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本の話

12/04
 フォークナー「死の床に横たわりて」。登場人物の会話、独白のみで物語を構築してしまうあたり流石としか言いようが無い。地の文がないのだからよっぽどうまくやらないとぐだぐだになってしまうだろうに。
ただ地の文がないからか、妙に読みやすい。ポイントとしては白痴の子供と、やや頭の弱い娘の内面もしっかりと書いているところか。
 同様のキャラクターは、例えば夢野久作の地方を舞台にした作品にも登場する。ただ、地方を舞台としたモダニズムという点では共通しているが、久作の痴人たちが一種のはかりしれない他者(語り手の罪の象徴であったり)である点がおおきく違っている。
 作品の完成度とは別として、フォークナーのその試みが成功しているのかどうか、判断のしようがなくひっかかる部分ではある。

10/20
 ナボコフ「セバスチャン・ナイトの真実の生涯」。後何回か読み直してみよう。親しい人物の生涯を描こうとする主人公というとミルハウザーの佳作「エドウィン・マルハウス」があるが、こちらのほうがよりねじれているような感じだ。いろいろ仕掛けはありそうなのだが、一回目は主として何故に語り手はこのように執拗に異母兄の人生を追おうとするのかということに関心を置いて読んでみた。簡単に結論は出そうに無い。
 イネス「アブルビイの事件簿」。創元社のシャーロック・ホームズのライヴァルたちシリーズの一冊。このシリーズでは「隅の老人」を読んだだけ。今後もおいおい読んでいこうかなと。これは結構面白かった。特に冒頭の「死者の靴」と「家霊の所業」が良かった。前者は何故死体は左右違いの靴を履いていたのかという謎を中心に展開する。双方とも途中で謎の団体なんかが出てくる辺りが唐突ではあるが。

 江戸川乱歩全集「怪人と少年探偵」。「超人ニコラ」は「猟奇の果て」の子供向けリライトのようなものだがまとまりのある分オリジナルの無茶苦茶さが薄れてしまったのが残念。とはいうものオリジナルの破綻具合が大好きという人間もそうはいないか。一方で「妖星人R」は少年もののなかでも荒唐無稽度では郡を抜いている。「宇宙怪人」なみの突き抜け方をしている。催眠術合戦はいいとして、その時小林君の見た光景を幻とするのはどうも・・・。
 法月綸太郎「法月綸太郎の功績」。白眉は「都市伝説パズル」。作品としての完成度はかなりのものかと。推理小説としての難易度は自作解説にもある通り、無茶苦茶高いわけではない。見事なのはラストの終わらせ方。この鮮やかさはカーの名作短編にも十分匹敵し得ると思う。まあ私がラストがうまい作品に非常に弱いというのはあるのだが(終わりがよければ途中の不整合はほとんど気にしないタイプです)。
 国枝史郎「八ケ嶽の魔神」。確かに完結しているのだが少し物足りない気もする。完結していない「纐纈城」の方が魅力的なのは仕方がないか。ただ山の民と水狐一族、人面祖の設定などは素直に凄いと思う。日本の歴史伝奇小説の歴史みたいなものにも興味が出て来た。しかし壮大な家族喧嘩だよなこの作品も「纐纈城」も。

07/16
 小栗虫太郎「失楽園殺人事件」。法水ものは短編でも読みにくい。
 久生十蘭「魔都」。登場人物たちが勘違いと思い込み、誤解で迷走を繰り返すその様が凄い。独特の語り口とあいまって不思議な印象を受けた。少なくとも登場する人物たちのなかに話の中心にいてすべてを見通すような人間は存在しない。ただそれでいて一応きちんと話を終わらすあたりが見事かと。
 ホメロス「イリアス」。普通に面白い。ちっちゃいころからギリシア神話にはある程度慣れ親しんでいるため、神々の関係や名前、性格を把握しているから問題なく読めたが、そうでない人は簡単なギリシア神話入門みたいなものを読んでからのほうがいいかもしれない。
 「氷川瑯集」。過去と密接に結びついた女性と、その幻影から逃れられない男というテーマが繰り返しあらわれる。ただそういった一連の作品よりも処女作の「乳母車」が見事。綺堂や百閧ェ書くような「理由のわからない怖さ」とは別種の「理由が容易に想像がつく」ことによる怖さがある。「解る」といっても因果応報的な怪奇譚という意味ではない。というかそこには怪異は一切存在しない。逆に有る意味で生々しい怖さ。
都筑道夫「キリオン・スレイの生活と推理」。探偵を外国人にする意義というのがいまいちわからん。というか小説向きの設定とは思えないのだが。謎解きは通訳を介してやるわけだし。スペクターみたく駄洒落とばすわけでもないし。まあそれは嫌だけど。この作品を読んだ後、都筑氏のエッセイ「私の推理小説作法」を読んだ。そこにはキリオン・スレイを外国人とした理由がのってはいるのだが、そういう時代だったのだろうかという感じだな。ただそれはそれとして作品としては面白いです。毎回毎回逆説的な問題を掲げてそれを解決させるという趣向は法月綸太郎の「死刑囚パズル」なんかもそうなのだが個人的に非常に好きなので。
アシモフ「ロボットの時代」。原題は「The Rest of the Robot」なのか。あまり印象の良いタイトルではないのだな。作品の質も前作と比べるとまばらというか。ただその質のばらつきゆえに個人的にはこっちのほうが好み。ただ「AL76号失踪す」の最後のオチの脱力感はまだいいとしても「第一条」は流石にどうだろう・・・。「みんな集まれ」はなんというか、時代の空気がもろという感じだが、作品の内容よりもアシモフ自身の前解説にある逸話のほうが興味深い。確かになんでこれがポルノ雑誌に載るんだろうか。とても謎だ。第3部の作品群はいずれも「我はロボット」の諸作と比べても遜色ない出来。大きな違いといえばロボットと接する人間の心の動きが前面に出てきていることか。
05/30
 戸板康二「小説・江戸歌舞伎秘話」。乱歩御大の評論か何かで見た名前なので。著者は本業は歌舞伎の評論家らしい。その豊富な知識をふんだんに駆使した小説というところか。私は歌舞伎は全く知らないのだが、それでも大層面白く読めた。扶桑社の昭和ミステリ秘宝シリーズの作品だが、どちらかというと歴史小説といったほうが正しいと思う。一種の偽史とでもいうのだろうか、歌舞伎上の工夫にまつわるエピソードを想像して作品にしあげている(この作者自身の姿勢がどこか安楽椅子探偵的というのはいえるかも)。そのため冒頭の「振袖と刃物」以外の作品は全て結びに歌舞伎百科からの解説が載っている。この辺り読み手にも歌舞伎の知識があればより楽しめるのかもしれない。
 ネルヴァル「火の娘たち」。私は文学的知識といえばかろうじて英米関係が少々というところなのだが、学生時代に読んだエリオット(T.Sのほうね)のおかげでネルヴァルやボードレールの詩などのいくつかは読んでいる。その時読んだ「廃嫡者」が掲載されていたので懐かしさもありつい購入。詩しか読んだことなかったので小説はこれが最初。「イシス」でオシリス神話を扱っているのを見て、エリオットはこれも読んだのだろうかとふと考える。「アンジェリク」ではビュコワ神父という人物に関する書物の話からはじまり、神父の叔母にあたるアンジェリクという人物の話へと移行する。神父の話はどうなってるんだろうと思ったら終わりのほうに、神父に関する物語は「幻視者」という私の書物で、お読みいただける・・・とのこと。なんとなく気になるのでとりあえず図書館で探してみることにする。
 麻耶雄嵩「夏と冬の奏鳴曲」、「痾」、「メルカトルと美袋のための殺人」、「木製の王子」、「名探偵木更津悠也」を一気読み。一番軽めの「メルカトル〜」が一番面白かった。
 大阪圭吉「銀座幽霊」。戦前数少ないトリック重視の作家とのことだが、その分今読むとつらいところも。良くも悪くも簡潔。
 クイーン「十日間の不思議」、「九尾の猫」。どちらの作品も登場人物が非常に限られているため犯人とか詮索せずに読み進めたほうが良いかもしれない。前者は宗教、後者は精神分析がピンとこない人にはピンとこないかもしれない。私は後者があまりピンとこなかった。私は「警視自身の事件」、「緋文字」といったエラリー以外の登場人物が前面に出てくる作品やドルリー・レーンものから読みはじめ、国名シリーズに移って行ったのだが、いまいち探偵としてのクイーンには魅力を感じなかった(国名モノで一番好きなのは「ギリシア棺」なのは、失敗するクイーンというある意味人間性が前面にでているからかもしれない)。しかしこの2編はトリックよりもドラマ性に重心を置いているからか悩みいらつく探偵クイーンがとてもよい感じ。次は「第八の日」でも読もうかね。
 法月綸太郎「法月綸太郎の新冒険」。WireやGO4、岡崎京子といった小道具の趣味がとても合う。内容的には微妙。
 アシモフ「われはロボット」。アシモフで読んだことがあるのは「黒後家蜘蛛」だけといのもなんなので読んでみた。「うそつき」での嘘をつくロボットというのは手塚治虫も書いてたな(嘘をつく理由は全然違うけど)。三原則にまつわる知的遊戯といった感じだろうか。

05/2
 内田百閨u居候匆々」。居候を主人公とした話が掲載紙がつぶれてしまって中絶というのもなんとなくおかしい。
 ガストン・ルルー「黄色い部屋の謎」。ルルーは「オペラ座の怪人」の作者として有名。「黄色い部屋の謎」はその密室トリックで有名なミステリの古典だが、私は読む前に例によって乱歩御大の評論でトリックを知ってしまいました。まあ動機や犯人については知らなかったので完全に話のネタを全て知って読んだわけではないのは幸い。良く出来てるなあとは思うのだが、同じ古典といってもカーやクイーンなんかと比べてしまうと古さのみが目立つというか。セイヤーズのように風俗的側面が強く出てるというわけでもないので推理小説の歴史的作品を抑えておきたい、ないしは古い作品から順に読んでおきたいという人向けかも。
 エラリー・クイーン「災厄の町」。高校生の時に初めて読んだクイーン作品を十数年ぶりに再読。私は小学生のとき子供向けの「Yの悲劇」を途中で放り投げた経験があり苦手意識があったため「悲劇」シリーズを避けて(何故か国名シリーズも避け)この作品から読み始めた。ちなみにその後「クイーン警視自身の事件」、「緋文字」とあまりメジャーじゃない作品ばかり読んだ。余談だが、子供向けの「Yの悲劇」の表紙だか挿絵だかに胡散臭い爺さんが書いてあった。怪しいなあという印象だけが今でも強く残っている。しかし今から良く考えたら、その爺さんは間違いなく探偵のドルリー・レーンなんだよな。
 しかし十数年ぶりとは言っても結構憶えているものだ。派手さはないのだが無理なくうまくまとめていたところが強く印象に残っていたからだろう。ただ個人的に昔も今も良くわからないところがある。それはクイーンのこの小説に限ったことではなく、海外小説を読んでいると結構出くわすことなのだが、登場人物たちの恋愛感情の変遷がいまいちピンとこないことが多いのだ。唐突に思えるんだよなあ。まあ私の読解能力や感性に問題があるのかもしれないが。
 法月綸太郎「ふたたび赤い悪夢」。「雪密室」に出て来た畠中有里奈再登場。最初すっかり忘れてて誰だかわかんなかった。漠然とした感想なのだが法月警視など一部を除いて登場人物たちは会話、というかコミュニケーション能力がかなり破綻しているように思えた。それが過去に囚われている彼らの現在に強い説得力を与えてはいるのだが。途中挟み込まれるDJによるどこかで聞いたことのあるようなアイドル論がいい感じ。個人的には「誰彼」以降久しぶりに法月警視も前面に出て来たのも良かった。
 笠井潔「バイバイ、エンジェル」。現象学に関する部分って必要?まあ私は現象学って竹田青嗣の解説本くらいしか読んだことがないのであれなんですが。ただたとえば、京極夏彦の京極堂シリーズのように作中人物の衒学的な解説が直接ストーリーに説得力を与えていたりするわけでも、法水のように話を混乱させているわけでもないし。探偵役の矢吹駆の探偵技法を「現象学的」と解説ではしているが、それが矢吹自身述べているように、幾多もの可能な解釈の中から本質的直感によって答えに到達する方法であれば、従来の名探偵たちと変わらないわけで。ただ終章が結構良かったので次の「サマーアポカリプス」は読んでみる。
 リチャード・ブローティガン「バビロンを夢見て」。大学時代に初めて読んだブローティガンの作品。「鱒釣り」や「西瓜糖」はあまり好きではないのだが、この作品は好き。最初に読んだのがこれじゃなかったらブローティガンを何冊か読むことはなかったのではないかと思う。。「A Private Eye Novel 1942」という副題が示すとおり、一応はハードボイルド探偵小説の体裁にはなっている。ダメ探偵が不条理な出来事に直面するという点ではアンチ探偵小説ではあるが、1977年出版ということを考えればむしろパロディの対象となっていると思われるタフな探偵のほうが珍しいのではないだろうか。パルプマガジンオタクで癌フォビアの名無しのオプとか、肉体面でハンディキャップを負っているダン・フォーチュンとか、普通人アルバート・サムソンとかがすでにデビューしているわけで。また内容の面でも主人公は意味不明な状況に振り回されるだけで終わっているので探偵小説云々という文脈で見る必要は全く無いのかもしれない。ただ「探偵」という職業が主人公の持っている妄想癖と強く関係してはいるのだろう。何せモルグでベラ・ルゴシがどうとか考えたり、自分の妄想の中の敵役をフラッシュ・ゴードンから取ってくるような人物なのだから、ハメットやチャンドラーの小説を読んでいたとしても不思議ではない(むしろマイク・ハマー?とも思ったがハマーのデビューは40年代後半。ブローティガンの頭にはあったかもしれないが、主人公が読んでいたということは無い)。
 さてこの主人公を見事なダメ人間にしているその妄想癖。本人は「バビロン」と名づけているものだが、ストーリーのかなりの部分をこの妄想が占めている。その妄想が実人生に多大な悪影響を及ぼしているあたり個人的にかなり好感が持てる。その妄想は娯楽小説そのもので主人公はそこでまさにヒーローといった活躍を見せる。現実に遭遇した事件もどちらかというとバビロン的な不条理なものなのに、舞台が現実なだけに全くうまくいかないあたりは悲しいが。そんな中ラストに急にほとんど前触れなく(一応伏線のようなものがあるけど)ある人物が現れて物語を終わりに導く。このラストがまた良いのである。この大人になりきれない(なる気がない?)主人公にかなりの共感をおぼえている辺り私も結構救いが無い。結構良い作品だと思うのだがいま絶版なんだよな。新潮社文庫にしないかなあ。

04/17
 内田百闖W成「大貧帳」。借金で有名な百關謳カの借金話を集めたもの。同門の森田草平とのやりとりを描いた「大人片伝」も収録。私はこれが好き。巻末にはその森田草平が内田百閧フ逸話を書いた「のんびりした話」も収めてある。そもそも「大人片伝」は副題に「続のんびりした話」とあるように、森田氏のエッセイに対するお返しのようなものらしい。料金の支払いが遅れるとすぐ電気がとめられることに関しては、電灯の使えなくなった家が蝋燭を使い、それで火事をおこしたら見に行ってやると皮肉り、水道が以前と違いこちらもすぐ止められてしまうと、「泥溝の水をがぶがぶ飲んで、赤痢になって、方方駆け廻ってやろうかと考えた」とくる。なんというか見事なものである。いざというときのことなど考えて少々の金にびくびくしている私などには真似はできない。
 アルトー「ヘリオガバルス」。伝記というのも違うが小説というわけでもない。オリエントというローマにとっては異教の神を奉じ、4年の在位の後、無残な最期を遂げるローマ皇帝ヘリオガバルスの物語。なんというか、一種の妄想をそのまま投影させたような感じがするのだが。体力のいる一品。アルトーに関する予備知識なしにいきなり挑戦するのは危険かも。
 都築道夫「なめくじに聞いてみろ」。すげえ面白かった。父の「遺産」の片をつけに上京してきた主人公。問題はその「遺産」。といっても土地とか財産とか実は血を分けた生き別れの兄弟がいるとかだったらまだよかったのだが・・・。実は父親は戦時中ドイツにて様々な殺人方法を研究していたかなりいかれた人物で、しかも困ったことにその道の天才だった。戦後故郷に帰ってからも家族に内緒で密かに研究をおこなっていた。ただ彼は小心というかなんというか、自分では虫もころせない人間だった。なので、東京の殺し屋たちに通信教育をおこなって自らの編み出した奇天烈な殺人術を世に送り出していた。父の臨終の際の告白でそれを知った主人公は父親の編み出した技術によって犠牲者をこれ以上増やさないためにも何とかしようと決意する。といっても相手が相手だけに面と向かって「止めて下さい」などというお願いが通じるわけもない。じゃあしょうがない、脳細胞ごと破壊してしまえと顔も名前も、そしてその殺人術すらわからない相手を始末しにはるばる東京へ。なんというかこの親にしてこの子ありという感もなくはないのだが。扶桑社の「昭和ミステリ秘宝」シリーズとして復刊したものだが、内容はミステリというより破天荒なアクション小説というかんじ。山田風太郎忍法帖などが結構近いかも。見所は殺し屋たちの手法。作中、主人公が「殺し屋を探してるんだって」と聞かれて、「拳銃や猟銃を使うやつなら、用はないんだ」というとおり、奇抜な方法ばかり。この辺りはミステリ作家都築道夫の面目躍如か。かなり上質のエンターテイメントだった。
 泡坂妻夫「11枚のとらんぷ」。著者の長編1作目。私の今まで読んだ泡坂作品は全て連作短編で、長編を読むのは初。作品は3部構成になっており、導入部はアマチュア奇術クラブの舞台で始まる。アマチュアならではの失敗も多数まじえて、スラップスティックに進んでいく。しかしそんな喜劇的展開の後、さっきまで一緒に演じていたはずの仲間が自宅マンションで殺害されていたことを知らされる。しかもその周囲にはクラブのメンバーが自費出版した奇術小説に出てくる小道具が散乱していた。第二部はその奇術小説がいわば作中作という形で挿入される(題名はこの作品とおなじ「11枚のとらんぷ」)。最終部は奇術の国際会議の会場。会議での他人の公演や自分の講義をきっかけに真相に近づいた奇術クラブメンバーの鹿川による謎解きがメイン。その謎解きによって、一部、二部に仕掛けられていた複線がどんどん明らかになっていく。正直伏線だと後から言われなければわからないほど自然に仕掛けられており、全然気付かなかった。脱帽。
 法月綸太郎「頼子のために」。前作ではしつこいほど饒舌だった法月探偵は一転して足を使って謎を探っていく探偵に転身。父の警視も出番はほとんどない。娘を殺された父親の手記。そこには娘の通っていた学校の教師を犯人と断じ、彼を殺害するまでが書かれていた。そして自殺の決意で手記は終わっていた。
 おさまらないのは面目をつぶされた警察とスキャンダルを恐れる学校。おまけに学校の理事長は中堅の議員であった。彼が対策を検討した結果、何故か法月探偵に調査の依頼が廻って来た。スキャンダル対策に利用されるのは真っ平ごめんの法月探偵ではあったが、手記を読み進めていくうちに手記の中の奇妙な点に気付き、事件の調査に乗り出していく。
 友人にJoy Divisionを送る少年のやっているバンドが当時のバンドブームの影響満載というのはちょっと笑ってしまった。まあ、しかしJoy Divisionは確かに女子高生の聞く音楽ではないかもなあ。
 あとがきや解説にある高名なハードボイルド作家の名前が出てくる。実際読んで連想するところはかなりあるのだが、それゆえに一種のネタばれになっているという面もあるのでその方面に詳しい人は注意。問題の所在がどこにあるのかすぐわかってしまうから。ただ背後にあるものがなにかがわかったとしても終章は見事。法月探偵は果たして最後どのような表情をしていたのだろうか。
 読み終えた後、この物語の中心であり、初めから死者として登場するために法月探偵とは決して会うことのなかった頼子という少女がもし、生前探偵と出会っていたら物語は一体どのように変わっていったのだろうかとふと考えた。もしかするとラストはリューインの「A型の女」のようになっていたのではないかと夢想した。なんともいえないやりきれなさを感じる傑作だと思う。
 法月綸太郎「一の悲劇」。「頼子のために」のアンチテーゼというのもなんとなく解る気がする。探偵がかつての探偵のポジションに立っているという点も、ラストにほのかな救いが見える点でも。語り手の不合理な証言を信じ、事件にかかわっていくあたりは名探偵らしくてよかった。前作のほうが好みだが良作なのは確か。

04/10
 岡本綺堂「白髪鬼」。表題作と「水鬼」、「木曽の旅人」は傑作。とはいっても全て筑摩文庫の綺堂集に入っているので既読。この光文社版の怪談集を集めていって思うのは、筑摩の選集は非常に良い出来だなあということ。光文社版はもっともっと読みたい人間向けか。とはいえ絶版になっているのも何冊かあるのがなあ。「水鬼」が特に見事だなと思うのはタブーとされている幽霊藻という水草に触れることになる描写。非常に官能的でその後の彼女の運命をはっきりと暗示している。またその時の年齢が14歳というのも絶妙。男でいうと元服の年齢くらいか。今の感覚で言うと非常に不安定な時期であるが、当時だとどうかは不勉強にして知らない。ただ、作中でも「小娘で色気もない」と回想していることからまあそういう理解でいいと思う。「白髪鬼」では登場人物の山岸は自分にしか見えない幽霊に悩まされ、弁護士試験に失敗してばかりいる。それを郷里の父親にうちあけると父親にもどうも思い当たるふしがあるらしく、弁護士をあきらめて戻ってこいと説得されたということを友人である語り手に話すシーンがある。語り手は何故あなたの父親はそんなことをいうのでしょうとたずねるのだが、山岸はこう答える。「判らない。ただ判らないながらもなんだか判ったような気もするので・・・」と。文脈を無視していうが、綺堂怪談の面白さというのはここに尽きると思う。怪異の謎は全くわからない、でも完全に理不尽かというとなんか納得できる部分がないわけじゃいというような。
 泡坂妻夫「妖盗S79号」。芸術品をこよなく愛し、決して人を傷つけることなく目的を達成せしめる怪盗。間違いなく20面相の系譜に連なる盗賊だが、作中ではその姿は前面にでてくることはない。むしろ主役は追いかける側である警察の東郷、二宮両警部。そして彼らは明智小五郎の系譜ではなく、どちらかというと銭形のとっつぁんの系列に属している。特に東郷警部は危ない。同僚の二宮警部を疑うなど日常茶飯事。挙句の果てにはS79号の見事な手口を見ていくうちに、実は自分自身が知らないうちにS79号として盗みを働いているのではと己の正気をも疑う始末。個人的ベストは「檜毛寺の観音像」。彫刻家の芸術観(以外なことにラストで少々意味を持つ)やばあさんのキャラクターがユニークで印象に残る。
 法月綸太郎「誰彼」。あとがきでデクスターに触れているが、探偵がやたら推理を量産し話しをこんがらがせる辺りは確かに彷彿とさせる。謎をむやみに作る探偵という点では法水氏とも相通じるし。読み終わった後なんか釈然としないというか騙されている感が残る。ただそれは不満というのではないのだが。実直な法月警視と天才型の息子というとりあわせはクイーンにならったとはいえ、やはり面白い。とくにこの作品は警視の存在がなかったらかなり変な代物になってしまうだろうし。長編を一作目から順に読んでいるがはまりつつある。これらの作品は既に私がミステリを読んでいた高校生のころには出版されていたのだが、そのころは海外ミステリと古典ミステリばかり読んでいた(後者はここ2,3年でまた読み始めたが)。例外は島田荘司で氏の作品は当時でているものはほとんど読んだ。だがそれ以外のいわゆる新本格ものはいろいろありすぎて手をつけないでいるまま受験生になり、娯楽小説からは離れてしまった。再び読み始めるようになるのは数年後ふと京極夏彦を読んでからで、そのまま今に至っている。まあその空白期間を今から埋めていくか、ってな感じかな。

04/5
 佐藤友哉「鏡姉妹の飛ぶ教室」。少なくとも一作目の「フリッカー式」を読んでおかないとラストを理解しずらいかもしれない。
 地震によって地下に閉じ込められた学校でのサバイバル。といっても食料問題とか、生き残った人間の間でおこる(一般的な)摩擦などというのはあまり前面に出てこない。ただどこか浮世離れした登場人物のせいで全く不自然ではない。小中学校時代このくそつまんない日常がどっかで崩壊して面白いことにならないかなあとしょっちゅう考えていた人間としてはとても楽しく読めた。とはいえ、実際にそんな事態に遭遇したら生き延びて登場人物になることすらかなわぬその他大勢になってしまう可能性が一番高いんだけど。とはいえそんな現実的な妄想してもちっとも楽しくないし。
 鮎川哲也「赤い密室」。星影龍三ものの短編を集めたものの一巻。「りら荘」のもととなった「呪縛再現」が読みたかったので図書館で借りて来た。「呪縛再現」は鬼貫が主役で星影は嫌味な引き立て役というポジション。この2人のからみが面白かった。落ちていたりんごの皮からホームズよろしく向いた人間の特徴を推理してみせる星影。それに対して鬼貫はこれまた落ちていた南京豆の殻をさして、「これを食べたのがどんな人物かおわかりですか」とたずねる。あまりに情報のないその物体に対して渋い顔をする星影に対して鬼貫は「年の頃51、2の日雇い労務者風。右足が軽いびっこで・・・」と答えを述べる。なんでそんなことが解るのかとすごむ星影に対して、「私は見たのです。その男は私の眼の前で南京豆を食べた。だからよく承知しているのです」とさらっと答える。作者自身の考えかどうかは置いておいて(実際この後星影を主人公とした本格物を書いているわけだし)、これがいわゆる超人型の探偵に対する強烈な批判にはなっているなと。
 「鷲尾三郎名作選」。「文殊の罠」に興味があって購入。その「文殊の罠」だがひとつ間違えばバカミスになりかねないアイデアで、そういう意味では後半に納められた「毛馬久利」ものと通じるところがあるように感じる。解説に出てくる綾辻氏の作品は私も読んでいたが、この解説読むまで忘れてた。道理で最初に「文殊」読んだとき、新本格っぽいトリックだと思ったわけだ。小説としては「鬼胎」と「生きている屍」が書簡体をうまく使っていて面白かった。
 モーリス・ルヴェル「夜鳥」。乱歩の「鬼の言葉」で何度か言及されていたので興味をもち購入。「新青年」で連載されていて好評を博していたが、ある時期を境に忘れられた作家となってしまったとのこと。なんとなくそれも解らないではない。扱っている内容は暗いのだが、よくも悪くも軽い。無駄がなさ過ぎるとでもいおうか。非常にきれの良いショートショートであり面白いのだが、引き合いにだされているポーと比べるとそこには歴然とした差があるような気がする。オー・ヘンリーが文学史で単なる一流行作家として扱われているのと同様の理由で忘れられてしまったのではないかと。同じような忘れられた名手というのははどの国、どの時代にも、そしてこれからも確実に一定数存在するのではないだろうか。巻末には不木のエッセイが掲載されているが確かに不木や水谷準あたりが書いていてもなんら不思議はなく、そういう意味では筑摩の「怪奇探偵小説名作選」あたりと続けて読むといっそう面白いかもしれない。というか俺はそういう読み方をしたのだが。個人的なベストは「老嬢と猫」。
 法月綸太郎「法月綸太郎の冒険」。短編集一作目。冒頭3作とその後の図書館探偵物との間の雰囲気のギャップが結構凄い。冒頭の「死刑囚パズル」。犯人は何故死刑執行を直前に控えた囚人をわざわざ殺したのだろうか。このシチュエーションの発想それ自体がとてもユニーク。「密閉教室」、「雪密室」とも通じるモチーフを持っていて私は好き。法月探偵はクリムゾンの再結成を待ち望み(「土曜日の本」。余談だがクリムゾンは実際に再結成をし、「Vroom」という傑作を物にした)、ライドを「90年代ロックの希望の星」(「緑の扉は危険」)と呼ぶ(私の基準でだが)とても趣味の良い人なのだな。ちなみにライドは結局「90年代初期の一瞬の輝き」だった。法月探偵がかけていた(そしてかけようとしていた)「チェルシーガール」と「ライク・ア・デイドリーム」は編集盤「Smile」に収録。個人的にはオリジナルアルバムよりこの編集盤のほうがずっと良いと思っている。
 岡本綺堂「鷲」。綺堂の怪談集。はずれなし。「怪獣」は綺堂には珍しいある意味で因果のはっきりとした呪いものなのが印象的。ベストは「くろん坊」。異種族婚譚の亜種ともいうべきものだが、導入から結末にいたるまでの構成や舞台仕立て、道具仕立てが本当に見事。隠密として活動していた叔父の話として物語は始まる。任務の途中、山奥で一軒の小屋を発見した彼は休ませてもらおうとそこと訪ねる。その小屋には若い僧が暮らしていた。快く招き入れてくれた僧侶だが、一晩泊めて欲しいという叔父の願いに対しては、それまでの親切な振る舞いから考えられないくらい頑なに拒絶する。結局叔父の願いに折れた僧侶だが、その際、「何がおころうが決して気になさらぬように」という昔話の定番のような台詞を残す。そんなこと言われたら眠れるものも眠れなくなるのが人間。叔父もご多分に漏れず気になって眠れなくなる。すると夜半どこからともなく「からから」という嫌な感じの笑い声が聞こえてくる。僧が言ったのはこのことかと合点がいったものの、さてどうしよう。正体を見極めようか、それとも忠告どおりに気にしないことにするか。結局叔父は後者を選び、翌朝特に何も尋ねることなく、僧のもとを後にする。その後そこから少し離れた部落にたどり着き、そこの人々に僧の家族におこった悲劇と笑い声の正体をしる。怪異には合理的な説明がつくのだが、それが最後の叔父の回想の言葉とあいまって物語にいっそうの物悲しさを与えている。余談だが、綺堂の怪談は大抵それを体験した人間が聞き手に語る(〜君は語るとか)、ないしは語り手が実際に親しい人間に起こった話として語る(「くろん坊」はこっち)ケースが大半。思ったのだが、このパターンはいわゆる現代でいうところの「俺の友達(の友達)がさあ・・・」的噂話に通じるものがあるなと。そんなことを同居人に話していたら、やつはそこに百物語との類似を見ていたらしい。俺は話にリアリティを与える技法として認識していただけだった。まあ同根なのかもしれないが。

03/17
 江戸川乱歩全集「ふしぎな人」。メインは20面相もの。基本のパターンは踏襲しつつもその範囲内で変化をつけているのが流石。少女誌に連載されていたものは危険な目にあうのが読者と同年代の少女に設定されていたり、小林少年にかわりポケット小僧が前面にでてきて活躍するのがその好例か。低学年むけのものはひらがなが多くて、おっさんになった今となっては微妙に読みにくかった。でも俺も20年くらい前はこういうのを読んでいたんだよな。
 内田百闖W成「うつつにぞ見る」。人物論を集めたものだが、多くは追悼文の形式をとっているため少々しんみりしたものが多い。個人的は花袋、菊池寛、豊島与志雄などの文壇関係者の話が面白かった(豊島、菊池に関連して当然のごとく共通の友人である芥川も登場するし)。偏屈というかどこか意地悪いなかふと、夭折した息子や弟子たちを偲んでみせるのだからたまらない。そうかといえば、「あさり、しじみ〜」という行商のおっさんの声が心臓の持病で苦しんでいると「あっさりしんじめえ」と聞こえてくるなどと自虐的な(でも当人にとってみると笑い事ではないのだろう)逸話も披露されている。
 「アジンコート」の最後の「生きている間は、実にそっけなく附き合ったが、いなくなると一生懸命に探し、いないときめた後は又いつ迄もその思い出に取り縋ろうとする。」の一文が人事とは思えないほど切ない。10年くらい前だったらそういう態度に対して、「いなくなってからどうこうしたってしょうがないだろう、そんなに大事なら平素からしっかりとつきあっておけ」くらいは思ったかもしれない。でも、皆急にいなくなるんだもの・・・。

03/01
 岡本綺堂「中国怪奇小説集」。捜神記などからピックアップした怪奇譚を集めたもの。牡丹灯篭のもとねたや八犬伝の八房が敵の大将を討つはなしのもとねた、怪談の超定番の再度の怪(のっぺらぼう見て逃げ出した人間が次にあった人間にそれ話したら「それはこんな顔でしたか」とか言ってそいつも同じ妖怪だったつうやつね)など単純に面白い。綺堂の書く怪談が因縁譚というよりはより不条理性の濃いものなのは、こういう大陸の怪異譚の影響がこいからだろうか。
 「ドン・キホーテ」後編読了。後半第二巻からドン・キホーテの狂気に乗じて様々ないたずらを仕掛ける公爵夫妻が登場。後編の作品世界では現実世界とおなじく、「ドン・キホーテ」という作品が刊行されているため、かの騎士は一部で結構な有名人になっている。ちなみに当時存在した偽作(セルバンテスによるものではない)「続ドン・キホーテ」もやはり刊行されたことになっている(作中で悪口いわれまくり)うえに、その主人公は偽者として何度か作中で言及される。そのため、前編ではドン・キホーテが振りまくある種躁的な狂気が中心でありその周囲の現実とのギャップがユーモラスだったのに対して、後編では周囲が率先してドン・キホーテの狂気に乗ってくる。そのため騎士とその狂気よりも公爵たちを中心とする周囲の悪ふざけのほうが目立ってしまう。アロンソ・キハーノとして正気に返る最終章のせいもあるだろうが、後編はどこか物悲しく痛々しい。ラストが近づくにつれ、ドン・キホーテの影が薄くなるのだが、狙ってそうしたのなら見事だな。ナボコフは偽作に出てくる偽者(セルバンテスにとってみればだが)に言及してるのだから、作中で本物と偽者を対決させるべきだったと言っているが、その気持ちはわかる。でも後半のトーンだと対決は本物の敗北に終わるしかなさそうではあるが。
 江戸川乱歩全集「鬼の言葉」。探偵小説と日本探偵小説界に関する評論、随筆を集めたもの。「本格探偵小説の二つの変種について」のなかの小栗「黒死館」評が見事。ちなみに「黒死館」と並ぶ奇書夢野「ドグラマグラ」に関してはいまいちピンとこないといった旨のことを言っていた記憶があるが(この巻にはその文章は入っていなかった)、それはそれで正直な感想だなと感心したのを憶えている。特に面白かったのは日本探偵小説界についての文章。当時長編が不作だったことについて(上記「黒死館」や浜尾四郎を例外としてあげているが)、雑誌連載が発表媒体のメイン(というか唯一?)であることをあげている。見せ場を毎回作らなければいけないために一貫性が犠牲にされたりするからだろうが、乱歩自身の作品にそういう傾向があるので、普遍的かどうかはおいといて結構な説得力を持つ。また、日本探偵小説の特色としてその多様性をあげている。これは今の我々にも容易に想像がつく。海野十三のように科学小説と推理小説をミックスさせた人物がいたり(海野は架空戦記のはしりでもある)、久作のような幻想小説の書き手も探偵小説にふくまれるのだから。まあ始祖ポーの系譜を受け継いでいるといえばいえるが。それだけ純文以外の書き手の発表場所がなかったのかなと勝手に想像してしまったりするが。また、本来まだプロとしてやっていくには力不足な人間を多く世に出してしまったことにも触れている。まあこれはいつの世にも、どんなジャンルにも存在する問題だわな。白眉は「幻影の城主」。「無残絵は好きだけれど、本当の血には興味がない」といった感覚は非常に良くわかる。また、「書いたもので世の中を良くしようとも悪くしようとも思わない」というのはそのエロ、グロといった作風を低俗ないしは俗悪として左翼側から非難されたと思えば、「芋虫」では逆に称賛され、当局に目を付けられたことを思い返しているのだろうか。現実においては弱者でしかないがために生まれた幻影の城。「現世は夢、夜の夢こそまとこ」という乱歩の有名な言葉があるが、乱歩にしろポーにしろ夢想家ではあったのだろうが、昼の世界と夜の世界の間の境界は認識していたのだろうな。ポーにとってはそれは悲劇だったかもしれないが。はてさてその境界が崩れたとき私の場合は幸せになれるのだろうかとふと考える。

02/20
 鮎川哲也「モーツァルトの子守歌」。三番館ものコンプ。全ての作品が一定水準以上の面白さを保っているというのが凄い。
 同じく鮎川「下り”はつかり”」。短編傑作選である。「赤い密室」は「りら荘」のなかで言及されていたな。時刻表などを使ったアリバイ崩しが私はあんまり好きではないので鬼貫ものはあわないのかもしれない。河出の名作選のほうがすきかな。
 読んでいて漠然と思ったのだが、似た(または同じ)地名を使用して探偵役、ひいては読者に錯誤をおこさせる方法というのは定番でやられて腹が立つということはないが、地形でやられるとすげえ腹たつのは何故だろう。体験してみたい人は蘇部健一「六枚のとんかつ」を読んでみてください。
 石川淳「普賢」。今流通している講談社学芸文庫とは収録作がことなる集英社文庫のもの。表題作以外には処女作の「佳人」、「葦手」「秘仏」が収録。読み終えて頭に浮かんで来たのは「ポリフォニー」とか「エクリチュール」とか懐かしい単語。といっても中途で投げ出しているので一知半解ではあるのだが。
 四作読んだだけではあるが、この人の文章は不思議な魅力がある。舞城や町田康などとも通じるようなまとわりついてくるような文体。「秘仏」なんて内容面でも町田氏が書いても全然違和感のない作品だろう。それでいて語られている内容は結局は自己弁護の親戚のようなものなのだが、その落差がまた良いのである。
 阿倍和重「グランド・フィナーレ」。「普賢」の直後に読んだ。そして気付いた、石川淳も芥川賞作家ではないかと。「普賢」は60年以上も前の第4回目の受賞作だった。意識してたわけじゃないんだが。
 正直表題作以外は小品。表題作は終盤に至るまでの語り口がどこか石川淳の上記作を思いださせた。まあ前言い訳を駆使しているからそう思っただけかもしれないが。
 「インディヴィジュアル・プロジェクション」〜「シンセミア」の一連の近作を見てれば、阿倍和重の主人公がロリコンであってもいまさら驚くことはないだろう。ただ、欠点をかかえ、問題のある小さな一個人を描き、そこに再生の萌芽がみられることがとても印象にのこった。もちろん幕が上がった後に何が起こるのかは明示されずに終わっている。語り手自身「悲観」と「楽観」の間を揺れ動いている自分を自覚している。ただその最後の逡巡と前半展開されたような自分のしようとしている、法に触れるであろう行いへの自己弁護との間にははっきりとした差異が存在しているように思える。その内容においても、そして文体においても。後半演劇の指導に取り組む辺りからラストに向けてのその両者の結びつきがとても見事だと思う。次も期待。
 「ドン・キホーテ」後半の一巻読了。結婚にまつわる争いごとを収める義侠心にとんだ部分と、ライオンの檻を開けさせる無謀さと思い込みの強さの奇妙な同居がやっぱり面白い。
02/12
 ウィルキー・コリンズ「月長石」。帰省途中の列車のなかで読もうと分厚いこの作品を携えて実家に帰る。ディケンズとも交流の深かったコリンズによる1868年の長編小説である。
 私は高校生の時ハヤカワのミステリハンドブックを愛読していたのだが、その中にコリンズの「白衣の女」とこの作品を知った。後に大学に入り英文学史の本を読んでいてコリンズのそれらの作品の名前を見つけて意外な気がしたのを憶えている。というのも当時私は何の根拠もなく大衆小説と純文学を分けて考えていたからである。そしてミステリの分野で先にコリンズの名前を記憶していたためミステリの先駆的な作品として私のなかにインプットされていた。それは決して間違いではないのだが、そういう作品が純文学のなかである位置を占めているということは考えもつかないことであった。その偏見というのは十分な読書量に支えられたものでもなければ、深遠な知識に裏づけされたものでもなく、たんなる自分で勝手に作ったイメージによる思い込みでしかなかった。だから「純文学」を定義せよといわれても不可能だったろうな。
 物語はインドの寺院の宝石である「月長石」をめぐって展開する。紆余曲折をへて英国に渡って来た宝石。それを取り戻そうとする怪しいインド人。宝石はある夜を境に姿を消す。警察の捜査にもかかわらず宝石の行方も犯人のわからない。
 作品はポー以後ドイル以前という位置づけ。ミステリというよりはミステリ的な面白さを持った小説といったほうが妥当。書簡体という長編小説では伝統的ともいえる形式だが、一つの事件を複数の視点から見ることを可能にしている点や、登場人物の立場、偏見などをうまく描写に取り入れている辺りその形式をうまく使っているといえる。ただ宝石盗難に関しては、少なくとも本格ミステリを期待した場合「ハア?」といった類のもので、そうでない人でも到底納得いかないものだろうと。またインド人たちも作品の雰囲気作り以上のものではなく、主役はあくまで宝石を英国で所持していた一族の面々というのも少々残念。ただ物語りとしては十分面白いし、前半部の語りを担当する執事のペタレッジのキャラクターもいかにもイギリスという感じでよい。執事が語り手という一点に関しては「日の名残」の先輩だな。19世紀イギリス小説に興味のある人にはお勧め。

02/05
 河出「鮎川哲也名作選」。私は「黒いトランク」、「りら荘事件」と一連の三番館ものしか呼んだことがないのだが、そんな初心者読者からするとこの初期の作品群はとても”意外”なのである。鮎川哲也といえば戦後の本格推理物の巨匠というイメージなのだがこの作品集に収められているのは本格ものだけじゃなく、怪獣ものや幻想譚などとても幅広い。本格推理ものの「蛇と猪」では田舎の因業ばあさんが日影丈吉を思わせる。「地虫」や「絵のない絵本」などの幻想譚はその残酷さがメルヘンという感じではある。ただ全体として物足りなくはあるかなと。特に共作の「ジュピター殺人事件」は書き手による質に差がありすぎるてちょっと。初心者読者向きではなかったかなと。個人的に一番感心したのは著者本人による作品ノートでのいわゆる秘境ものにかんしての「荒唐無稽なホラ話だといわれればミもフタもないが、各作家の空想力をおしはかるバロメーターだと思って読めば、またべつの面白さが発見できる」という一節。こういう文章をよむとこの人がアンソロジストとしても一流だったのが良くわかると思うのだが。
 ウィリアム・アイリッシュ「暗闇へのワルツ」。アイリッシュは本名のコーネル・ウールリッチ名義でも作品を発表しているサスペンス小説の大家。たしかこの作品と処女作の「黒衣の花嫁」はトリュフォーが映画化していたはず。機会があったら見てみたい。アイリッシュは高校の時長編を3作と短編を少し読んだ。同時期に読んだカーは内容をほとんど覚えていないのに、アイリッシュの作品は結構覚えている。「黒衣の花嫁」のラストなどに見られるようなどうしようもない残酷なブラックユーモアや、全てを知りえないがゆえの恐怖(運命と言い換えてもいいのかもしれない)、判断不能の状態がもたらす恐怖(「幻の女」のように誰かが自分をわなにはめようとしていることは解るのに、それがだれだか検討もつかないという状況のような)が印象にのこっているからだろうか。そしてこれは10年ぶりに読むアイリッシュ作品である「暗闇へのワルツ」にもやはり感じたことだった。まあ要約すると馬鹿な男が女に騙される話ということになるのだが、その馬鹿さ加減を笑い飛ばすことが出来ないあたり自分も同類かなと。ちなみにこの作品は1947年出版。女性が一人でタバコ屋に行くと白眼視されるとか、不動産屋と部屋の下見に来た婦人がベッドのある寝室に入るのを拒んだりするあたり風俗小説としても興味深い。
 「ラヴクラフト全集7巻」。全体的に小粒。ラヴクラフト読んだことない人がいきなりこの巻から読もうとするなら俺は止めるね。しかしラブクラフトの書くどこだか良くわからない古代世界というのは個人的にはポーからの影響を感じる。「いつ」、「どこ」というのは全く問題ではなく(強いて言えば、「いま」じゃなく、「ここ」でないということが重要)、雰囲気があれば十分というか。「イラノンの探求」の主人公はポーを、作品の構成は久作をどこか思い起こさせる。たった一人で独自の神話を作り上げたラヴクラフトだが、その「太古」への希求というのは、自分の生きた現代からの逃避であるかもしれないが、同時に1920〜30年代の主流文学に見られるような(移民法の改正に刺激された)ルーツへのこだわりの一つの形なのかもしれないと漠然と考える。収録作中もっとも異色なのは奇術師フーディニ体験談として発表された「ファラオとともに幽閉されて」。フーディニは映画なんかも作ってるしこういう企画やってても不思議ではないが。縛られて閉じ込められるシーンがあるのはお約束か。
 江戸川乱歩全集「押絵と旅する男」。乱歩をこれから読む人には1巻と並んでお勧めできる。非常に良い作品が集まっていると思う。まず表題作。「目羅博士の不思議な犯罪」と並ぶ乱歩の傑作幻想譚。なんせ自作に厳しい乱歩本人が気に入っているといっているくらいだから。私はどちらかというと大仰な長編が好きなのである。一方同じ乱歩ファンでも同居人は長編より初期の切れのいい短編が好き。そんな趣向の全然違う我々2人だが、好きな乱歩作品を5つ選べといわれたら「押絵」と「目羅博士」は絶対入る(それでも俺は後者が、同居人は前者がより好きだという点で趣向の差がでるが)。語り手が電車で偶然出会った押絵を持って旅をしている不思議な老人。彼の口から語られる彼の兄と押絵にまつわる不思議な話(この出会いのシーンは京極夏彦が「魍魎」で見事なオマージュをささげている)。浅草12階の遠眼鏡で見た女性に一目ぼれした男。その思い人が人間でなく、押絵であったと知った彼のとった行動とは。内向的な青年のちょっとばかり歪んだ純愛話。今で言うなら二次元萌えな話ではあるのだが。ラストの去っていく老人の姿を見ての語り手の感想が老人の話にまた別の解釈を可能にするあたり推理作家の面目躍如か。ちなみに余談だが、乱歩の先輩作家の小酒井不木は乱歩から押絵をテーマにした短編を書いていると聞いていた。その後「新青年」で「押絵〜」というタイトルの作品を見かけこれかと思い流し読みをする。ふーんと思いもう一度タイトルをみると「押絵の奇蹟 夢野久作」とあるのを発見したという話がある。乱歩曰く「私も予告では「押絵と旅する男」を書くことになつていたが、それを書かないでいいことをしたと。何故とといつて、私の「押絵」はその構想丈けでも、遠くこの「押絵」に及ばぬものであつたのだから」と。謙遜されている。私のような凡夫からすればどちらも傑作なのですが。
 「蟲」。これも俺結構好きなのです。これまた内向的な青年が主人公。幼きころの憧れの女性と再会した彼は馴れないながらも彼女へアプローチを開始する。結局思いは遂げられないのだが、それならばいっそ彼女を殺して自分だけのものにしてしまおうとする。殺害は成功し、あとは死体をこっそり埋めるだけなのだが、彼女の死体を見た彼はそれに異様に惹かれていることに気付く。一種「押絵」のネガのような作品(歪んでいるという点では50歩100歩かもしれんが)。乱歩本人によると当初は「人間の死体を蝕む微生物の恐ろしさとそれと闘う人間の苦闘」を描こうとしたらしい。で結果としては「下手な力作」に終わってしまったと。自作に厳しい人だな本当に。ただ確かに乱歩が意図したであろう恐怖が十分に描けているとはいえない。自分の大事なものが崩れていき、それをとめることが出来ない焦燥、それは読み手の想像力で補完する必要はあるだろう。ただ私がこの作品がすきなのは主人公が女の殺害を決意するシーンがとてもよいからである。思いをうちあけた彼に対しての相手の反応、彼女はおかしそうに笑ったのである。そして「彼女が笑った丈けならば、まだ忍べた。最もいけないのは、彼女の笑いにつれて柾木自身が笑ったことである」というのである。すばらしいではないか。このいわれようのない敗北感と屈辱。殺人の理由たるや十分ではないか。
 「蜘蛛男」。明智小五郎が怪人たちと対決する一連の通俗ものの一作目で、私が最初に読んだ乱歩作品。このときは人物紹介の一覧を見て犯人がわかってしまったなあ。我々のイメージする「明智小五郎」らしい明智先生はこの作品からになるのかな。最初は書生ふうの青年として登場してたのが、洋装の美男子として生まれ変わっていると。そしてこれ以後奇妙なあだ名の怪人たちと激闘を繰り広げることになる(かの有名な二十面相は「少年もの」なのでここには入らない)。いわゆる通俗ものの始まりである。
 美女をさらっては猟奇的な方法で殺害する怪人蜘蛛男(最初は青髭を名乗っているのに途中前触れもなく蜘蛛男を名乗り始める)。犯罪学者の畔柳博士が数度に渡り追い詰めるも、いつも後ちょっとというところで逃げられてしまう。そんなか大陸から帰って来た明智小五郎が調査に乗り出す。
 かなり久しぶりに読み直したのだが、最初読んだときには全く気にも留めていなかった脇役が意外にいい味だしていることに驚いた。それは平田東一。彼は快楽主義者の不良少年で少年ギャング(当時も流行っていたんだとか。案外人間進歩ないからねえ)に顔もきく。その資質を蜘蛛男にかわれ、彼の手足となって働く、まあ子悪党の類である。最初読んだときはそれこそ雑魚として認識していたのだが、改めて読み返すと作品舞台からの退場がどこか虚無的でちょっと良い感じなのである。最後の大仕掛けに出ようとする蜘蛛男との別れのシーンで彼は「これで(金のことね)で思う存分遊んで、半月もしたら先生の後から行きます。地獄でお目にかかりましょう。」と語る。蜘蛛男は一応逃げることを勧めるのだが、彼は「それも気が向けばです。僕は明日のことを決めるのが嫌いなんです。どうにかなりますよ」と刹那的な答えを返す。退屈をもてあます不良青年の面目躍如というところか。個人的に思い入れが深いこともあるが、戦前の明智ものでは「黒蜥蜴」とならぶ傑作だと思う。
 「盲獣」。「蜘蛛男」の鏡像的作品。その大きな違いは明智小五郎がでてこないこと。つまり怪人の欲望と暴走を止めるものがいないのである。そのためか変態性と残虐性は高め。ただ一方では優秀な探偵役がいないため、終われる側の緊張感がなく後半がだれてしまい、打ち切られた週間マンガのように唐突に終わってしまう。作者本人が嫌になっていた可能性もあるが(自己評価によるとかなりこの作品が嫌いらしい)。盲人ゆえの触覚へのこだわりとそこにあるエロティシズム、バラバラにした死体のうえをはいながら「芋虫ごろごろ」に興じるなどという異常性は乱歩の創造した怪人のなかでも飛びぬけている。なにで中途半端ではなくいきつくところまで行って欲しかったなあと。

01/16
 セルバンテス「ドン・キホーテ前編」(岩波)、ラブレー「ガルガンチュア」(筑摩)読了。両者ともとても訳文が読みやすい。私はスペイン語は全く知らず、フランス語もちょっとかじっただけなので原書で読むのは無理(そもそも現代仏語、晋語で読めるのかという問題もあるが)なのでとってもありがたい。とはいえ、何百年も前にかかれたものを現代的な訳文で読むというのも何というかズルをしているような気にはなる。日本でいうと、「源氏物語」などを現代語訳やマンガで読むようなものか。
 「ドン・キホーテ」の前編は物語に出てくる遍歴の騎士にあこがれた郷士が時代錯誤の冒険にでるも、結局は隣人たちによってうまいことつれて帰られるまでを描いている。単純に読んでいてとても楽しい。途中出会った人々たちから身の上話を聞くのだが、それらが魔法や巨人こそ登場しないものの、恋の物語あり、サラセン人からの必死の逃亡ありと結構波乱万丈だったりする。その一方でドン・キホーテはけったいなことをやらかすわけで、その滑稽味が一層際立っている。
 主人公の隣人たちが主人公の収集した騎士道物語を彼の狂気の原因として燃やしてしまおうとするのだが(騎士道物語は読みすぎると悪影響があるんだって。現実との区別がつかなくなるって。どっかで聞いたことのある話だな)、彼らの焚書の対象を選別するなかで歴史的価値がどうとか文章な価値がどうとか言い、良書と悪書に分けていくその独善的な姿勢も皮肉がきいている。
 個人的に挿話中最も笑ったのが第25章。アマディスやオルランドといった狂気に陥った遍歴の騎士たちをまねて狂人になろうとするシーン。彼が既にして十分狂人である点がポイントではあるが、共のサンチョに「そういった騎士たちはそれぞれ理由があっておかしくなったんでしょうに、あなたさまにはそんな理由がないでしょう」と聞かれ「理由もなく狂態を演じることが重要だ」と言い切るその論理(全く的外れではない点が滑稽さを増している)は最高である。またこの章では思い姫のデル・トポーソ(実態は農家の娘)を自分が見たのはこの12年間で4度。しかも相手がこっちに気付いたことは無いと告白している。こういう妄想家というのは地域、時代を問わずどこにでも何時にでも存在したのだろうな。
 ドレによる挿絵も見事で、とくに冒頭の騎士道物語に夢中になるあまり妄想が頭から漏れ出してしまう主人公の絵はすばらしい。
 全体的に見てとてもすばらしい本だと思う。
 ただ「ドン・キホーテ前編」に何か不満があるとすれば、スカトロジックな逸話がほとんど無かったところだろうか。別にそれを意図したわけではないのだが、ラブレーの「ガルガンチュア」が見事に補完してくれた。これ400年以上前の作品なんだよな。やっぱり「うんこ」というものは人を笑わせるなにかがあるのだろうか(スウィフトや水木しげるも参照すべし)。巨人王ガルガンチュアの活躍を描いたこの書は、序盤は飲む、食う、出すがメイン。ケツをふくのは産毛で覆われたガチョウの雛がいいんだと。パリを訪れノートルダム教会の上から放尿(表紙のドレの絵はこの箇所)して大惨事。恐るべしフランスルネサンス。
 主人公のガルガンチュアもいいキャラしてるのだが(洗練された口上を聞いて泣き出すって、経済学の本を読んでもらって笑い出すパタリロを思い出したぞ)、それをしのぐ切れてるキャラが人間の中にいた。ジャン修道士。ガルガンチュアの国が攻め込まれた時、侵攻軍相手に孤軍奮闘(というか虐殺)しその功績ゆえに取り立てられ、ガルガンチュアとともに戦場におもむく。修道士らしく十字の棒を武器として戦場で大活躍。なぜか(神のご加護?)修道衣のうえから殴られても斬られてもなんともない。無敵の虐殺修道士。最高である。

01/04
 鮎川哲也「りら荘事件」。以前神保町で状態がよくないが結構な安値で売っているのを目撃。その場では買わなかったが、絶版になっているのを知り会社帰りに購入。
 まあ鬼貫警部もの、三番館ものを読んで来たので、もうひとつのシリーズものである星影竜三ものを読んでみるのもよいかなと。こじんまりとした犯罪(といっても殺人ではあるのだが)が連続して続くため印象としては地味だが非常に手堅い。うまくまとまった良作。中盤で探偵役を演じる二条と終盤に登場する星影が同じタイプなのがちょっと笑った。気障なやつに次にでてくるのがこれまた気障なやつって。ちょっと不意をつかれた。

12/30
 内田百闖W成「立腹帖」。本当に汽車の好きな先生だ。「時は変改す」での一日駅長になったときの訓示が最高。「臨時停車」で吐露されている、友人宮城検校の事故への素直すぎる悲しみの表現が個人的にもよくわかるだけにぐっとくる。
 芦辺拓「怪人対名探偵」。「怪人」の復権というのは個人的にも非常に待ち望んでいるだけに非常に楽しんで読んだ。ネタばれになるので細かくはいえないが、作品の構造がすばらしい。大満足。
 続いては海外の怪人ものを2連続で。サックス・ローマー「怪人フーマンチュー」(1913)とノルベルト・ジャック「ドクトル・マブゼ」(1921)。どちらもハヤカワの「ポケミス名画座」という映画の原作の新規翻訳シリーズの一環として出版されたもの。フーマンチューがこれが初訳だというのが驚き。ただ、両者とも映画版って手に入れにくいよね(特に第一作目)。特にマブゼはフリッツ・ラングが映画化したらしく見てみたいのだが・・・。巻末の解説を見ると解るが、この怪人たちは何度も映画化されている。笑ったのはジェス・フランコが両方とも映画化しているところ。趣味にあったんだろうな。
 「フーマンチュー」は映画やアニメなどに現れる全ての怪しい秘密結社系謎の中国人のご先祖様のような存在。小説ではいつも事件の背後にいてあまり出てこないのにインパクトは凄い。作品に「義和団事件」が色濃く影響しているあたり時代をものすごく感じる。「黄禍」というのは当時どんなリアリティをもって受け入れられていたのだろうか。
 「マブゼ」は変装と催眠術を駆使するドイツの怪人。時代はワイマールで一次大戦敗北後、ナチス台頭前といったところ。個人的にはマブゼは怪人としては妙に人間味がありすぎるのがちょっとなんだな。酒のんでうさはらしたりしてるし。なんか神経質だし。むしろおもしろかったのはワイマールの負の部分とでもいうのだろうか、検察官が潜り込む賭博場や上流階級同士の会合の描写のほう。

12/22
 舞城王太郎「熊の場所」読了。初期2長編だけ読んでいたのでそのいきおいを持ち味だと考えてしまっていたが、この人結構な技巧派だね。語り手による文体の使い分けは結構凄いと思われる。というか実は「舞城」とは個人じゃなく集団名でしたってオチでも驚かんぞ。まあ書体まで変化させるのは意味があるのかなとも思うが。でもむやみに暴走するあの文体が好きな人にはものたりないかもしれないね。
 まず表題作。小動物殺す子供なんて昔から結構どこにでもいるわけで、特にそれだけとって現代の子供たちがどうこうと考える気は全くしない。むしろそんなどこかおかしいお子様も人並みとはいかないまでもスポーツをし、他人と交流をする、そういう意味ではリアルでもあるしなにか懐かしい。これと「バット男」は何故か読んでいて懐かしい気がした。個人的にはこの作品の枠組みが典型的な怪異譚の形式を取っていることに興味がひかれた。
 「バット男」。作中人物ともども宙ぶらりんになってほっておかれるようなすっきりしない読後感が楽しい。
 「ピコーン!」。この作品に限らないのだが、舞城作品の性描写つうのはあけすけすぎて帰って清清しい気がする。少なくとも俺的にはエロティックではない。だって興奮しないし。まあポルノグラフィを描いているわけではないし、それを期待しているわけではないので問題は全然ないのだが。

12/21
 ブラム・ストーカーの「ドラキュラ」の完訳詳注版読了。創元社から出てる平井訳は読んでいたのだが、膨大な注釈に惹かれて読んでみた。とりあえず研究に使いたいとか、授業で訳す必要があるとかじゃないかぎり創元社ので問題ないんじゃないかと。誤解のないように言っておくと、この詳注版とてもいいです。一読の価値は間違いなくあります。訳も読みにくくないし。なので近所の図書館なんかにある場合は借りるのをお勧めします(俺は借りた)。ただ購入となると4千円はきついでしょ、たいていの人は。それこそ上記のようなケースの人じゃない限り。そういう意味で購入するなら創元社のほうがコストパフォーマンスが良いのではないかと。文庫で場所もとらないし。
 さて詳注版と銘うってあることから間違いなくウリのひとつになっている注釈だが、勉強になる。結構専門的なこと書いてあるし。城を這い降りるドラキュラの描写がエリオットの「荒地」の第5部に影響しているという指摘には虚をつかれたし。また、日の光を浴びて灰になる吸血鬼というのはムルラウの映画「ノスフェラトゥ」以降メジャーになったものだという記述もなるほどだ。確かに「ドラキュラ」においては吸血鬼は首切ったり、杭さしたりして滅ぼしてるが日光あびて死んだケースはないな。伯爵本人にいたっては昼間外に出ているし(この点平野耕太の漫画「ヘルシング」で、吸血鬼アーカードが自分にとっては太陽は天敵ではない、大嫌いなだけだと言うのも根拠のないわけではないのだな)。
 何年かぶりに読んでみてもアメリカ人のモリスの存在意義がわからん。なんか浮いてんだよなこいつ。後意外なほど伯爵が遵法者なところ。契約書とかね。へんにリアル。そして寡黙で影がうすい。序盤のドラキュラ城でのハーカーとの会合を除くと姿をほとんど見せない。物語の出来不出来とは別にキャラクターとしてのドラキュラを見た場合映画の方が魅力的ではあるかなと。もうすぐDVDが我が家に届くはずだしまた見ようかの。
 殊能将之「キマイラの新しい城」読了。系統としては「黒い仏」のラインだね。かなり面白かった。B級テイスト満載で。とりあえずムアコックのエターナルチャンピオンシリーズがずらりと参考文献にならべてあるだけでもうOK。おまけにカーまで並んでいるし。乱歩から島田荘司までなんつうか個人的にはつぼ。石動探偵も道化役が板についている。中盤の750年前の事件を再現させようとするあたりなどは最高だった。ポジション的にはすっかり「安吾捕物帳」の勝海舟みたいだ。
 過去の事件の真相については天国にも地獄にもいけず霊がさまよっているとすれば、それは霊となった人間が生前キリスト教的理からはずれるようなことをしたからだろうなと思っていたので、ある程度は想像がついた。ちなみにこの作者の作品に関しては作中の超常現象は基本的に超常現象として受け入れる心構えで読んでます。
 後半にでてくる論理と構造のはなしも興味深い。殊能将之の本を読むといつも作品の内容以上にその構造が印象に残る(語りの構造そのものにトリックを仕掛けたハサミ男や日曜日、日常と非日常を騙し絵のように対比させた黒い仏等々)。さて次回作はいつ頃になるのやら。

12/14
 バカみたいで面白かった。
 かつ
 バカみたいに面白かった。
 舞城王太郎「世界は密室でできている。」を読んでの感想。いやー、まじで面白かった。舞城は読むの3冊目だが、初めて素直に面白いと思った。まあ全てにおいて馬鹿げているのだが、妙にリアルでもある。リアリティってのはそこらにいそうな人間が、よくありそうな出来事に出会う、そんな話にばかり宿るわけじゃねえんだよな。俺はそれは当たり前の事だと思うのだが、それに同意できない人にはこの作品は勧めません。

12/12
 永山則夫「無知の涙」読了。読んでは止めて、何ヶ月かしたらまた少し読んでを繰り返していたので、結局読了まで3年くらいかかってしまった。一気に読むと妙に疲れるので。以前読んだところを読み返すと自分の感想が結構変わっていることを実感。
 セイヤーズ「毒を食らわば」。ピーター卿を主人公としたシリーズ。謎とかトリックとかよりも、やっぱり風俗的な部分や登場人物のほうが印象に残る。ピーター卿の恋が前面にでてるため、ほかのキャラクターはあまり目立たないが。
 江戸川乱歩全集「堀越捜査一課長殿」。表題作以外は全て少年探偵団もの。しかも以前の諸作とくらべるとひらがなの割合が増えている。少女誌に掲載されたものには人形や宝石などを前面にもってきて、少女探偵を活躍させるあたり流石だなと。小林君の女装もあるし。個人的はやはり二十面相の過去と本名がでてくる「サーカスの怪人」がおきにいり。
 二十面相にかぎらず、明智小五郎、小林少年ともに複数人説がでてくるのは作中の記述の整合性やキャラの言動の変化を考えても解らなくはない。特に小林少年は戦前から登場しているのにずっと歳を取らないし。明智もよく自分そっくりの替え玉を使うし。ただ個人的にはあまりそういうことを考えずに気楽に読んでいるほうが今は楽しい。小林君はピーターパンばりの永遠の少年探偵なんだよ。自分はやっぱり研究者にはむかねえなと思う瞬間でもあるが。
12/06
 泡坂妻夫ばっかり読んでた。亜愛一郎シリーズ最終作「亜愛一郎の逃亡」。脳病の王子様、なんというかこの言葉が全てを表しているような。
 続いて「亜智一郎の恐慌」。亜家のご先祖、雲見番亜智一郎を主人公にした連作。安政の大地震で幕をあけ、和宮の降嫁で幕を閉じる。歴史的にはこの後維新を迎えるわけで、雲見番の面々のその後を想像するという楽しみ方もある。
 「奇術探偵曾我佳城 秘の巻」、「戯の巻」。美人マジシャンが謎を解くといえば、「トリック」があるが山田とちがいこちらは地位も財産もある、ほぼ完璧な女流マジシャンが主人公。ラストの「魔術城落成」の結末が読む前から予測できたのはクイーンの一連のドルリー・レーンものを連想したからかもしれない。「Y」のラストが「最後の事件」でのレーンの行動を予感させるように、「石になった人形」や「百魔術」での佳城の行動がこの作品のラストを補強している。そういった点も含めて「戯の巻」の構成は見事。スタートを切る「ミダス王の奇跡」での不自然さが気にはなっていたのだが・・・。なるほどねえ。基本的には他人にだまされるというのは気分のいいものではないが、ミステリだけは別ですな。

11/30
 二階堂黎人「聖アウスラ修道院の惨劇」読了。出だしはイタリアンジャーロ調で、顔の見えない殺人者に追い詰められる若い女性。導入がうまいね。ラストはカーの最高傑作を思い起こさせる終わり方。舞台が修道院とはいえ専門的な宗教話は特になし。結構いいキャラしてるのに本筋にたいしてからんでこない脇役がおおいのがもったいない気はする。また、主人公が後半でかますはったりは演出上の必要性はともかくとして、主人公の頭脳と話術をもってすればあんな仰々しい話にせずとも十分ごまかせただろうと。まあ、こまかいところが気になるのは全体として面白く読めたからではあるのだが。個人的には被害者の頭部のありかに関してはやられたという感じ。読む人によってはすぐ気がつくであろう類のものだが、私は完全に盲点だったので。

11/29
 法月綸太郎「雪密室」読了。作者と同名の探偵の初登場作。あとがきから察するに「クイーン警視自身の事件」を念頭においているらしいがなんか納得してしまった。ちなみに私が始めて読んだクイーン作品だったりする。作中にカー(というかディクスンか)の「白い僧院」の話題が出てくる通り、雪の中の密室。密室の謎そのものはたいしたことはないのだが、人間関係というかドラマの構築がうまい。そつなく読ませてくれる。

11/28
 山田風太郎「戦中派動乱日記」。デビューして忙しくなったからかほとんど覚書のような日記だが、そんな中でも高木 彬光氏とのエピソードが楽しい。箱根で泊まった宿の女中が山田風太郎は知っていたのに、高木 彬光の名を知らなかったことにムクれてたとか、賭け事が弱いとか、ピンポンが下手だとか外人に話しかけられて狼狽したり、山でころんだ、風呂で泳いで肉離れしたとか散々書かれている。
 鮎川哲也の三番館シリーズ「ブロンズの使者」、「村木座の殺人」、「クイーンの色紙」立て続けに読了。作者本人が出てきたり、探偵以外の人物が謎を持ち込んできたりとバリエーションがついているが基本路線は変わらない。質の高さも相変わらず。
 光文社江戸川乱歩全集「魔術師」。「魔術師」と「吸血鬼」という明智ものの2長編を収録。前者は文代さん初登場、後者は小林くん初登場の記念すべき作品。「魔術師」はともかくとして、「吸血鬼」はあんまり好きではない。これは明智ものの通俗長編全体に対しての感想なのだが、怪人の正体みたり枯れ尾花というか、仰々しいあだ名のわりには正体がちょっと・・・というのが不満(同じ不満はハミルトンのキャプテンフューチャーに対してもある)。「吸血鬼」にはそれが顕著に出ている。ちなみに個人的に不満の少なかった怪人というと、「黄金仮面」と「人間豹」になるのだが、彼らがともに「二十面相」の前身であるというのも我ながら面白い。「黒蜥蜴」もそういった不満を感じなかったが、これは視点を怪人側においたため仰々しく読者をあおる必要性がうすかったからだろう。
 そんな観点から期待して読んだのが、二階堂黎人「地獄の奇術師」。出だしがエクソシストのパロディーだというのも個人的には高得点。注釈があるのも楽しい。こういうのを衒学的だと嫌がる人もいるのかもしれんが。まあ不真面目なミステリ読みの俺でも大半が解るものなのでめちゃくちゃマニアックというわけでもないし。面白かったので一気によんだ。個人的には帰還兵と事件が意外なところでつながる辺りが気に入った。途中に出てきた帰還兵の話題が本筋にからむとは思ってなかったので意表をつかれた。この作者はもう数作読んでみようとおもった。
11/24
 泡坂妻夫「亜愛一郎の転倒」読了。亜愛一郎シリーズの2作目。一作目も面白かったけど、個人的には今作のほうがずっと好み。
 一話目の「藁の猫」の語り手の、鼻が悪いため、体調が少しでも崩れると鼻がつまり一種の健康のバロメータになるため、結果的に無理をしないという「一病息災」体質に大いに共感。俺も全く同じ。アンチクライマックスがおかしい「争う四巨頭」や、童謡ミステリの「意外な遺骸」がお気に入り。傑作だと思う。
 天城一「天城一の密室犯罪学教程」。山風先生や島田一男らとほぼ動機ながら、日曜作家のため単行本はこれが初だとか。島崎と摩耶のやりとりが印象的な「夏の時代の犯罪」や、見えない犯人というチェスタトン的逆説にいどんだ「高天原の犯罪」などが良かった。また、理論編であるPARTUの乱歩への献辞も結構ぐっとくるものがある。とはいえ、小説というか文学に社会的な役割を見出せないものにとってはその小説観は少々重い。
 作品はみな短編ながら短さを感じさせない、というか確かに読み返さないとわからんところが無いではない。それは決して読みにくいということではなく、するめ的な味わい深さがある。摩耶正という道化者を探偵に持ってきたのもうまい。やっぱりきわどいことを言わせるなら道化が最適なのだろうか。その言動は島田荘司の御手洗潔の先駆的存在といってもよいのではないか。
 「平林初之輔探偵小説選T」読了。全体的に自然主義的というか、個人の意思ではどうにもならない流れのなかでの人間の笑うに笑えない滑稽さが印象に残る。読んだ時期が近いからだろうが、浜尾四郎にも近いものを感じた。個人的には趣味ではない。とはいえ、第二集も読んでみたいとは思った。

11/18
 法月綸太郎「密閉教室」。ちまちま読んでいたらいつのまにか読み終わってしまった。チェスタトン的な逆説トリックもさることながら最終章のなんともいえぬ後味が印象に残る。良作だと思います。
 カー「帽子収集狂事件」。カーは高校の時20作近く読んだはずなのに、内容をかろうじて覚えているのが「火刑法廷」と「ユダの窓」、短編の「妖魔の森の家」、「パリから来た紳士」くらいというのは我ながら情けない記憶力だ。この作品意外なのが、オカルト的なこけおどしがない。仰々しくない分よくまとまっているのだが、ものたりない。しかし、単なる愉快犯だと思われていた帽子盗難とポーの未発表原稿の盗難がつながるあたりは見事。
 創元社「浜尾四郎集」。男爵の家に生まれ、子爵家に養子に入り、検事、弁護士となる。その傍らで探偵小説を書くという異色の作家(のちには貴族院議員)。このアンソロジーには戦前の本格物の代表格「殺人鬼」と数編の短編が収録。「殺人鬼」はいかにも古典的な手堅い本格ミステリ。短編などは特に、人が人を裁くということ、正義とは何なのかといった作者本人の経歴をどうしても思い起こさせるテーマが色濃くでている。まあ、主人公の主張、行動に賛同できるかといわれると俺は無理だが。なかでも「殺された天一坊」が出色。語り手に素朴な性格の越前の守の従僕を設定し、主人の判断の是非を「わからない」と保留させるあたりも見事。公と個について考えさせられる名作。個人的には天一坊がたんなる愚かな若者であろうと、偽者であろうと本物であろうと本質的な問題ではないと思うが。

10/31
 「水谷準集」。水谷準は「新青年」の4代目編集長として有名な人だが、Amazonで水谷準で検索するとゴルフの本が大量にヒットする(絶版ばかりだが)。同姓同名のゴルフプロでもいるんだろうかと思っていたが、この本の解説を見る限りでは同一人物らしい。どうやら後半生は完全に探偵小説から離れていたらしい。内容的には内向的で青年とも中年ともいいがたい中途半端な歳の人間がメインの短編。まあ、筑摩のこのシリーズにまとめられた作家や乱歩なんかとも共通する特徴。ただ、話の導入から主人公のひととなりなどどこか型にはまりすぎている気がしないでもない。
 鮎川哲也の三番館シリーズ(創元社版)の「太鼓叩きはなぜ笑う」と「サムソンの犯罪」。主人公である探偵は事件につまると、いきつけのバー「三番館」にいき、ぶちあたった謎をバーテンに説明する。するとバーテンは遠慮がちにではあるが、いつも見事に謎を解き明かしてくれる。このパターンを聞いて、アシモフの「黒後家蜘蛛」シリーズを連想するなというほうが無理であろう。本人の解説によると全くの偶然の一致だそうだが。内容はアシモフよりも軽め。デブの弁護士と全くタフではない主人公の私立探偵、カクテルつくりよりも謎解きの方がうまいのではないかと思われるバーテンという魅力的なレギュラー陣に、情報集め→壁→三番館→解決というパターンにのっとったストーリー展開。非常に安心して読める。こういうのを読むと、やっぱりパターン、型というものを馬鹿にしてはいけないなと思う。

10/19
 江戸川乱歩「月と手袋」。うまくまとまった表題作より破綻している「影男」の方に魅力をかんじてしまうのはどうしたものか。
 エドモンド・ハミルトン「キャプテンフューチャー全集1」読了。作品内での設定では2005年には木星への殖民がはじまる。当時はそれでもリアリティがあったのだろうか。今読むとありえた未来というより全くの別世界の話のようである。非常に楽しい。単純に楽しい。小難しいことを考えずに楽しめる。それにしてもこういったスペースオペラを現代に復活させた伊東岳彦の「宇宙英雄物語」は偉大だった。思わず文庫版買いなおしちまった。全巻持ってるけど実家におきっぱなので。
 鮎川哲也「黒いトランク」。やっぱりいしいひさいちの極楽寺哲也先生はこの人がモデルなんだろうな。鎌倉極楽寺に住んでいたらしいし。作品は本格推理でありながらも以外にハードボイルドなのがびっくり。前半の内面描写や余計なエピソードを最低限におさえた淡々とした展開と、後半の容疑者との対峙から告白にいたるまでの奇妙な形での男の友情の対称が見事。ラストの同僚との会話が残す余韻も絶妙で小説としての完成度は見事なもんだと思う。おもしろかった。
 内田百閨u阿房列車」。何を書いても何をしてても百關謳カ。

09/11
 横溝正史「髑髏検校」読了。表題作はストーカーの「ドラキュラ」を日本を舞台に翻案したもの。検校って(座頭市の「市」と同じで)盲人組織の位だったはずだが別に意味はなさそうだ。まあ、山田風太郎の「甲賀忍法帖」にも行部とか典膳とかの役職名が普通に人名代わりに出てくるのであまり気にしなくていいのかも。意外とCount(伯爵)と音が似てるからとか。似てねえか。なぞの吸血鬼髑髏検校の正体のなどは見事だと思う(日本史上の有名人物です)。雑誌の都合で尻つぼみになってしまったらしいのがちょっと惜しい。併録されている「神変稲妻車」は作者によると国枝史郎あたりが念頭にあったらしいが個人的にはいまいち。とはいえ、毎回何らかの見せ場をいれているのが今の週間少年漫画みたいでおもしろかった(理由もいっしょだろうな)。いまでは伝奇小説の舞台は異世界とかパラレルワールド的な世界などが主だがこのころは江戸、戦国時代が主な舞台だったのだな。

09/07
 中井英夫「虚無への供物」。最後まで読み通して、緻密に計算された効果に驚く。エリオットの「荒地」からの引用が序盤と終盤にあるが物語としては「荒地」同様不毛からの再生ということになるのだろう。またこの効果の緻密さもまたエリオットの理論を思い起こさせる。しかし、長い。これでラストの数章がなかったら「黒死館」の単なる焼き直しだが、見事なラストがこの小説を歴史的傑作としていると思う。知的遊戯としての探偵小説(というか犯罪談義)への強烈なアンチテーゼはまさに現代の状況と見事に重なり合う。というかこういう現象は昔からあったのかという方がただしいのだろう。人間そう簡単に変わるわけがないもんな。
 氷沼家におこった怪死事件を知人たちが殺人と断じ「ヒヌママーダー」と称して各々推理を述べていく。そこで行われている会話、雰囲気そうしたものに何らかの不快感、異物感を感じたらば是非とも最後まで読み通してもらいたい。その時点ですでに作者の術中にあるのだから。ちなみに俺は数年前の少年事件での「てるくはのる」という言葉をめぐる推理の数々を思い出した。ラストの犯人の独白は「荒地」におけるボードレールからの引用を想起させる。我々もまた同じ地獄に住む共犯者であると。じっくりと腰をすえて読みたい大作。またこんな読み応えのあるもんを読みたいものだ。

08/31
 横溝正史「真珠朗」読了。戦前の代表作として名のみは知っていた。実際に簡単に手に入るようになったのはこの扶桑社の文庫本が出た最近のことだと思う。戦前の作品なので当然金田一ものではない。白髪の由利先生が主人公。とにかく前半の雰囲気が絶品。サロメの幻視に始まり、蔵に閉じ込められた善悪の観念のない残虐な美男子という舞台仕立てはさすがの一言。それだけに後半謎が解かれていく辺りから物足りなくなってしまう。カーや一時期の島田壮司なんかもそういう所はあったが。
 「虚無への供物」はまたそのうち。予想以上の傑作だった。

08/15
 殊能将之「樒・榁」読了。軽くていいね。分量と内容のバランスがいい。後半と前半のからみもうまい。前作を読んでいないと意味がわからないところが多いのでファン向けの作品ではある。
 坂口安吾「不連続殺人事件」。山風先生の日記や乱歩のエッセイから安吾がミステリファンで作品も書いているのは知っていたが読むのは初めて。安吾は少ししか読んでないが「風博士」のようなナンセンスな小品から、かの有名な「堕落論」、幻想小説の傑作「桜の森の満開の下」や捕り物帖にミステリと作風が非常に広い人という印象がある。
 登場人物の造型や会話の調子が妙に芝居がかって古臭く鼻につくのを除けば非常に面白い。探偵の巨勢博士が自分で言っているように物証がなく、そのためラストがやや性急かなとも思えるが、その心理トリックは見事というか純粋におもしろい。文体があえばおすすめ。
 江戸川乱歩「新宝島」。多分乱歩唯一のスパイものの「偉大なる夢」は探偵が憲兵なのが目を引く。久作も海野も小栗も国家よりの作品を書くときでも大抵憲兵は悪役だったので。まあ、スパイと対決するならそうなるのかな。題材が珍しいのと以外にまとまっているのは見ものかも。表題作は宝島というより少年版「ロビンソン」。実行力のあるリーダーと博士的な智絵袋とひょうきんなムードメーカーというズッコケ三人組を経由して現在まで受け継がれている黄金パターン。このパターンっていつごろからあるんだろう。結構古いんだろうな。児童文学の研究書とか読むと載っているのかな。漂流譚や異教探検ものが国家の海外拡張政策と関係しているのはコンラッドをひくまでもなく明らかではあるが、この作品が面白いのは少年達は漂流先の島で原住民達にとけこみ、コミュニティーの中で重要なポジションをえるのだけど帰ってこないんだよね、日本に。彼らが日本に凱旋する日が楽しみじゃありませんか的に終わっている。これが書かれたのは昭和15年で太平洋戦争は始まってないが(最近ちょっと話題に上った重慶爆撃がおこなわれた年)、先行きは明るくなかったろう。今帰ってきてもろくなことはないからもうちょっと楽園でくらしとけ、という親心のように今から読むと思えてしまった。
 乱歩「パノラマ島奇談」。表題作と「湖畔亭」、「一寸法師」などは「蜘蛛男」や「黒蜥蜴」と一緒に最初に読んだ乱歩作品たちなので思い入れがある。当然以前に読んでいても全部再読。まず「闇に蠢く」。これは初読。乱歩最初期の長編。このころから既に整合性にかけている。カニバリズムや早すぎた埋葬などポー的要素盛り沢山。描写がストレートなのも若さゆえか。中絶作の「空気男」は置いておいて、「湖畔亭事件」。ご本人の評価はあまり芳しくないようだが個人的には乱歩長編ではまとまりもよく、そのうえいわゆる「奇妙な味」的な読後感もあり傑作だと思う。これや「パノラマ」を読んで、長編は明智物じゃないほうがよくできてるんじゃねえかとすら思ったのを思い出した。今ではそんな比較に意味を見出せず、自分も若かったんだなあと思うばかりだが。
 表題作はやはりラストシーンが全て。楽園の描写は「大暗室」に一歩譲る感がある。この作品の探偵は北見小五郎という誰が見ても明智小五郎を連想する名前なのだが、バージョンによっては明智だったりするのかなあと巻末の更異表を見てみたがそんなことはなかったらしい。作中にもポーの「アルンハイムの地所」が出てきたが個人的には絵画的な美しさをもつ楽園より乱歩のかくどこかいかがわしい楽園の方に惹かれてしまう。いいよなあ。つくってみてえよな。
 「一寸法師」。私はこれをよむまで、いわゆる小人病の人を隠語で一寸法師と呼ぶのを知らなかったので御伽噺に出てくるような小人が犯罪を行うのを目撃され大騒ぎになるが実はそこに凄いトリックが!!!みたいな作品を想像してた。全然違った。ちなみにこの巻では唯一の明智物。明智物の初長編になるのかな。怪人サイドにたった描写が後の作品と比べて少ないが、その分過剰さが幾分抑えられていて読みやすいところはある。やはりご本人の評価は高くないようだが全然悪くないと思うのだが。

07/31
 アイスキュロス「アガメムノン」。アガメムノン王はあんまり出てこないのね。
 「佐藤春夫集」。ミステリ系の作品を書いているという印象は全然なかったのだが、「猟奇的」は佐藤の造語らしい(「女人焚死」)。「指紋」なんかはミステリ以外の何者でもないし。ただ文体が肌に合わない。「陳述」は面白いのだが、ただでさえ合わない文体が全編カタカナで書かれてるので非常に疲れた(狙いはわかるが勘弁という感じ)。後、幻想的というか格調が少々高い。想像力賛美みたいなところがあるのはいいのだが、今の私はもっと低俗で扇情的なものが読みたいので、タイミングが合わなかったというところがある。
 んで「横溝正史集」。戦前の作品を集めているので当然金田一耕助は出てこない。だからといって佐七も由利麟太郎も出てこない。そんな作品群。素直に面白い。後年金田一物でより洗練された形ではあるが使用されるアイデアの原型がいくつか見られる。「鬼火」で描かれる歪んだ人間関係は圧巻。しかし、妊娠中の女性が(夫ではない)ある男のことを強く想っていると、生まれてくる子供が父である夫ではなく、血のつながりのない、女性の想い人に似てしまうというモチーフは新青年系の人好きだね。小栗も久作も使ってるし。
 乱歩と正史が日本ミステリの二大巨頭とされるのは無論、明智(と二十面相)や金田一といった人気キャラクターを生み出したという点も見逃せないが、一番の理由はその読者を話さない圧倒的なストーリーテリングにあるのではないかと思う。乱歩なんか、別の人間が同じプロットで書いたら駄作にしかならないであろう作品を十分に読ませるものにしているし。乱歩の少年物と海野の初期の少年物を比べてもその辺りが良くわかるかもしれない。

07/22
 乱歩全集「黒蜥蜴」読了。表題作と「柘榴」は再読。「黒蜥蜴」は謎解きの要素よりも知性のぶつかり合いというか、駆け引き的な要素を前にもってきただけあってまとまっている。犯人サイドに視点をおいたのもその成功の一因だろうな。「人間豹」は破綻の度合いが「猟奇の果て」や「悪魔の紋章」ほどではないため、そんなに話の筋が失敗してるように思えない。毒されてきているのだろうか。後年二十面相に発展していくキャラなのはそうなのだろうが、二十面相ほどの魅力はない。やはり作者本人の胸中はどうあれ、かの怪人は偉大だなと。
 泡坂妻夫「亜愛一郎の狼狽」読了。「亜愛一郎」はある時まで、亜愛・一郎だと思っていた。実際は亜・愛一郎なのだが。確かにそうすりゃ、探偵辞典の最初に載る探偵の座は安泰だよな。全編心理トリック中心なのは奇術師(紋章上絵師でもあるらしいが)でもある作者の面目躍如か。処女作を含め初期作品ばかりなのだがそうとは思えないほど、独自の内容や世界観がはっきりと現れている。良作。
 内田百闖W成「蜻蛉球」読了。旧かなを新かなに直すことに反対の旨述べられているが、その苦言すら新かなに改められているこの集成をご本人が見たらどう反応されるのやら。とはいえ正直読者としては新かなのほうが有難いのだが。

07/14
 江戸川乱歩全集「屋根裏の散歩者」読了。収録作品の大半は既読だが、せっかくなので再読。俺は乱歩は「蜘蛛男」や「魔術師」などの明智ものの長編を読んだ後、初期短編を読んだのだが、最初読んだときはその長編とは違う無駄のない、完結で鋭い作品群に驚いたもので、乱歩は短編の方がすごいんじゃないかと思ったものだった。短編が面白いということには数年後の今でも異論がないが、長編を多く読み込んでいるせいか、今度は逆にそのシンプルさに不満をかんじてしまった。「もっと過剰さを、もっと怪人を」みたいな。読者ってのは勝手なものだね。後、初期作品なだけに本人のコメントが他の巻よりも多くついているのは絶対お得。其の部分だけでも読む価値はあり。「人間椅子」に関する思い出話なんかはらしくていい。
 ブローティガン「西瓜糖の日々」読了。ブローティガンは何年か前に「鱒釣り」と「バビロンを夢見て」を読んだんだが、肌に合わないなというのが正直なところだった。それはこの作品でも変わらない。でも興味深い寓話だなとは思うし、俺の読んだ上記二作品と比べるとこれが一番気に入った。ここじゃないどこかの、自分じゃないだれかの話。大抵の人間はこう言うと、自分より良い環境にいる自分より幸せな人間を思い浮かべるのじゃなかろうか。少なくとも俺はそう。でも実際はそんなおきらくなものじゃないんだろう。どんなところにいたって人間がいる限り、いさかいやいざこざはあるし、死や別離は不可避だ。ディストピア小説というほど声高になにかを主張しているわけではない。そのなんともいえない、ある種たんたんとしておだやかで、でもどこか不愉快ではっきりしない。そんな世界がどうやら俺は好きではないらしい。過剰さ万歳。
07/10
 澁澤龍彦「うつろ舟」。文章が読みやすいんだよなこの人。澁澤を知ったきっかけがどうも思い出せない。高校生のころにはすでに知っていたのだが。いつの間にか知っていたという感じだ。知っていたといっても翻訳者やらアンソロジーの選者として、つまり紹介者として知っていたわけで、実作者としての澁澤を読むのはこれがはじめて。収録作では表題作と「菊燈台」が見事。前者の生首の投げあいっこをする幻想的なシーンと終盤に挟み込まれる後日談と前日談のギャップがおかしく、はぐらかされたような気分になった。自分を縛る規範から一歩外に出た快楽というのはとても魅惑的ではあるけれど、反面小市民の自分にとっては遠くで見てるだけで十分だなと。
 筑摩「小栗虫太郎集」。「完全犯罪」と「白蟻」は既読だがせっかくなのでまた読む。やっぱり読みにくい。セリフが長い。ただこれ以外の作品はそんなことはなく、以前読んだ「人外魔境」なんかもあわせて考えると作風が幅広い。いままで「法水鱗太郎」モノの作者という印象しかなかったので其の点が一番の収穫か。退廃度も思ったよりずっとあるし。
 京極夏彦「百期徒然袋:風」読了。作中に映画「怪猫」シリーズの話が出てきたのでびっくり。作中にでてきた「佐賀屋敷」、「有馬御殿」とそれに続く作品は8月にDVDになるので少々購入を検討していたのである。収録作の中で榎木津が語り手の名を間違えて「五十三次」と呼ぶのも怪猫シリーズの「怪猫五十三次」にちなんでいたら笑うが。まあ、少なくとも作中の年代ではまだ製作もされていないのだし、考えすぎだとは思うが。講談社ノベルスのミステリ系のキャラクター中心の流れを作った要因のひとつであると思われる榎木津を中心にすえたシリーズだが、「陰摩羅鬼」同様そういった一種過剰なキャラクター性を抑えようとする方向に進んでいるような印象を持った。「陰摩羅鬼」にがっかりした人も少なからずいるのだろうが俺はまだ読み続けます。

06/21
 内田百閨u贋作我輩は猫である」読了。筑摩の百闖W成は結構好評らしく、版を重ねているらしいが何故今百閧ネのかしら。自分は単に本屋で見て気が向いただけなのだが。まあ面白いと言うのが一番大きな理由だと思うけど。
 これはタイトルからして人をくっている。しかも百閧ヘ漱石門下。期待するなというのが無理だろう。私は不勉強にて漱石の原典は未読で大筋を聞きかじっているだけなのだが問題なかった。しかし、話の埒を明けるのが3匹の犬のでうす、えくす、まひなって。笑ってしまいました。お気に入りは第10挿話。ソクラテスのダイモニオン(今ではダイモンのほうが一般的か)を気取って、五沙弥のネコニモンとして「ナイン」(ノーのこと)の代わりに「ニャン」と鳴こうと決めた猫がかわいい。随筆をそのまま小説にしたかのようなひょうひょうとした作風がとても楽しかった。
 創元社「大下宇陀児、角田喜久雄集」読了。宇陀児は「うだる」と読む。大下宇陀児はぶっきらぼうといってもいいような簡潔な文体が印象的だった。その分どこか古めかしい印象を受けてしまった。収録作中唯一の長編「虚像」は若い女性の一人称語りで、それだけで印象に残っている。それは他の作品よりも内面の告白やら感情の起伏やらが多くでているため、他の作品の素朴な語り口との対照が際立ったからだが。早熟な才女ゆえのおろかさ、他人にたいするひとりよがりといってもいいような浅薄な判断を前面にだすことによって、語り手の(遅すぎるかもしれない)成長を描いた犯罪小説というよりは一種の教養小説。特に主人公が野蛮で失礼だとしか考えていなかった刑事の別の側面を最後になって発見する場面はやはりうまい。
 同時収録の角田喜久雄。略歴見たら大学の大先輩にあたるんじゃん。学部は違うが。加賀美敬介刑事課長という探偵を創造したことで有名。古本屋ではむしろ時代小説の方をよく見かけるが。解説の日影丈吉はシムノンのメグレと比較してたが(シムノンの翻訳を日影がしてるからかとも思ってしまったが)、2作しか加賀美ものが収録されていないのでなんとも言えない。別の選集にはもっと入っているのでそっちもそのうち読んでみよう。加賀美モノでない短編のうち「沼垂の女」と「悪魔のような女」は人間のこころの得たいの知れなさを後味悪く描いた佳作。いかにも昭和初期のミステリである。
06/19
 阿部和重「アブストラクトなゆーわく」読了。著者唯一のエッセイ集。会社にも阿部和重好きがいて、俺がこれだけ読んでないと言ったら薦められた。まあ、その人はもう退社しているので感想を伝えることは出来ないが。ちなみにその場にはもう一人阿部和重好きがいたのだが、俺が同好の士だと知ったら一瞬嫌な顔をした。まあ、見てみぬ振りをしたけどね。まあ、俺にも言いたいことはあるのだが、碌な事にならなそうだし。ちなみに中身に関しては人をくった文体がおかしかったが小説ほど魅力を感じなかった。
 筑摩「岡本綺堂集」。綺堂といえば、「半七捕物帖」か戯曲の「修善寺物語」が有名だが怪談もうまいのだ。なんというか文章力がすげえ。怪談の怖さっていうのも色々あるだろうが、個人的にはまず不条理さ。なんで祟られるのか論理的に考えてみても始まらないところが怖い。持ってるだけで不幸になるアイテムみたいな話ね。もってるだけじゃんみたいな。一種の逆恨み。橘外男の「蒲団」とかね。あと怖いのは怪異が自分にしか見えないというシチュエーション。誰もわかってくれない。周りが自分を異常者のように扱い始める。しまいには自分自身でも自分の頭の正常性を疑い始める。こちらの方が普遍的な怖さかもしれないが。「厨子物語」はこっちだね。収録作中屈指の出来を誇る「白髪鬼」と「影を踏まれた女」は後者の変奏曲という感じだが、どちらも怪異の当事者から周囲に怪異が漏れているところがなんともいえず不気味。前者は白髪の女が突如現れて邪魔をするんだと知人から利かされた語り手にも(その知人ほどではないが)幻覚があらわれる。後者はもっと悲惨。一人の少女のオブセッション、周囲にはそうとしか見えなかったものが最後不気味な形で視覚化される。どっちも奇妙な後味を残す傑作。ちなみに「白髪鬼」は高橋葉介が「白髪の女」というタイトルで漫画化している(ソノラマ「夢幻外伝2」収録)。こちらも小説とちがった視覚イメージをうまく使った傑作。むしろ怖さは上。化け物譚としては「一本足の女」。女も怖いが男の最後の供述も怖い。魅入られるっていうのはこういうことなのね。
 「夢野久作全集6巻」。なんといっても「氷の涯」、「死後の恋」、「支那米の袋」のシベリア物3点が傑作。「氷の涯」は状況に流されるの任せる主人公がよい。シベリア物や「瓶詰めの地獄」、そして「ドグラマグラ」といった久作の傑作の特徴に一人称の語りというものがあって、幻想と現実が入り混じるその語りがこちらの想像力を掻き立てる大きな要因になっている。「氷の涯」はやっぱり手記の最後の描写が全てだね。月並みな感想なんだろうけど。
 「死後の恋」は「ドグラ」を除けば個人的にはベスト。情景を喚起させるその文章はやはり凄い。腹にうちこまれた無数の宝石って素敵だね。ラストも見事。一回目読んだときは何が事実なんだろうかと考える。二回目になるとその幻想性ゆえにそんなことどうでもいいじゃないかと思い出す。
 「支名米の袋」は「死後の恋」とならんで久作作品ではエログロさが顕著。でもこちらはどことなくユーモラス。だれだよ日本文化を歪めて教えたのみたいな。
 江戸川乱歩全集「目羅博士の不思議な犯罪」。乱歩の短編中白眉の出来の表題作は何度か読んだことがあるのだが、せっかくなのでまた読む。月光の持つ不思議な幻想性をうまく表現している。推理小説というより幻想小説だな。トリックの現実性にこだわる人には向かないだろうけど。乱歩本人が語り手として登場する珍しい話だが、話の内容だけでなくその話を乱歩に語る青年のつかみ所のなさもまた魅力。その他の収録作は普通。特に言うべきことなし。そんなはなしでも一気に読ませてしまうところは確かにすごいのだが。

06/01
 オルツィ男爵夫人の「隅の老人」譚を読む。安楽椅子探偵のはしりとして有名(老人は実際には公判見に行ったりするので厳密には安楽椅子探偵ではないが)。ちなみに安楽椅子探偵ものだとアシモフの「黒後家蜘蛛の会」シリーズが大傑作。アシモフはミステリも書くのです。「続幻影城」で乱歩も触れている(直接名前は出してない)。「隅の老人」は最終作の秀逸さがやはり光る。それ以外も悪くはない。話や謎がどうというよりどこか得たいの知れない老人のキャラクターが全てを支えている。とはいえミステリというジャンルでは古典に属するものなのでその分は差し引いて読んだほうが良い。
 町田康「きれぎれ」。あいかわらずのテンションの高さ。ただ今回非常に体調の悪いときに読んだせいか、疲れた。この人の作品はこっちも高いテンションで望まないと体力を吸収されてしまう。「人生の聖」中で繰り返される脳みそネタにちょっと笑った。
 「小酒井不木集」。筑摩のこのシリーズにははずれが無い。医学的知識に基づいた作品をかくことで有名だが(山田風太郎は小説を書く医者には名前に「木」がつくとこの人と木々高太郎、森鴎外を上げていた)、むしろ見所は人間の内面の暗さ、他人では決して推し量れない他人の内面への恐怖が見事に綴られている。簡潔なだけに(収録作のほとんどが10数ページの短編)読み手にもたらす印象がさえる。「秘密の相似」などはかなり怖い。一方ではそんな怖さをラストでユーモラスにひっくりかえした作品もあり読んでいて飽きない。でも「恋愛曲線」の語り手も負と負で正の曲線をというのは屁理屈だと思う。まあ、だから面白いんだが。
 国枝史郎「神州纐纈城」。何度か忘れ去られては、復活する不思議な作品。未完であるという点と、「土地」に縛られず放浪を繰り返すアウトローを描いている点など隆慶一郎を連想した。単に俺が歴史伝奇ものを隆慶一郎と山田風太郎しかまともに知らないからかもしれないが。ちなみにこの作品が今絶版なのを作中の特殊なライ病描写に原因の一端があると考えるのはうがちすぎだろうか。人血で真赤にそまった纐纈布を手にした土屋庄三郎(武田信玄の寵臣)。それが行方をくらました父母に関係があるらしいことが解ると、庄三郎は武田家を出奔し放浪の旅にでる。彼の親探しの旅を中心にすえ、信玄の命を受け彼を追う高坂甚太郎(高坂弾正の甥という設定)や人血を搾り纐纈を作るために存在する城とその奇面の城主(庄三郎の父)や富士の裾野の宗教集団(庄三郎の叔父に深い関係がある)。おなじく富士で造顔(=整形)を望むものに施しつつ「本当の悪人」をさがす月子。自分をうらぎった不義の妻とその男を捜しつつ、殺人をくりかえし死体を窯で焼く陶物師(もとは関東北条家の一門)。庄三郎に大した見せ場が無いまま中絶してしまったためか、そういった脇役が非常に魅力的に映る。個人的には陶物師が気に入った。信玄曰く「吸血鬼、剣に淫する狂人」。その通りの人物だが、その切れっぷりがすさまじい。情緒不安定。前触れも無く話している相手を斬りつけるなど当たり前。宗教家にさとされて改心一歩手前までいくのに急に哄笑し、相手をあざ笑う(個人的に作中屈指の名シーン)。人を斬るときは決まって「姦夫」「姦婦」と叫ぶ。なお悪いことにその剣の腕は塚原朴伝とためをはる。話が彼が目的とする元妻達との邂逅で終わっているのがまことに惜しい。
 また、実質上の主役である高坂甚太郎の道化ぶりも見事。主である信玄を相手に一杯くわす辺りなぞ道化の面目躍如。陶物師すら煙にまく。また、悪意などないのだが他人を惑わし、物語を加速させる。親しくなった月子に対し善悪の基準のあいまいさを指摘し、「本当の悪人」などいないのではないかとの疑念をおこす(なぜそんなものを探しているのかは結局語られない)。また、纐纈城にとらわれたときには奇面の城主に気に入られ(纐纈城主は元武田の家臣。当然高坂家を良く知っている)彼の心に望郷の念を起こさせる。それだけならいいのだが、纐纈城主は他人の体を急速に腐敗させる奇妙な伝染性の業病を持っており、彼はそれを撒き散らしながら故郷の甲府をさ迷い歩く。まさにバイオハザート。人物造詣が見事なだけに中絶してしまったのが残念だが、それはそれでストーリーの佳境に永遠に放置されるというマゾ読者的楽しみは出来る。いずれ文庫で手に入るうちに「八ヶ岳の魔人」も読んでみたい。

5/19
 「橘外男集」。前半は海外実話編、後半が日本怪談編。日本怪談編ではやはり「逗子物語」と「蒲団」が圧巻。前者では妻を肺病で失った男が無気力に暮らすうちに遭遇した怪異譚。墓地で出会った少年とそのお付き。どことなく奇妙な彼らのその素性が判明する辺りから、その少年が男を付回すあたりのくだりがいかにも怪談めいていてぞくっとくる。これまた幽霊譚の定番ともいえる自分にしか見えない存在。そのため、他者に幽霊の存在を訴えても異常者としかみられない。半ばやけになった男が幽霊の少年に語りかけるラストはいままでの話の不気味なトーンを180度回転させる見事なもの。結構感動物。一方の「蒲団」は完全に正統派怪談。蒲団に縫いこめられていたものと、下半身が真赤な幽霊の姿やその容姿からどのようなことがあったのかは容易に想像がつくが、問題は誰が、なぜそれを蒲団に縫いこんだか。それを想像するといっそう怖いです。しかし、幽霊の初登場シーンが家の主人が予定を繰り上げて帰ってくるのを伝えるだけというのが訳がわからなくていい。たたるどころかむしろ親切(そこだけだが)。まあ、その不条理さがいいのだが。
 前半の海外実話編は人獣異種婚譚が目立つ。それだけでもう実話な訳が無いのはまる解り。まあ、エログロものの定番なんだろうな。この作品についてはちょうど今読んでいる柳下毅一郎「興行師たちの映画史」の2章の記述が全てを言い表している。とくに「令嬢エミーラの日記」はゴリラの白人女性に向ける情欲が映画のキングコングを連想させる。この小説より前に欧米では映画は封切られているが日本ではどうだったのだろう。まあ、白人女性と類人猿(ないしは白人以外の人間)というとりあわせは珍しくないんだが。橘外男は確か、満州で甘粕のしたにいたことがあったらしいがその辺りどうなんだろう。また、秘境物との共通点も面白い。類人猿への興味というのは小栗の秘境探検物にも見られたものだし。同種のエログロちっくな「聖コルソ島復讐奇譚」、「怪人シプリアノ」も面白い。よいアンソロジーだと思う。問題は別の出版社からでてる「橘外男ワンダーランド」シリーズをそろえるかどうかだな。ちょっと高いんだよな、全部そろえると。まあ、そちらは金のあるときに。柳下氏の本はまだ読了してないんだが、おもしろい。スカルの「ホラーショー」よんだばかりなので余計に思うのだが、こういう面白い映画評論って映像化できないのかな。実際に見てみたいんだけど、紹介されいる映画。スカルの本にはまだメジャーで見ることの出来るものも多かったが、柳下氏の挙げている映画って探すの骨がおれそうだし。「American NIghtmare」みたいなもの日本でも作れないかな。権利問題つらそうだけど。また、フリークショーを主題にした章で日本の「典子は今」というサリドマイド症で両手が不自由な女性のセミドキュメントの話がでてくるが、これ多分小学生のころ学校で見せられた。見終わったあと、俺もふくめほとんどの奴が足を起用に使うその技術をすげーと感心していたように記憶している。試しに同居人に聞いてみたら奴も小学校の時に学校で見たらしい。タイトルまで覚えてやがった。茨城と宮崎という日本の際西と際東でおんなじことやっているということは結構みんな見ているのでは?ちなみに同居人の感想も俺とおんなじ様なものだった。
 江戸川乱歩全集「緑衣の鬼」読了。表題作と「幽霊塔」という他作家の作品の翻訳およびリライトもの。本人の弁にもあるとおり、乱歩にしては話の筋が一貫している。ただ、なんというか過剰さが薄いところが不満。

05/13
 谷岡一郎「社会調査のウソ」。西原理恵子の漫画にでてきた教授と気付き読んでみた。内容がわかりやすくかなりお勧め。専門家にはものたりないかも知れないがこれから社会学系の勉強をしようと思っている人やそういう分野に興味のある中高生などへの格好のイントロダクションだと思う。まあ、左右に関わらずある思想に特化したアジ先生にとっては知られたくないであろうことも書いてあるので高校の授業で使うのは難しいかもしれないが。
 レックス・スタウト「料理長が多すぎる」読了。高校生のころからいつか読もうとおもいつつも読まなかった作品の一つ。乱歩が「幻影城」でハードボイルドの一派に分類したのもうなずける。なぞよりも登場人物のキャラクターや掛け合いで魅せるタイプの作品。ミステリに関してはトリックよりもそういった風俗やキャラクター性に魅力がある作品の方が長く読まれるのかもしれない。
 まさにそういったタイプの作品、セイヤーズ「雲なす証言」読了。ピーター卿シリーズの長編2作目。今回はある殺人事件をめぐって、証言の真偽や名乗り出ない目撃者などを探り出して言って事件の真相に迫るという形式になっている。んで、その事件の容疑者がピーター卿の兄でどうも偽証しているくさいあやしい証言者は卿の妹。身内の生命と名誉を守るためにピーター卿は奔走するのだが、ピーター卿報われない。面会に行った兄には余計な事をするなと冷たくされ、義姉はピーターをことのはじめから変人扱い。妹とは一緒に過ごした時間が短いこともあってかなにをやってもぎこちない。その上一緒に捜査をおこなう親友のパーカー警部は卿の妹に気があるらしく、彼女を疑うピーターに対して「君は妹さんをうたがってるのか」と責めてくる。「捕まってるのは僕の兄だ」とピーターでなくとも切れたくなるわな。かろうじて理解ある母親だけは味方だが、犬におどかされたり、鉄砲でうたれたり沼にはまったりでもう大変。かなり楽しく読めました。作中には社会主義者への揶揄なんかもあって時代を感じさせられ、それはそれで興味深かった。
 筑摩「橘外男集」読了。感想はまたいずれ。

04/22
 「久作全集」の10巻。全体的に地味めな作品が収録。久作をはじめて読む人には決して薦められない。時代劇ものがいくつかはいっていたのと、「人間レコード」の発送は興味深かったが、それだけ。後者のなかでシナの共産主義を皮肉って、「他人の物は我が物。我が物は我が物」と言っているのだが、一見して解るとおりこれはいわゆるジャイアニズム。結構古くからあるんだな、この言い方。
 

04/20
 夢野久作「暗黒公使」読了。ぶっちゃけ久作は「ドグラマグラ」一作で満足していた。その後読んだ「少女地獄」や「瓶詰め地獄」、「犬神博士」が面白かったのはある種もうけもののように考えていた。作品内容よりは、こういう比較的国体寄りの作品を当時久作が書いていたという意味で面白い作品かもしれない。一種のスパイものなのだが、作品のなかに出てくる謎は大抵、探偵役の語り手の独りよがりや勘違いによるもので、どうも語り手が一人で右往左往しているように見える。後、読みやすいことは読みやすい。作中に明石元二朗の名前が出てきたのが個人的には興味深かった。日露戦争時にロシアで革命分子を援助しロシアの弱体化をはかるなど、スパイ工作で活躍した人で、司馬遼太郎の「坂の上の雲」にもでてくる。私はこの人のことを風太郎先生の「ラスプーチンが来た」で知って、その後この人が結構な有名人だと知ってビックリしたものだ(だって山風作品の主人公で実在の人物ってマイナーな人が多いイメージがあるので。特に明治物)。
 セイヤーズ「誰の死体」。乱歩の「幻影城」読んでて、読みたくなった。ピーター卿シリーズの長編第一作。ぶっちゃけ内容を既にかなり忘れかけている。トリックにしろ動機にしろたいして印象に残るものではなかったし。だが、それはこの作品がつまらないということでは決してない。主人公のピーター卿を筆頭に登場人物のキャラたちまくり。とくに先代公爵夫人の母親のおしゃべりぶりが最高。イメージにあるイギリス上流階級の品のよいおばあさま像にぴったりはまる。また、大戦(一次のほうね)はピーター卿の部下で現在は卿の執事をしているバンターの執事っぷりも同様。一見道楽物のピーター卿が実は戦争により精神におおきな傷を負っているという設定も良し。普段の軽い感じが逆にその傷の深さを表現するのに効果をあげている。良作です。
 光文社乱歩全集「孤島の鬼」。収録作は「孤島の鬼」と「猟奇の果て」。前者は乱歩の長編の最高傑作に上げられることが多い。個人的には乱歩は長編よりも短編の方が面白いとは思うのだが、確かにこの作品はよくできていると思う。構成に大きな破綻がないことも大きいと思うが。本格推理と冒険物と前半、後半で作品のトーンが大きく変わるのだが、前半の謎を後半まで引きづらないでちゃっちゃと解いてしまったのが良かったのかもしれない。ちなみに衆人環視のなかでおこなわれる殺人の謎は「幻影城」でのチェスタトン礼賛を読んだ後だったので二マッとしてしまった。フリークス達が大量に飼育されている島というのがなんとも乱歩的でいい。しかし、ある意味周囲の不幸の源ともいえる主人公(悪気なし、自覚あり)が最後さらっと幸せになるところはなんとも。「猟奇の果て」。予定より早く終わらせたかった気持ちがわかる。前半での良くていたずら、悪くしても単なる殺人程度の事件が後半では世界を揺るがす大犯罪に発展しているのはどうかと。「偉大なる失敗作」といったところ。
 続いて「三角館の恐怖」。収録作は表題作と少年探偵団ものの「青銅の魔人」とおなじく「虎の牙」、短編の「断崖」。表題作はスカーレット「エンジェル家の殺人」の翻案。乱歩の戦後復帰作が収録されているという感じらしい。なんといっても少年探偵団ものがおもしろい。20面相は段々本業よりも小林少年や明智小五郎を楽しませることに夢中になっているように見える(本人達は復讐だとかいってるが)。トリックがどうとか設定がどうとかはやはり問題ではない。全身青銅でできた怪人(でも動力は実はかなりせこい)が大量の時計を持って東京を夜の中を逃げていく、その情景を想像するだけで十分楽しい。
 同じく乱歩「透明怪人」。表題作、「怪奇40面相」、「宇宙怪人」の少年探偵団ものに加え、「畸形の天女」、「女妖」の2作を収録。表題作では、明智小五郎の影武者だけでなく文代夫人の替え玉まで出てくるのは流石にいただけない。「40面相」別に新たな怪人が出てくるのではなく、20面相が改名しただけ。この巻の収録作ではこれが白眉。しかし、人を殺さないのがモットーといっているのだが、「青銅の魔人」の最後で自分が逃げるための目くらましに部下を爆死させているのだが…。まあいいか。とくに笑えるのが、40面相がとらえた小林少年を監禁したとき、小林君が隠し持っていた発炎筒で煙をだし、火事だと叫んだときの40面相の行動。なんと、彼は小林君が死んでしまう、大変だと監禁部屋に急ぐ。そしてその中で待ち構えていた小林君に逆に捕まってしまう。いい奴じゃん40面相。つうかどっちが悪者だかわからないぞ。この20面相(40面相を名乗るのは「怪人40面相」のなかだけ)の暴走は「宇宙怪人」で頂点に達する。動機が凄い。一読の価値あり。

03/14
 北山猛邦「瑠璃城殺人事件」読了。やっぱりさして面白くない。前作よりもおもしろくはなっていると思うが、もういいや。殊能将之を一気読み。まず「美濃牛」。引用をちりばめた構成といい、エピグラフに「わたしにまさる妙手」(うたがう余地もなく il miglior fabbroの和訳)と記してあるところから、どうしてもエリオットを想起してしまう。しかし、パウンド役の人がいたのかしら。それはいいとして、この作品2作目としては十分及第だと思う。この長さを一気に読ませるというほどでなないが。それでも退屈せずに読了できた。やはり脇役が光る。村の顔役の出羽と”村長”藍下のコンビが出色。”村長”とはTOKIOでいうリーダー見たいなもの。このでこぼこコンビのエピソードが本筋よりもおもしろかった。その本筋だが、やや肩透かし。なんか普通。あと、ヒロインの窓音にファムファタル的な魅力を感じなかったのが個人的には致命的だった。まったく関係ないが、読了後、近所の牛天神におまいりに。梅がきれいだった。BGMは奥田民生のBEEFがぴったり。
 続いて3作目の「黒い仏」。まず、この作品ミステリじゃなかったところにやられた感じ。笑えはしたのだが…。ファン以外の人がどれだけ許容できるのかと。別にいままで本格ミステリ書いてきた人が、ミステリ調伝奇小説書いちゃいけないとは思わないし、別に俺はミステリ至上主義ではない。面白ければなんでもいいと思っている。つまるところが、ユーモア小説としてしか楽しめないところがなんかね。それを狙ったのどうかすら判然とはしないんだが。
 さらに4作目「鏡の中は日曜日」読了。悪くいえば、「ハサミ男」の焼き直し的トリック。ただし、またしても魅力的な人物が話を面白くしている。詳しく書くとネタばれになるので避けるが、ひさびさに魅力的な名探偵を読んだ。それだけでも十分。
 自衛隊を舞台にした古処誠二の「UNKNOWN」とその続編「未完成」を読了。舞台が自衛隊内なのだが、文体がかるいかるい。ユーモアが全編にあふれており、さくっと読める。また、出てくる人物の大半がいい人。しかし、それだけに動機や犯人が明かされたときのやるせなさは相当のもの。かるさを一気に重さに反転させるその力量に正直やられた。かなりおすすめ。こういう社会派よりの作品が本格モノと共存できるというのはよいことだと思う。ただ、個人的にはすべてを組織の構造的、環境的問題に還元できるのかという疑問はのこったけどね。まあ、それも作者の術中にうちだかなとも思うが。
 ちくま内田百闖W成の「冥途」読了。とくに「件」と「道連」がよかった。後者は電車で読んでて泣きそうになった。たかだた数ページの小品なのにこの完成度は何事か。すばらしいの一言です。
 小栗虫太郎「人外魔境」読了。小栗は秘境探検ものを書いていたのだな。時節柄(1940年代初期)アメリカ人が悪く書かれていることに笑った。あと、妙に途上国の人間が日本人に親切。「黒死館」を読んだ後に読むと、その読みやすさにびっくり。この読みやすさと国粋色の強さとの間に関連を見出したくなるね。未開の地や其処にすむ謎の生物という主題はそれだけ見ると時代遅れの馬鹿馬鹿しい物に見えなくもないのだが、なかなか面白い。それは多分に主人公の折竹を筆頭に魅力的な登場人物に負う所大。とくに「よくウンコをおいていく」ハチロウや、シラノを気取るカムポス(この作品の西洋人ではもっともいい役)などなど。秘境ものというと、香山滋(ゴジラの原作者)しか知らなかったが小栗はその先達だったのだな。これを読み、戦後の作家である香山の作品もよみたくなった。もともと購入予定ではあったんだが。
02/13
 一転して最近のものばっか読みふける。西尾維新の新刊、いままでで最も伝奇色が強いこの作品が個人的には一番面白かった。なんか、こういう感じのものがとても好きだった十年前を思い出して楽しく読んだ。まあ、はたから見たらみっともない光景かもしれないが。しかし、このシリーズに出てくる人物はみんな、死ぬために出てきてるようなもんだよな。あと、キャラが過剰なのはあまり気にしないほうなのだが、なんか読後にもっと平々凡々としたストーリーのものが読みたくなった。
 んで、内田百閧フ随筆集。ちくまの集成が出たとき興味をひかれたのだが、あっちはちょっと高いので、リーズナブルな新潮文庫でまずはお試し。これがまた面白い。どういう類の面白さかというと、笑ってしまうのですよ。とくに借金話。同門(夏目漱石門下。芥川の先輩にもあたる)の森田草平とのやりとりが笑える。借金を返すために別のところに借金をする。自分的にはまったく変わらない。なら、返すこともないんじゃないか。…すごい理屈だ。そんな状況なのに、金が入ったらすぐ借金をかえしたら、使う暇がないじゃないかという。草平大人の心中さっするにあまりある。次は小説を読んでみよう。
 実家に帰ったときに、同居人から借りた森博嗣の「すべてがFになる」を読破。森博嗣は興味はあったのだが、同居人がほとんど持っているんでいつでも読めると思い、今までほっといたのだがついに手にとって見る。読む前に同居人にFって○○○のことでしょといったらしかとされた。最初の30ページくらい読んで自分の予想が当たっていたことを確信。さすがにそれが作品内でどう機能するかまでは予測できなかったが。一気に読みふけってしまった。密室と殺人の謎については途中である程度は予測できたが、最後に何捻りかしており、飽きたりはしなかった。事前の期待値が結構大きすぎたのをさっぴいて考えればかなり面白いと思う。
 森博嗣が初回大賞となったメフィスト賞の第3回受賞作の蘇部健一の連作短編集「6枚のとんかつ」(文庫版)読了。メフィスト受賞作家(↑の西尾維新もそうだが)の作品には歴代受賞作のタイトルが全部のった栞がはいっている。それを眺めた人間なら、かならず一度は目をとめたことがあるだろうこのタイトル。バカミス以外の何を期待するのだろうか。よもや本格ものを期待して読む人間はいまい。実家から帰京する電車で読んでいたんだが、にやにや笑いが顔にでて、傍から見たらかなり気持ち悪い人間だったことであろう。個人的にやられたのは「しおかぜ17号四十九分の壁」。見事にだまされた。ミステリのトリック(犯罪のではなく、小説としてのトリックだが)にひっかかって悔しい思いをしたのは初めてだ。ためしに同居人に読ませたら、奴もだまされてた。ちなみに読み終わってから数十秒苦笑いとも悔し泣きとも取れる不思議な表情でうずくまっていた。気持ちは解る。「消えた黒い女」でも、見事ミスリードにひっかかった。すごい情けない気持ちになった。この作品俺は楽しめたが、万人にすすめられる類のものでなないな。
 北山猛邦「クロック城殺人事件」読了。結論からいうとこれは期待はずれ。トリックと犯人はわかった。動機はさすがに見抜けなかったが、トリックがわかったあたりから、この作品にこの世界観(終末を迎えた世界)が必要かという思いが非常に強くなり、最後にいたってもそれが納得できなかった。QEDの一作目が謎と殺人がたいしてリンクしてなかったのと真逆に、設定と話の筋のつながりに必然が見えない。シリーズ化するというのならまだ解るが。キャラクターにその世界観が大きく影をおとしているとも思えない。ただ、話の本筋と世界観どっちかがかけたらもっと印象にも残らない作品になりそうだとは思う。でもだからといって成功してるとは決して思えない。
 殊能将之「ハサミ男」読了。これはかなり面白かった。とくに警察の面々の書き分けがうまい。警察側の主人公ともいえる(作品内の機能としては狂言廻しというかんじだが)磯部はなんか「クン」付けしたくなる感じだ。シリアルキラーハサミ男は「男」、「男」って強調されている分、女でもいいよな、でもデブの青年が主人公ってめずらしいよなと思って読んでいたが…。やられた。完全にあしもと掬われた。最後の終わらせ方もB級映画、コミック調で印象に残る。さて、問題はこれ以降の作品にたいして、この作品と同程度の水準を期待していいのかどうかというところだが。

02/03
 「QED」、芦辺拓と現代ものばっかり読んだ反動か、久生十蘭を読む。創元社から出てる奴。これは、代表作のひとつである「顎十郎捕物帳」が全部収録されている。顎十郎(あごじゅうろう)は主人公のあだ名。理由はいうまでもなく、顔の下半分が長いから。でも本名は阿古十郎(あこじゅうろう)。しかも本人顔のことを大いに気にしており、目の前でからかおうものなら、いきなり斬りつけてくる。だから、周囲はうっかり言い間違わないように、そして相手が聞き違わないようにはっきりと「あこ」と発音するようにしている。なんかそれはそれで聞いててむかつきそうだが、本人的にはオーケーらしい。この逸話読んでて、明の洪武帝が若いころ乞食坊主やってたことに対するコンプレックスで坊主という言葉どころか、それを連想する言葉(光とか)にまで過剰に反応したという逸話を思い出してしまった。軽妙な会話(顎十郎のライバルの同心が影で「顎化け」とかいってんのは笑った)と切れ味よくさっと終わらせる展開がよい。予想以上に面白かった。個人的に気に入ったのは「丹頂の鶴」。顎十郎とライバルの同心藤波が将軍の御前で推理合戦をおこなうもの。少ない材料で謎を解き明かす藤波のきれと、全てを見抜きつつも(見抜いたが故に)犯人を救い、同時に自分とその上司、ライバルの藤波全ての顔をつぶすことなくその場を収めてしまう顎十郎の話術が逸品。半七や平次と比べると知名度では劣るが、作品としては決して遅れをとるものでは決してない。しかし、↓で挙げた海野も含め、昭和初期のミステリは広く読まれてもよいとおもうのですよ。乱歩、正史だけでなく(もっともこの御大ですらいまどれだけよまれてるやら)。

01/26
 正月休みを利用して、「ドグラマグラ」を久しぶりに再読。最初に読んだときは話の先がきになって急いで読んだものだが、再読なので時間をかけてゆっくり楽しむ。不思議なことに終わりに近づくにつれ、この幸せな時間をのばしたくて読むスピードがゆっくりになる。やっぱりいいわ。好きな小説を3つあげろと言われたら、確実に挙げるね。作品解釈については自分なりにいくつか可能性としてありうるものを考えてはいるが、決定稿となりそうなものは浮かばない。また、他人の解釈を聞いても完全に納得できる解釈がありえるのかは疑問。ジェームスの「ねじの回転」の解釈みたいにね。まあ、それが面白いのだが。ただ、これは壮絶な自分探しの物語であるというのは言えるだろう。なんたって語り手の記憶がなく、自分が誰だかわからないんだから。んで、こんだけ入り組んだ路をたどって自分を探しても、結局は・・・って所が好き。
 「海野十三全集2巻」を読む。筑摩からでている選集に入っている作品で覚えていた数少ない例外の「俘囚」と「3人の双生児」が収録されていた。「俘囚」を覚えていたのは、その中に出てくる脱出トリック?が京極夏彦の「魍魎の箱」の死体消失トリックを連想させたから。んで、その「俘囚」を発展させたのが、この巻のハイライトともいえる「蠅男」。バカミスと紙一重の傑作。最初、筑摩の選集を読んだとき、探偵帆村荘六はなんというか、量産型明智小五郎という印象だったのだが、どうしてどうして、結構いいキャラしてる。ある作品では犯人とすれ違っていながら、露店のおもちゃに気が取られて見逃してるし(何のために出てきたのかという感じだ)、「蠅男」では、犯人の車をおう際に味噌屋の配達用自動三輪車を強奪。その際、抵抗する店員をアッパーカットで一蹴。しかも拉致る。しかも、犯人追跡中に言うことを聞かないこの店員に対し、言うことを聞いてくれないと俺は頭がおかしくなるぞ、崖から車ごと飛び降りるぞととんでもない脅迫をやらかす。しかもこの追跡劇、帆村の服装はドテラ。ちなみに蠅男との最後の死闘は砂風呂でおこなわれる。…とてもホームズから名前を借りた探偵とは思えん。読むたびにアホなイメージが強くなる。怪人蠅男を誕生させたドクトル鴨下の考え方には、「魍魎」の美馬坂の理論と通じる点があり、京極堂が最後にかける呪(機械につながれた脳髄がなにを映すのかというやつ)に「ドグラ」の正木教授の理論との明らかな共通点が見られることを考え合わせるとやっぱり意識してるんだろうな。ちなみに、「ドグラ」と「蠅男」の出版年は一、二年しか違わない。完全な同時代作品。京極作品の主人公の古本屋さんなら読んでるかもね、どっちも。まあ、勝手にそう考えて楽しむのは読者の自由だし。海野全集2巻を読み終わって気になる点が一つ。帆村夫人は今後でてくるんだろうか。明智夫人みたく。
 その後、「QED」を3作立て続けに読む。回を増すごとに面白くなっていく。とはいえ、あまり趣味じゃない。ある種のパターンを守っている点や、知的パズルに重点を置いている点はかなりいいんだけど。

01/03
 ちくまの「夢野久作全集1巻」読了。作家デビュー前の童話を集めたものだが、ここに集められたものに関しては、質は量に比例している。冒頭の3作品に共通すること。一行目にかならず「乞食」という単語がでてくる。「ドグラマグラ」もそうだが、乞食や精神病患者、不具者といったものに重要な役柄を割り当てるのだろうか。いずれ一考を。
 高田崇史の「QED百人一首の呪」読了。よくもまあ考え付くなあというのが読んですぐの感想。ただ、殺人事件を起こす必要があったのかなあと。同作者の作品をもうちょっと読んでみようかなとは思ったが。
 「海野十三全集1巻」収録作を中篇の「空襲葬送曲」を除いて読み終わる。ちくまの「海野十三集」にはいっている作品もいくつかあったが、内容をほぼ完全に忘れていた。しかし、探偵の帆村荘六は酔っ払っていたり、麻雀にはまっていたりと中途半端にカッコ悪いのがいいね。個人的に面白かったのが、「西湖の屍人」。帆村がある夜出逢った怪しい人物が落としていった薬品から事件を解決するというものだが、その落としていった薬品というのが「ボラギノール」。痔の薬の。そんなむかしからこの薬はあったのかと思って調べてみたら、大正時代からこの薬はあるらしい。以外に歴史があるんだな。
 光文社の江戸川乱歩全集の「悪魔の紋章」読了。少年モノ2作と大人向けの表題作を収録。「大暗室」の時も思ったが、読者層というものをしっかりと意識し、内容や文体を変えているあたりさすがプロ作家という感じ。数十年前の少年モノをいい年をした俺が楽しんで読んでいるというのもなんだかな。二十面相は殺人を犯さないのがモットーというのはいいのだが、そのせいで、少年探偵団への復讐の中には、なんか単なるいじめじゃないかと思えるものがあるのがなんか可愛い。「悪魔の紋章」、蜘蛛男パターンかと思ったらもうその通り。また、解説にもある通り、やや筋運びが不自然。ちょっと気にならない範囲を逸していると思う。面白くないといっているわけではないが。

12/23
 朝倉無声の「見世物研究」を興味のあるところだけ流し読み。注意書きにおきまりの、今日の人権意識に照らすと差別が云々とある。そんなことに目くじらたてる人は読まねえだろう。とはいえ、この本をポリティカルコレクトな表現で全編書き直したらどうなるのかなという興味はあるが。しかし、3本足の女とか、毛むくじゃらの熊女、両性具有とかはともかく、顔が猫に似ているだけの猫娘って売れるわけあるか?ちと笑った。手足がなくて「達磨」つうのは知ってたが、両手がない状態を「徳利」というのは初めて知った。勉強になる。多分日常会話では一切使わないし、今後の俺の人生には何の役にも立たないだろうが。まあ、役立つ知識がほしけりゃ仕事に関係のあるもん読むしね(つうか、読まなきゃならんのよそろそろ)。個人的に一番のお気に入りは「軽業」のところで紹介されてた「人馬」という芸の禁止された理由。人馬というのは、一人の人間の肩にもう一人を立たせ(マスゲームとかであるような体勢ね)、おこなう軽業のこと。なんでこれが禁止されたか。「悪漢がこの術を練習し、よからぬことに応用してはいけないという懸念から」とのこと。昔からあんま進歩してねえな。取り締まる側の理屈って。それを受けて同居人曰く「その禁止令見て、なるほどさっそく使ってみようって悪人はいたんだろうね」。いそうだね。

12/16
 光文社の乱歩全集の「黄金仮面」読了。「何者」はフーダニットものだが、犯人よりも犯罪を暴く側のほうが意外であった(人によっては予想通りだろという人もいるだろが)。表題作「黄金仮面」、ルパンと不二子の元ネタってことはないだろうが…。学校にあった子供向けの乱歩作品の背表紙に黄金仮面と思しき絵がのっていたのが非常に印象にのこっていた(あれ、黄金仮面だよね、それとも20面相?)ので感慨もひとしお。いやあ、明智君後手にまわってますな。作中に出てくる黄金仮面脱出のトリックなんか、島田荘司あたりがやりそうな感じ。もっとも登場人物がみんな結構健全なのがものたりないが。「江川蘭子」、乱歩が自分のペンネームもじってつけたのに気づくのに時間がかかってしまった。ワレながら鈍くなったねえ。これは横溝や夢野などと書いた連作の一部らしいので、完全版が読みたくなった。春陽堂復刊してくんないかしら。「白髪鬼」、墓場(洞窟になっている)に閉じ込められた語り手が食料とすべく、死肉を探すさまが圧巻。人間押しつぶしてもぺちゃんこにはなんめえなどどつっこむのは無粋だね。
 ちくまからでている「蘭郁二朗集」を半分ほど読む。蘭郁二朗は昭和初期にデビューした作家で、ミステリ風の作品から科学小説などを書いていた人らしい。そうきいて、海野十三を連想したら、実際交流があったらしいことが巻末の解説に書いてあった。関係ないけど、当時の科学小説とミステリとの関係について書いてあった文章をどっかでよんだんだよな。なんだったかおもいだせん。多分運野十三か城昌幸関係の文章なんだけど。まあいいや。この選集は主に初期の(といっても飛行機事故で夭折してるので執筆活動は10年ちょっとだが)ミステリ風の作品中心に編んだとのこと。いや、しかしこれは想像以上におもしろくてはまってしまいそうだ。なんというか不思議な味わいのある作品が多い。話がこっているとか、驚天動地の展開とかそんな類のものではなく(話の筋自体はそう奇想天外ではない)、作品、登場人物のもつ雰囲気が独特でゆがんでる。2,3ページの小品からでもはっきりと感じ取れる。乱歩が目をかけたのもうなずける。なんつうか出てくる人物がみんなどっかおかしい。そんなだから、そんななかに「穴」のように、正常な語り手が不思議な出来事をかたる話がでてくると逆に引き立つ。まあ、これは編んだ人の力量であるが。また、人形、写真、足の裏など多種多様なフェティシズムの見事さ。変態は時代を問わない。「魔像」の登場人物が学生時代におこなったブロマイドを切り貼りして、実際には存在しない女性の写真をつくりあげるという遊び。まんまアイコラ。個人的に特に気に入ったのは「夢鬼」。前半の容姿の醜い少年と美少女のサドマゾちっくな絡みが秀逸。なので、後半やや話の趣向がかわってしまったのは残念であった。

11/27
 「夜の果ての旅」読了。最後まで主人公は成長しなかった。とりあえず逃げる。失敗する。逃げるの繰り返し。でも読んでいて、逃げる以外の選択肢があるかといえばないような気がするのは、俺に逃げ癖がついているからだろうか。「なしくずしの死」もこんど買おう。つづいて光文社の乱歩全集から「大暗室」。光文社のこのシリーズは月1で現在刊行中だが、収集しようかどうか考え中。創元文庫みたいに挿絵ついてりゃ決定打になったんだが。まあ、でも何か買ってみようかということで購入。実家へ帰る道すがら読み始める。収録作品は表題作と「怪人20面相」。まず一気に「20面相」を読み終える。小林少年が芳雄というのをはじめて知った。舞城王太郎の「煙か土か食い物」の中で主人公がこの作品(明言はしてないし、この作品単体をというわけじゃないが)を馬鹿にしてたが、俺はこの仰々しさは好き。名探偵と少年助手、鬼警部、そして怪人。なんという素晴らしい世界であろうか!!「大暗室」、東京の地下に莫大な資産を使い、美女をさらって、自分だけの王国を作る。いいなあ。単純にそう思ってしまった。両作品とも違った意味で御伽噺みたいなものだが、いいじゃない、それで。久しぶりに時間を忘れて読みふけってしまった。しかし、この両作品に限らず、乱歩作品には変装とその変奏がよく出てくる。20面相はいうに及ばず、探偵と犯人の一人二役とか、過去を捨てて別人としてくらしているだとか。これはポーが得意とした(というかとりつかれていた)分身の一パターンといえるかなと少し考える。…ダメかもな。ポーに見られるような自己への不信、恐怖とはまた違う、どちらかというと、純粋にストーリーを盛り上げる道具という気がしないでもないし。
 千葉に行く電車のなか舞城王太郎の「煙か土か食い物」を読み始める。タイトルみて、火葬、土葬、風葬のこと?って思ったら、正解だった。最初、文章のテンポをつかむまで少々読むのに苦労する。慣れれば一気。とくに後半は帰りの電車の中酔っ払ったハイな状態でよんだら、ナンというかスピード感が心地よい。帰宅後勢い「暗闇の中で子供」も一気に通読。なんというか、一見話が破綻してそうに思えようが、謎とか犯人がどうとかそんなのは全部小さいことだよな。作品そのものがおもしろけりゃ。俺はこれはありだと思う。まあ、話がはっきり理解できる形じゃないとやだとか、整合性にこだわる人にはあまり進めないが。とはいえ、この両作品の主人公たちの回想を照らし合わせて、矛盾点なりを突き詰めていくとなんかありそうな気がするんだけどね。どっちも全てあくまで主人公の記憶から導き出されたものなんで、どっかで妄想がたくさん混ざっててもおかしかないし。まあ、暇なときにでも。

11/19
 岡本綺堂「江戸のことば」読了。明治の初めに生まれた綺堂が若いときの話などを後年、回想している文章を中心に集めた随筆集。記者時代に勝海舟や榎本武明にあって話を聞いたらしいが、その辺のことを詳しく知りたく思った。別の随筆で触れたりしてないか今度調べて見よう。大正−昭和初期の文章を中心に収めているのだが、若いころ(綺堂は明治5年生まれなので、明治20年代?)の話をするのに、「いまでは信じられないかもしれないが」的な表現を使う。東京のど真ん中を早朝、野犬を追い払いつつ、薄暗い中芝居を見に行くなどというのは、確かに想像も出来ない。もっとも、綺堂がその回想を書いていた当時の東京自体、今となっては想像するのも、それこそ難しい。芝居と落語を語ることに関して、絵やら写真が残っている分、まだ芝居を語ることのほうが易しいといっているが、いまでは落語もCDで聴けてしまうし。なんというか、時代の変わり様を思いながら楽しくよませていただきました。今すんでいるところの近辺の話も結構はいっていたし。
 一週間くらいかけて、セリーヌの「夜の果ての旅」を読んでいる。ブコウスキーの「パルプ」を読んで以来興味のあった作家だが、いかんせん安く手に入らない。最近文庫になった「なしくずしの死」も上下買うと3千円くらいするし。「夜の果ての旅」の文庫は廃刊だし。しかしまあ、ネットは便利だ。結構安く売っている古書店を見つけてこれを購入。じっくり読んでます。まだ途中だけど、なんつうか、いろんなとこいって四苦八苦してるわりには成長しませんな主人公。そこがまた、読んでいて妙にリアルで面白いんだけど。5年くらい前の自分に読ませたいね。薬漬けで世の中に対して八つ当たりにも等しい呪詛を一人ひっそりと、あくまでひっそりと投げかけていたころの自分に。
おきにいりの一節「こんな世界にいるあいだは、いちばんいいことは、そこから抜け出すことじゃないか?狂気だろうと、恐怖だろうと、かまっておれるものか」

07/08
 電車のなかで読もうと、数年ぶりにオースターの「幽霊たち」を取り出す。最初に読んだのは、文庫がでてすぐだったので、かれこれ6,7年くらい前になる。まだ十代だった。あの時はなんかわけわかんねえなと思ったのだが…無駄に長かった大学時代は決して完全な無駄じゃなかったのだなあ。
 私立探偵の主人公のもとにどうやら変装しているとおぼしき男が依頼人としてやってくる。依頼内容はある男を見張り続け、その動向を逐一報告してくれというもの。だが、その観察対象の男は何するでもなく、本を読んだり物を書いたりしてるだけ。ほかの人間との接触もほとんどない。なんでこんな奴見張るのかと暇な主人公は妄想交じりに理由を考え始める(とはいえ、組織が云々というのは舞台が終戦直後なので反共な世相を反映している可能性も排除できないが)。その上、観察していくうちにこの観察対象の男はどうも、あの変装依頼人と同一人物であるくさい。さっぱりわけがわからない主人公はこの男の狙いを知ろうと自らも変装し、男の生活に積極的に介入していこうとする。
 といったところがあらすじ。作中にホーソンの「ウェイクフィールド」(ある日唐突に失踪する男の話)について、男が(変装して近づいていった)主人公にかたるシーンがある。最初にこの本読んだときはホーソンについては「緋文字」くらいしか知らなかったのだが、これも高等教育の成果か、今「幽霊たち」を読んでみると、「確かにホーソンを連想するような所があるね、ふふふ」くらいは言えるようになった。具体的にいうと、「牧師の黒いヴェール」。「ウェイクフィールド」と同時期に書かれたおもわれる作品で、ホーソンの短編の代表作として挙げられることも多い(らしい)。
 内容はといえば、ミルフォードに赴任してきた牧師フーパーは常に顔の周りに黒いヴェールをかけているため、周りからは不気味がられている。というものの、仕事はきちっとやるし、何か他人の害になるようなことも決してない。そのため、ある程度の尊敬はかちえていた。不気味なのは確かだけど、悪人じゃあねえな、てな感じで敬して遠ざけられている。そんな彼にも最後の時は訪れる。臨終の際にもフーパーはヴェールをはずさない。そして、彼の周りの集まった村の人々にこう問いかける。「皆なぜ、私ひとりをみてそんなにおびえるのか」と。「皆が私をさけるのはすべてこのヴェールのためなのですか?でもそんなあなたたちも、皆、黒いヴェールをつけているじゃあないですか」、そして彼は事切れる。
 いくら親しそうに見えても、人と人との間には決して埋められない溝はある。どうしようもないディスコミニュ二ケーション。それは認識した。じゃあどうしよう。まあ大抵は、その断絶を知りつつも(しってこそ?)他人とつながろうとするんだろうとは思う。
 この作品のなかで男と主人公との関係は「書くものと書かれるもの」、「見るものと見られるもの」という一方的なものではある(しかし、その関係が見るものの側でなく、見られるものの側の願望である点に注意は必要だが)。さて、見られているという意識は、フーコーを引くまでも無く、当人にたいし、ある種の規律をしいる。それが極度のプレッシャーになると、精神がおかしくなる。常にカメラやなんやらで見張れらているというのは旧来の管理社会のわかり易いイメージでもある。しかし、この本の後半、遂に対峙した男と主人公の会話を読んでふと思う。見られているという恐怖はその対極にある「自分は誰にも見られていない」という認識のもつ恐怖に勝つことが出来るのかと。そういった視点から読み直そうとするなら、オースターの作品中もっとも同時代的なのは、テロリストを描いた「リヴァイアサン」などではなくこの作品なんじゃなかろうか。まあ、こんな届きもしない手紙のようなページつくってるやつが偉そうに言うことじゃあねえかもしれんが。

12/04
 ポール・オースターの「リヴァイアサン」、会社の往復中に3日で読了。オースターはちょうど、ムーンパレスが出たくらいに読み出したので、「最後の物達の国」から「偶然の音楽」まではハードカバーで買っていたのだが、個人的には初期3部作が好きで、それ以降の作品もいいんだけど、なんか文庫になるまでまってもいいかなと思い、「リヴァイアサン」、「ミスターヴァーティゴ」は見送っていた。結果としてインターバルは結構空いたが。
 なんか妙に込み入ってるね。話も人間関係も。珍しくポリティカルな姿勢が出ているといえなくもないし。あらすじは、爆死したおっさんが自分の親友であり、同時に米国中の自由の女神像を爆破してまわっていたファントムオブリバティであると気づいた語り手が、彼の行動の背後にあるもの、そして彼という人間をできる限り正確に伝えるため(実際は自分のなかでの整理のためといった趣が強いが)この本を書き始めるというもの。
 しかしなんでリヴァイアサンなんだろう。旧約の海竜(いまだとFFの召喚獣といったほうが通るかな)でありホッブスのとなえた絶対権力者(の比喩)。その2つはどうしても連想してしまう。実際に読む前にはメルヴィルの白鯨のような存在をイメージしていた。だがどうも違う。たしかにサックスの行動や、作中の人間関係を突き詰めていけば、共同体の問題に行き当たるだろう。ご丁寧にエピグラフにエマソンを持ってきてるし。同じ道(作家同士)として始まり、行動する方向にシフトしていった友と、あくまで作家として友の後を追う語り手。確かにニック・キャラウェイとJ・ギャツビーを思い出すかもしれない。サル・パラダイスとディーン・モリアーティでもいいだろう。それはどういうことだろう。他人について語ることで実は自分のことを語っている。それはそうだ。他人のことなんか結局わかりはしない。(ちなみに、もし語り手がその認識なしに極限まで突き進むとどうなるか、というのがミルハウザーの処女作「エドウィンマルハウス」。)作中で語り手も幾度か偶然というもののもつ圧倒的な力や、越えることのできない他者性について言及している。私が読後もっとも印象に残ったのはそのことだった。「鍵のかかった部屋」も孤独を描いた話だったが、あの作品にでてくる部屋に閉じこもる男と違い、今作にでてくるのは親しい友人であり、夫婦である。そんな関係ですら、相手にどんなことが起きるか、相手が何を考えているのか、表面に見えるものはどの程度実情を反映しているのか、結局わからないのである。当たり前。そう、当たり前なんだ。あえて日常、意識的に目をそらしているものを眼前に突きつけられてなんとなく寂しくなった。
 良作だとは思うけど、オースターの作品の中ではベストとはいいかねるかな。あと、文庫の帯の売り文句は内容とずれているので注意。
12/02
 パトリック・マグラアの「スパイダー」。一応ハードカバーで出たときからなんとなく気にはなっていたのだが、定価で買うのは高いなあと思い、古本屋なんかで見たら買おう程度に考えていたのだが、一向に出くわさない。気がついたら文庫になっていた。
 家が精神病院で、ポーの影響を強く感じさせると聞いていたので、現実と妄想の区別のつかない自分内引きこもりが出てこなきゃ嘘だな、などと思っていたら語り手が本当にそんなタイプだった。あらすじを簡単にまとめると、十数年ぶりに故郷に戻ってきた語り手(スパイダーとは彼のあだ名のようなもの)が過去を回想する話。彼の父は愛人と共謀して母を殺し、彼にも冷たくあたる。我慢しきれなくなった彼は…というのがその回想の内容なのだが、語っていくうちに彼自身、現在と過去、事実と妄想の境目が揺らいでいく。それで実際に何が起こったのかというのがラストに行くにつれ段々明かされていくという構成。
 で、ページ開いたら、本文の前にシェリーの「オジマンディアス」の一節をエピグラフとして引用している。なるほどね。タイトルが「スパイダー」であることも考え合わせて見ると、この時点で早くもネタ晴らしをかましてくれているというわけね。親切といえば親切だ。
 解説ではエピグラフについてはなんにも触れていないのでちょっと解説。英ロマン派の代表格の一人P.B.シェリーの初期の代表作。オジマンディアスというのはモーゼが出エジプトを決行したときのファラオ。映画「十戒」でユル・ブリンナーが演った奴。あれはかっこよかった。まあそれはいいとして、つまりは古代の絶対君主ですな。んで詩の内容はというと、詩人が古の国(エジプトね)を通ってきた旅人に話を聞いているところから始まる。旅人曰く砂漠の中に(足と思われる)でっかい柱と、半分埋もれた顔があった。でその顔が傲慢そうでやな感じであると(ということがわかるくらいそれを作った名もなき彫刻家の腕がすごいのね)。そしてその近くにあった台座の残骸に次のような言葉が刻み付けてあった。My name is Ozymandias, King of Kings, Look on my Work, ye Mighty and despair! その周りには荒涼とした砂漠があるだけだった。
 英文で引いてきたところがエピグラフとして引かれている部分。邦訳でどうなっているか後半部分のみを見てみると(括弧内は俺がつけたものね)、スパイダーの序文では「全能なるものよ、我が成し遂げしもの(自分が作らせた像のこと)を見て、絶望せよ」。ちなみに新潮文庫のシェリー詩集ではMightyが全能の神となっている。mが大文字だからまあ普通そうかんがえるわな。俺もそうだった。参考までにそのときの俺と先生の会話。「神ね。」「はい。」「具体的には?」「…」「エジプトは一神教、多神教?」「多神教です。」「そうね。で、ファラオというのは?」「主神ラーの化身です。じゃあ、ユダヤ教とか?」「異教の神を全能って形容するかしら。」「…」OED引いたら諸侯という意味があった。
 この詩は一見地上の権力のはかなさ、無意味さをうたっているように見える。まあそれは確かにありそうだ。だが同時に、芸術作品のもつ力を称えているようでもある。我々に見えるのは王の力ではなく、その彫像を彫った彫刻家の優れた腕前なのだ(my Work の意味合いが微妙に変化しているわけだ)。そしてそんな芸術の恒久性を、宝石にもたとえられるソネットの形式を用いて描いて見せたシェリーの意図は明らかだろう。では、それをあえて自分の作品の前においたこの小説は?
 スパイダーときいてイメージするものは?個人的にはまずコレクターとしてのイメージがある。実際作品内でも語り手たるスパイダー君は虫(というかハエ)を集めている。そして(この本の解説でもちょっと触れているが)糸でもって見事な巣を作るイメージ。ギリシア神話ではアテナと機織の腕を競ったアルケニーは、アテナによって蜘蛛に変えられた。蜘蛛は織物をつむぐ。文芸批評では対象となる作品をテクストと呼ぶ。テクストの由来はテクスチャー、即ち織物からきている。そう。蜘蛛はテクストを織紡ぐのだ。スパイダーは物語を作り出す。しかも見事に。語り手自身自らが何度も何度も’物語’(説明とよんではいるが)を組み立てることで立ち直ったことを明言している(文庫p195)。この小説は我々に、これから語られる物語が構築されたものであることを始まる前から提示してくれる。それが優れた構築物であることも同時にほのめかしながら。
 個人的にはスパイダーの語る話の(作中世界における)真偽にはあまり関心はない。ぶっちゃけた話、取り立てて予想外な展開を見せるわけでもない。ただ、彼の回想における子供時代の話、父や母、酒場に集まる人々の描写など、作中に絶えず降り続く雨が象徴するような薄暗い世界はそれが虚構と記憶の入り混じったものであれなんであれ、非常に魅力的にうつるのだ。

11/27
 最近近所の古本屋で平凡社ライブラリの中国系の古典がおいてあったので、「山海経」と「神仙伝・列仙伝」を購入。どっちもいい感じに胡散臭い。
 「山海経」は珍しい生き物、民族を紹介するものなのだが、大半が化け物のようなもの。首がなかったり、腹に穴が空いていたり、首が二つあったりする。それを描いた絵が一緒にのっているのだが、なんか味わい深くていい感じ。
 特筆すべき点はどんなゲテモノ動物に対しても、それを喰ったらどんな効能があるか載っているところ。さすが大中華。なかには悋気に利くものまである。どんなんじゃと同居人と話していたら、同居人いわく「まあ、嫉妬とかは体内にいる蟲がおこしていると考えられていたわけだから、虫下しみたいなもんでしょ。」まあそうなんだろうけど(日本でも浮気の虫、疳の虫などは今でも一応使うしね)。
 あとちょっと面白いなと思ったのが、「鳴くときは我が名呼ぶ」という記述。動物の名とその鳴き声が同じつうことなんだけど、泣き声から名前がついたとはいわないのだなあと。さすが傲慢。
  「神仙伝・列仙伝」は名前の通り、さまざまな仙人の逸話をのっけたもの。有名どころでは三国志にでてきて曹操をおちょくる左慈や漢の武帝に仕えた東方朔なんかが載っている。別に胡散臭いのは東方朔の専売特許というわけではないのだな。こんなのの大元締め格にされてしまった老子はえらい迷惑だろうに。(実際に仙術が使えたかはおいといて)こういうやつらが世の中はおろか、時と場合によっては宮中にまではびこっていたのかなどと考えながらよむと結構楽しい。

11/26
 ちまちまと読んできたジュネの「泥棒日記」を読み終わる。会社の行き帰りの電車のなかで一週間くらいかかった。
 こんなアングラホモ小説が文庫で一般書店に流通してる。なんてすばらしい。
 語り手はヨーロッパを放浪しつつ、盗みやら親父狩りもどきやらをしつつ、警察に捕まったりしつつを繰り返し、そこであった人物(主に男)との生活を回想しているのだが、それが一方でかなり冷徹に相手の思考、性質を分析しているかと思えば、いきなり妄想が爆発したりしていてかなりキテル。刑務所から出てきたばかりの老女を見て、「あれが自分の母親だったどうするだろうか」(語り手は捨て子)と考え、出た答えが涙ではなく涎を顔の上にたらすことで満足しようというもの。ううん、マニアック。
 世間から唾棄すべきもの、軽蔑すべきものとされている対象、その価値を転倒させる、というよりはあらかじめ転倒してしまった価値観でもって照らし直し、美しく描く。まあ詐術といえば詐術だが、自意識や過度の自己憐憫に陥ることなくやってのけるのは見事。少なくとも電車の中で人の体に触ってくる自称ホモのおっさんや、飲み屋で偶然会った、自分の子供への教育論を熱くぶち上げたその口で、タイで自分の娘くらいの年頃の女買って、チップ大量にあげたことを自慢げに話すおっさんに対して嫌悪感を感じてしまう俺にはまだまだできない芸当である。