189 至福の教え

聖書箇所 [マタイの福音書5章1ー12節]

 イエスさまは言われます「あなたがたがこのような人であったら、最高の幸せ者です」と。しかし冒頭から貧しい者や悲しい者が幸いである、と読んでしまうと、「エッ、本当!?」とつい首をかしげたくなるかも知れません。だれだってお金はほしいし、いつもうれしく楽しい思いで過したい。でもイエスさまは真実をお話ししていらっしゃいます。通常「八福の教え」と呼ばれる一つ一つを今から説明をいたしましょう。聞き方としては、「私はどのタイプかなあー」と考えつつ、がいいでしょうか。ちなみに6節と10節は一括りにして整理してお話しましょう。

 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 [3節]

 ギリシア語では貧しさを表現する単語は2つあります。一つはペネースで少し貧乏。もう一つはプトーケイアで極端な貧乏。ここではどちらが使われているかと言えば、後者です。なんと、極端な貧乏が幸いなんですって。通常日本語で「あの人は心が貧しい」と言えば否定的な意味ではないでしょうか。しかも極端に貧しいのが幸いであると言われればますます混乱します。鍵は「心の」にあります。ギリシア語ではプニュウマにおいて、すなわち霊において、です。本来イエスさまのお話はギリシア語ではなくアラム語もしくはヘブル語でなされました。その語では「貧しい」はアニ、あるいはエビオーンであり、その意味は「ただひたすら神にのみより頼む」です。以下詩篇の中からご紹介しましょう。ただし日本語訳では「悩む者」となっています。

  この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。(34:6)

  神よ。あなたは、いつくしみによって悩む者のために備えをされました。(68:10)

 こうして「心の貧しい者」とは「神なしでは生きて行くことができない者」であると言うことができます。では神なしで生きる生き方はあるのでしょうか。あります。それは物に頼る生き方です。もちろん物や金銭がなければ生きて行くことはできませんが、バランスの問題です。物や金銭を拝むような生き方は避けなければなりません。
 ロシアの文豪トルストイは「人間にはどれほどの土地がいるか」という作品を残しています。一日歩いた分の土地を1000ルーブル(邦貨で30000円)であげますという話に乗った人が日が昇ると同時にでかけ、昼頃もっとも遠い所まで行き、みんなが待っているゴール目指してついに日の入りに間に合います。しかしその途端死んでしまいます。墓穴が掘られ葬られました。人に必要なのは一畳分であったとお話です。
 「神なしでは生きて行くことができない者」は神さまを一番にするゆえに、人生の総決算をする場所である天の御国で最高の待遇を受けます。神さまを信じましょう。

 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。[4節]

 「悲しむ者」とはテンスーンテス。極端な悲しみを現わす語です。「70人訳」というギリシア語訳旧約聖書ではヤコブが息子ヨセフはもう死んだと思い、嘆き悲しみましたが、この時に使われています。キリスト教はいったい何に関心を持っているのでしょうか。それは人に、です。では人の何に、対して?それは悲しみです。キリスト教は、従ってあなたのイエスさまはあなたの悲しみに非常に強い関心を向けておられます。ゆえに最高の慰めをくださいます。だから幸いなのです。
 私はゆえあって17才で独立しました。そのとき私にあるのは、お金はなく一対の上着と下着だけでした。死にたい思いでしたが、よく分からないのですが、私の中に「生きよ!生きよ!」と言う思いがこだましていました。私は生きるために働かなければと思い、職を求めましたが、身元不明で何の証明するものも持たない者を雇ってくれるところはありませんでした。唯一見つけたところは飯場と呼ばれるところでした。いっさいを問われないところでした。元やくざ、刑務所帰りの人たちばかりが寝泊まりしていました。ほとんどは入れ墨をし、いっさいは互いに質問しません。非常に劣悪な住環境で火事があれば全員焼け死ぬだろうなあと思いました。毎日毎日きびしい肉体労働が続きました。まもなく私の服が真っ白になりました。一張羅です。着替えがありません。洗濯もできません。工事現場で来ていた服のまま疲れきって寝ました。汗の塩分が原因でした。やがて私の足が震え始めました。栄養失調でした。でも働かないわけにはいきません。足をさすり、震えを手で押えながらなんとか上体を支え働き続けました。給料日まで50日ありました。ついにその日を迎えた時に、「あー、これで生きて行ける」と思いました。さっそく栄養剤を飲みました。おいしいものを食べました。でもそれがすべての解決ではありませんでした。私の心は恐ろしい孤独にさいなまれていました。世界の中での孤立感、宇宙の中での孤立感でした。「私は捨てられた」という強烈な思い。遺棄体験と言います。そんな私を救ったのが教会でした。5人くらいしかいなかった、しかも公民館を借りて日曜日の2時間だけが教会活動した。でも彼らは私を温かく迎えてくれました。ほんとうによく慰めてくれました。彼らの中のイエスさまが私を慰めてくれました。私が教会をいくつも建てるのはここに原点があります。教会こそ慰めの場所です。イエスさまがおられる場所です。教会をともに大切にして参りましょう。

 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。[5節]

 「柔和」とはどんな内容でしょうか。いつもにこにこ、柔らかく、場合によってはくにゃくにゃ。しかしギリシア語におけるイメージは異なります。プラウス、それは首尾一貫性のある、しゃきっとした生き方。簡単に言えば「柔和な者」とはセルフコントロールできている人、あるいは神により(にのみ)コントロールされている人です。そのような人は幸い、それは地を相続するから。その意味は地上の人生において成功するから。単純に考えてみて、カッとなる人はカッとなった時点でそれまで積み上げて来たものを破壊してしまいます。したがってまた一からやり直しです。これではいつまでたっても成功はおぼつきません。森永太一郎は森永製菓の創業者です。確かに成功者と言えますが、何度かの工場火災、関東大震災、昭和大恐慌などなど試練は多くありました。しかし常に自制をし、前向きな姿勢を維持しました。信仰の力でした。ただし成功すると言っても、実業家として成功するということをいつも意味しているのではないことをご理解下さい。温かい家庭を作ることができればそれは一つの成功。元気な明るい教会生活ができればそれも一つの成功。神さまを信じる者は天国で祝福を受けるから地上では苦しみがあってもがまんしなさい、というのは聖書の持つ考えではありません。天国の祝福がすばらしいのだから、その前の生きる場においてもそれは祝福に満ちているはずです。天上と地上双方においてあなたは祝福されます。セルフコントロールを身につけるにはイエスさまとの親しい交わり、すなわちデボーションを大切にしなければなりません。「朱に交われば朱くなる」とはこのことです。イエスさまと親しくなればなるほど、あなたの中にイエスさまのご人格が伝染して来ます。イエスさまは最高のセルフコントロールのお方です。

 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。[6節]

 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。[10節]

 罪に悩んでいる者は幸いだと語られています。

 「先生、おなかの調子が悪いの」。ある夏の日、神奈川県内の公立高校の保健室に、養護教諭のA子先生(53)を、三年生のB子が訪ねて来た。まじめで、成績はトップクラス。保健室に来ることはあまりない生徒だった。B子は最近よく腹痛を起こし、授業にも身が入らないという。相談室に招き入れ、、「何かあったの?」と尋ねると、ぽつりぽつり語り始めた。両親が不仲になり、父親が家を出て実家に帰ったこと。自分は家族に必要とされているのか、不安。「母は外出してばかり。私の体をちっとも心配しない」とB子は嘆いた。A子先生は「もしや」と思い、「腕を見せてもらっていい?」と尋ねた。B子がうなづき、ブラウスのそでをまくると、カッターナイフの刃の裏を当てたような傷がいくつもあった。「自分でやったの。気持ちがすうーっとするから」「そう。つらかったでしょう」。A子先生が手を握ると、B子は「だれにも言えなかったんだ」と、わっと泣き出した。「本当に辛かったね。でも私は、あなたの体が傷つくのが嫌よ」と優しく言葉を掛けた。自傷行為は、高校や中学校のの養護教諭が、頻繁に接する事例の一つだ。A子先生は「親の愛情を求めるSOSであることが多い」と感じている。……(『読売新聞』2002.8.8)

 淀川キリスト教病院チャプレン窪寺俊之先生のお話です。食道の手術を受け元気に退院したお年寄りが再入院しました。一生懸命に面倒を見ましたが、まもなく亡くなりました。遺言では「死体を解剖してください」とあったので、そうしましたが、病因となるようなものは発見できませんでした。解剖に立ち会っている窪寺先生に婦長さんが耳打ちしました。「先生、おじいちゃんは退院して帰ったらお孫さんに部屋を取られて帰る場所がなかったんです」。

 以上ともに家族の罪と言うことができるでしょう。でも私たち一人一人はどうなんでしょうか。罪はないのでしょうか。サソリの掟という話があります。池のそばにサソリがいました。カエルに言いました。「俺を池の向こう岸まで背中に乗せて運んでくれないか。俺は泳げないんだ」。カエルは「冗談じゃア−ないッ。そんなことをしたら背中からあんたに刺されてしまうだろう」「まさか!そんなことをしたら俺だって死んでしまう。そんなことするはずがないよッ!」「そうか、そう言われればそうだなー。ようし、いいよ」。こうして背中に乗せて泳ぎ始めました。池の中ほどまで来たときにカエルは背中に痛みを感じました。沈みながら最後の力を振り絞って聞きました。「なぜだアー?」「これが俺の罪なんだ!」

 自分の中にある罪に苦しむ者は真の義を求めて、ついにはイエスさまに到達します。悔い改めたあなたは十字架の上でイエスさまの義を得、イエスさまの義だけがあなたを満足させます。その義を持ったあなたは、今、正しく生きています。これがイエスさまを信じることの意味です。

 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。[7節]

 あわれみ深いとは同情。英語でsympathyと言いますが、ギリシア語のスン(一緒に)+パスカイン(経験する)が語源です。たとえば10キログラムの重さの鞄を持っている人がいると思います。それを二人で持った場合にはそれぞれ5キログラムになります。

 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。(ローマ12:15)

 他者の気持ちが分かるとはなんとすばらしいことでしょうか。そういう人はあわれみを受けます。気持ちを分かってもらえます。だから幸いです。私たちはだれでも「私の気持ち、分かってー」という思いです。男でも女でも。あわれみ深い者になるには罪と失敗とを赦し許す神さまとの出会いが大切です。アブラハム、ノア、ダビデなどなど罪を犯し、失敗を何度もして来ました。でも神さまの寛容な心で復帰できています。私たちは罪を犯し、失敗をするものです。ここに神さまの心の大きさを知らなければなりません。そうすればあわれみ深い者と私たちはなるのです。
 
 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。[8節]

 動機の問題です。聖い思いですべてのことを私たちはすべきです。そうすれば神さまが見えます。イエスさまを心の中心にお招きしましょう。あなたの中のイエスさまがいつもあなたの中を聖め続けるでしょう。心の中にやましさがない人は何をするにも最高の力を出し切ります。そのときの情熱は多くの人々の共感を呼びます。

 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。[9節]

 これは幸いなのは自明のことでしょう。あの人が来るといつも争いになる、なんて言われる人は歓迎されません。幸いなのは神の子と呼ばれる。これはどのような意味でしょうか。神さまがあなたの肩に手を置きながら、人々の前で「この子は私の子です。みなさんに紹介したかったのです。私はこの子をほんとうに誇りに思います」。これ以上の讃辞はこの世界にはないのではないでしょうか。
 『幸福な王子』で有名なオスカー・ワイルドの短編に『わがままな大男』というのがあります。わがままな大男が旅行から帰ってみると、彼の庭で子どもたちが遊んでいます。頭に来た彼は追い出し、垣根で周囲を囲んでしまいます。あるとき垣根の割れ目から子どもたちがこっそり入り込み遊んでいたのです。大男に気付かれた子どもたちは一目散に逃げたのですが、一人の男の子が逃げ遅れて木の下で泣いています。大男は不思議にやさしい気持ちになって遊びました。二人にとってとても楽しい時間でした。彼は次の日も来てくれるかなあと期待しましたが、二度と現れることはありませんでした。何十年もたってある朝大男は庭にいるあの男の子を見ました。その子は言いました。「あのとき、あなたの庭で私を遊ばせてくれたね。今日、私はあなたを私の庭で休ませよう」。他の子どもたちが来てみると大男は庭の木の下で永遠の眠りについていました。

 さあ、もう、あなたにはあの男の子がだれであるかお分かりでしょう。マタイの福音書25章32節から40節までお読みください。私たちはいったいどれほど神さまに真に喜んでいただけるようなことをしているのでしょうか。正直のところまったく心もとないのでは。でも神の子には一つの小さなことが最大の評価を受ける特権があることを忘れないでください。だって天下の、あの神さまの子なんだから。あなたはもちろん神の子なんでしょう。なんという幸い!