192 ライフワークを見つけよう

●聖書箇所[マルコの福音書10章17ー31節]

 私が一番の幸せを感じる瞬間というものがあります。それは多くの本に囲まれて、コーヒーを飲む時。私の書斎と言ってもわずか五畳間。三方が本棚で天上まで届いています。まるで潜水艦の中みたい。もっと詳しく言いますと、同じコーヒーでもバニラナッツが最高。なぜか日本では見つけられない、少なくとも私の周囲では。そこで時々外国へ買い出しに行きます。これは余談。さて、こういう質問が来ます。本とコーヒーがあったらだれでも幸せか、と。ノーです。もっと本質的なものがあります。それを考えさせるお話をしましょう。
 バブルの頃、一人の天才証券マンがいました。よくできる男でした。やることなすことすべてが成功。だれからもうらやましがられる彼でした。給料もどんどん増えるので、豪華な家を購入、車も何台も揃え、買ったばかりの高級なヨットで友人たちとパーティ−を連日繰り広げ、華やかな毎日でした。しかし彼は突然職をほうり出しました。友人たちは驚き、とどめようとしました。「なぜ?こんなに恵まれているのに!」。彼は毎日の生活に嫌気がさしていました。「こんな生き方、俺の本来の生き方じゃあない、もっと別の生き方があるはずだ!」。ついに彼は田舎に引きこもり、そこに小さな家を買って質素な生活を始めました。庭をいじり、近所を散策し、自然の中で自分を取り戻して行きました。「そうだ、これが俺の求めていた生き方だったんだーッ!」。そうして穏やかな日々が続いていましたが、あるとき車庫でステンドグラスを作りました。一つの趣味でした。それを近所の人が見つけ、ぜひ譲ってほしいと言います。「どうぞ、持って行ってください」という彼に「どうしてもお金を払いたい」と言い、置いて行きました。このステンドグラスがさらに評判を呼び、多くの注文が舞い込むようになって行きました。従業員を雇い、生産会議を開きました。作業場を建て、会社組織にもしました。毎日が忙しく、気がついた時には以前と同じような生活のペースに戻っていました。再び彼は空しさを感じます。
 さあ、いったい何が問題でしょうか。それは、ライフワーク。彼にはライフワークがないのです。ライフワークとは「これこそが私のするべき仕事ですという意識とともにする働き」です。給料がもらえるとかもらえないとかは無関係です。もしあなたがご自分のライフワークが分かっていると、精神的に、身体的に、霊的に極めて健康になります。今回の聖書箇所では一人の男性が登場しています。

 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」(17)

 この後の節を読み進んで行くと、彼は極めて真面目な人であることが分かります。日本では近代に入ってからかどうかは知りませんが、まじめであることに大きな評価を与える傾向があるようです。あるいは一生懸命であることにも。でもどうなのでしょうか。真面目と一生懸命って最高の徳なのでしょうか。むしろ何に向って、が先に問われるべきではないでしょうか。簡単な例で説明すれば、盗みことに真剣に取り組んでくれても困りますね。彼は真面目、真剣に自分の課題に取り組んでいます。でも空しい。ストレスが溜まり、イライラ。今回はライフワークについて学んで行きましょう。

ライフワークとは何か?

 それは神によって用意されるものです。ゆえに私たちは満足できます。製作者の意図に従うのが正しいのです。洗濯機のライフワークは何?それは汚れたものをきれいにすること。電子レンジのライフワークは何?解凍したり、温めたりすること。もし電子レンジに汚れた衣類を入れて、ちっともきれいになっていないと叫んだらどうでしょう?ピンとはずれです。神さまはあなたに命と人生をくださいました。しかしそれと同時にライフワークも用意してくださっています。あなたがそれを理解なさる時、あなたの中では最高の力が発揮されます。実は似た話がよく報告されています。1968年、152センチメートルで50キログラムの女性が680キログラムの車を持ち上げました。彼女のお父さんがジャッキで車を持ち上げ、車の下に潜り込んで作業している時に、突如バランスを崩し、車の下敷きになってしまったのです。このときです。彼女がその小さな体で車を持ち上げてお父さんを救出したのは。お父さんへの愛の勝利!これもライフワークの表現の一例。生涯を通して与えられているものもあれば、一年といった短い期間のものもあります。また複数与えられることも多いのがライフワーク。どうかイエスさまに直接聞いてください。キリスト教信仰は、神はひとりひとりに素敵な課題を与えてくださっていると信じるというものです。謙虚に尋ねた彼は偉い!

生きるに値する人生が、その舞台

 ある人が言いました。「プレーに値するゲームを見つけよ!」。確かにその通り。「こんなつまらないことして……」なんてブツブツ言いながらやっていても、まさにつまらない」「生きるに値する人生を見つけよ!」こういう言い方はいかがでしょうか。あなたの人生は生きるに値する人生ですか?もし「はい!」であるなら、その人生を舞台にあなたのライフワークは展開され、すばらしい収穫をあなたの人生にもたらすでしょう。ではライフワークをライフワークたらしめる条件とは何でしょうか。それがこの男性には欠けているのです。再び、それは何でしょうか?それは人を愛すること。

 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。(21)

 イエスさまは模範を示しておられます。愛があらゆる良いものを産み出します。一人の妻がこうカウンセラーに訴えました。「私の夫は帰って来るなり、私に家の中が片付いていないと文句を言います。もし私をもっと愛してくれたら私はきっとやる気が出るはずです」。これは決して単なる言い訳ではありません。愛されると人は俄然勇気が内側に湧いて来るものです。きっとこの男の人はイエスさまの愛のまなざしを受けて、やがてライフワークを発見するのです。いままでの反省の上に立って。というのは彼はじつに真面目、でも心の中には空しさだけがこだましています。何が欠けているのでしょうか。

 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(21)

 彼の一番の関心事は自分、です。自分が戒めを守っていればいい、自分が違反をしていなければいい、といった姿勢です。彼には他者への思いやりという視点がありません。自分が物を得ることへの関心しかありません。真のライフワークには人への愛が欠かせません。その愛をあなたはどこから手に入れますか。しかも愛は本物でなければなりません。あなたはイエスさまの命を提供するほどの愛を本物としてどれほど強く意識しておられますか。これはあなたの中における問いです。

 文豪・夏目漱石の小説「三四郎」に牛肉と馬肉の見分け方が出て来る。壁に投げつけて、すぐ落ちれば牛肉、壁に張り付いていれば馬肉なのだそうだ。熊本の高等学校を卒業して、東京帝国大学に入学した三四郎は、大都会・東京の洗練された空気に触れる度に故郷・熊本の”後進性”を思い知らされる。熊本では学生は安い地酒を飲み、馬肉を牛肉として出すという、うわさのある「牛肉屋」に行っては、真偽を確かめるために「皿に盛った肉をてづかみにして、座敷の壁へたたきつける」といった野蛮行為がまかり通っていた……(『読売新聞2002.8.25』)

 どんなことに関してもつねに本物かを自らに問うことは大切なことでしょう。イエスさまの愛は本物かはもっとも重要な問いに違いありません。もし本物であるなら、あなたはその感動で他者を愛する思いに満たされるでしょう。それを核にあなたのライフワークは命を吹き込まれるのです。

聖なる決断からスタート

 「これが私のライフワークです」と分かると平安が来ます。力が内側にみなぎります。心は燃え、目が輝きます。反対に分からないと、他者を妬み、悪意の虜になります。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の例え通り、なんでもかんでも否定的に見えて来ます。不幸の始まりです。ちなみに私のライフワークは「良い教会」を作ることです。そのための環境作りの使命に燃えています。教会、それは信徒のものであり、信徒のためのものです。信徒が直接建て上げて行くことが望ましいのです。私はこのような考えに基づいて、縁の下の力持ちでありたいと願っています。あなたのライフワークは何でしょうか。ある人たちはお年寄りのために働きたい、身体障害者のために働きたい、孤児のために働きたいなどなど。教会における種々の奉仕ももちろんすばらしいものです。どうかイエスさまに直接尋ねて答えをいただいてください。この場合に注意していただきたいことは肯定的な思考とともに臨むことです。

 二人のお年寄りがベッドに並んで寝ていました。カウンセラーが声をかけました。一方はこう話しました。「私は億万長者と結婚しました。子どもはいなかったけれど、何不自由ない生活でした。多くの上流階級の方々と交際をしました。でも私の人生は失敗でした」。もう一方の方はこう話しました。「私はいまおだやかに人生を振りかえります。私は子どもがほしいとかつて願い、与えられました。私は最善を尽くして障害者である子どもを育てました。不自由な体であっても、無力であっても私の息子だ。私の人生は失敗ではない。もし私が育てなければ施設にいかなければならなっただろう。私は息子の人生を充実したものにした。私は満足している」

 もしあなたが今置かれた環境の中で肯定的に(過去の出来事も含めて)、物事を捕える謙虚な気持ちでイエスさまに尋ねるならあなたは簡潔明瞭な指示をイエスさまからいただくことができるでしょう。現代のカウンセリング理論では非指示が主流です。つまりカウンセラーはクライエントに具体的な指示を、すなわち「あれをしなさい」、「これをこのようにしなさい」とは言いません。ところがイエスさまは反対です。すなわち指示なさるのです。

 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(21)

 「売り払い、与えなさい。そのうえで、わたしについて来なさい。」とあります。あなたもきっと具体的に「これをしなさい」と教えられるでしょう。どのようなライフワークが示されるのでしょうか。楽しみですね。あなたの人生に祝福をお祈りいたします。