって、ジャッドのただの箱でさえがニューマンの絵画につうじる空間性(それは絵画のなかの空間ではない)を有している、といったことが起こる。
 真正のコンセプチュアリスト、コスースによる批判は、抽象表現主義と同時にそれを批判したミニマリズムにも向けられている、その点でこそ「真正」のものなのだが、抽象表現主義による形態論の超克の契機を問題としない点で、その有効性が限定されるものでもある。
[これでは止め処ない補足が必要であろう(笑)]

014 / 2000年6月17日(土)b
[012からつづく]
 政治家とは、かならずしも国家主義者であるのではないが、しかし愛国主義者ではある(ある必要がある)ひとの謂れである、といったかんじのことを、石原慎太郎が以前、書いていた(いや、逆かもしれぬ)。
 その物言いの是非はいまは措くとして
[XXXへつづく?]、対・中国的には、この政治家の態度は、じつに正しい。
 ところで石原はモダニストか?
 これは答えにはほとんど意味がない設問で、いいかえれば設問としてのみ有意味なのだが、それはつまり、一般論として、かつてモダニズムは保守主義ともちろん対立したが、いまやむしろ前衛主義と(こそ)対立する(可能性がある)からである。

013 / 2000年6月17日(土)a
 ということは[004からつづく?]、モダニズムとはモダニストがいるところで、彼の意識が対象化するもの・である・にすぎない・のか。

012 / 2000年6月15日(木)c
[011ほかへの補足]
 ところで、わたしがこの国を「わが国」でなく「この国」と呼ぶのは、真に国家主義者ではないからかもしれない(笑)。しきりに「われわれ」とはいうくせに、ね。

011 / 2000年6月15日(木)b
[010への補足]
 柄谷行人が一時期しきりに使った表現をもちいるなら、藤枝晃雄はこの国の美術と美術批評にとっての「単独者」であったし、また、あり続けている。
 端的にいえば、椹木の本はこの単独者を記述にふくめていない点において、あくまでも状況論にとどまる(もちろん状況論が悪いわけでなく、状況論としてきわめてすぐれている点も変わりはない)。
 モダニストの課題は、状況論ではない(といいつつも19世紀中葉から1世紀間の状況論を書いているのだが[苦笑])。

010 / 2000年6月15日(木)a
[005から続く?]
 椹木が『日本・現代・美術』を上梓したさいの、けっして数多くはなかった美術の共同体の内部での書評のひとつ(正確にはそれは時評[季評]のテーマとして選ばれたのだが)で、わたし[「われわれ」という表現はやはりここは避けよう]は、日本人がアルマーニを着ることの滑稽を断罪しているのならまだしも、そもそもスーツを着ることの滑稽さを断罪しているようなものであるかぎりにおいて、その「暗い場所」うんぬんの表現/評言は自明かつ無効である、といった書き方をしたように、記憶する(いま正確な文言はすぐ手元で確認できない)。
 (あるいは、これはいまや、どんなヘアカットを試みようとしても、胴長短足の体躯にのっかったデカイ頭部の装飾であるかぎりにおいて、けっして欧米人の形式化とは同日に論じることはできない、と書いていることと同義だ、と言い換えることができるかもしれない。)
 その意味でこの国の美術館は、ギャラリーは、(そしてヘアサロンは、)「暗い場所」である、といい募る者の評言を受け入れるのだとしたら、それはもうそう受け入れる者(読者)の勝手としかいいようがないが、われわれはといえば、その一見「暗い」場所にたいして特異点としてある存在/形式に着目する積極性(positiveness)をとりたいのであるし、またじっさい上の書評において、わたしは、現にこの国の美術(批評)においてそうした点として存在している者(藤枝晃雄)の仕事に、言及したのである。
 この椹木批判は、彼の著作が美術の共同体の内部で歓待されなかった以上に無視されたが、その無視/黙殺は、特異点にかんする言及であるという、わたしの/われわれの言及の仕方そのものに、読み込み済みであるといわねばならない。(わたしが書く言葉は、けっして孤高のものであることをあらかじめ狙う[笑]のではないが、藤枝の仕事がそうであったような仕方では、むしろ無視/黙殺されることを目指さねばならない。そしてまた、浅田彰でさえが現にそのようにして凡庸に藤枝の仕事を無視/黙殺しようとして、しかしそこにわたしが噛みついたような仕方では、それは顕在化しなければならない?)
 そうだ、ところで、この国よりも、さらに芸術にとって、またヘアカットにとって、「悪い場所」であるかもしれぬ(そうであるに決まっている)、あの国の問題に、ここで帰るとしようか。
[この項、つづく?]

009 / 2000年6月14日(水)a
[ここまでの内容へのメタ・コメンタリィ、あるいは自己批判:
 なんだかここ数日、補足ばかりがつづいているのである。
 さしてそれから語り始めたいのでもない話題から始めてしまったツケが早くも1週間目に顕在化したといってもいいが――だが、ならばそもそも「モダニズムの条件」について語り直す必要はあったのか(笑)?――、ところが、こうしてリニアな思考が断ち切られることをこそ、ぼくは歓迎しなければならない、のではある。
 いや、これでもまだ、断章なるものが本来内包するべき反形式性からは、ほど遠いといわねばならない。
 それがいったい何にたいする補足であるのかすらが判然としないテクスト群がたがいの磁力で引き合い、また退け合うことで、ややもすれば何とはなしに連続して読まれる思考の、その流れのなかに、「島」やら「澱み」やらを生み出すこと。
 とりあえず断章と名乗るこのテクストが、どこかで実態としてもそのようなものとなることを急かずに待ちつつ、ところが他方、これと隣接して別ヴァージョンとして用意される(予定である)もうひとつの「モダニズムの条件」は、地ならしされ、脱線せぬようにとのガードレールも設置された、それこそ「道」のようなものであろうとしているかぎりにおいて、仮に同様に断章の様相を呈することがあるとしても内実としてはそのようなものからはほど遠いものであることを、あらかじめ自供しておかねばならない(その自己破綻のシナリオはこのページ[2版の文章による]を構想した段階で書き込まれている)。
 以上、多分に政治的な昨日分を投稿してから約8時間後の朝、出勤前のひとときに。]

 
008 / 2000年6月13日(火)b
[003, 005への補足]
 「南京大虐殺」にせよ、「従軍慰安婦」にせよ、そう名づけられる事象にまつわる言説に、ある程度と質において「事実」の断片か核心かが含まれているだろうことは、たしかである。
 だが、政治的にそれを喧伝、利用する国家それじしんのことはさておくとしても、そのとおりに喧伝、利用され、あるいは流行の表現でいえば「自虐史」的に自国の為政者の断罪に向かうひとびとが使う、きまり文句の数かずには、ただ辟易するばかりである。
 ひとつには、かつて国家間で処理された(それが最善の方法であったかどうかはさておき)問題を私的領域へと横滑りさせ、ところがその断罪の矛先だけはふたたび国家へと向かわせるという矛盾をそこに見てとることができるからだが[自分でもいまは乱暴な議論だと思うが]、他方また、証言する言葉(=表象する手段)をもたぬ者の声なき声の代弁の主張は、まずはそれじたいが同時に、避けられない虚構化へのあるべき批判の可能性を封殺する危険を内包する[これは強調されねばならない]。
 歴史というトポスにおいて
「真実」や「真理」なるものをやみくもに振りかざす者のことは、左右を問わず、聖書における偽預言者のごとくに警戒しなければならないだろう。
 そしてその者がまた、往々にして軽々しくポスト植民地主義というキャッチコピーの文句を口にすること――。
 ところでいうまでもなく、これがPC(political correctness=政治的正義)の典型的な回路であり、また相対主義の、近年の貌〔かお〕のひとつに、ほかならない。

007 / 2000年6月13日(火)a
[006へのさらなる補足]
 そう、もの派にしてからが/もの派こそが、その軽やかさからもっとも遠い、現象学的晦渋のなかに沈潜したのだと、いわねばならない。(そこがミニマル・アートと似て非なる点である。)

006 / 2000年6月12日(月)b
[005への補足]
 椹木の卓見は結果的に、この国に、これはわたしが芸術と呼ぶから芸術であると、いとも軽やかに言明しうる者がなかったことを、明かしている。

005 / 2000年6月12日(月)a
[承前]
 椹木野衣が『日本・現代・美術』において立てた問題の正当性に、ここでふれねばならない。
 彼がこの国に与えた「悪い場所」の名は、端的にいえば芸術(=モダニズム)がこの国にとってふさわしくありえない(=存在しえない)ことの謂いである。ならば、その結論を受け入れるか否かはさておいて、問題それじたいとして、それがこれまで立てられたことのない類のものであったことは、認めねばならないだろう。
 そう認めたうえで、その結論にまつわって多少とも異なった見解を提示すること。
 さりとてそれは、現に芸術(=モダニズム)の観点から評価するに値する作品がこの国にあると主張することと同義では、けっしてない。
[この項、つづく?]

004 / 2000年6月11日(日)
[承前]
 ここで 芸術の非在の証明不能を論理的に主張する者は、たとえばアフリカ大陸の新興貧国にそれが存在しないということも同様に先験的には論証されえないことを、主張しなければならないだろう。(それは簡単で、かつまた困難なことといわねばならない。)
 だが芸術など、誰かがそこにあるといえば、ある。これはミニマル・アートやポップ・アートを通過したわれわれにとって、すでに自明のことである。
 そしてそれは、逆にいえば、当事者がここにあると認識し、また主張することにおいてしか、芸術(=モダニズム)はありえない、ということでもある。あるいは「われわれ」=当事者に差し向けられた問いとしてしか、それは存在しえない。
 いま仮に戯れに問題としている中国についても、「当事者」=資格と責任ある者が、その存在を主張するかぎりにおいて、存在する。
[この項、つづく]

003 / 2000年6月10日(土)
[承前]
 ここでたとえば意図的に中国という国を選ぶ。そして、問う――その国に、はたして芸術(=モダニズム)はあるか、と。
 さしあたりわれわれは、その国にその芸術が生まれる必然性や文脈はない、と書く
 予想される反論――当然それを期待して書いているのではある――は数種、ある。
 ひとつは、かくかくしかじかの作品(すでに文化財に属するものにかぎらず)がある、との素朴な、文字どおり実在論的(リアリスティックな)反論。
 十人十色、あなたがそう認めないだけで他のひとはそう認める作品がそこにあるかもしれない、と別の可能性をいうのもまあ、似た反論だ。
 後者の、これも相対主義的とは認定すべき反論と似て非なるものが、あなたにはその判断をする先験的な資格はない、と(馴染みの西欧中心主義への反発もあからさまにしながら)難じる反論である。
 さて、われわれは前二者をは、問題とすまい。
 他方、後者の「資格」についてこそは、それが孕む論理性・倫理性にまつわって再提起するべき内容が、ある。
[この項、つづく]

002 / 2000年6月9日(金)
[承前]
 こんにち、相対主義を易やすと否定し無節操な絶対主義に回帰するなどといったことは、そう、想像するのも馬鹿げている。
 政治的な話題に類比させて書けば、自国の防衛のための最低限必要な軍備をもつことがそのまま半世紀以上前の体制へと回帰するかのごとくふれまわるデマゴギーが馬鹿げているのと、それは同様である。
 が、われわれはここでは、むしろありうべき誤解もじゅうぶん覚悟のうえで、たんなる類比を超えてモダニズムをナショナリズムと同根の問題として論じることは可能だし、あるいは必要ですらあるだろう。
 逆説的に国家依存症的であるいわゆる左翼病を超えるには、いったんは国家主義者である必要がある。これは国家主義じたいが善であるか悪であるかといった議論を超えている。ならば、そのような意味のかぎりで、われわれのテクストにアナクロにスティックな、権威主義的な匂いを嗅ぎ取る者がいても、それは否定されるどころか、歓迎されるべきですらある。
 モダニズムはこの形態論――描く/見る能力と比較的簡単に結びつけられる――の彼岸においてなお同様の、非民主的な能力に仮託するものだからである。
[この項、つづく]

001 / 2000年6月7日(水)
[書き始め]
 形態論の終焉?
 コンセプチュアル・アーティストのみならず、われわれもまたじつはすでにこのことを留保つきで主張してきているのではあった。
 が、それがほんとうに終焉したのであるとして、ではこの時節、何がひとりのモダニストを、他の者から、峻別するというのだろう。
 ――と問うのは、まずはモダニストたることがかつて、フォーマリストたることと、分かちがたく一体化していたからだが、いずれにせよ、いまその「問い」の成立の可能性をは疑わないとすれば、もっとも端的な「解答」はすなわち、相対主義の超克の一語に尽きるように思われる。
 悪しき絶対主義への回帰のことを想い、ここで身を硬くする者もあるだろうか。
 馬鹿げている。
[この項、つづく]