182 福音はあなたを解放する

聖書箇所 [ガラテヤ人への手紙]

 5章1節を見ましょうか。

 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。

 なんとわくわくさせられる宣言でしょうか。これこそがキリスト教の掲げる宣言!高らかに鳴り響く声!これは福音のなせるわざ。ところがなんとガラテヤ人たちは一度この喜びを経験していながら、それを忘れたのです。いったい何があったのでしょうか。きっと十分には理解していなかった面があるのでしょう。私たちは彼らと同じ轍を踏んではいけません。しっかりと福音の恵みを学びましょう。それにはどんなくびきから解放されたのかを確認する必要があります。こう書いてあります。

 ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

罪から

 罪から解放されるとどんな良いことがあるでしょうか。目の輝きが違って来ます。顔の表情が変わって来ます。それは心が変えられるからです。特に目は変えられたことの一番の証人です。

 そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。(14,15)

 ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。(6:11)

 パウロの目は悪かったと思われます。それは視力が低いのみならず、何かの病を持っていたらしく、さらにはみてくれが極めて良くなかったようです。ガラテヤ人たちは神の人である彼が人々から誤解されることを避けようと、なんと目を提供したいという思いにまでなったというのです。それは心の変化の現れでした。福音により、キリストに触れ触れられて美を移された結果でした。
 議論のある中、今日でも美人コンテストが世界中で開催されています。ある教会で、そうです、なんと教会で美人コンテストがなされました。でも出場者には一つの条件がありました。それは70才以上に限る、というものでした。20才の美しさは親から受取ったもの、でも70才の美しさは長い人生の中で、さまざまな試練を経て自分が獲得したものという意味でした。

 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。(Uコリント4:16)

 それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。(出エジプト34:29,30)

 議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。(使徒6:15)

 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。……彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。(同7:55-60)

 私たちはどれほどイエスさまの心を自分のものとしているでしょうか。

 群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。      (マタイ9:36)

 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、……イエスは涙を流された。(ヨハネ11:33,35)

 中世の聖人フランチェスコは鳩の目のようであったと言われます。それは自分の罪に苦しみ、悲しむ人とともに泣いた結果いつも目を赤くしていたからです。罪の女、姦淫の女へのイエスさまのまなざしはどのようなものであったでしょうか。(ヨハネ8:1-11)

 罪に悩み、罪に勝つ者はイエスさまの心を持ち、温かいまなざしで人々をながめます。逆に罪を認めず、隠し、悔い改めない者は内側に毒とガスをため周囲に災いをもたらします。いつかは爆発するのです。私たちはどうしたらいいのでしょうか。二つあります。一つは個々の罪を悔い改めること。もう一つは良いことをすること(6:9)。あなたの中の良心が働いて、あなたのなすべき、かつ可能なことを示してくれるでしょう。それは多くは単純な小さなことです。これを行うことがあなたの悔い改めを実のあるものにします。祝福されます。リベカはひたすらラクダに水をやりました。ただひたすら。これを見ていたのはアブラハムの忠実なしもべ。息子イサクのお嫁さんさがしの重要な一こまでした。でももっとも重要なことは神さまが彼女を見ておられたこと。ここに彼女が祝福を受けた理由があります。(創世記24章)

律法主義から

 パウロはたびたび律法(割礼はそのシンボル)について触れています。ここで誤解をしていただきたくないのは律法は悪くないということ。いや、これは良いものです。なぜって、神さまのすばらしい頭脳と心による一つの発明ですから。したがって今日でも律法は有効です(異邦人はこれの細かい規定からは解放されていますが、ユダヤ人たちはそのまま守ることがふさわしい)。問題は律法主義です。では律法主義とは。それは道徳主義であり、形式主義です。日本は形式主義の文化を持っています。私は高校生のときにいくつもの不満を持ちました。たとえば「高校生らしくありなさい!」とたびたび言われました。きっと私は「高校生らしくなかった」のです。私は先生に質問しました。「高校生らしくって、というのは具体的にはどのようなことを指すのでしょうか?」。納得の行く解答は返って来ませんでした。ただ「学生帽をかぶっていなさい」とか、「胸のボタンをはずしてはいけません」とかいったものでした。「女性らしく」などなど、このような表現が意味していることには、形を整えればそれで良いという形式主義です。日本の形式主義の起源は儒教にあると思われます。その祖である孔子は弟子に「なぜ喪にふくする期間は3年(正確には25ヶ月)なのですか?」と聞かれてこう答えています。「親孝行な子どもは何年でも喪にふくし続け、社会生活上支障が出る。それでは困るので規則で終らせてあげたい。一方親不孝なやからは一向に悲しもうともせず遊びまくっている。彼らには無理にでも静かな時間を過させなければいけない」。前半は良いとしても後者には無理が発生しそう、とはだれもが感じるのではないでしょうか。イエスさまはどのようにお考えでしょうか。

 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。(マタイ23:23)

 律法主義たちには見上げたところがありました。たとえば十一献金という規則を秤で測るように正確に実行していました。現代風に説明しましょうか。お中元をいただきました。このようなものも収入であると正直に理解する真面目さが彼らにはあります。これはこれで立派なものです。さて、この夏は石鹸七個を受取りました。ここから十分の一をささげるにはのこぎりで切らなければなりません。もちろんそうします。すると削りカスが発生します。これを秤にかけ、正確に十分の一を測ります。なんと律儀な!しかし、イエスさまはあることを見ておられます。それは心の中。「正義もあわれみも誠実もおろそかにしているではないかッ!」

 正義とあわれみと誠実とは、すなわち愛です(マタイ22:34-40)。実に律法とは愛です。これは私たちには大きなチャレンジですね。特に信仰生活の長い人は気をつけねばなりません。「神さまにすべてをささげます!神さまを第一にします!」なんと勇ましい!でも事実そのような生活をしているのでしょうか。口ばっかりでは!?クリスチャンは「神に選ばれた意識」を持っています。これは、もちろん、正しい!」。でも気をつけないと高慢になります。「自分は選ばれた、信じない者は選ばれていない、少なくとも現在までは選ばれてはいずに、したがって真理を知らない!」と。一羽のきつつきが木をつつきました。その時です。雷がその木に落ち、まっぷたつ。彼は思いました。「オレのくちばしにはとてつもない力があるッ!」。
 こういう記事を見つけました。当杜に所属している芸人は六百人以上。その中で最高が八億円強で、一億円超の高額所得者十一人を合わせると、百人ちょっとが一干万円以上もらっている。年収百万円以下も三百人以上がいる。収入については格差の激しい社会だ。芸人はいったん人気が出ると借々ゲームで収入が増える。歩合給のテレビの出演本数が急増するせいだ。ある日、時代の波に乗って急に売れ出した芸人が訪ねてさた。何を言い出すのかと思ったら「社長、現金で一千万円たまりましたけど、どうしたらええでしようか」。いきなり売れっ子になるのは平社員が突如、大会社の社長になったようなものだ。持ちつけない大金を手にして使い方がわからない。サンゲラスをかけ、派手な服を着だして、見ている方が恥ずかしくなるような車を乗り回す。一番危ないのが年収一千万円前後。新幹線を普遍車からグリーン車にしろとか、地下鉄に乗っていたのをタクシーに替えろと言い出す。ギャラはお客さんが払ってくれているという本質を忘れてしまい、自分の腕で稼いだと錯角するのだ。芸人ならだれしもが一回はかかる「はしか」である。(「ギャラ」中邨秀雄吉本興業会長『日本経済新聞2002.6.22』)

 いつまでもはしかにかかっていてはいけません。謙虚でなければいけません。でもどのようにしたら謙虚になれるのか。聖霊さまにより可能です。これは一種のショック療法です。
 ある学者が精神病院にいる一人の男性にショック療法を試みました。彼は自分をイエス・キリストであると信じています。彼に質問しました。「あなたはキリストですか?」「しかり、わが子よ!」「そうですか、ちょっと待っていてくださいね」しばらくすると巻尺を持って来て、「ちょっと両腕を広げてください」彼はいったい何をしているのか不安になって来ました。学者は寸法を測り終ると、しばらく姿を消しまもなく、大小二本の木材を運んで来ました。ますます不安になった彼は「何をするんですかっ!?」大きな声で思わず叫びました。「見ていれば分かるでしょう。キリストがかかる十字架を作っているんですよッ!」「いや、私はキリストではないッ!キリストじゃあーないッ!」
 心の体質を変える一つの良い方法です。

 もしあなたが心を開くならあなたは形式主義、すなわち律法主義から解放されます。それはあなたの心が変えられるからです。心が変われば、形式は立派なものになります。

悪習慣から

 「こういうことはいいかげん止めたい、だって良くない!」と思っている人、そして習慣の数々、ありますね。私は多分18才の頃、パチンコをしたことがあります。好奇心でしましたが、なんと大儲けしたのです。翌日感動した心でもう一度やってみました。そうして大損しました。私はこのときに決意しました。生涯、二度とパチンコはするまい。これは、しかし、習慣化されていないから可能だったのです。一度習慣化してしまうと解放されるのは至難です。もっとも安易で無意味かつ効果のないやり方はお説教です。「あなた、それは良いことですか、それとも悪いことですか?悪いことですね!ならば止めなさいッ!」

 こんな調子で止めることができたら、ほんとうに世の中苦労はありません。なぜ悪習慣は止められないのか、それはその習慣がバランスを保つために心と体の中でしっかりと座席を占めているからです。もし突然やめたら、心は不安定になります。したがって、たとえばたばこを止めたとするなら、たばこに代わるものが用意されなければいけません。肥満症は現代人の抱える問題の一つです。男性よりも女性に多いのですが、心のバランスをとるために太っていることが必要な人は少なくありません。断食などをして一旦減量しますが、まもなく太り始めます。もとに戻ります。心のバランスを保つために食べることや太ることが必要なのです。

 カナダで一つの治療目的で興味ある実験がなされました。食物は胃で消化され小腸で栄養分が吸収されます。そこで手術して小腸の前半部である空腸をそのまま大腸に接続しました。もくろみ通り小腸による栄養分の吸収はなされなくなり減量作戦は成功しました。しかしスマートになると心が不安定になる人が出て来ました。スマートだと自分に力がなく感じられ、ぜい肉がついていると心配事にも耐えられるような感じがするというのです。不安定な人たちはうつになりました。

 悪習慣を取り去るなら代わりのものが与えられる必要があります。それは何?神さまからの期待であり、期待感が感じられることです。1930年代、ナチスに協力する国民が増えました。クリスチャンたちも決断が迫られました。ボンヘッファーは抵抗する側につきましたが、次第に迫害は厳しくなり、亡命を勧められました。悩みましたが、ついに決断してアメリカに逃げました。しかし彼は悩みました。「このままアメリカにいていいのだろうか、それともナチスと戦うべきだろうか」。みことばが与えられました。「なんとかして冬になる前に来てください」(Uテモテ4:21)彼は最後の交換船で故国に戻ります。地下運動を戦い、1945年ついに処刑されます。彼の最後のことばはこうでした。「これが終りです。でも私にはこれが命の始まりです」。彼は神さまによる期待をしっかりと胸に刻み付けていました。アウグスチヌスは放蕩三昧で、あきれられるほどでした。お母さんの篤い祈りで、神さまが彼に触れてくださり、改心をします。あるとき町を歩いていると呼び掛ける声がします。「あーら、アウグスチヌスさまじゃあーありませんか」彼はそんな声は聞かず先へ歩きます。するとまた「アウグスチヌスさま、でしょ!お忘れになったわけでもないでしょう。ねえ、アウグスチヌスさまあー!」。彼は答えました。「もちろん、あなただってことは分かっていますよ。でも私はもう以前の私ではないのです!」。彼もまた神さまの熱い期待を感じています。あなたはいかがですか。神さまはあなたを愛して、大切な御子をくださいました。あなたは愛されています。期待されています。感じますか?もはやあなたには悪習慣にうつつをぬかす無駄な時間はありません。

 福音があなたを解放します。あなたは自由です。