二〇〇一年、モダニズムの条件
―――――フリードからグリーンバーグへ

 

               ver. 2: last modified  2000/01/17  16:00


 

 いまだ寿〔ことほ〕ぐべき新世紀の冒頭で、過ぎ去ったばかりの世紀のパラダイム〈モダニズム〉を鍵語として一文を草し始めるにあたって、最初にもう万人が首肯する類の現況分析を書いてしまえば、それはその中途半端な死、すなわちモダニズムは全般的にはすでに瀕死の状態にあるが一部にそれを死守しようとする者がいる、というものであるかもしれない。この分析にはしかし、その苦境さえ/こそが滋養分となってモダニズムの新生が保証されるオプションが、つけ加えられるべきである

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 それを読んで一から勉強しようという者がいまだにあとを絶たない『モダニズムのハード・コア』(『批評空間』臨時増刊号、一九九五)に、グリーンバーグの読みにかんするT・J・クラークとマイケル・フリードの論争(一九八二―八三年、計三本)を訳出したさい、その「訳者あとがき」に訳者(=本稿の筆者)は、いわせておけばいいのにクラークもまたマジになってフリードの反論に再反論して、といった感じのことを書いた。くわしくは振り返らないが、クラークによる初期グリーンバーグの精緻なマルクス主義的読解を、フリードは勝手に対象を後期グリーンバーグにおきかえておおいに我田引水、しかも多元主義なんかあったものかといわんばかりの非民主的な文体で、本来は冷静である(ことができる)はずのクラークさえを最後はさすがに喧嘩腰にさせていた。そう、フリードの名を美術批評史上に刻むこととなった「芸術と客体性」(一九六七年、以下「六七年論文」と略記)をはじめとして、いつもそうなのだ。そのパフォーマティヴな書きっぷりにひとはいらだち、であるがゆえに、「芸術は演劇の状態に近づくと堕落する」といった一見暴論としかいいようのない言辞に(暴論だったら無視すればいいのに)噛みつき、別の者がまた同じ噛み痕に歯を立てるのがくりかえされる始末なのである。

 だがそれにしてもフリードの場合、彼は批評家としては一九六〇年代の中葉のたった五年ほどのあいだに主要なもの(右の六七年論文の題をタイトルとした単行書[一九九八]でいまではそれらを一気に読むことができる)を残して、あとは美術史の世界へと風のように去っていったというべきである。もっといえば、批評家としては終わったのである。そして数少ない例外のうちのひとつが、右の論争における発言なのであった。

グリーンバーグの批判的研究をなしたクラークよりも、皮肉にも文字どおりのグリーンバーグ批判の論調を強くすることとなったその反論「モダニズムはいかにして作動するのか」(一九八三年、以下「八三年論文」と略記)においてフリードは、「盟友」の彫刻家カロの作品を口実〔ダシ〕にするなどしながら、六七年論文で語った内容を微妙に更新することになる。「どのような手段によって小さいながらもけっして大作の模型とも縮小版とも受け取られようのない彫刻をつくることができたのか」の、一見すると些細な問いへの以下の解答は、この書き手の捩れた思索の特徴をよく物語るがゆえに長いがたっぷり引用しておく価値がある。

 

カロがこの問題解決にいたる過程には、ふたつの異なった段階があった。その最初のものは通過しなくても済むものであることがまもなく判明するのだが、その第一のものから触れるとすれば、彼はまず、多くの作品にそれぞれ異なった種類の取っ手〔ハンドル〕を組み込んだ。[…](取っ手が明らかにそれと知れるかたちで用いられた作品をカロは一九六八年ころには制作しなくなる。)次に第二の段階で、たとえばそれは一九六七年作の《テーブル作品第二二番》【図版】などにみてとれるのだが、そこではカロは、作品の少なくとも一部分が、それが置かれるテーブル面よりも下の部分にまで延びるように工夫を凝らしている。このことによって、実際上も想像上もその彫刻を地面の上に置くという可能性が除去される。あるいは、その彫刻をテーブルの上に置く(あるいは[そこから]取り除く)行為を恣意的な選択ではなく構造上の必要性にもとづくものとする。すると同時に判明するのは、こうして彫刻をテーブルの上に置き、ひいてはそれが地面に置かれる可能性が除去されることがすなわち、現実のサイズの関数としてではなくその小ささを確立することと、等価であることである。もっとはっきりいうならば、テーブルに置くか地面に置くかを現に決定するのは、その当の彫刻そのものなのであり、しかもそれは、量的にたいする質的、偶発的にたいする本質的、リテラルにたいする抽象的な、そのような意味でのスケールの決定でもあるのである。(拙訳、右の『モダニズムのハード・コア』所収、一三四―三五頁)

 

 周知のとおりこの「第一の」段階とは、六七年論文では「シンタクス」の鍵語をもって語られていたものだ。シンタクスとは統語法と訳されたりもするが端的には文法のことで、ここにいう「取っ手」は、文から切り取られたときにそれじたいでは明晰な意味をもちえなくなる助詞、助動詞などのいわゆる「辞」に当たるといっていいだろう。そしてロシア・フォルマリズム風にいうなら、本来それがあるべき場所[=日常(語)]からこうして他の場所[=作品]へと召喚され前景化されて、ひいては意味伝達のための透明な媒体としての地位を「文」から奪うことになる。

だが、すでに暗示してあるとおり、ここで重要なのはそのあとの、この「辞」の役割さえを相対的に小さなものと映じさせる、「第二の」段階である。自身の大きさ〔ディメンション〕を超えて広がる地面には正しい角度で置くことができない特殊な構造ゆえに否応なく台座――制度の側から押しつけられる通常のそれと区別するためにポータブルな「テーブル」の卑近なイメージが必要とされたのであろう――を、自身の決定において下に置く彫刻。かつて他所に書いた文言をそのまま流用するなら、そのとき、――

 

それ[=テーブル]はたしかに作品ではないが、さりとてたんなる台座なのでもない。駄洒落ではなしに書くのだが、それは存在論的にはハイデガーの「大地」のごとくにして作品を支え、しかし同時に、認識論的には当の作品がその場所を大地から一段高まった、いわば「台地」として規定する。(拙論「コスース以後」『美術フォーラム21』第二号、二〇〇〇年五月、六〇頁)

 

いまこの駄洒落〔レトリック〕をもう少し体よく更新することが許されるなら、ここはマルクス主義――敵方クラークがそこに属する――のイメージを召喚したいところだ。文化や宗教といった上部構造(作品)が土台(大地)の上にしかありえない、との決定論/反映論を(俗流)マルクス主義が主張するのなら、それをこんにちまともに相手にする必要はない。だが他方、上部構造が土台に干渉しさえする「重層的」(アルチュセール)な関係を真正のマルクス主義が主題化するのであるなら――じっさいクラークの研究はそうした視点ゆえに新しいとされるのだが――、まさにそのような関係を作品と大地/台地にまつわって描くフリードとのあいだに、無意識の共鳴はありこそすれ、根源的な対立はありえない。右の論争の、しかし論争としての堕胎は、じっさい右の比喩によって説明が尽きるといいたい。

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こうして、しかしレトリックの気楽な連鎖は打ち止めにされるのである。ここではむしろこの「第二の段階」で、モダニズムの鍵語であった〈抽象〉の語に重大な語義更新が起こっている事態に着目しよう。というのも、端的にいって抽象とは、一九一二年から六二年の半世紀間にのみ有効な、いわば「期間限定商品」だったからである。いや、油絵の時代を一五〇〇年から一九〇〇年の四百年間と規定するジョン・バージャーにならった、いささか乱暴な単純化であることは先刻承知だが、その起点の一九一二年はカンディンスキーが最初の抽象絵画を描いたとされる美術史公認の抽象絵画元年であるし、六二年もアメリカン・ポップ勃発の年、すなわち抽象表現主義の圧政下(とされる)に具象的イメージによった芸術が生まれ、しかし皮肉にもそれによってこそ具象の命脈が断たれる年なのだから、われわれの単純化はかならずしもゆえなきことではない。そうしてまた、その具象の死とほぼ連動するかたちで訪れる抽象なるものの死――それもまたポップの場合と似てミニマル・アートという一見抽象的な営為によって引導が渡されることとなろう――を押さえておかないことには、フリードの抽象の用語法=語義更新の奇異さも、奇異なるものと映じてさえこないだろう(ちなみに抽象表現主義における抽象の忌避という意義深い逆説は、この段階での教科書的確認の課題を超えている)。じっさい、このことを自覚するがゆえにフリードは、先に引用した箇所に先立ってつぎのように明言し、あの問い=「大作の模型とも縮小版とも受け取られようのない彫刻」の秘密へと、論を継いでいたのである。

 

当時のカロは約定と呼ぶべきものに何とか対応することを切望していたのであり、私にいわせれば、小型化というだけではカロの必要の深さに対応できなかったのだ。[…]彼はさまざまな束縛が織り成す一個のセットを受容〔アクセプタンス〕(が、それにしても、それではあまりに事務的でそっけないから内面化〔インターナライゼーション〕ないし着服〔アプロプリエーション〕とでもいおうか)してきたのであり、それと折り合いをつけなければならなかったのだ。[…]私は、その束縛の数々を根源的な意味での抽象性〔アブストラクトネス〕という語と結びつける。ちなみにこの抽象性に対比されるのが具象性〔フィギュラティヴネス〕であってはつまらない。現下の文脈にあっては、むしろ直示性〔リテラルネス〕がそれに対になる語として召喚されねばならない。[…]あの控え目な大きさの作品は、偶然の、量的な、そしてその意味でたんにリテラルな、そうした事実として観者に受け入れられるのではない。そうではなくてむしろ、自身を抽象的な芸術作品として同定する重大な局面として、観者の目に強烈に映るのである――そう、その「形式」に内在するものとして、その彫刻作品の本質の一部として。[同右、一三三―三四頁。ただし拙訳の表記を一部改めている。]

 

科学にかんする池田清彦の物言いを流用するなら、芸術とは錯覚である。それは絵画を「一定の秩序をもって色彩が寄せ集められた一個の平らな表面にほかならない」(ドニ)とするような仮象説とは別種の、むしろ約定主義〔コンヴェンショナリズム〕の名を与えたい、そのような根源的な態度である。ならばその芸術を担保するモダニズムは錯覚に輪をかけた救いようのない錯覚なのかというと、そうではなく――芸術が〈真理〉の表出であると盲信するかぎりにおいてそういいうるだろうが――、芸術のその錯覚性/約定性こそを積極的に認知する。いや、認知するばかりかそれを体現する作品があらわれる。それは反芸術の外在的な批判とは明確に区別されるべきで、つまり徹頭徹尾つくることによって作品〈形式〉に内在し、そのことがまた〈内容〉を生みだすのだからである。

カロのテーブル・スカルプチュアがそのようなものであるとの即断よりも、ここは類例による傍証を急ごう。作品が世界と接合される場所〔ポイント〕の水平面[大地/台地]と垂直面[壁]のちがいを措くならば、カロについて書かれる内容は、しばしばミニマル・アートの起源と誤認されもする初期ステラが切り拓いた〈シェイプト・カンヴァス〉【図版】の革新の記述のために流用することが、可能であるし、またその認識が必要である。先史の洞穴画は別にすれば、およそ絵が描かれる支持体のなかで周囲の事物・空間から何らの区別もされていない、すなわち形づくられ〔シェイプ〕ていないものは想像しがたいが、しかもそれは通常は制作に先立って決定され、制作と鑑賞の時間にあってはその演繹性はそれとしては意識されないようにできている。ところがシェイプト・カンヴァスは、制作される内部が外部を規定するというかたちで、つまりその意味のかぎりで帰納的なものへとその関係を反転させつつ、――またこれこそ重要なのだが――その「シェイプト・カンヴァス」という同語反復的〈命名〉をつうじて認識論的出来事となる(いまだそのような出来事と認識されなかった先例としては、床に画布を置いて制作したのちに木枠にそれを張ったポロックのことがすぐ念頭に浮かぶ。あるいはカロについていえば、地面に置かれない彫刻はじつは多々あって、なかでもロダンの、片腕を側溝[そう呼びたくなる]にだらりと垂らすようにして横たわる小品【図版】[なにかの大作のまさに「模型」かもしれぬ]にフリードの分析にじゅうぶんかなう構造をみてとることができる)。

この連想はケージの、いわゆる〈プリペアド・ピアノ〉をも呼び起こす。フリードの六七年論文においては、ルイスにたいするラウシェンバーグの関係に比定されるかたちで(エリオット・)カーターにたいするものとしてその名をあげられるケージは、つまりはネオ・ダダ的な芸術破壊者の扱いを受けているのだが、けれどもまずはプリペアド・ピアノの命名がシェイプト・カンヴァスと同根の同語反復性をみずから告白してあまりある。プリペア(準備)とはチューン(調律)することの別名なのであり、ゆえに注意深い読者/観者/聴衆ならば、画布の場合がそうであるように、およそプリペア(調律)されていないピアノ(楽器)が存在しないことに、思いをいたらせないわけにはいかないだろう。

ちなみにこのとき、その「仕様」をマニアックに指定しながらピアノをプリペアするまさにこのケージの仕草――現にそのための詳細なマニュアル本さえあることはよく知られている――が、専属の調律師やときにはピアノそのものさえを随伴してコンサート活動をおこなったミケランジェリや、モーツァルトのトルコ行進曲を弾くのに純正律に近い調律を施した内田光子の、そのこだわりの陰画であることに、われわれは無頓着ではいられない。また、その脱臼させられた〔プリペアド〕楽器によって奏される物理的な音の流れに現に接し、そこに伝統的ですらある作品のかたちをみてとり、あるいは他の奏者の演奏〔パフォーマンス〕と比較したい欲望をさえ禁じえぬ聴衆もあることを、ここに告白しておいていいのだが、ならばその情動こそは、ステラの個々の作品にまつわって〈クオリティ〉をうんぬんせざるをえない場合のそれと、やはり相同形を描いている。フリードのカロへの評言を流用するなら、これがステラをして「現下の文脈にあって」ミニマル・アートのリテラルネスへの対抗軸たらしめていたというべきだが、しかし全般的にいって、これらの作品で賭けられているものが、当の作品を(芸術)作品たらしめる(=そう認識させる)諸条件あるいは限界を作品自身が明らかにする能力であることも、否定できない。この能力と対比されるのが、ただ漫然とそこにあって観者が訪れるのを待つ事物〔オブジェクト〕であり、観者を精子のごとくにして受け入れる子宮のごとき空間〔インスタレーション〕【図版】であるが、いずれにせよフリードにあっては、この能力なき能力〔オブジェクトフッド/シアトリカリティ/リテラルネス〕と対置されるのが、かつて具象性と対置されていたところの、芸術のもつ名づけがたい能力としての抽象性〔アブストラクトネス〕にほかならないのである。

ところで敏感な読者ならば、とりわけ先の「認識論的」うんぬんの議論から、「芸術は芸術の定義である」の、概念主義者コスースの初期の提言を正当にも想起していたかもしれない。ただしフリードの場合は、つくることで事物性〔オブジェクトフッド〕を昇華させた、肉化した作品をその視野から消すことなく、「芸術作品は芸術定義する」と能動的ニュアンスをそこに加えて、いわばトロツキー的な「永続革命」のイメージを付与することになる。これと、コスースの提唱した「同語反復」の純真性(作品自体【図版】はじつはずいぶん不純だったりするが)の、両者間の微妙にして激烈な差異が、二人の近親憎悪とすら呼びたい対立を生んだのであった。このことはいまや誰かが明言しなければならないが、すでに世紀をまたいだわれわれは、この件すらを歴史化し、「同語反復」のみならず「永続革命」もが〈自閉〉というコインの両面であった結果論にも、思い至らないわけにはいかない。

コスースがその一点での自立回転をやめて町へ、社会へと出ていったように、フリードは美術史家へと転身したが、美術史的にはそう興味深くはない(なかった)はずの十八世紀にプレモダン(パラダイム・シフト前期)に特有の大問題〔プロブレマティーク〕を発見するのは、彼が短い批評活動を展開した一九六〇年代がそれに先立つ十年間の抽象表現主義のような文字どおりすぐれた芸術を所有しなかったがその寡占後ゆえの問題が存在したという、フリード自身の所与の不幸/幸福と無縁ではない(フリードが処女単行書をそれに捧げたルイス【図版】は五十年代の残照であって、また同じ時期に批評活動を開始した藤枝晃雄もまたその作品をかつて「最後の絵」と呼んだのだった)。いや、すでに存在する問題をフリードがただ「発見」したといっているように誤解されたくはないので彼はそれを作家とともに「発明」した、と即座に注記もしておきたいが、ならばその十八(そしてマネ以前の十九)世紀研究についても、歴史の不均質としてあらわれる局面に「没入〔アブソープション〕と演劇性〔シアトリカリティ〕」の名を彼こそが与え、そこに新しい歴史認識をもたらしたのである。そう、くりかえしになるが、認識が命名のあとに起こるのであって、けっして認識されてから命名されるのではない。

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いや、本稿の真の課題は、じつはフリード批判にあるのだった。筆者は彼に心より敬意を払うものであるが――そうだ、芸術が演劇の状態に近づくと堕落するというのは誰がつまらぬ論理的批判をなそうが〈真理〉だし、その非民主的な文体こそ胸がすくというべきではないか!――、それと同じくらいに軽蔑もするのは、はっきりいってしまえばその美術史への〈転向〉、そしてまたインスタレーションの「勝利」――とはいえ坂本龍一の荒唐無稽なオペラ《LIFE》のまえではみな小賢しい児戯に(筆者には)みえる類のものだが――をさしてそれがのちに「ポストモダン」の「名」を得ることになったと語って済ませるような呑気さ、それゆえなのである。

フリードが美術史へと転出することで真にそこを開け拓いたのではない、あの批評的自閉――椹木野衣『日本・現代・美術』が描くナショナルなそれではない――から、われわれは真に脱出しよう。それが図られるとき、参照されるのがカロやステラであってはならないのは、もはやいうまでもない。いかにも直截にいうなら、われわれがそこから脱出すべき、あるいは芸術をそこから守らねばならない、その場所とは、カロやステラこそが最終的にそこに絡めとられることになる美術館なる場所でもあるからである。

美術館の外部――さりとてそれは、あの恥ずかしいアースワークならずとも通常のインスタレーションの類が本性において志向する、文字どおりの(つまり物理的な意味での)外部なのではない。そんなものはたかだか美術館の内部性を反転させたもので、やがてふたたび内部へと、しかもやすやすと、回収されていくだろう。ならばまた同様の理由で、アドルノの「文化産業」の語を引き合いにだして芸術をそこから救わねばならないと処女ぶるつもりも毛頭ない。想定されるのはむしろ、ホワイト・キューブとあだ名されるニューヨーク近代美術館の場合もまさにふくめた、美術館の中性的な非場所〔ノンサイト〕性が、フーコーの「美術館用の絵画」的な意味でそこに展観・収蔵されるほかないという意味のかぎりでのサイトスペシフィック性と、あまりに美しく結びつく状況であり、ならばこそわれわれは、フリードが語義更新をおこなった〈抽象〉の語にさらに「美術館(人)の感性を超えるもの」というほどの意味を付与したいとさえ考えるのである。

ちなみに、ここで賭けられている、語の同語反復的な意味で「ユートピア」的なこのヴィジョン――それは「ない場所」=ノンサイトの謂なのだから――を、われわれがこれ以上明確に示す必要はないが、他方、まさになにものかヴィジョンを語ろうとする精神が一瞬気を緩めたところでふとそうしたものが湧出する例を過去に認めることはできる。そう、その例証(症例)をみることができるのがフリードの八三年論文であることは、なんら驚くにあたいしない。これも他所で書いたことだが、フリードはそこで、それまでの分析とヴィジョンを台無しにする可能性すらを(「ここまでの考察を踏まえながらも、一歩踏み込むかたちで、最後に一言」といって)自覚しながら、こう書くことになるのである。

 

《テーブル作品第二二番》が芸術であるとの確信は、徹底的分析に抗うような何ものか、たとえばそのメタリックな光輝を発する灰緑色が他のすべての要素にたいして有する適切さまで含めた、作品のなかで作動しているすべての関係の正しさ(ライトネス)に、もとづいている。批評家がまず責任を負うべきは、その種の正しさにたいする直観なのであって、またその直観のゆえに批評家は直接に報われるのである。(同右、一三六頁)

 

この部分を読んで、またそれがカロにたいして捧げられる言葉であることを反芻するとき、筆者は、ボードレールが『一八四六年のサロン』中にふくめた「なぜ彫刻は退屈か」の節の、題名からして非民主的な内容を想起しわけにはいかなかった。

 

彫刻にはいくつもの不都合な点があって、それらは彫刻の諸手段から必然的に帰結するところなのだ。自然のごとくに粗暴かつ明確でありながら彫刻は同時にまた漠然として捉えがたなきものである。なぜならあまりにも多くの面を一度に示すがゆえに。彫刻家が唯一の視点に身を置こうと努力してみても空しい。形象の周囲を回る観覧者は、良い視点だけを除いて百もの異なった視点を選ぶことができるのであり、そしてしばしば、芸術家にとっては屈辱的なことだが、偶然に射す一条の光や、ランプの効果が、前もって考えたのではない美しさを露にして見せるようなことが起る。一枚のタブローとはそれが自ら欲するところのものでしかない。それ本来の光の方向に見る以外の見方というものはない。絵画は一個の視点しかもたない。排他的かつ専制的だ。だからして画家の視点は、はるかにもっと強いのである。(阿部良雄訳、『ボードレール批評I』[ちくま学芸文庫版、一九九九]、一九九頁)

 

コンストラクションの手法といい、素材の多様化と着色(可能性)といい、それが要請する多視点の統合/非統合(正確にはその「閾」における表現)といい、つまり初期カロ(そしてそこにひとつの帰結をみる近代彫刻)の達成は、この彫刻批判への抵抗から生みだされたと強弁したいところさえあって、だからまたその抵抗への賛辞として、本来が質的な色彩によって満たされた絵画(スーパーフラットなる概念とは無縁の)にこそふさわしい先の文言をフリードはこの同時代の彫刻家に捧げたのだといいたいが、いずれにしてもここでフリードは、その「正しさにたいする直観」を芸術享受者(その最初の者はもちろん作者である)の「報い」と述べ、あるいは逆にいえば、その報いあるものを芸術と認定しているのである。最後の最後にこの種の「報い(=救い)」の問題に逢着する「構成」それじたいは、六七年論文の末尾が「芸術は恩寵〔グレース〕である」の抗しがたい言葉で閉じられていたのとまったく同様なのだが、まさに美術史のアカデミズム(矮小化された意味のではなく)での文献学的かつ語用論的な豊穣な成果のあとにこうした、論証不能な文言が吐かれるところに、すべてが美術史化し、あるいは美術館化した、「現下の文脈」における対抗戦略への、示唆がある。

かくして、夏の休暇をまるまるつぶしてその論争を訳出した当の人間の言葉としては自虐的ですらあるが、この八三年論文の真の重要性は、グリーンバーグがまさにその「責任」において発動させた「直観」への回帰――反動と呼びたい者はそう呼べばいい――をはからずも提唱してしまった、あの末尾近くの一文にこそある、否、そこにしかない、の結論を記すことになる。じじつ、われわれはこの章句に導かれて、八三年論文のここに先立つ部分はむろん、あの六七年論文をも、過去のものとすることができるだろう(東浩紀の『郵便的、存在論的』が浅田彰の『構造と力』をそうしたように[笑]?)。ついでながら書けば、こうしてあの約定主義から解き放たれたこの瞬間にこそ、そのフリードとマルクス主義者クラークのあいだの、そしてグリーンバーグが自身の内部で止揚させた、真正の対立が現出するにちがいないのである。