――――――――― 時は2月。 そして,14日…と言えば。 そう,世の中の男女が沸き立つ,泣く子も黙るバレンタイン・デーである。 シングルにとってもカップルにとっても,年が明けて最初のイベント・デー。 そして…そんな時に。 何の因果か,やっぱり仕事に駆り出される不幸なオトコというのは居るもので。 「なーんでよりによって,今日みたいな日に,殺人なんぞ犯す奴がおるんや…。人の幸せ踏みにじって,楽しいんかい……。」 そう言って,現場に向かうパトカーの中で肩を落としたこのオトコ―――名を,服部平次、という―――は,紛れもなくそのうちの一人だった。 警視庁刑事部捜査一課。 彼の仕事の,所属名である。 彼は,イベント・デーを楽しめる‘カップル’に間違い無いのだが,その仕事の特殊さゆえに,イベント・デーにも‘駆り出される’事態となっていた。 はぁ…と一つ溜息をついた彼は,一週間前からの,想い人とのつれないやり取りを思い出していた…。 バレンタイン・デーの一週間前。 「ただいま…あ、帰ってたのか,服部?」 制服の上から来ていたコートを脱ぎながら,眼鏡をかけた工藤新一こと,江戸川コナンは,ソファーに座っていた平次に声をかけた。 工藤新一。 本来であれば,服部平次と同い年である。 つまり,成人として認められるべき年齢なのである。 そこから考えれば,現在着ている帝丹高校の制服は,本来着るべき服ではない。 しかし,彼が制服マニアとか,平次が喜びそうだからと着ている訳ではなく。 (いや,実際に平次が喜ぶかどうかは別として) ひょんな事件に関わりあって体が小学一年生並みになり,江戸川コナンと名乗ってから,体が元に戻らないまま成長したためなのだ。 それは,同じ境遇に陥っていた,宮野志保こと灰原哀も同じことで。 2人とも,現在は帝丹高校1年という,高校生におさまっていた。 そして,服部平次の想い人,とは,間違いなく、この、工藤新一である。 …いや,今は江戸川コナンと名乗っているが。 服部平次と江戸川コナンは,現在,同居している。 理由はいろいろあったが,平次が警視庁に勤務する事だとか,新一がそろそろ探偵事務所を離れたいと思っていたことだとか,そういうコトが重なったのだ。 まあ,一番の理由は,お互い傍にいたかった,というものかもしれないが。 以来,いろいろな取り決めをしつつ,二人は一緒に暮らしてきた。 例えば,朝食係りは平次で,夕食係りは新一だとか。あとかたづけは,その逆だとか。 今日も,その約束をたがえることなく,食卓には夕食の準備が整っていた。 「なんだ,早かったな。メシ,暖めれば食えるけど?どうする?」 先に,シャワーでも浴びてくるか?と,新婚家庭のような言葉を口にする新一に,平次は少なからず不機嫌な視線を向けて答えた。 「おまえ……今まで,どこ行っとったん……?」 その声は,かなり低い。 平次の問いかけに,一瞬「は?」という顔になった新一は,やがてくすりと笑って答えた。 「なんだよ…なに心配してんだ,おまえ。」 しかし,その新一の態度は,平次にはますます面白くなかったらしく,さらに不機嫌になるのを隠そうともせずに言った。 「せやかて,おまえ,今何時やと思うとるん?午後の,9時,やで?まさか,俺がおらん時は,毎晩こんなに遅いんちゃうやろな?」 その平次の態度が,おかしくてしかたないらしく,新一はくすくす笑うのを止めないまま,言った。 「ちーがーうって。今日は,たまたま。サッカー部の連中に頼まれて,練習試合の助っ人してきたんだよ。」 「…わざわざ家に帰って,夕メシの準備してから,また学校行ったんか?」 平次の視線が,それはおかしいだろうと言外に問い掛けてくる。 …が,確かに平次の言う事はもっともだ。 新一は,間違いなく今,制服を着ている。と言う事は,朝、学校に行ってから着替えをしていない。 なのに,なぜか,夕食の準備はできている。つまり,一旦家に帰ってきているのだ。 一旦家に帰ってから,着替えもせずに夕食の準備をして,また学校に行くなんて,普通はするだろうか? いや,また学校に行くから、制服を着たまま夕食を準備したと言うのならば,なおさら,一旦家になど帰ってくるだろうか? …工藤新一が,そこまでマメなオトコではない事は,服部平次が一番よく知っている。 きっとそんな事があれば,ずっと学校にいつづけて,必ずどこかで夕食代わりのものを買ってくるはずなのだ。 そして平次は,そういう時に夕食を買ってくる事を、一度も怒った事はない。 …いや,それで怒ったら‘新婚家庭万歳’と言ってあげられるのだが。 それがどうして今日に限って,夕食を準備してから,出かけたりしたのか…? 平次の追及に,新一は笑いを止めないまま,やや呆れたように答えた。 「疑りぶけぇ奴…。あのな,今日の練習試合の場所は,相手高校だったんだよ!で,一旦家に帰っても遠回りにならねぇし,約束の時間までは余裕があるし…。」 まだ文句があるのか?と言わんばかりの視線を向けられて,平次は,まだ難しい顔をしながら言った。 「ふーん…まあ,わかったわ…。せやケドな,明日からは,7時までに帰って来いや。遅ぅなる時は,前もって言うか,ケータイに連絡よこし。ええな?」 あまりの平次の過保護ぶりに,今度こそ新一は,心の底から呆れた。 そして,すっかり笑いを止めて,ささやかな抵抗を試みた。 「…おまえ,俺のこと,子供扱いしてねえ…?俺,ほんとはおまえと同い年だぜ…?それに一応,体だって高校生になっちまってんだけど…。いまどき,門限付きの高校1年オトコなんて,聞いたことねえぞ…?」 しかし、そんな新一を,平次はじっと見つめながら言った。 「そんなん,百も承知や。せやけど…心配やろが。おまえ,自分の立場わかっとるか?」 自分の立場…それは,黒の組織が,今もって存在している事。 そして,死んだはずの工藤新一にそっくりな人間であれば,たとえ江戸川コナンと名乗っていても,組織に目を向けられるのは間違いないこと。 さらに平次に言わせれば,ただでさえ… 「…ただでさえ,人に見せんのが惜しいくらいの別嬪さんなんやから、人目を引くんは当然……ったぁっ!!なにすんねんっ!!」 言葉の最後が悲鳴になっているのは,言い終わらないうちに,新一の蹴りが,平次の足の脛に入ったからだった。 そして,新一は顔を真っ赤にしながら怒鳴りつけた。 「なにすんねん,じゃねえ,ばーろぉっ!!それ以上言ってみろ,今度は腹に決めてやるからなっ!!」 その時に素直に謝ってしまえばいいのだが,つい, 「…照れんでもええやん……。」 などと,後先考えずにのたまってしまうのが,服部平次と言う男の特性らしい。 それからちょうど2秒後に,その男は床にはいつくばるコトになった。 ……新婚家庭,万歳。 そんなやり取りのあと,不意に、平次が言い出した。 「ああ、そや。14日は、早う帰って来いや,工藤。」 夕食の準備をしていた新一は,その平次の言葉に,首を傾げた。 「14日?…なにか,あったか…?」 その新一を見て,ふっと微笑んだ平次は,続けて言った。 「何かって…きまっとるやん。」 「…だから,なにが。」 さっぱりわからない、というしぐさの新一に,平次はにっこり微笑んでいった。「14日は、天下の,バレンタインデーやん。コイビト同士が,愛を語らう大事な日やで♪」 ……その解釈はちょっと違うぞ。服部平次。 新一は,その平次の言葉を聞いた瞬間に,今日何回目かの呆れた表情になった。 「…ばれんたいんでーって,そういう日だったっけ…?」 その新一の,気の抜けたようなセリフに,平次はためらわずに答えた。 「そや♪」 「………あっそ………。」 もはや,抵抗する気力も、訂正する元気もありはしない。 そんな新一に向かって,平次は,長々と自分の‘バレンタインデープラン’を話して聞かせた。 「その日は,俺もはよ帰ってくるつもりやし、久しぶりにチョコレートケーキでも買うてくるわ。せや、なんかプレゼントも用意した方がええな。……なんや,そん時の情景が,目に浮かぶようやわ…。たぶん,俺からの、いきなりのプレゼントに、工藤はものすご驚いて、涙を流しながらこう言うんや。‘ごめん服部。俺,なにも用意してなくて…’そこで,俺が優しく工藤を抱き寄せてやな,こう囁くんや。‘馬鹿やな,そんなん気にせんでええんや…。おまえがおれば,他にはなんもいらん’。そして,工藤は感極まって,さいこーの笑顔になってやな‘ありがと,服部。俺も,おまえがいれば……’」 「食え。」 新一は,一人で勝手なバレンタインデープランを立てて,満足げにしている平次の前に,ワザと夕食を並べて言った。 「言っておくが,バレンタインデーに,プレゼントなんか買ってきたら,家出するからな。」 「…せ,殺生なっ…。」 「それと,かってに人の性格変えてんじゃねえ。誰が,‘感極まって涙を流す’んだよ,ばーろぉ。」 「ちゃうちゃう。そうやないわ。最初に‘驚いて涙を流して’。で,その後に‘感極まって笑顔’になるんや。やっぱ,工藤は笑顔がさいこー…。」 平次が,そこで不本意ながらも言葉を止めたのは,新一の冷たい視線と,恐ろしすぎるくらいの不穏な空気を感じたからだった。 「…やなっと。思ぉただけや。ほな,夕飯いただこか。」 不自然な話題の変え方をする平次に,新一は一言だけ言い放った。 「14日,遅くなるから。」 「そ,そんなあ、待ちやっ!くどぉっ!!」 まあ,そんなこんなで。 その後の説得の甲斐あって,新一に,バレンタインデーのお許しをいただけた平次は,それこそ正月の待ち遠しい子供のように,一週間うきうきとしていた。 それは,傍目にもわかるほどの浮かれようだった。 平次の‘バレンタインデープラン’を聞かされた新一は,そんな平次に呆れつつも,自分も結構楽しみにしているのを感じて,苦笑していた。 それなのに。 一週間のうきうき気分を台無しにされた服部平次巡査は,何回目になるか数える気にもなれない溜息を,また漏らした。 「なんで,バレンタインデーは2月14日なんや……。」 ……それは,文句を言うべきものではあるまい。 事件が起きたのは,2月14日,午後5時。 都内の,某金融会社の社長が,刃物で切りつけられて殺されているのが,見つかった。 発見したのは,そこの女性社員。 出掛けていると思った社長の部屋に電気がついており,それを消そうとして何気なく部屋に入ったところ,変わり果てた社長を発見したとのこと。 仕事の面でもプライベートの面でも,相当恨みをかっている社長だったようで,容疑者を絞り込む事からして,時間がかかりそうだった。 すっかり帰り支度を整えた平次が,その知らせを受けたのは,午後5時半の事だった。 同時にその知らせは,帰れなくなったという事を意味する。 それを悟った平次は,思わず大声をあげていた。 「…なんやてぇっ?!!」 よりによって,こんな日に,こんな時に,殺人やとおおおっ?!! 一瞬,頭が真っ白になってしまった。 だが、そこはそれ。 すぐに、イイコトを思いついた。 「せや…なんも,工藤も呼んだればええんや……。」 幸か不幸か(いや,簡単に言えばご都合主義だが)すでに江戸川コナンは,その推理力が,捜査一課内でも認められつつあった。 そんなわけだから,江戸川コナンを呼び寄せても,周りはなにも言うまい。 それどころか,きっと納得してくれるだろう。 ……それでいいのか?警視庁。 まあ,それはともかく。 新一も,事件と聞けば,一も二もなく駆けつけてくるだろう。 そして,2人で事件を解決すれば,その分一緒にいることにもなる。 ひょっとしたら、未成年の江戸川コナンを連れていれば,同居していて当面の保護者である平次にも,事件解決後に、早く帰宅していいとのお許しがでるかもしれない。 にやりと笑った平次は,迷わずこそこそと,新一の携帯電話に連絡をとった。 しかし。 どうやら、バレンタインデーの神様は,平次の事を見放しているらしかった。 新一の携帯電話が,つながらないのだ。 つながらない場所にいるのか,電源を切っているのか,それとも携帯から離れているのか…。 まさか,平次から電話がかかってくることを察知した新一が,携帯から逃げているわけでもなかろうが。 ……いや,その可能性が,無いわけでもないけれど。 いずれにしろ新一の携帯は,何度かけても,留守電になってしまうのだった。 「……でぇへん?…っかしいなあ,もう授業はおわっとる時間やのに…。」 平次はそう呟きながら,諦めずに何度もかけ直してみた。 だが,結局いとしいコイビトは,携帯に出ない。 「…はぁ………。」 平次は溜息をつきながら,主の出ない携帯電話の留守番機能に,メッセージを入れておくことにした。 「…もしもし?俺や。今,ちょお事件があってな、おまえにも来てもらわれへんかと思て電話したんや。…また電話するわ。手ぇが空いたら、連絡よこし。俺の携帯,つながるよぉにしとくから。…じゃ。」 それでも,なお諦めがつかない平次は,続けて新一に電話をしつづけた。 ……往生際が悪い事,この上ない。 しかし,バレンタインデーの神様が,平次に振り向く事は無く。 現場に向かうタイムリミットが来てしまった。 かくして,服部平次は,現場に向かうパトカーの中で,何度も溜息をつくことになってしまったのだった。 そして,平次は,パトカーの中で,つくづく今の境遇を呪った。 きっと,自分たちは,そういう星のもとに生まれているに違いない。 何かがあるたび,二人が揃うたびに,必ず邪魔が入ってくる,という星に。 「…なんで,二人の語らいの時間が,壊されなあかんねん……。今までだって,散々邪魔されてきたっちゅーのに…。」 そこまで考えて溜息をついた平次は,だが、すぐに思いなおした。 「いやっ,こんなのにめげとったらアカン。…今更やんか,こんなん。」 そうだ。 今まで何回もあった事ではないか。 二人がもし,そういう星のもとに生まれているのなら,それに慣れなければいけない。 これからだって,何回もあるだろうから。 それに,そういう逆境に、負けてはいられないではないか。 「…逆境が,二人の愛をはぐくむんや…。」 ……めでたい奴だ。 ともかく、そう思いなおした平次は,今回の事件の犯人を,すぐにあげる事を心に決め,パトカーの中で一人、闘志を燃やしていた。 ……刑事というのは,それでいいのか? そういう平次の闘志が,バレンタインの神様に届いたのかどうかはわからないが。 長期戦になりそうだったその事件の犯人は,すぐに判明した。 ひとえに平次の,血のにじむような努力の賜物である。 「…せやから,犯人はあんたや。」 平次がそう告げた瞬間,犯人はうなだれて,肩を落とした。 ギャンブルにはまって,金を借り,返せないくらいに利息がかさんでしまった35歳独身男。 犯人の,姿だった。 「午後7時ちょうど…逮捕。」 誰かがそう告げると,警官が一斉に犯人に近寄った。 犯人はそのまま,力無く,寄ってきた警官たちに連れていかれた。 その光景を眺めながら,一つ溜息をついた平次は,いそいそと,自分の携帯電話を取り出してみた。 つい事件に夢中になってしまい,電話が鳴ったことに気付かなかったかもしれないからだ。 しかし……着信履歴は,無し。 「…っかしいなあ……。」 この間,7時までには帰ること,と約束した新一が,まだ帰っていないのだろうか? 平次は,多少不安になりながら,もう一度、新一の携帯に連絡をしてみた。 だが,やはり,つながらない。 さらに,家の電話にも掛けてみるが…こちらも,留守電になってしまう。 平次の不安は,いよいよ募ってきた。 まさか…。 まさか,とは思うが………。 「…くどーの奴,毛利のねーちゃんのトコで,浮気しとるんや無いやろな……。」 ……他に心配すべき事があるんじゃないのか?服部平次。 平次が,携帯電話相手に,不毛な戦いを仕掛けている時。 いきなりざわめく声がおき,現場には一瞬にして,緊迫した空気が漂った。 「…なんや,どないしてん?!」 慌てて,近くの警官を捕まえて聞き出すと,その警官は,悲鳴のような声で答えた。 「……逃げられましたっ!犯人にっ!!」 「なっ……なんやてええええっ?!!」 あまり,そういう強硬な手段にでるように見えなかった…犯人は。 おとなしそうで,寡黙そうで。 だから,油断したのだろう。 犯人をパトカーに乗せようとして,どの警官にも一瞬の隙が生まれた,瞬間。 あっという間に,犯人は,身を翻して逃げ出してしまった。 「…なんちゅーこっちゃっ!!!」 あまりと言えば,あんまりな失態だった。 だが、警官達の不手際を騒いでいる暇はない。 相手は,おとなしそうとは言え,殺人までも犯した人間だ。 一般市民に,迷惑がかからない保証は無い。 いや,そういう人間こそ,恐ろしいものだ。 「……追うでっ!!!」 平次の全神経は,犯人の捜索に向けられた。 しかし、手に持った携帯電話をしまいながら,心の片隅でほそぼそと,泣いている平次がいたのも確かだった。 「……なんで,こーなるんや……。」 工藤が,浮気をしとるかもしれんっちゅー,非常事態に……。 その,ココロの底からの呟きは,幸いにも,誰にも聞こえなかった。 ……哀れな男,服部平次。 こうなっては,恥も外聞も無い。 逃げられた犯人を捕まえるため,直ちに緊急配備が敷かれた。 だが,全警官が付近を捜索しても,犯人の姿どころか,逃げた痕跡さえも見つからない。 「…どこ行きよったんや……。」 平次だけではなく,警官の全てがそう呟きたくなったであろう。 ここで,まんまと逃げられてしまったら,前代未聞の大失態なのだから。 「ともかく,そう遠くへは行ってへんハズや!付近をくまなく捜しぃっ!!」 平次の言葉に,付近の警官は,来た道を戻りながら捜索をする。 しかし,決して手を抜いているわけでも無いのに,どうしても犯人が見つからない。 見当違いのところを探しているのか……? そうした焦りの色が,誰の顔にも浮かんできた時だった。 ガッシャーンッ!!! という音が,付近の道路に響き渡った。 …犯行のあった金融会社の,3件隣の,ケーキ屋。 そこの窓ガラスが,ものすごい勢いで割れたのだ。 周りにいた警官たちは,一様に顔を見合わせて,すぐにそのケーキ屋に駆けつけた。 もちろん,平次も例外ではなく。 そして,そこにいたのは……。 「なっ…なんでこんなトコにおんのやっ?!!」 包丁を持った犯人に,抱きかかえられるようにしていたのは,他でもない。 服部平次のコイビト,工藤新一こと,江戸川コナンだった。 犯人の包丁は,新一の首筋にあてられており,まさに触れるか触れないかのところで止められている。 おそらく,さっきの窓ガラスは,新一が犯人の隙を見て,何かを蹴って割った音だったのだろう。 「くど……やない,コナンっ!!」 慌てて平次が新一に駆け寄ろうとすると, 「来るなっ!!近寄るんじゃねえっ!!」 という,切羽詰った犯人の声が響き渡った。 「いいか…一歩でも近づいたら,このガキの命はねえと思え……。」 「くっ……!!」 悔しそうに歯噛みする平次達を見ながら,犯人は壊れたような笑みを浮かべて言った。 「あんな奴…いなくて正解なんだ……。俺はいい事をしたんだ……。なのに,なぜ,わからない……?」 そして,自分から警官たちに近づきながら,警告をした。 「いいかっ!!…たとえ小指一本でも俺に触れやがったら,このガキを殺してやるからなっ!そこをどきやがれっ!!道をあけろっ!!」 そうして,出入り口をふさいでいる警官たちに向かって,どけるように促す。 「…仕方ないわ,道ぃあけろや。抵抗すんな。」 平次は,付近にいた警官たちにそう指示をして,犯人をにらみつけた。 「…こいつ,絶対しばいたる……っ!!」 自分の手を握り締めて,絶対相手には聞こえないように呟いて。 そして,新一に,安心させようと目線を移した時だった。 「……?!!」 新一は,少し微笑みながら,平次を見つめていた。 その微笑みは,紛れも無く「わかるだろ?」と語っている。 平次は,それを見て,一瞬ためらったが,やがてにやりと笑い返した。 「…せやな……。おとなしゅうすんのは,性にあわんわ……。」 誰にも聞こえないようにぼそりと言うと,そっと出入り口に近寄った。 誰よりも、犯人に,一番近い位置に。 それを見た新一は,もう一度そっと微笑むと,すっと表情を引き締めた。 警官たちが出入り口をあけたのを見た犯人は,なおも壊れたような笑みを崩さないまま,のそりと歩き出した。 「いいかぁ…絶対,近づくんじゃねーぞお…。」 そして,周りに目を配りながら,ゆっくりゆっくりと出入り口に近寄って,通り過ぎて行く。 「このガキを助けたかったらなあ……。」 その時だった。 犯人も予期していない,そのガキから,いきなり声が上がった。 「おじさん,後ろ危ないっ!!!」 新一の突然の警告に,犯人は驚いて,慌てて後ろを振り返った。 その瞬間,犯人に隙がでて,新一を抱える腕が緩む。 もちろん,その隙を見逃す新一ではない。 すぐに,すっと身をかがめると,犯人の腕からするりと抜け出した。 「なにっ……?!!」 突然,腕から感覚が消えてしまって慌てた犯人は,すぐに前を向いて,新一の姿を探した。 しかし,その姿が目に入る前に。 彼の目の前に現れたのは,平次の握りこぶしだった。 「覚悟しいっ!!!」 平次は,そう叫ぶようにいいながら,犯人の顔を,力任せに殴った。 その時,効果音の様に,メリッという音が聞こえたとか聞こえないとか。 後で,その時の話題が出たときの,警官達の噂話しである。 …が,真相は定かではない。 なんだかんだと事後処理があり。 そのままで行けば,間違いなく徹夜になりそうなところだったが。 コナンもいるからと理由をつけて,平次と新一が連れ立って家に帰れたのは,夜も10時を大きく過ぎた頃だった。 「つっ…かれたよなぁ〜〜〜っ…。」 新一はそういいながら,いかにもだるいと言わんばかりに,体をソファーに投げ出した。 しかし平次は,そんな新一を見ながら,まったく無言だった。 しかも,かなり不機嫌そうな顔をしている。 「…なんだよ…。なんか文句あんなら言えよ……。」 新一も,あからさまな平次の態度に不機嫌になりながら,負けずにじろりと睨み返した。 その新一の言葉に,平次は,ゆっくりと口を開く。 「…なにやっとったん?ケーキ屋なんぞで……。」 「……は?……」 新一は,一瞬何を言われているのかわからないまま,正面から平次の顔を見つめた。 しかし,平次は,そんな新一にかまわずに,聞いてきた。 「携帯も…つながらんかったし……。どんだけ心配したと思うとるんや…?」 そう呟く平次の顔は,あまりにも切なそうで,苦しそうな顔だった。 そんな平次を見て,どれだけ心配をかけたかを悟った新一は,素直に謝った。 「…ごめん…服部…。俺……。」 だが新一は,その5秒後に,謝った事を後悔する羽目になる。 「おまえが…毛利のねーちゃんとこで…浮気してんのやないかって思たら、いてもたっても……っったあああっ!!なにすんのやっ?!!」 「やっかましいっ!心配したって,なにかと思えばっ!!」 平次の悲鳴は,新一の蹴りが,寸分たがわずに脛に決まった事を意味する。 そんな新一に,平次は訴えるような目線で言った。 「せやかてっ…!ホンマ,つながらんかったやないか…携帯…。」 「ばーろぉ,電池が切れてたんだよっ!!」 「…は?…電池…?」 新一の言葉に,平次は,目を点にしながら聞き返した。 「そ,電池!!で,おまえが電話してくるのはわかってたから,俺もおまえに電話したら…留守電になるし…。」 「留守電て…俺,ずっと,電源いれとったで?」 「だから,繋がんねーところにいて,事件の謎解きしてたんだろ?」 「…ああ……。」 平次は,半ば呆然としながら,新一の言葉を聞いていた。 「電池か…そういや,そうやったな……。」 そのセリフは,今の今まで,携帯の電池という存在を忘れていた事を意味する。 そんな平次に呆れながら,新一は言い放った。 「まだなにか,文句あるか?!」 そこで平次は,「ゴザイマセン」と言いそうになって,慌てて首を振った。 「せやったら…なんで,ケーキ屋なんぞにおったん?」 「……それは……。」 それに関してはいいづらそうにしている新一に,平次は,目の色を変えて追求してきた。 「なんで言えんのや…?まさか,毛利のねーちゃんと,チョコレートケーキを食べようとして買いに来た,とか……。」 ……君の頭の中は,それだけか? 新一は,その平次のセリフを聞いて,溜息を付きながら言った。 もはや,呆れるのを通り越して,諦めているような口調で。 「ばっかじゃねぇの,お前…。なんでそこに,蘭が出て来るんだよ…ったく…。」 「んなコト言うたかて,やっぱり心配やないかっ!」 「あのなぁ…。…あのケーキ屋,クラスの友達のうちなんだよ!!で,バレンタインデー期間は,ケーキが売れるとかで…。売るのを手伝ってたんだよ,一週間前からっ!!」 「…手伝う…って…?」 「要は,バイトしてたんだよ、バイトっ!!わかったかっ!」 「…そんならそうと,言うてくれれば…あ?じゃあ,一週間前の,練習試合っちゅーのは……。」 「あれは,ほんとの助っ人。バイトは,その次の日から。」 「あ、ナルホド……。」 平次は,どこか釈然としないまま,生返事を新一に返した。 そして,少しばかり止まっている思考回路を,正常に戻すように呟いた。 「電話がつながらんかったんは…電池切れとったからで…。ケーキ屋におったのは…バイトしとったからで…って,ちょお,待て。」 そこまで呟いて,なにが釈然としなかったのかに気付いた平次は,慌てて新一に聞いた。 「なんで,バイトなんかしたん?する必要,ないやんか。それに,なんで,隠しとったん…?」 「…あ?…や,それは,その……。」 めずらしくどもっている新一に,平次は追及の手を緩めなかった。 「なんや…?なんか,言いづらい理由でもあるんか…?まさか,その友達っちゅうのが,浮気相手とか……。」 「浮気って…誰のだよ…。」 「そりゃもちろん,おまえの…って,ジョーダンや,ジョーダンっ!!」 また,蹴りを繰り出しそうな新一の気配に気付き,平次は慌てて自分の言葉を訂正した。 「呆れて,言葉も出ねぇよ…。…いいか,友達ってのは,男だ,オ・ト・コ。わかったかっ。」 「…その男かて,おまえんこと好きなんちゃうか……。」 平次のココロからの心配は,新一の一言で切り捨てられた。 「世の中の人間全部,自分の基準で判断するんじゃねえ。」 「…ワカリマシタ。」 もはや,何も言えない。 すっかりうなだれてしまった元気のない平次を見て,新一は,溜息をつきながら言った。 「…あーもう。…元気出せよ,ケーキ,もらってきてやったから…。」 平次は,その言葉を聞いた瞬間に,何を言われているのかわからない,という顔をした。 「…は?…けーき?」 「そ。ちょこれーとけーき。おまえ,食いたかったんだろ?」 新一の,照れたような言葉に,平次は,呆けたまま答えた。 「…食いたい,ちゅーか…おまえに贈ろ,思て…。」 そして,平次は,一瞬で悟った。 「…まさか,おまえがバイトしとったんて,これか…?」 まともに平次に聞き返されて,新一は,真っ赤になって言い訳をした。 「だって…おまえがケーキなんか買ってる時間,絶対ねぇと思ったし…。おまえ,食いたそうだったし…。で,バイトしたら,ただでやるって言われたから…。ここのケーキ,評判がいいって話しだし…。」 「くっ…く、くどぉ〜〜〜〜っ!!」 あまりの新一の可愛さに,平次は,抱きつきながら,今にも泣き出しそうな声で言った。 「わ…悪かったっ!!こんなおまえ,疑うたりしてっ!!俺は,ホンマ,しあわせもんやぁぁぁぁっ!!」 「わ,わーかった!!わかったから泣くなっ,ひっつくなっ!鬱陶しい…。」 「せっ…せやかてっ!!」 「…泣くくらいなら,捨てるぞ。」 「泣きまへんっ!!」 慌てて顔をあげ,直立不動の姿勢をとる平次に,新一は思わず吹き出しながら,言った。 「…ま,たまにはいいか,と思ってな。こういうのも。バイト代も入ったから,懐も暖かいし♪」 そう言ってにっこり笑う新一は,本当に満足そうで。 平次は思わずその新一に,思いっきりの笑顔を返した。 そして、その笑顔のまま,呟いた。 「俺…なんも用意してへんのや…。スマンな…。」 「え?…別に,俺,いらねえっていったろ…?イヤだって…。」 「いや…そういうワケにはいかんから…この俺を丸ごとぷれぜんと…。」 「いらねえ。」 「なんや,言うてくれへんのかい…。‘おまえさえいれば,他に何もいらねえ’って…っったああっ!!」 平次はもちろん,その2秒後には,立っていられなくなっていた。 容赦のない新一の蹴りが,今度は,腹に決まったからだった。 ……すでに,病気らしい。いや,改めて言う必要のないことだが。 まあ,いろいろと紆余曲折はあったものの。 こうして平次は,念願叶って,新一とのバレンタインデーを過ごす事になった。 新一に,何度も蹴りを入れられながら。 しかしまあ、それはそれで,充分幸せそうである。 ……かってにやってろ。 |
written by もえ
・・・長くてスイマセン