194.誘惑に負けないで

●聖書箇所[マタイの福音書4章1−11節]

 時は1930年、ついに大西洋横断に成功する人が出ました。リンドバーグ大尉、その人。30数時間かけて、プロペラ一つのいわゆる単発機によるものでした。それまで多くの人が試みては命を落していました。それだけにこの英雄は世界中から大歓迎されました。彼がパリに赴いたときのことです。数十万人もの人々が一目見ようと押し寄せました。その中に大手のたばこ会社の社長さんがいました。そして言いました。「このたばこを、指でも口にでもいいですから、くわえてくれませんか?一枚で5万ドルあげますよ」。PRのための写真撮影の話でした。しかし彼はこう答えました。「私は洗礼を受けたクリスチャンです」彼の答えがパリの新聞に掲載され、敬虔なクリスチャンたちは10万ドルを集めて彼に渡しました。

 私が時折通る道ぞいの、武蔵野の面影を残す大きな林があるとき突然きれいな住宅地に変身しました。土地の所有者が賭博に手を出し、大きく負け、取り上げられたためでした。彼はすべてを失いました。私たちの住んでいる世界にはさまざまな誘惑があります。お金、性、地位、名誉、出世などいずれも私たちの心を引き付けるのには充分な強い力を持ち、一歩間違えれば人生は破滅させられます。今回はイエスさまのお受けになったこ誘惑について学び、それに処する方法をご一緒に学んで参りましょう 。

 「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」(4:3)

 これはどのような種類の誘惑でしょうか?それは二元論。ちょっと難しい言葉でしょうか。たとえば日曜日はクリスチャンとして生活し、月曜日から土曜日まではノンクリスチャンとして生きる。極端な場合はクリスマスクリスチャンと言われます。一年のうちでクリスマスの日だけクリスチャンをする、といったものです。二つの原理で生きる生き方を二元論と言います。なぜノンクリスチャンとして生きてしまうのか、それは「神さまと言えども万能ではなく、私たちを助けることのできない分野があるから」というのがその答えです。するとサタン(誘惑する者)にとってはイエスさまに対して一つの有効な誘惑の手立てがあると言えます。神の子(神性を持つ者)として、つまり神の力を使えば手っ取り早いと言えます。次のせりふにご注目下さい。

 「あなたが神の子なら〜」(3、4)の「ならei(ギリシア語)」に注目しましょう。これは「もしかしたら〜かもしれない」ではなく、「〜であるから」の意味です。eiとは仮定が事実である場合のみ使われる語です。従って「イエスさま、あなたは神の子(神性をお持ち)なのだからその力を使ってみなさい」となります。しかし拒否なさいました。イエスさまはあなたと同じ人間性において、試み(ル力4:13)をお受けになり、その上で勝利なさらなければなりません。ここに私たちすべての人間の希望があります。今、あなたに必要な信仰は次のようなものでなければなりません。すなわち、「いつでもどこでも、神さまとともに、神さまにあって、必要は満たされ、祝福されます」。

 イエスさまのお答、「人はパンだけで〜」の意味は、「神さまはあらゆる分野で神さまであり、すべての必要を満たして下さる方です」というものです。このような誘惑は、祈り続けてはいるけれども、まだ与えられていないときに受けます。「神さまにもできないことがある(みたい)、全能なんてどうやら怪しいぞ。神さまなんていないんじゃないだろうか」というふうに、だんだんエス力レートしてきます。これはサタンがあなたの心の中に起こしている思いです。私たちの尊敬するパウロはこう言いました。

 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。(ピリピ1:21-24)

 パウロを知っている人はきっと一様に彼の強さを認めるでしょう。その強さの秘密はどこにあるのでしょうか。簡単に言って、彼は自分のしていることに命をかけているのです。命を失ってもいい、と覚悟している人間に対抗することはできません。せめて反対者はいのちを賭けて相打ちが精一杯でしょう。いのちを捨ててもいいというのなら、後は捨てるものは何にもありません。これが秘密です。パウロはこのよう言っています。「私はキリストのために生きている、したがってキリストは私のすべての必要を満たしてくださるはずである、もし万が一そうでないとしても、それゆえに死んだとしても構わない。それはこの地上における私の使命が終ったことを意味するだけだ」。あなたはこのように信じますか。イエスさまによるお答は4節、それはパウロの信仰の起源を現わすものです。これを一元論と言います。なんと革命的!一元論を生きる者は強い!!

 悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」(5-6)

 これはどのような種類の誘惑でしょうか?それはかっこよく生きたい!という誘惑です。私は野球が好きで、子どもの頃、草野球ですが、しました。楽しい思いでです。そうしていつも同じ光景が繰り広げられます。「ぼくピッチャー、やりたい!」「ぼくは三番サード長島!」というふうに人気のあるポジションは志願者が多く一騒ぎ。決して、「ぼくは玉拾いがいい!」なんて子はいません。だれもが目立ちたいものです。たとえふだん控え目にしている人でも自分の功績が人々に知られないことは大きなストレスです。認めてほしいという欲求は大変強いものです。この欲求と闘った信仰の友が亡くなりました。宣教師であり、いくつもの教会を開拓しました。でも遺言は「いっさい私を褒めないでほしい」というもので、お葬式における挨拶のことばは自分で用意して係りの者がそれを読み上げるというかたちを取りました。いっさいの褒め言葉のない厳粛な式がただたんたんと進められました。
 神殿の頂きからは何が見えるのでしょうか。夕方、多くの人が犠牲をささげにやって来ています。これはパフォーマンスとしては最高ではないでしょうか。バンジージャンプです。紐はついていませんが、天使が助ける演出!イエスさまも人間としては一つの大きな誘惑です。人々の前でかっこよく見せたいという思い。もし人の評価ではなくて、神の評価に期待するなら、あなたはあなたらしく生きられます。

 ここで思い出すのはアンデルセンの童話『醜いアヒルの子』。図体の大きい、灰色で他のアヒルとは似ても似つかない「醜いアヒルの子」はいじめられ、シカトされながらもやがて成長し、美しい白鳥となる、という話。「まあ、こんな!ひどいできの悪い!もしかしたら七面鳥!?」と嘆く母親ですが、年寄りアヒルから、「みんな揃って器量がいい。でもこの子は失敗だ。作り直せるいいねえ」と言われると、やっぱり母親です。こう言い返します。「そうはいきません。この子は器量よしではありません。でも泳ぎはできるし、いやことによるとほかの子よりも上手かも。大きく成ればきっときれいになりますよ。立派になりますよ」そんな中、相変わらずいじめられ、けとばされ、辛い日々を過しますが、ついに美しい白鳥になって大空を飛びます。

 「醜い!」という評価は、いわば人間によるものです。あなたは人の言うことがどれほど当てにならないかをご存知のはずです。ほんとうに無責任なことを言うものです。その無責任なセリフに従ったとして、その結果にだれが責任を持ってくれるのでしょうか。「白鳥」とは神さまによる評価です。キャラクターという英語がありますが、これがギリシア語起源で、その意味は「刻まれた」です。愛の神さまの手によりあなたという人は、あなたの個性は刻まれたのです。人の評価ではなく、神さまの評価によって生きて行きましょう。人の評価を当てにするととんでもないことになりかねません。

 リレハンメル五輪で世界中の感動を呼んだ女子フィギアスケート金メダリスト、オクサナ・バイウル(ウクライナ)。プロとして米国に渡ったが、荒れた生活を送っている。「ハツピーエンドの幕切れのあと、お姫様はどうなるのか。貧しい孤児オクサナ・バイウルは一夜にしてシンデレラとなった。おんぼろスケート場に寝泊まりし、でこぽこのリンクで五輪を目指した少女は、強豪を抑え、一躍銀盤の女王の座に上りつめた」「バイウルは十六歳にして、奇跡に飢える世界中の観衆から祝福され、成功物語を見るのに金を惜しまない米国人に愛された。バイウルは米国に行き、百五十万ドルの契約金を手にし、恐らくプロフィギュアスケート界で最高額のデビューを果たした」「十九歳の身でバイウルはベンツを乗り回し、コネティカット州に四十五万ドルの家を買った。セクシーなファッション写真のためにポーズを取り、ナイトクラブのはしごをするようになった。」「そして今月、飲酒運転で逮捕された。無謀な運転で車は道路を飛び出し、木に衝突した。病院に運ばれ、頭に十二針縫うほどのけがだった」「富に心を奪われた……」「一緒に渡米し、以前バイウルが兄のように慕っていた男子スケート選手は、こう語る。『アドバイスも支援も得られる。だが本人が望まなけば、だれも彼女を助けられない。彼女次第だ』と」(米「タイム」誌1月27日号特約読売新聞1997.1.29)

 ほんとうの彼女はどちらであったのでしょうか。どちらの彼女がより輝いていたのでしょうか。この誘惑に対するイエスさまのお答えは7節。

 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」

 つまり神を神としなさい、との助言です。通常、偉い方を試すのは礼を失した態度と言えます。私たちは礼拝をします。でも礼拝式に出席することが礼拝をしたとは言えないことを知ってください。礼拝式のプログラムをこなして行くことは、それ自身礼拝をしていることとは無関係です。私たちは真の謙虚さと従順さとを持ち、心からの尊敬の気持ちとともに神さまに向うべきです。その場合に人の評価などはあなたを煩わせることはないでしょう。イエスさまはその三年半の公生涯において崇められたかと思えば、軽蔑され、ついには十字架刑に処されました。その真の理由は当時の指導者を自認する人々によるねたみでした。ねたみは、最後まで残る罪と言われます。しぶとく人間性に巣食っています。ねたみは人による評価を優先する生き方に起因します。神さまによる評価があなたをあなたらしく、そうしてあなたをして「これがほんとうの私だ!そして満足できる!」と言わしめるのです。ちなみにイエスさまはイエスさまらしく生きることをなさったおかげであなたも救われました。あなたもあなたらしく生きることによって、周囲の人々にも種々の恩恵を与えていることを忘れないでください。

 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」(7-8)

 これはどのような種類の誘惑でしょうか?浮気心の誘惑です。偶像、をすぐに思い浮かべるのかも知れませんが、さまざまに私たちの弱い心はさまよい、真の神さまだけを100%信じることを貫くのは難しいのです。

 オスカ−・ワイルドの作品に『その後』があります。地上で働いていらっしゃった頃、奇跡を起こして助けてやった人々と昇天後、地上に戻って出会うという話です。

 まず廃人同様の酔っ払いと出会いました。イエスさまは「兄弟、どうしてこんなことになったのですか?」。酔っ払いはイエスさまをじっと見つめるとこう言いました。「私の足を直してくださった方ですね。片足だった私を癒してくださったですね。片足だった頃、どこへ行くにも不自由でしたが、その後大変自由になり、あちらこちらへと出かけて行くうちにこんなふうになってしまいました」 次にイエスさまはガリラヤ地方へ行かれました。そこでは波止場で血を流し乍らけんかをしている人に出会いました。「真っ昼間にいったいこれはどうしたことですか?」「私の目に泥を塗って目が見えるようにしてくださった方ですね。あの時はそれはそれは大変うれしかったのですが、見える目で世界を見ているうちに怒りばかりが出て来るようになりました」。
 
 前者はわがまま、後者は怒りに人生がコントロールされています。私たち人間は拝む相手に人生を操られてしまうことを知らなければなりません。唯一安全なのは愛の神さまを拝むことです。心に平安、喜びが満ちます。将来への希望がいつもいつも感じられるようになります。私の人生は祝福されるという安心感があなたを支配してくれます。このような、浮気心という誘惑に勝つためには心に余裕が必要です。「挫折回復力」というテーマの研究があります。成人してから挫折を初めて経験する場合に、立ち直るのが極めて難しいとはよく言われます。免疫がないからです。失敗などをして挫折をした場合に大切なことは自分への説得です。もし失敗にこだわっていると快復は難しいと言えます。子どもが国語のテストで最低点をとって来ました。お父さんはこういいました。「心配するな。あとは上がる一方じゃあーないかッ!」。このお父さん、通信簿で三を取って来たときにはこう言いました。「慌てて5まで行くな。楽しみがなくなるじゃあないかッ!」 下積み、縁の下の力持ちなどなどを軽蔑してはいけません。そのようにする人は心の余裕のない人です。ブルペンキャッチャーっていますね。レギュラーになれなかった捕手ですが、ある人のあかし。一流選手は必ず、「すまんね、いつもありがとう」などなど思いやりあることばをかけてくれる。これも心の余裕。アランの『幸福論』の一節に次のようなものがあります。「いらいらするな。人生のいまの瞬間を台なしにするな」

 思わずカッとなって、いままで積み上げて来たものを壊す愚かさは避けたいものです。ドイツの有名な哲学者カール・ヤスパーツは正常な人間であるならば、次の4つの感覚を持つべきであると言っています。

 1 所属感 自分はどこにだれに所属しているのか。どこに所属していれば幸せなのか。
 2 限界感 自分のできること、できないことの区別。これが分かれば他者に対して謙虚でいられます。神への信仰も持てます。 3 唯一感 私は世界でただ一人、ユニークな存在であるという意識。これが持てれば、他者を尊敬できます。自分への尊敬がで   きている人は他者をも尊敬できます。
 4 存在感 私は何者で、どこで生まれ、どこへ向っているのか、今どの辺りにいるのか。すべては神さまという羅針盤に導かれ   て解答を出すことができます。大切なことは真の心の余裕は聖霊さまに依拠していることです。

 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」(10)

 これはこの種の誘惑に対するイエスさまのお答えです。このような答えをすることができるためには聖霊さまの助けが必要です。

 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。(1)

 あなたの毎日の生活に聖霊さまの助けがありますように。