184 十字架上の七つのことば

聖書箇所 [ルカの福音書23章46節]

 イエスさまってどのようなお方でしょうか?答え=あなたに慰めをくださるお方。なぜ?私たちは人生を生きていると傷を負うことが少なくないからです。特にまじめに生きていればいるほどそれはほんとうです。イエスさまはあなたがその傷に苦しんでいることに無関心ではありません。今回は彼の十字架上で発せられたことば、七つを見て行きましょう。ことば、それはイエスさまからあなたへの慰めのことば。

 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。[ルカの福音書23章34節]

 慰めのメッセージ=私はいつもあなたを父なる神さまに執りなしています。

 私たちは罪を犯し、失敗をします。でもそれをしている間、悪いことをしている、あるいはこのまま進めば大きな問題になるという意識がない場合が少なくありません。私たちは何かを成功させようとことを始めるのであって、失敗させようとして始めるのではありません。ところが失敗してしまいますし、失敗してからそれが分かるのです。羊が穴に落ちて、ようやく気がつくといったようなものです。しかしたとえ気がついていなくても罪は罪。ここであがない主イエスさまの出番。「父なる神さま、私がその責めを引き受けますから、罪を犯しているそのとき、失敗に向って進んでいるそのとき、自分でも何をしているのか分かっていないのですから、どうか赦して(許し)てやってください。そうしてもう一度のチャンスを与えてやってください」と。
 どうかイエスさまの取りなしを受け入れて安心を得てください。そうしてもはや過去ではなく、将来に目を向けてください。

 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。     [ヨハネの福音書19章26ー27節]

 慰めのメッセージ=私はあなたに霊の家族を用意しました。

 メッセージ183番で理想の教会について書きました。教会、それはイエスさまの作品であり、霊の家族。私たちは肉の家族の中だけで生活するのではなく、霊の家族、すなわち神の家族を必要としています。人が幸せを感じることができるか否かは所属する家族において幸せを感じることができるかどうかにかかっています。つまり一家団欒において「私、しあわせーッ」て心底言えるかどうか、もし言えればあなたは幸せです。しかし私たちにはもう一つの家族も必要です。信仰の家族、霊と霊が交流する家族。その家族の中で、交わりの中で私たちは慰めを得ながら生活をすることができます。では霊の家族の成員すべてがあなたを慰めてくれるのでしょうか。ところで、父なる神さまは(私たち人間の目では)見えないお方です。そこで目に見えるように、自らをイエス・キリストというお方で示されました。2000年前に確かに人々は肉眼でその存在を確認していました。やがて十字架で死なれ、ご復活。その後昇天され見えなくなられましたが、その直前ペテロに「私の羊を飼いなさい」と言い残されました。ペテロはその後弟子たちを養成、今日に至っています。この文脈からは羊飼い、すなわち牧師があなたのための慰め手のトップバッターと言えますが、決して独占的なものではなくて、私たちは互いに羊飼いに、慰め手になれるものなのです。ではだれがあなたの慰め手になってくれるのでしょうか。目の前にいるすべての人ではないことは確かです。信仰の浅い人もいれば、ひねくれた人もいます。しかし心配しないでください。それを判断するのは簡単です。あなたは「あッ、この人だ!」とすぐに分かるでしょう。

 『恋愛小説家』という映画があります。メルビンは強迫神経症であるために、レストランに行ってもナイフとフォークを使うことができません。そこで自分のものを持参するわけですが、従業員たちはうさんくさがります。彼は一人の従業員キャロルに恋をします。「君をほめたい」「じゃあ、ほめてみて!」こうして彼は身の上話を始めます。強迫神経症であること、医者から薬を飲めばかなり直ると言われていること。「私は薬は嫌いなんだ、でも君と出会ってから薬を飲み始めた。」「それがどうして私をほめてくれたことになるの?」「君は私にもっと良い人になろうという気持ちを起こさせてくれたんだ!」キャロルは言います。「私が生涯で聞いた最高のほめことばだわ!」

 あなたの目の前にいる人があなたの気持ちを奮い立たせ、あなたの心に「もっと良い人になろう」という思いをくれたとすれば、その人はイエスさまからあなたへのプレゼント、そして慰め手です。

 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」[ルカの福音書23章43節]

 慰めのメッセージ=私の心はあなたの心とともにあります。

 パラダイスとは天国の待合室です。パラダイスに行った人は必ず天国に行けます(ちなみに、ハデスに行った人は地獄に行きます)。人は死ぬとどちらかに行きます。パラダイスについてもっと分かりやすくするために、こういう説明をしましょう。私たちの地上での生活と天国での生活では一つの共通点があります。それはともに肉体と霊魂とを持っていること(ただし天国の肉体と地上のそれとは材料が異なります)。一方、パラダイスで私たちは肉体を持っていません。つまりイエスさまと裸の付き合いができるという恵みがここにはあります。心と心、気持ちと気持ち。あなたが涙を流すとき、イエスさまも同時に涙を流しておられます。私は一人で時間を過すことが好きです。書斎に隠り、みことばに思いを巡らし、祈り、夢を描き、黙想します。そういうときに私はいつでもイエスさまのご臨在を意識できます。目の前に実際にまるでだれか人がいるように。これは珠玉のひととき。最高に価値ある時間。あなたも一人になってみませんか。

 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。 [マルコの福音書15章34節]

 慰めのメッセージ=私はあなたを悲しみから解放します。

 人生において最大の悲しみとは何でしょうか。それは、孤独!物理的な孤独の実験はたびたびなされていて、条件もさまざまではありますが、学生などを被験者に高給を払って、まったく外部との交流のない中で過してもらいますが、ほとんどの人が2日間しか耐えられません。いかに人間は孤独に弱いかは証明済みです。もっとも深刻なのは気持ちの上での孤独です。「だれも私の気持ち、分かってくれないッ!」。イエスさまは父なる神さまに捨てられました。この世界のオーナーであり、最高権力者から捨てられました。もはや行き場がない、残酷な仕打ちです。これが十字架罰の本質です。上のことばは孤独の苦しさから悲しさから発せられる絶望の叫びです。私たちはイエスさまを見つめるべきです。イエスさまの経験なさった悲しみほど厳しいものはありません。イエスさまだけがあなたの悲しみを理解できます。イエスさまをあなたが見つめるとき、見つめ続けるとき、あなたは真の慰めを得るでしょう。

 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。[ヨハネの福音書19章28節]

 慰めのメッセージ=私はあなたから応答を待っています。

 酸いブドウ酒については十分には判明していませんが、肉体の痛みを和らがせる意味があると通常言われます。それは肉体の求めですが、これは象徴的なことです。本質は目に見えないものです。それは「私は十字架にかかっている。あなたはこれをどのように考えるか?私はあなたの応答を待っている」

 あなたはイエスさまが十字架にかかっている、かかったことをどう考えますか?もし「ありがとう!感謝の気持ちでいっぱいです」とお答えになるならば、あなたにはこの世では得られない平安を手にするでしょう。人は三つの不安に悩んでいます。
 1罪を犯したとき。罪はどこまでもどこまでも罰に追い掛けられます。したがって罪を犯した人は罰に追いかけられます。
 2私は愛されていない(かも知れない)と思えるとき。単身赴任の夫を抱える妻はアル中になることは珍しくありません。
 3未来が見えないとき。占いは決して人気がなくなることはありません。これらの不安はイエスさまによってのみ解決されます。

 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。[ヨハネの福音書19章30節]

 慰めのメッセージ=私はあなたを完全に修理した。

 私たちの人間性は故障しています、罪によって。病気になっています。イエスさまの働きはそれを修理し、あるいはいやすことです。最近私の車が故障しました。方向指示器が作動しないのです。困りました。私たちの心もさまざまに壊れていて、妬んだり、悪口を言ったり、はたまた自分を責めたり。からだも病気になったり、さんざんです。     人生の歩みにおいても、失敗あり、苦難あり。でもイエスさまは言われます。「私はあなたを完全に修理した」さあ、あなたはこれを信じますか?実はこれは信じるしか道はありません。信じるならあなたは、そしてあなたの人生は変えられます。信じた通りになるのが人生です。

 イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」イエスが立って彼について行かれると、弟子たちもついて行った。      すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。 イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。イエスは群衆を外に出してから、うちにおはいりになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。(マタイ9:18-25)    

 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。[ルカの福音書23章46節]

 慰めのメッセージ=私はあなたに良いサンプルを見せました。

 良い人生を生きるには良いサンプルが必要です。父親、母親、家族などなど。悪いサンプルは人間を悪くさせるだけです。イエスさまが提示なさった良いサンプルの中身は「使命に生きる」というものです。十字架、それがイエスさまの使命。それにより多くの人々に希望を与えます。あなたの使命は何でしょうか?私は教会人として、ゲタ履き教会を多く建てることです。気軽にしかも歩いてすぐのところにだれにも「これが私の教会!」と紹介し自慢できる状況をつくり出すことです。あなたの使命は何ですか?家庭人として子どもを育てる、職業人として良い製品を社会に送りだすこと、学校人(学生)として社会に貢献できるような自分を形成することなどなど。使命があなたを輝かせます。イエスさまの前にすなおになるとき、あなたにはその使命が何であるか、分かります。あなたの人生ですから。