195 試練は報われる

●聖書箇所[哀歌3章25−39節]

 今回は試練についてお話をしましょう。辛い試練も報われる、と知っていただきたいのです。というのは試練を通して、あるいは試練によってかけがえのないものを手に入れることができるから。それは感謝。かのバーナード・ショーはこう言っています。「世界からすべての本がなくなったとしても、どうしても持っていたい本が一冊ある。それは『ヨブ記』だ」。その理由も彼は述べています。「どんな屈辱を受けても、どんな恥ずかしめを受けても、どんなに苦しんでも感謝を忘れなかった」。感謝は人間を高貴なものにし、かつ幸せにします。感謝を忘れない人は実際幸せです。「あー、ありがたい!」と、何かにつけて気楽に口にできる人は良い顔をしています。しかし、しかしです。このようにお話する中身はまさに理屈です。苦しいときに、ほんとうに苦しい時には、そんな余裕はないというのが現実です。それでも今回は、試練は豊かな報いをあなたに与えるものなので、試練の間、そしてその後に報いを得損なうことがないように学びを進めましょう。そのためにまず必要なものがあります。それは信仰。三つの信仰を学びますが、まずは哀歌の背景を簡単に説明しておきましょう。ユダ王国はバビロンに負けて捕囚の憂き目にあいます。紀元前606、597、586年と三回にわたって起きます。この経験は実に辛いものでした。その悲しみは1章の冒頭で分かります。

 ああ、人の群がっていたこの町は、ひとり寂しくすわっている。国々の中で大いなる者であったのに、やもめのようになった。諸州のうちの女王は、苦役に服した。彼女は泣きながら夜を過ごし、涙は頬を伝っている。彼女の愛する者は、だれも慰めてくれない。その友もみな彼女を裏切り、彼女の敵となってしまった。ユダは悩みと多くの労役のうちに捕え移された。彼女は異邦の民の中に住み、いこうこともできない。苦しみのうちにあるときに、彼女に追い迫る者たちがみな、彼女に追いついた。シオンへの道は喪に服し、だれも例祭に行かない。その門はみな荒れ果て、その祭司たちはうめき、おとめたちは憂いに沈んでいる。シオンは苦しんでいる。彼女の仇がかしらとなり、彼女の敵が栄えている。彼女の多くのそむきの罪のために、主が彼女を悩ましたのだ。彼女の幼子たちも、仇によってとりことなって行った。シオンの娘からは、すべての輝きがなくなり、首長たちは、牧場のない鹿のようになって、追う者の前を力なく歩む。エルサレムは、悩みとさすらいの日にあたって、昔から持っていた自分のすべての宝を思い出す。その民が仇の手によって倒れ、だれも彼女を助ける者がないとき、仇はその破滅を見てあざ笑う。(1-7)

 あなたにも人間関係やさまざまな問題で苦しい場面に泣くことがあるのでは。単に「辛かったあー」ではなく、報われるために必要な信仰について学びましょう。

 試練はやがて終る

 ユダの捕囚は70年で終りました。これは預言されていたことでもあります。(エレミヤ25:12)。7、4、10(7×10=70)は完全数と言って、充足を現わすものです。したがって試練に関しても、全世界を支配しておられる神さまのコントロールが効いていることが分かります。ところで試練がやって来る原因は何でしょうか。

 エルサレムは罪に罪を重ねて、汚らわしいものとなった。彼女を尊んだ者たちもみな、その裸を見て、これを卑しめる。彼女もうめいてたじろいだ。彼女の汚れはすそにまでついている。彼女は自分の末路を思わなかった。それで、驚くほど落ちぶれて、だれも慰める者がない。(1:8-9)

 すべてがそうではないにしても、少なくない場面において、私たちは自分の蒔いた種を刈り取っています。すなわち自分が犯した罪のゆえに苦しむのです。

 生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。(3:39)

 自分の蒔いた種であるならば私たちはだれを恨むこともできません。でも恨みます。問題をすり替えたり、辺りにうっぷんをはらしたり。ぶつぶつも言います。ところが、ところが、です。自分の蒔いた種を刈り取るのがルール、当り前のことなのに、意外にその試練が苦しみが早く終了する場合があります。これこそあなたへの神さまからのあわれみ。それ以上の悪い刈り取りを免除してくださいます。この重い事実の中に人間性の変化の芽があります。イギリスを勝利に導いた指導者ウインストン・チャーチルが士官学校の学生だった頃、ちょっとした外出だと思い、ドアに外出の札を張らずに出かけたことがありました。これは規則であったのですが、守りませんでした。町に出かけると、なんと厳しいことで有名な彼の担当の訓練指導者にばったり遭ってしまいました。彼はできるだけ平静を装い、その場を過しました。教官の姿が見えなくなると一目散に部屋に戻りました。するとドアには外出の札がちゃんと張られているではありませんか。教官がつけてくれたのです。以降も教官はこのことにはいっさい触れなかったのです。彼は後に述懐しています。「この寛容さが私を変えた。もしあの時、責められていたら、違った私になっていたかも知れない」。あわれみ豊かな神さまの優しいお取り扱いは、あなたを感動させ、ゆえにあなたの人間性を聖め、高め、熟成させ、こうしてあなたを新しくしてしまうのです。あなたの新しい魅力的な人間性はもっと神さまを愛して行こう、もっと人を愛して行こうと聖なる決断へと導きます。

 試練はあなたの容量の範囲内で起きる

 あまりにも試練が長く続くと、人格は破壊され、人生も狂って来ます。よく使われる表現ですが、「あの人はひねくれている、性格が悪い」などなどは厳しい生育環境が無関係ではありません。

 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(・コリント10:13)

 神さまはあなたが耐えられる程度に試練をコントロールしていてくださいます。その試練の間、あなたは二つの恵みを経験するでしょう。

1)イエスさまを深く知る。
 「いいえ、もう十分知っています」でしょうか。あなたは小泉総理大臣を知っていますか?答えるのにはちょっととまどう質問でしょうね。確かに日本の総理大臣であることは知っていますが、個人的に知っているかはおそらく多くの人がノーでしょう。イエスさまを知る、知っているにもレベルがあります。できるだけ深く知りたいものですが、試練は深く知るために貢献します。ちょっとそのメカニズムをご紹介しましょう。真に深く知っている状態とは、イエスさまとあなたの間に人が介在しないことです。そういうあなたは自分の歩んでいる道が正しいものであることに確信を持っています。というのはあなたの中にイエスさまがいらっしゃる、それはあなたの中に義があることを意味し、あなたは自らに向けてこう言い放つことができます。「私は正しく人生の道を歩んでいる。私の中には義がある」。堂々とした生き方ではありません。こういう人は他者の言うことばに惑わされることはありません。

 マルティン・ルターはこう言いました。「金は強い。王はもっと強い。女はそれより強い。しかし真理が最も強い」

 三流マジシャンがいました。福音を知って、イエスさまを信じました。喜んで教会の礼拝に出席するようになりました。そこでは多くの人がいきいきとそれぞれの奉仕に励んでいます。彼はちょっと不安になりました。「私にできることはあるのだろうか?」。彼はイエスさまを深く知り始めていたのです。ある時、礼拝堂に独り入って行きました。しかし何時間も入ったままで出て来ないので教会の人々は不安になりました。そこで覗いてみたのです。なんと礼拝堂の中は乱雑、混乱、大騒ぎ!鳩が飛び、さまざまなものが散らかっていました。彼はマジックをしていました。額に汗しながら。でもその汗を天使が拭いています。彼はそんな中で叫んでいます。「イエスさま、満足ですか!?喜んでいただいていますか?」そうです。イエスさまに満足していただければOK、これが信仰の真髄。私たちはもしかすると周りの目を意識し過ぎてはいないでしょうか。周囲の人々は私を、私のしていることをどのように見ているのだろうか、と

2)タレントを磨く。
 ロマン・ローラン(1866-1944フランスの小説家、劇作家)はミケランジェロ(1475-1564イタリアのルネサンス期の彫刻家、画家、建築家)を最も理解した人です。ミケランジェロと言えば、ローマのシスティナ大聖堂の天井画『天地創造』、『ダビデ』の巨像などの作品を残し、天才と言える人ですが、ロマン・ローランは彼を「悩みの英雄」と呼び、「弱さ、絶望、孤独、挫折が彼を彼にした」と言います。試練は隠れた才能を表に出します。先日私は(2002.9.22)ロスアンゼルスにあるWest Angels Churchを教会員とともに訪問しました。黒人教会なのですが、カルチャーショックを受ける程に感動しました。説教がまるでラップミュージックなのです。リズムに乗り、BGMまで付いて非常に貴重な経験をしました。だれかが「井上先生もあのようにして!」と言いましたが、もちろん聞く私も、そのように言う人も冗談!これはタレントの世界。私には私に与えられているものがあります。あなたにもあなたに与えられているタレントがあります。それを試練を通して磨くことがしやすい。というのは試練の中で私たちは謙虚にさせられるから。高慢なときに、私たちはこう言います。「どうして私にはあの人ができることができないの?」とぶつぶつ言います。神さまの世界の秩序はこうです。あなたにできないことがあり、他の人がそれをする。他の人が出来ないことをあなたがする。いかがでしょうか。ここに神の国の平和と調和があります。

 試練は以降良い種を蒔こうと決心させる

 つまり私たちは試練を経て利口になるのです。「今度は良い種を蒔いて、それにふさわしい恵みを刈り取るぞ!」という決心。これがあなたを祝福します。私たちは一つのことを決して忘れてはいけません。人間は失敗をし、罪を犯す、ということ。完全な人はいません。間違いを犯さない人はいません。若干32才の青年が銀行の頭取の指名を受けました。不安を覚えた彼は尊敬する年輩の友人に助言を求めました。「リーダーとして何が一番大切でしょうか?」「正しく判断することだ」。彼はなるほどと思いながら、何か物足りなさを感じ、「もう少し具体的におっしゃってください」と頼みました。「経験をしなさい」。「確かにその通り」と思いつつもなお、もう一度の質問をしました。そうして得た助言は「失敗をしなさい。間違った判断をしなさい」。

 人は成功体験から高慢を学びはしますが、教訓を得ようとはしません。逆に失敗からは実に多くのことを学ぶことができます。失敗こそ成功のためのアイディアの宝庫と言えます。あなたは最近何かに失敗をして自己嫌悪感に陥ってはいませんか。自分を責めてはいませんか。そうであるならあなたは試練の提供する報いを受取ってはいません。もったいないですね。失敗した時こそが新たな前進のときです。ハガダーはユダヤ人の民族文学書です。この中には彼らの最大祝祭である過越の祭りについて述べられています。これは彼らの先祖が異国で、すなわちエジプトで辛酸をなめた、しかし神さまが救い出してくださったことを記念するものです。屈辱の歴史が封印されていない歴史書です。私たちの人生にはなにがしかの恥ずかしい思いでがあるはずです。でもそれを新しい出発点にする、これこそがキリスト教の精神です。イエスさまを十字架につけた、それは私たち人間。でもそれが私たちに永遠のいのちを与える基礎になっています。なんという不思議な世界でしょうか。というよりも失敗が屈辱がそれに終らないで、新しい出発へと誘う。大切なことはあなたが失敗したあなたを、罪を犯したあなたを受け入れることができるか、です。できますよ。どのようにして?神さまがあなたを受け入れてくださったのだから。あなたは神さまよりも偉いですか?アウカインディアンのもとへ宣教に出かけた5人の宣教師。いずれも殺されてしまいましたが、未亡人たちは宣教に立ち上がり、ついに福音化に成功。目の前には洗礼を受けるアウカインディアンの青年。じっと見つめる彼女の夫は彼に殺されました。同様に散髪を気持ちよさそうにしてもらっている青年。散髪しているのは彼に夫を殺された未亡人。彼女たちは神さまが自分たちを許容し、赦免してくださった重みをてこに、青年たちを許し、赦しています。あなたはあなた自身を許し、赦さなければなりません。それが新しい出発です。新しい出発ができる、これこそが一番の報いなのです。試練を通してかつてない祝福をあなたが得られますように。