196 従う時、何が起きる?

●聖書箇所[ルカの福音書5章27−32節]

 デシーザーはかつて日本の捕虜でした。彼の話をしましょう。1941年12月7日、日本軍は真珠湾に奇襲攻撃を仕掛けました。船18隻、航空機170機を沈没または破壊し、3700人が亡くなりました。このニュースを聞いた彼は日本人への憎しみに燃え、ちょうど時の米国大統領ルーズベルトが計画した仕返しのための東京空襲に参加しました。燃料は片道分。昭和17年4月、それは決行され、東京は混乱に陥りました。しかし燃料は切れ中国大陸まで飛んで墜落、パラシュートで無事降りたものの、そこは日本軍の占領地。こうして捕虜になった彼はその待遇の悪さもあり、ますます日本人への憎しみに燃えます。東京に移送されてからも含め3年4ヶ月の捕虜生活。しかし獄中で聖書を読み、イエスさまを信じます。彼の中に起きた葛藤は日本人を赦すかどうか。ついにイエスさまのおことばに従い、「赦します」と言います。アメリカに帰った彼は神学校に入り、福音を携えて伝道のために日本にやってきます。その働きの中で淵田美津雄が救われます。この人は真珠湾攻撃の指揮者。今度はこの二人がコンビを組んで伝道旅行。行く所どこでも、人々はその感動に涙を流したと言います。従うことの恵みです。今回はマタイ(レビ)の例を参考に従う時に何が起きるかを学びましょう。

 この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。(27-28)

 あなたは人を慰める者になります

 レビがパーティ−を開いていますね。

 そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。(29)

 このパーティ−が実は非常に良いものなのです。何がいいかって?なんといってもそれにはいやしの効果があります。私たちは毎日なにがしかの傷を受けます。傷だらけ!その傷の上にさらに塩を塗られるようなことも。「ほんとうに辛い!」と大きな声で叫ばなければいられない状況が。人間関係にしても、突発的に起きる出来事にしても。いずれにしても私たちはそのためにいやしを必要としています。パーティ−はそんないやしのために有効です。先日も私の牧会する一つのチャペルでパーティ−(愛餐会)が開かれました。宣教師が帰国するので送別会をしたのです。私がハワイでスカウトしたのですが、とても立派な働きをしてくれました。皆が泣き、別れを惜しみました。一人一人があかしやら挨拶をする中で、だれもが私たちは国籍が違っても皮膚の色が違っても住む所が違っても、互いに神の家族の一員であるという思いを共有しました。その涙はそのためのあかしでした。パーティ−をしている時間、空間、人間(ジンカン)にはゆっくりと温かい、やさしい雰囲気が流れていました。聖霊の流れが確かにありました。私たちの心の中には互いに愛すること、赦すこと、許すこと、思いやりを持つことが共有されました。そのような雰囲気はだれが作るのでしょうか。もちろん神さまが作ってくださるのですが、神さまはあなたにその働きを委ねたいとお考えです。ではあなたが良いパーティ−をつくり出すにはどんな知恵が必要でしょうか。それはイエスさまを主賓としてお迎えすることです。ある教会では椅子をイエスさまのために一つ空けておきます。だれもが目には見えないお客さまを意識するでしょう。私たちはそのような中で謙虚になれます。罪人はつい自分を主賓にしたがります。その時争いが置き、裁き合いが起きます。そこにはもちろんいやしはありません。さばき合いと傷つけ合いだけがあります。今私たちに必要なのはいやし。それは良いパーティ−の中で置きます。主賓の前にへりくだりますか、つまり従いますか。従う時、あなたは良いパーティ−を主催し、そこに集まった人々をいやし慰めて行きます。

 あなたは人から尊敬される者になります

 レビは二つの恵みを手に入れました。一つは12弟子の一人に選ばれたこと。12弟子は限定版。だれもがなれるわけではありません。霊的エリートとして実にすばらしい立場に立つ事ができました。真のエリートは謙虚です。決してえばりません。人を見下したりしません。もう一つは歴史を通じて語り継がれる人になれた事。こんなにすばらしい人なんだ、といつまでも人々の話題にのぼる人になれました。でももちろん、はじめから立派な人であったわけではありません。変えられました。本来はどんな人であったのでしょうか。いくつか紹介しましょうか。
 1)エゴイスト。人を愛さない人。では何を愛する?金を愛するのです。
 2)正直でない人。取税人はローマ帝国から税金の徴集を請け負っていました。「あなたの納税額は10000円!」と   言いつつも、実は1000円。9000円は彼のポケットの中へ。
 3)やくざみたいな人。納税額を通知する時に背後には武器を持ったローマの兵士が控えていました。人々は疑問に感じ   ても何も言えませんでした。
 4)外国の犬。身内から搾取するのですから、ユダヤ人からは軽蔑され嫌われていました。当たり前ですねえ。遊女、罪   人(律法に関する知識が欠けている人を指す)と並ぶ三悪人。
 でも、いいですか、でも変えられた。イエスさまと出会って大きく変えられた。その姿がいつまでも歴史に刻まれています。なんという栄誉。あなたも彼のように尊敬されます。そしてここが大切なところですが、良い社会は尊敬される人々により作られるのです。人々は自分の住む社会が住みやすくあたたかい社会である事を望み、それを作ってくれることを自分の尊敬する人に期待し依頼します。ぜひあなたがそういう期待される人であってほしいのです。そのためにひとつだけ提案しましょう。それは私は選ばれた、という信仰を持つ事です。あなたはもちろんイエスさまを救い主として、あなたの自由意志で受け入れました。あなたの自由な意志です。しかし同時にあるいはその前にそのような力を神さまがくださったのです。これが正統な神学的見解です。聖書の教えることです。

 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15:16)

 私は結婚式に出席するのが大好きです。もちろん司式も数多くして来ました。その場合「新郎新婦のための祈り」を私はします。5分くらいかかるものですので、内容の一部をご紹介しましょう。

 どうか二人がお互いの愛を当然のものとして、受け取ることがありませんように。常に新鮮な驚きを持って、「この広い、広い世界からあなたはこの私をよくも選んでくれました」と喜びのことばをお互いに、また「よく出会いの場を作ってくださいました」と神さまには感謝のことばを語らせてください。

 あなたは人から好かれる者になります。

 ここにはすべての良好な人間関係に有効な秘訣があるのではないでしょうか。私があなたを選んでやったと考えるなら、高慢であり、人々からは嫌われるでしょう。夫婦、友人、同僚などあらゆる人間関係にはこのような考えが大切ではないでしょうか。主があなたを選んでくださいました。ありがとうございます、と謙虚に応答するとき、あなたは従っています。従う者に恵みは大きいのです。あなたは好かれる者になります。好かれることと尊敬されることとは異なります。好かれる者とはその場のムードメーカーです。たとえば「あの人が部屋に入って来ると、パアーッと明るくなる」と言われるような場合です。レビはそのいう人に生まれ変わりました。もちろん以前は違っていました。人々は彼の前ではピリピリしていました。「いったい納税額をいくらと言われるんだろうか?」と。しかもローマの兵士がにらみを効かせているのです。でももう今は違います。おおぶるまいをしているのです。逆に批判さえされています。これは彼にとっては勲章のようなものです。

 そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」(29-30)

 どこにもこのような人はいるものです。このような人とは、あら探しが生き甲斐の人という意味です。自分の中には欲求不満が渦巻いています。自分ではそれを正しく処理できないのです。そこで身近な人を標的にして、問題をすり替え、多くの犠牲者を産み出します。レビにとっては、つまり妬まれているあなたにとってはレビもあなたも正しく生きていることのあかしを立ててくれている人たちであると受け止めるのが良いでしょう。

 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。(マタイ5:10-12)

 さてあなたが好かれる者、つまりその場のムードメーカーであるということはどのような意味があるのでしょうか。それはあなたが神さまからのプレゼントそのものであるということ。ちょっと分かりやすい説明が必要でしょうねえ。私がAさんからとてもすてきなプレゼントをもらったとしましょう。私はそのプレゼントを見るたびに、Aさんを思い出します。行為を持って。もしあなたが明るさを人々に振りまくのだとしたら、あなたというプレゼントを見るたびに。人々に愛の神さまを思い出させるでしょう。これこそ真のあかし。どうかそのためにタレントをイエスさまのために使ってください。

 レビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをした(29)

 ここで一言、イエスさまに従う事は持ち物を全部捨てることと理解する人がいますが、それは全くの誤解です。レビは従いましたが、相変わらず自分の家を持ち、おおぶるまいをするだけの金銭を持っています。さて「イエスのために」とあります。レビはイエスさまのために彼のタレントを使いました。彼は数学が得意でした。文学の才もありました。二つを合せてマタイの福音書を書きました。その例は次のようです。

 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。アブラハムにイサクが生まれ、……キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。(マタイ1:1-17)

 語学にも秀でていました。アラム語、ヘブル語、ギリシア語、ラテン語を駆使でき、簿記ももちろん得意でした。これらを彼はイエスさまのために使うようになりました。多くの人が彼から恩恵を受け、好かれました。ミケランジェロの話をしましょう。彼は14才の時にベルトルド・ディ・ジョバンニに弟子入りしました。ベルトルドはミケランジェロの持つ才能を即座に見抜き、こう問いました。「偉大な彫刻家になるためには何が一番重要だと思うか?」「技術や才能を磨かなければいけないと思います」「技術だけではだめだそれを何のために使うかをまず決めなければならない」そうして、ミケランジェロを二つの場所に連れて行きました。一つは飲み屋でした。入口には一つの彫刻が置かれていました。「この彫刻は美しいが飲み屋のためにその技術を使った」とベルトルドは言いました。次に案内されたところはきれいな教会堂の前でした。玄関にはこれまたきれいな天使を描いた彫刻が置かれていました。「これが気に入ったか?前のものは酒を飲むという快楽のために作られた。おまえはその才能と技術を何のために使うのか?」「彼は答えました。「神のために、神のために、神のために使います」。

 あなたも神のために使いますか。それは真に人々を喜ばせ、あなたはいよいよ人々から好かれる者になって行きます。