190 エステルの人間像

●聖書箇所[エステル記全体]

 今回は美しい女性エステルについて学びましょう。彼女のロマンと献身について。三部に分けてお話しましょう。

第一部 あらすじ

 ベニヤミンびとアビハイルの娘。ヘブル名をハダッサという美しい少女。孤児であったのでいとこにあたるモルデカイの養女となり、ともにペルシアの首都スサに移された(2:5-7,15)。ペルシアのアハスエロス王はその治世の第3年に、国の富と輝かしい王威とを示すために一大酒宴を設けた。第7日目に王は7人の侍従に命じて王妃ワシテを呼んだ。それは王妃の美しさを民や大臣たちに見せるためであったが、彼女は王の命令を拒んだ。怒った王は、法律と審判に通じている7大臣のひとりメムカンのことばに従ってワシテ王妃を廃し、代わりの王妃を尋ねた(1:19、2:2-4)。王の治世第7年10月、ワシテに代わってエステルが選ばれ王妃となった(2:16,17)。彼女は多端な時に王妃となったが、その時にはユダヤ人であることは一般に知られていなかった。王はハマンを非常に重んじた。エステルが王妃となって5年後(2;16,3:7)、ハマンは自分にひざまずかず敬礼もしないモルデカイを初め王国に住むユダヤ人全部を虐殺しようとした。彼はばく大なわいろを王に納め、ユダヤ人たちの律法と風俗を固守する頑固さを王にざん言して、ユダヤ人虐殺の承諾を獲得し、王の命令書を各州に送った(3章)。モルデカイはこのことをエステルに告げ、自分の民をハマンの魔手から守ることを頼んだ。彼女は王の前に立つことを非常に恐れたが、3日間侍女たちと共に断食して祈り、死を覚悟の上で王にユダヤ人の命ごいをしようと決心した。非常な慎重さと機転によってハマンの陰謀に対して王の注意を引く絶好の機会を捕えた。事は一変し、モルデカイを殺そうとして用意した高さ50キュビトの木にハマン自身がかけられた。王の指輪をもって印した命令書は取り消すことができないので、王は新しい詔書を各州に出してユダヤ人自ら生命と財産を守るようにした。(『新聖書辞典』)

第二部  いくつかの特徴

 この物語の持つ特徴をお話しましょう。

1 エステルの従順さ

 エステルが王宮に入ることについてはモルデカイの計画でもあって、彼女はただ黙々と従っています。王宮に入った後もその従順さに変わりはありません(2:10,20)。二人とも神の摂理を共有しているようです。「よく分からないけれども、確かに神さまは私たちをある一定の方向へと導いておられる」という意識を互いに持っています。「きっとこの先、すばらしいことが起きる」という直感と言ったらいいでしょうか。素朴な神への信仰と言ったらいいでしょうか。そうして実際に神の不思議な働きの中で改めて自分を見つめ直します。それは大きな祝福となりました。

2 モルデカイとエステルの間の美しい信頼関係

 二人の間には強力な信頼関係が築かれています。それは彼女が王宮に入った後も変化はありません。人間関係を良好な状態で育て続けることは至難のわざです。ゆえに感嘆せざるを得ません。イソップ童話にヤマアラシの話があります。寒い日に出会った2匹は互いに近づきます。しかし互いの針で刺しあい、「痛い!」。それで今度は離れます。すると「寒い!」。こうしてちょうど良い距離を得たというお話です。針とは罪のことです。「寒い」とは「寂しい」を意味しています。そうです。私たちは一人では生きることができません。それで他の人と交わりを持とうとしますが、近づき過ぎて気分を悪くします。では離れていればいいかと言うと、それもできない。それでまた近づく。こうして私たちは信頼できる人間関係の構築がいかに難しく、かつ壊れるのが一瞬であるかも知ります。それだけにこの二人の関係に驚嘆を禁じ得ません。

3 祈りの重要さ

 重大なときの祈りの重要さです。彼女はモルデカイの愛を存分に受けて満ち足りてはいましたが、決して裕福な生活をして来てはいなかったでしょう。ところが王妃ともなれば、生活レベルは一変します。かつての貧しい生活の記憶は次第に薄れ、新生活への愛着は日増しに強くなります。私たちは生活レベルを落とすことには耐えられないものです。エステルの心に以前の生活に戻ることへの恐れがなかったとだれが言えるでしょうか。そこで3日間の断食を自分自身、待女たち、同胞であるユダヤ人たちに提案します。これは自分自身に対する励ましでもありました。当然断食と祈りの中でエステルは葛藤して行きます。エゴと神さまのお心とが激しくぶつかり、火花を散らします。心は右に左に大きく揺れ動きます。しかし彼女には決して無視できない強い印象と思いとが残りました。これこそ聖霊さまがエステルだけでなく、あなたにも与える確信です。あなたが従順である時、まことの神さまはのちのちまであなたの安全と祝福とを保証してくださいます。そのためにはただ祈るだけでなくプラス何かのアクセントがあるといいでしょう。この場合は断食です。エステルの場合、自らの弱さを告白して3日間、ユダヤ人全員に応援を依頼しています(4:16)。あなたは断食をしてことがありますか。私は七日間したことがあります。祈祷院に癒されたい人たちを車に乗せて訪問したときのことです。帰りは空腹のためにやたら食べたことを思い出します。若気のいたりでした。危険なことでした。それはそれとして、もしあなたが重大な局面に立ち至った時にはお祈りをお勧めします。強力な力が天から来ますよ。

4 同胞への愛

 4章14節はそれをアピールしています。私たちは家族、仲間、友人たちには特別な思いがあるはずです。互いに愛して行きたいものですね。ドイツに生まれたシュバイツアーは子どもの頃、わんぱくでけんかには負けたことがありませんでした。ある時、負けた子がこう言いました。「俺だってお前みたいに肉のスープを食べていれば、負けないさ!」。彼は以降肉を食べなかったそうです。自分だけが良い物を食べることに耐えられなかったのです。ある日、お母さんがコートを買ってくれました。でも友人たちのだれも持っていないのです。何度お母さんが勧めても決して着ませんでした。私たちにも同じような同胞への思いがあるでしょう。

第三部 教訓

 二つの学びをしましょう。

1 人生とは、クリスチャン生活とは、罪を犯しながらの生活である。
 エステルが王宮に入った時点で彼女が自分の名誉を売ったかどうかは判明しませんが、少なくとも王妃になった後は、彼女の任務は極めて明らかです。王の心を喜ばせること、これに尽きます。聖書は、そして私たち自身の意識も同様ですが、つい有名な人物を美化してしまいがちです。このように言い換えるとすると私たちは彼女にどのような印象を持つでしょうか。つまり、「エステルはハーレムに入った」。ソロモンのハーレムには1000人の女性がいました。しかし現代の価値観でさばくことはできません。アフリカに行った宣教師が聖書の主張であるから、「一夫一婦制を採用しなさい」と勧め、「一人を除いてすべて離婚しなさい!」と言いました。しかしここで問題が発生しました。離婚された女性たちとその子どもたちにはもはや生きるすべがないです。スーパーのバイトがあるわけではありません。女性には収入の道がないのです。離婚、即死を意味します。多くの子どもたちとともに餓死して行くしかないのです。あなたはこのような場合にどのような判断を下しますか。

 「驚くばかりの恵みなりき この身の汚れを知れる我に♪♪」。有名なアメイジンググレースはジョン・ニュートンの作詞です。彼は奴隷商人でやがて牧師になった人です。私は「彼は罪に悩み、ついに悔い改め、クリスチャンになり、牧師になったのだなー」と感動しました。あなたもそのような印象を受けておられたでしょうか。なんとこれは全くの誤解。自伝『ジョン・ニュートンの手紙』にはこうあります。「私は奴隷売買に従事している間、それは合法的なことであるとして、少しも良心の呵責を感じませんでした。それが摂理によって与えられた職業であると考え、完全に満足していたのです。事実、奴隷売買は上品な職業であると考えられていました」。なんということでしょうか。現代の基準で、あるいは自分の持っている基準で他者を判断することのむずかしさ。地球的に考えれば、第三世界の子どもたちが毎日たくさん死んで行くのを知りながら、私たちはおいしい食事をコンビニに求めています。そこでは毎日毎日、まだ食べられる弁当が賞味期限が過ぎたという理由だけでたくさん捨てられています。私たちは子どもたちが餓死して行くことの共犯者ではないでしょうか。

 ハドソン・テーラーがある時貧しい家を訪問しました。そこには病気で寝ている母親と乳飲み子がいました。「このままでは今晩生きることができないかも」と想像しました。彼は心の中で「もし2000円(以降、分かりやすく日本円で表現します)持っていれば1000円あげられるのに」とも思いました。そうして彼女にこう言いました。「神さまはとても慈愛深い方で、あなたを愛してくださっていますよ」。そう言いながら彼は自分を責めました。「この偽善者め!」。ポケットの中では彼はしっかりと1000円札を握りしめていました。彼はついに決断しました。1000円をその母親に渡しました。家を出た時の彼の足取りは空のポケットよりも軽かったと言います。帰宅した彼は祈りました。「私は教えにしたがって天に宝を積みました。でもその宝がいつまでも天に滞らないようにしてください。そうでないと明日食べる物が私にはないのです」。すると次の日に10000円が届けられました。ハレルヤ!

 もう一度言います。私たちはだれでも毎日罪を犯しながら生きています。ゆえに神さまのやさしさは私たちには救いです。「たとえそうであっても私はあなたを愛しているよ。あなたを受け入れていますよ」。根拠があります。「あなたの中にある罪は私の一人子に背負わせたから心配しないで」というメッセージです。父なる神さまは自ら苦しみつつ、あなたからその苦しみを取り去ってくださるのです。そうして「あなたは元気に生きなさい!」と励ましてくださっています。毎日犯す罪に負けないでください。

2 神さまは、いつか、時に試練があっても、成功しない時期があっても、必ずあなたを英雄として高めてくださる。

 モルデカイは助命の嘆願をしなさいと彼女に勧めていますが、もしそうしたら自分がユダヤ人であることが分かってしまいます。ハマンの作戦によって、王はユダヤ人を羊の面をかぶった狼の如き悪人と思い込まされているときに、いままでペルシャ人のように振る舞っていて、突然名乗り出ることは余計不信感を持たれるでしょう。ちゅうちょする彼女にモルデカイは重ねて決断を迫ります。「献身か、自分の命か」の大きな決断の場面がやって来ました。結論、ついに神さまに自分のいのちと人生とを委ねる決心をします(4:16)。しかし重い決断でした。いくら王妃であると言っても、今の時代のように気軽に「ねえ、あなた!」なんて夫である王に言えるわけはありません。たとえ勇気をもって王の前に出たとして、王ははたして金のしゃくを差し出すかどうか。当時自分の判断で王の前に出ることはできません。そんなことをすれば死刑です。なんと厳しい時代でしょうか。金のしゃくが差し出されるかどうか、これがいのちが助かるためのルールです。私たちはいろいろな場面で正しいと分かってはいるが難しい決断を迫られます。これが献身の時です。私たちにはそれが来た時には分かるはずです。勇気を持って決断することをお勧めします。あなたが高められる時が来たのです。献身ということばに長い間、キリスト教会は誤解をして来ました。

 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)

 つまり上のみことばから離れて、牧師、宣教師やその夫人になることなどをその意味として考えるのです。それは間違いです。献身とは生きる方向の問題です。主婦として、会社員として、実業家として、男性として、女性としてそれぞれ献身はあります。参考に一つの話をしましょう。
 一人の聖人がいました。天から見ていた天使たちはその聖さに感動して、地上に降りて来てこう言いました。「あなたには癒す力と死人を生き返らせる力とをあげよう」しばらく聖人は考えて「いいえ、要りません」。「なぜ!?」「それは神さまのお仕事です。「ではあなたが口を開く時、どんなに強情な人でもすぐに悔い改めさせる力をあげましょう」「いいえ、それも要りません」「えッ、それは、また、なぜ!?」「それは聖霊さまのお仕事です」「では、あなたは何がお望みですか?」「私が善行をしているときに、それであると私自身が気がつかないように振舞える力を」