197 神に愛されたダニエル

●聖書箇所[ダニエル書]

 神に愛されるとは人々から愛されること、そして人々から尊敬されることと同じ意味です。今回はこのテーマで考えましょう。どのような人が神に愛されるのか?を。さて、答えですが、それは原則をもって生きている人です。以前大宮と春日部チャペルの礼拝に来ていただいた三谷康人さんは鐘紡の顧問です。いろいろと親しくお話させていただきましたが、感動を覚えることが多くありました。彼はこういうことを話しておられます。

 企業は優れた人材を求める。……その優れた人材の条件として……
  ・人望のある人
  ・使命感のある人 
  ・ビジネスの実力の備わっている人 
 このいずれが欠けても、「地の塩」にはなれない。

 特に前二者は一言で原則のある人と言えるのではないでしょうか。今回はダニエルの生き方を参考に、神に愛されるための、正しい原則について学びましょう。

この世界では神が一番偉い

 ダニエルはユダ王エホヤキムの時代に(紀元前605年)捕囚になった一群の中にいた青年です。ベルテシャザルというバビロン名をつけられ、ネブカデネザル、ベルシャザル、ダリヨスという王三代にわたって仕えました。とても優秀で王たちからはとてもかわいがられました。

 その少年たちは、身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、また、カルデヤ人の文学とことばとを教えるにふさわしい者であった。王は、王の食べるごちそうと王の飲むぶどう酒から、毎日の分を彼らに割り当て、三年間、彼らを養育することにし、そのあとで彼らが王に仕えるようにした。彼らのうちには、ユダ部族のダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤがいた。宦官の長は彼らにほかの名をつけ、ダニエルにはベルテシャツァル、ハナヌヤにはシャデラク、ミシャエルにはメシャク、アザルヤにはアベデ・ネゴと名をつけた。(4-7)

 このように大変重用されていたダニエルでしたが、ある時王に向って「ノー」と言いました。
 第一に、王が提供してくれる食事に対して。

 ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。(8)

 食物規定はレビ記11章に詳細に記されていますが、要約すると、

 ○動物に関しては、
  1)獣のうち、ひづめの分かれたもの、反芻するものは食べて良い。
  2)地を這うものは食べてはいけない。したがって
    食べて良い肉は牛と羊。
    食べてはいけない肉は豚、ラクダ、馬、うさぎ、蛇、カメレオンなど。

 ○鳥の肉に関しては、
  1)食べて良い肉ー鶏、がちょう、うずら、すずめ 
    食べてはいけない肉ー禿鷲、烏、ふくろう、こうもり、だちょうなど。

 ○魚介類に関しては、
  1)水の中にいてウロコとヒレを持つものは食べて良い。
    食べてはいけない魚介類はエビ、カニ、タコ、ウナギ、ナマズ、貝類。
    食べて良い魚介類はそれ以外の魚介類。

 それにしても絶対的に君臨する王に向ってノーと言うのですから、なんと勇気の要ることでしょう。でも神さまのあわれみでこの件、大事にはならずに済みました。

 神は宦官の長に、ダニエルを愛しいつくしむ心を与えられた。(9) 

 第二に、部下たちに踊らされたダリヨス王が王以外を礼拝することを禁じる法令を発した時に。
 これは6章にあります。彼の友人の場合は、ネブカデネザル王が金の像を作り礼拝を命じたときです。これは3章1節以下にあります。いずれも厳しい罰が待っていました、それは前者は獅子の穴に投げ込まれること、後者は燃える炉の中に投げ込まれることでした。が、その脅しに耐えました。それぞれの対応は見事なものでした。
 前者は

 国中の大臣、長官、太守、顧問、総督はみな、王が一つの法令を制定し、禁令として実施してくださることに同意しました。すなわち今から三十日間、王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれると。王よ。今、その禁令を制定し、変更されることのないようにその文書に署名し……てください。」そこで、ダリヨス王はその禁令の文書に署名した。ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。――彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。――彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。(6:7-10)

 後者は

 もしあなたがたが、……ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」すると、ネブカデネザルは怒りに満ち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに対する顔つきが変わった。彼は炉を普通より七倍熱くせよと命じた。(3:15-19)

 なんという信仰でしょうか。立派の一言です。私たちには垂涎の的です。しかしここで私たちが学びたいのは、神さまが一番という原則を生きようとして、困難な状況の中で葛藤をするかどうかです。私はかつて会社では営業をしていました。私のお得意さんの社長さんが亡くなりました。私の担当ですから、お葬式に出席しなければなりません。当然仏式です。したがって焼香をしなければなりません。私はクリスチャンとして死者礼拝はできないと葛藤しました。そして決断しました。上司に「私はクリスチャンですから、焼香はできません!」と言いました。首になるかなあと瞬間思いましたが、意外に「あー、分かった!俺が行ってやるよ」でした。しかし私たちは弱さのゆえに神第一を貫けない場合があるのも現実です。三谷さんは工場長であった時に鐘紡神社礼拝を拒否して、「会社を取るか、信仰を取るか?」と問われました。一家の大黒柱としては辛い選択です。でもこのチャレンジから逃げない者は人々から尊敬を集めるでしょう。たとえ負けることがあっても葛藤する姿は人々に感動を与えるでしょう。ダニエルも三人の若者もその後さらに神さまに祝福されて栄えました(3:30,6:28)。

天国がやって来る

 ダニエルは他の占い師とともに王に認められて王の相談役となっていました。2章1節以下ではネブカデネザルの見た夢の、その解き明かしを求めています。ダニエル以外の者たちは解き明かしができずに時間稼ぎをしています(1:8)。しかしダニエルは神さまのあわれみにより解き明かしに成功します。2章32節から45節までに出て来る話を簡単に説明しましょう。純金の頭はバビロン帝国、銀はメディア・ペルシア帝国、青銅はギリシア帝国、鉄と粘土はローマ帝国、そして人手によらず切り出された石(2:45)はイエス・キリストを現わしています。つまり人間の手に成るすべての国は滅び、最後にイエス・キリストにより打ち立てられる国は永遠に立つ、というものです。天国の事です。イエスさまは天国を作るためにこの世界に来られ、命をお捨てになりました。私たちの生きる目標は天国に入る事であり、天国で通用する財産を地上で生きている間にできるだけ多く確保することです。このことを生きる原則とすることが大切です。あなたは天に宝を積む生活をしていますか。これは神さまに喜ばれることだろうか、という視点から毎日の生活をしていらっしゃるでしょうか。地上にある、すべてのものは滅びます。お金も不動産も、形あるすべてのものは滅びます。天国に持ち込めるものは、神さまのために考えたこと、実行したこと、そして唱えたことのみです。これらだけがあなたの天国に持ち込む事のできるものです。そして持ち込むものが多い人は幸いです。また天国に生きる事を念頭において地上を生きる人だけが聖く生きる事ができます。その動機を聖く保つことができます。物質的な見返りを求めないからです。このような人はだれからも愛され、かつ尊敬されます。特に福音を伝えてクリスチャンを増やすことは天国人口を増やすことであり、天に宝を積むことに大きく貢献するでしょう。まもなく携挙があります。天に引き上げられます。あなたにはその用意がありますか。イエスさまを救い主と信じてそのための万全の用意としてください。

この世界では神がカウンセラーとして一番

 私たちはさまざまに悩みごとを抱えます。悲しいこと、寂しさを覚えること、こういう辛さには耐えられないな−と思うことがありますね。そうしたときに私たちはどんな態度を通常とるのでしょうか。それは友人たちに聞いてもらうこと。これが一番身近な知恵でしょう。でも、でもその答えは実に立派なものではありますが、「ほんとうにそんなこと実行できるの?」とつい首を傾げたくなるのも本当です。私たちはつい正論と理想論とを愛します。確かに助言の内容に間違いはないのです。しかし私たちは欲求不満を感じます。「そんなことははじめから分かってる!」、「お説、ごもっとも!」。私たちはいらいらするだけです。ダニエルたちの場合、何が問題であったのでしょうか。周囲の人々からのねたみ。そうです。人間はねたみます。祝福されている人を見るとしゃくにさわるのです。できればその成功と祝福がその人から取り去られればいいと心の底では願っています。だから人が不幸に見えるとき心の中で静かに喜びます。ねたみについてはこのように言われます。人間の中からすべての罪を排除することに成功したとしても、最後までねたみは残るだろう。私たちはねたみの退治に莫大なエネルギーを消費します。それはとりもなおさず、ねたみが強力なエネルギーを発することを意味します。それは二つの方面に向います。一つは自分自身。自分をさばき、いじめます。「こんな自分はだめだ!」と責めます。もう一つは他者。「あなたには悪いところがありますね!」と責めます。いずれも、クリスチャンの信仰に反する行為です。十字架に架けられたイエスさま、それは「いじめの対象はイエスさまに限る」というメッセージです。もし自分を、あるいは他者を責めるなら、それは「私はイエスさまを信じていません」という意味に等しいのです。通常私たちは二種類のねたみを人々から向けられます。一つはイエスさまを信じることによって生じます。周囲の人々があなたの足を引っ張ります。イエスさまを信じることは聖く生きることを決意したことを意味します。それはこの世の人々からは裏切りと映り、かつうらやましいことでもあります。もう一つは神さまに祝福されることによって。信仰生活をまじめにやっていればだれでも祝福されます。だれにも平等に祝福は臨みます。ゆえに信仰生活を素朴に続けていればいいのですが、しないで祝福を逃し、祝福された人をねたみます。いいですか、成功するとあなたは妬まれます。足を引っ張られます。こうして私たちはたびたび問題に苦しめられます。しかし自分からは復讐をしないで、かえってねたみを祝福されていることのあかしとして、勲章と、とらえるのが良いでしょう。

 しかし、言うは易く行なうは難し。つい肉の欲は「仕返しをしてやるーッ」と叫ばせます。ここで、人間ではない、神さまによるカウンセリングが、しかも究極のカウンセリングが登場するのです。人間の助言は能力の限界あり、罪ありで不十分な内容でしか提供できません。神さまのものは異なります。これが祈りです。生活の中で実際に役立つ勇気と知恵は祈りの中で、つまり神さまによるカウンセリングの中であなたに与えられます。
 本間俊平は明治35年山口県秋吉台で大理石採掘事業を始めました。刑務所帰りや不良青年のための更正施設としてです。そのような労働者の中に相川という人物がいました。乱暴者ですぐにきれる人でした。今回もちょっとしてきっかけで怒り、「殺してやるーッ!」と叫びながら、刀で本間夫人に斬り付けました。肩から上半身にかけて傷口からは血がしたたり落ちます。でも彼女はいたわるような目つきで、決して責めるような素振りは見せず、静かに讃美歌を歌います。

  めぐみのひかりは わがゆきなやむ やみ路を照らせり 神は愛なり われらも愛せん 愛なる神を(87B)

 「愛します」と唱える、発言することはいとも容易いことです。そのように助言することも同様に簡単なことです。私たちが悩むのはそれを実行できるか、です。真のカウンセラーにはそれができるように導く力があります。究極のカウンセラーはあなたがそれをできるように導きます。ハレルヤ!あなたはこの究極のカウンセラーにより得られた助言を生きるべきではないでしょうか。
 牧師の中の牧師と言えば、植村正久(1858-1925)。彼はある実業家から食事に招かれました。有名人を招くことの好きな人からでした。植村は聞きました。「あなたは信者ですか?」「いいえ、私は信者ではありません」すると植村は「では、あなたは豚ですね!」と言いました。驚いた実業家はその夜一睡もできずに夜をあかしました。明け方に妻を起こし、「今から植村先生のところへ行って来る」と言って、家を出て行きました。そうしてこう言いました。「私は先生を遇するに物質をもって致しました。私は豚の行為をお詫び致します。どうかお赦しください」。死の床に着いた植村をこう内村鑑三は評価しました。「多くの人を動かしたが、彼は決して人には動かされなかった」。ここにクリスチャンの誇りがあるのではないでしょうか。「私を動かせるのは神さまのみ、究極のカウンセラーである神さまのみ」この崇高さ。神に愛され、人々に愛され、尊敬される道、ここにあり!!