恋は複雑


 「誰か好きな人居てるんですか?」
 今日何度目かのその質問に、平次は心底うんざりして目を伏せた。
 なんでお前にそないなこと言わなアカンのや、そう言いたいのをぐっと堪え、溜息に混ぜて逃がす。
 日頃人当たりのいい平次もこの日ばかりは少々冷たくならざるを得ない。
 曖昧な態度を見せればつけ込まれる、という考えは危惧ではなく経験から来ているものだ。
 「とにかく、それは貰えん」
 なぜ、と詰め寄ろうとする少女に平次は不快そうに眉を顰めると、
 「捨てるくらいなら、自分で食うとけよ」
もったいないさかいに、―――そう言い残してその場を去った。







 昼間だというのに身を切るような寒さに、新一は茶色のダッフルの襟元を左手で押さえながら家路を急いでいた。
 雲がないからかえって寒いのか、日の光は充分にあたりを照らしているのに空気だけが冷たく、鼻の奥がツンとする。
 右手には学生鞄の他に大きな紙袋が一つ。中には色とりどりにラッピングされたチョコレートが溢れんばかりに入っている。ほとんどは学校の下駄箱や机に置かれていたものだったが、いくつかは校門の所で待ち伏せして渡されたものだ。
 こんな日は、家でおとなしくしているか、阿笠博士とでも遊んでいた方がマシだ―――。新一は寄り道することなく、まっすぐ家に向かう。
 そう、今日は世に言うところのst.バレンタイン・デーなのだ―――。
 それでも高校生探偵として全国的に有名だった去年に比べればその量は格段に減っている。メディアの力とは恐ろしいもので、見ず知らずの女性達からもらったチョコレートは段ボールに2つ半にもなり、とても一人で消費しきれるものではなかった。結局養護施設に寄付することで事なきを得たが、折角くれた物にろくに目も通さずに譲り渡してしまったのは新一としても心苦しいところがあったので、この程度の量で済んでほっとしているというのが実状だ。
 甘いものは嫌いではなかったが、特に好きというわけでもない。今年はどうやって処分しようかな、と重い紙袋を持ちなおしながら新一は軽く溜息をついた。


 延々と続く住宅街のある角を曲がればすぐに自宅が見えてくる。
 まっすぐ前を向いて歩いていた新一は、曲がってすぐに自宅の壁に背中を預けて立っている長身の人影に気付いてその形の良い眉を顰めた。
 平日のこの時間に居るはずもない人物が、そこには居た。
 「よお、工藤!元気にしとったか―――」
 白い歯を見せて笑うその男は、新一に気付くとすぐに駆け寄ってきてそう言った。
 ―――いつの間に伸びたのか、ちょっとだけ高い視線の位置で。







 「何考えてんだ、まったく・・・!!」
 「何て、さっきゆうたやろ?」
 「オレが言ってんのは!どーしてここに来たかじゃなくて、なんであんなとこに突っ立ってたかだよ!!」
 「なんでてゆわれてもなぁ・・・。来てみたんはええけど、工藤は多分ガッコ行っとるやろし、待っとったらそのうち帰ってくるかなー思て。それにお日さん照っとったで、そない寒なかったで?」
 「オレが帰って来なかったらどーする気だったんだよ!」
 「まぁ、そん時はそん時やな・・・勝手に来たんオレやし・・・」
 (まったく、やることが強引な割に妙なところで控え目になりやがって・・・!)
 新一は平次の為に淹れてやったコーヒーを音を立ててテーブルに置くと、ドカッと椅子に腰掛ける。


 あの後、新一の荷物を取り上げると平次はさっさと工藤邸へと上がり込んでしまった。どう見ても学校帰りの学生服のままの平次に新一がとまどっていると、平次はなんでもない事のような顔をして告げた。
 『明日まで、かくまってくれへん?』
 平次がいつから待っていたかはわからないが、コ−トを着ていてさえ寒いと感じた外気に学生服だけで晒されていた平次を冷え切ったままにしておく訳にもいかず、話は後にしてとりあえず風呂に入らせ、その間にコーヒーと着替えを用意した。
 以前両親がサイズを間違えて送ってきたグレーのカシミアのセーターは、いやみなくらい目の前の男にピッタリだった。


 「―――で?かくまうって何だよ?」
 自らも来客用のカップでコーヒーをすすりながら新一は促した。
 「・・・ああ」
 平次はおそらく淹れてもらったコーヒーに対してだろう、ちいさく「おおきに」と呟くと、一口飲んでから話し始める。
 「ちょお、嫌気さしたで、逃げてきたんや・・・」
 苦笑しながらそう言う平次に、新一は黙ってコーヒーを飲み続けることで続きを要求する。
 「工藤も、ぎょうさんもろてたやろ?――そや。バレンタインの、チョコレートや。オレ、どうもあの雰囲気が苦手でなぁ・・・。真剣な気持ちやったらともかく、よお知りもせん女からもろてもしゃーないし、片っ端から断り倒しとったんやけど、それも面倒になってな・・・」
 世のもてない男共にはとても聞かせられない言葉ではあったが、当事者にとっては迷惑でしかないのだから仕方ない。
 繊細なように見えてはいても、騒がれるのが結構好きな新一は渡されるままにもらってしまっていたが、平次はそれを一々断っていたという。
 どれほどの数が寄せられたのかはわからないが、平次の言葉や東京まで逃げてきた事から察するに半端な数ではないのだろう。
 大体平次が探偵として活躍していなかったとしても、チョコレートを渡したい女はいくらでもいるだろうことも想像に難くない。
   平次が見た目だけでなく中身もいい男だということは、悔しいが新一も認めている―――もちろん、口に出しては言ってやらないが。
 「・・・工藤はどないしとんのやろと思たら、急に会いとうなって、・・・・・・気ィついたら電車乗っとった―――」
 うつむき加減に話していた平次は、そこで言葉を切るとちら、と新一の様子を窺った。憮然とした表情の新一と目が合うと、申し訳なさそうに苦笑してみせた。
 「・・・・・・わーったよ。・・・・・・そのかわり!」
 新一は呆れたように溜息を吐いて椅子から立ち上がると、平次の鼻先に人差し指を突きつけるようにして言う。
 「夕飯は、お前が作れよ・・・?」
 しかしその表情は迷惑そうなものではなく、むしろいたずらっ子のようで。
 平次は満面の笑みでそれに応えた。







 新一の言いつけに従ってすっかり夕食を作る気になった平次は、早速冷蔵庫を物色しにかかる。手の込んだ料理は無理だが、同年代の男子の中では割と作れる方だと自負していた。新一の期待に添えるかどうかはわからないが、作る以上は美味いと言わせたい。


 早速キッチンへ移動して冷蔵庫を覗いた平次はその内容物の酷さに思わず絶句した。
 一人暮らしには不釣り合いな大きな冷蔵庫には、賞味期限の切れた調味料と缶詰、それとおそらく母親のものだろう化粧水が入っているだけで、とてもその多彩な機能を使いきれていなかった。
 「うち今食うモンなんにもねーぞ・・・って見りゃわかるか」
 遅れてやってきた新一が全く悪びれない様子で言うのを平次は脱力しきった背中で聞いた。







 「ホワイトソースとトマトとどっちがええ?」
 「・・・今日はトマトかな・・・」
 「りょーかい。ベーコンとツナは?」
 「・・・ツナ」
 「ほい」
 パスタが食べたいと言い出した新一の意見を取り入れながら、平次はひょいひょいと品物を籠に放り込んでいく。
 蘭や小五郎とコナンとして生活していたときも、買い物には付き合ったことがなかった新一にはそれはとても新鮮なことだった。
 普段コンビニや外食で済ませている新一は、こういったスーパーに足を向けたことが無かったのだ。
 「なぁ、お前よくこーゆートコ、来んの?」
 手慣れた様子の平次にふと新一は尋ねてみた。
 「・・・よく、ちゅーか、たまに、やなぁ・・・。オカンに荷物持ちせぇゆうて連れてかれる時くらいやからなぁ・・・」
 「ふーん・・・」
 (なんか、意外かも・・・)
 新一も以前会ったことのある平次の父は厳格そうに見えたから、“男子厨房に入らず”的な古風な家庭をイメージしていた。
 しかし夕食づくりにもやる気を見せているところから察するに、きっと腕に自信があるのだろう。
 新一の母はあまり家事は得意ではなく、またそういった不出来な所を見せたくないのか家で料理する事はほとんどなかった。
 それによって愛情不足を感じたとかいうことはないが、新一が料理に興味を持たない一因ではあるだろう。
 自分を基準に世の中を判断している訳ではなかったけれど、なんの迷いもなくスーパーで買い物をする平次を、新一は珍しそうに観察しながら歩いた。


 結局、ついてきたものの何をどうしていいかさっぱりわからない新一は全く役には立たず、商品棚と籠を行ったり来たりする平次の手元を目で追っているうちに買い物は終了してしまった。


 「あ、・・・そぉいや・・・」
 レジを通り抜けて、買った物をビニール袋に移していると、平次がふと顔を上げて呟いた。
 新一は袋詰めを手伝うでもなくその様子を眺めていたが、顔を上げた平次と目があったので不思議そうな表情で小首を傾げた。
 「?何、買い忘れ?」
 「・・・工藤、人参平気やったか?」
 当の人参を手に持ったまま、言外に「嫌いやろ?」と含ませて確信めいた表情で訊く平次に、新一は一瞬苦虫を噛み潰したような顔をしたが、
 「食えるよ、バーロ」
子供扱いすんな、そう言うと一番軽そうなビニール袋をひょいとつかみ、まだ詰めている途中の平次を置いて一人、出口の自動ドアをくぐった。
 後ろで何やら平次の喚く声が聞こえるが構わず先を行く。
 あれで物覚えは良い方だから、追いつかなくても自力で家まで辿り着けるだろう、そんな風に考えながら新一は白い息を吐いた。







 もとより手伝う気など全くない新一は、暇つぶしに持ってきたドイツワインを一人でぐいぐい飲みながらキッチンのカウンターに頬杖をついていた。
 去年の歳暮に父・優作宛に送られてきた白いワインは、出掛ける前に平次が周到に冷蔵庫へ冷やしておいたもので、キンと冷えて飲みやすい。
 ちょっと甘めのそれを独り占めして、新一はカウンターの向こうで手際よく料理をする平次に内心感嘆していた。
 決して”手慣れた”といった風ではないが、迷いのない手つきはこれからそれを食べることになる人間に安心感を抱かせるものであり、鼻腔をくすぐる匂いは期待を持って然るべきものであった。
 新一だとて、やれば出来るという自信は当然ある。しかしやる気がない以上、この先もきっとすることはないだろう。


 「よっしゃ、完成や!」
 品数こそ3品と多くないものの、平次は全ての出来上がりを同じ時間に揃え、まだ湯気の立ち上るそれらをテーブルに並べる。
 いかにも高価そうな絵皿には、新一のリクエスト通りツナトマトスパゲティを中心に、鮭のムニエルと、温野菜のサラダが添えてある。
 そこの皿を使え、と新一が示した棚に無造作に積まれていた皿はドイツの有名な硬質磁器で揃えられており、そのシンボルである青い双剣のデザインからすると18世紀初期の物だろうと平次は判断した。
 金っちゅうのは有るとこにはあるんやな、と平次は一人納得して、テーブルのセッティングを終えると、全く手伝う様子もなくカウンターで一人グラスを傾けている新一の背中に声を掛けた。
 「工藤、オレの分もグラス取って」
 「なんだよ、お前も飲むのかよ・・・」
 嫌そうに言いながらも新一は頭上のグラスホルダーからもう一つグラスを取ると平次に手渡した。
 「・・・それ、オレが冷やしといたんやけど・・・」
 平次は胸に巻いていたバスタオル――借り物の服を汚してはいけないと、エプロンを付けようとしたが発見できず、苦肉の策で風呂上がりの女性よろしく体に巻いていたものである――を外しながらぼやいたが、新一には聞き入れられなかった。
 「うるせぇ。元々オレんちのじゃねーか。それに・・・服部がワイン飲んでるとこなんて見たことねぇぞ」
 何しろ最初が最初だっただけに、洋酒を飲むようなイメージが全くない上、正月に会ったときに日本酒――やはり優作宛に送られてきた物である――をがぶ飲みしていたのも記憶に新しい。
 「あぁ、オレ、アルコールやったらなんでもええねん」
 不審そうな新一に、平次はおよそ未成年とは思えないセリフをケロッと吐くと、更に付け足して言った。
 「ビールやと物足らんさかい、キツめのやつの方が好きなんやけど」
 せやからワインは合格や、そう言うと平次は新一の手からワインの瓶を取り上げて着席を促した。
 「なんでもええけど、はよ食べんと冷めてまうで?」


 席に着いた新一は、自分の分に用意されたサラダに申し訳程度にしか人参が盛られていないことに気付いたが、敢えてそのことには触れずに手を合わせた。







 食事が済むと平次はすぐに流しに立った。
 再び胸に巻かれたバスタオルが動きを制限するものの、先程と違って洗濯ばさみで留める方法を新たに思いついたので、さほど苦にはならない。
 新一は相変わらず手伝おうとはしなかったが、作った物は全て「美味い」と言って平らげていたので、平次は満足していた。
 素人目にも値の張る物だとわかる絵皿に傷を付けないよう慎重に洗い終える頃、後ろから調子の外れた鼻歌が聞こえてきて、平次は新一の機嫌が直ったことを知る。
 食事の前に取り上げたワインの残りを平次が全部飲んでしまった事について、新一はいたく腹を立てていたのだ。
 「♪〜〜、〜♪〜」
 何の歌だろうかと平次は首を捻ったが、新一にかかればミリオンヒットすら彼のオリジナルと化す。からかってまた機嫌を損ねられてもかなわないので、曲目を問うのは止めた。
 「どないした?えらいご機嫌やな?」
 外したバスタオルで手を拭きながら平次が聞くと、新一はうれしそうに手に持った物を掲げて見せた。
 「もう一本有ったの思い出したんだ♪」
 物置に仕舞い込まれていたそれは、先程まで二人が飲んでいたものとはまた違う種類の白いワインだった。
 ついぞ見せたことのない屈託のない笑顔を振りまいていそいそとコルク栓を抜こうとする新一に、平次は思わず顔をしかめた。
 これでは、どうみてもかなり酒に弱い新一にこれ以上飲ませまいとワインの残りを空けた意味が全くない。
 現に新一の頬は上気し、心なしか足元もふらついているように見える。
 「・・・明日ガッコやろ・・・」
 一日くらいさぼったところでどうもない平次と違って、出席日数の危ない新一は不用意に学校を休むことが出来ない。
 不興を買うのは承知でたしなめると、意外にも新一が拗ねたような表情をし たので平次は戸惑った。
 それでも、止まったままの新一の手からオープナーを取り上げようとすると、目を合わせずに、新一がぼそりと言った。
 「・・・ってやる」
 「は?」
 「お前のオヤジさんに、『平次君は人の家に来てはお酒ばかり飲んでます』って密告してやる・・・!」
 「な、なんやとぉ?!」
 あながち嘘とは思えない新一の脅迫に平次は焦った。平次の父・平蔵は、平次が自宅で酒を飲むことについては容認していたが、事家の外となるとそれはもう、鬼のように厳しいのだ。
 そのことを知ってか知らずか、新一は言葉をなくして唸る平次に、勝ったとばかりにフフンと鼻を鳴らした。
 「大体なぁ、お前がさっさと全部飲んじまうから悪ぃんだぜ?」
 言いながら、コルク栓に螺旋を沈ませる。
 この調子では新一を止めるのは最早不可能だと感じた平次は早々に頭を切り換えて、おそらく酔いつぶれるだろう新一の面倒を見る自分をシミュレートしていた。



 「わかりやすいやっちゃなー・・・」
 結局。
 再び飲み始めてすぐに新一はテーブルに突っ伏すようにして寝入ってしまった。
 平次は苦笑すると、新一が――お情けで――注いでくれたワインをくいっと空けて、椅子の背に掛けたままになっていたバスタオルを掛けてやる。
 高々ワイン2、3杯で健やかな寝息を立てる新一を揺り起こす気には到底なれず、向かい側から隣へと移動すると平次はその穏やかな寝顔を鑑賞した。
 やはり、綺麗な顔をしていると思った。

 平次が今日東京へ来たのには訳があった。
 確かめたいことがあったからだ。


 『好きな人居てるんですか』


 そう聞かれて、何度も頭をよぎった面影。
 『好きな人』
 『好き』


 「――――・・・・・・なんやろなぁ・・・」
 新一を目の当たりにしながら、自分のその考えに平次は思わず赤面して口元を押さえた。
 わかりやすいといえば、この上なくわかりやすいきっかけだった。
 『好きな人』。そう言われて連想するほどには、新一のことを好きでいる自分が居る。
 東京まで確かめに来て、出した結論。


 自分は新一のことが好きなのだ。


 どんな女よりも、もっとずっと一緒に居たい。
 そう、気付いてしまった。


 「・・・かなわんな・・・」


 勝ち気で我が儘な新一との、複雑な恋の行方を呪って平次はひとりごちた。






おわり






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