200 何を求めているのですか?

●聖書箇所[ヨハネの福音書1章35ー42節]

 何を求めているのですか?とはなんとすばらしい題ではありませんか。38節にある、イエスさまのおことばから採用しました。今日は、そして今、あなたは何を求めていますか?さあ、何をあなたは求めていらっしゃるのですか?それにしても求めるということは良いことです。なぜかと言いますと、生きている証拠!死人はもはや求めません(この地上において)。人生に期待するものを持っている、なんとすばらしいことでしょうか。さて、実際のところ、あなたの求めるものは?神さまは創造者、したがってすべてをお見通し。あなたの求めているものを完全に把握していらっしゃいます。そしてわがイエスさま。読心術がおできになる。私たちは自分の事が分かるようで分からない、という現実があります。いったいあなたは何を求めているのか、今回この箇所から聞いてみましょう。

心にやすらぎ

 心にやすらぎがある、なんとありがたいことでしょうか。平安、落ち着きなどは幸せの条件ですね。それほど大切なものでありながら、簡単には手に入りませんねえ。コンビニで「一つ百円!一週間もちまーすッ」なんていうふうに売っていれば助かりますが、それもかないません。平安がないと、いらいら、キーキー。ちょうど夕食前や昼食前の状態。危険ですよ、そういう時に空腹な人に近付くのは。人間、いらいらしていると最も身近にいる人に当たるものです。当たられたくなかったら、いらいらしている人の近くには行かないことです。もっともそうは簡単にはできないことも多いかも。さてここに登場する二人の弟子たちには平安がないと言ってもいいでしょう。なぜかと言いますと、

 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。(35-37)

とあり、バプテスマのヨハネが言ったことばに気楽に反応していることが分かります。結果的に正しいことをしたから良さそうなものですが、もし悪い情報あるいは誤報であったら取りかえしのつかないことになっていたかも知れません。しかし平安がない人はつい人のことばに乗せられやすいのです。キャッチセールスをあなたはご存じでしょうか。駅前や街頭で「アンケート調査です」とか言って、何かを売り付ける、あれです。このキャッチセールスに声をかけられやすい人は不安を持っている人です。何か、物欲しそうにきょろきょろしていると声をかけられるのです。この二人の弟子たちもまだ心に平安がないと言えます。自分の生き方に確固としたものを持っていないと言えます。そこで「ああですよ!」と言われれば、「ああかなあ」と思い、「こうですよ!」と言われれば、「こうかなあ」と思ってしまいます。このような生活は想像するだけでも疲れますね。あっちへ、ふーらふら、こっちへ、ふーらふら!私たちには確固とした平安が必要です。ではどのようにして得られるのでしょうか。それには「神の小羊」に従うことです。 つまりイエスさまを罪からの救い主として心に受け入れることです。すると三つの段階を通ってあなたに平安が訪れます。第一に過去、第二に現在、そして未来。まぜ過去について観察してみましょう。次はユダヤの笑い話です。

 ポラックとポッパーが昼食をとろうとレストランに入りました。二人は子牛のカツレツを注文しました。ボーイが一つのお盆に乗せて、大きいカツレツと小さいカツレツを運んで来ました。二人は「どうぞお先にお取り下さい。お好きな方をどうぞ」と互いに譲りました。長いこと譲り合った後で、「そんなに勧めてくれるのなら」とポッパーが大きい方を取りました。ポラックは小さい方を食べました。食事が終って、いらいらしてついにポラックがこう言いました。「もし私が先に取るとしたら、小さい方を取ったでしょうね」。ポッパーは言い返しました。「これはこれは不思議なことをおっしゃる。あなたはお望み通りに食べたのですよ。何がご不満なのでしょうか」

 私が何を言いたいのか、お分かりでしょう。食事の間、ずうーっとポラックは怒っていました。決して彼の中には平安はありません。それは罪のせいです。少なくとも「お好きな方をどうぞ」と言ったことはうそでした。もう一つ。裁いたことも罪でした。あなたは最近罪を犯し、あるいは失敗をし、それゆえに平安があなたの中から失われてはいませんか。それらの罪を十字架につけましょう。代わりにイエスさまが苦しんでくださいます。どうかあなた自身が苦しむのは止めてください。あなたが苦しむことは愛の神さまのおこころではありません。代わりに御子イエスさまが苦しめばいいのです。このことが分かりますか。分かるなら、もう自分を責めないことです。こうして過去を精算できればあなたの中で聖霊さまが働いて、その実である平安があなたのものになります。そうしてあなたの心は明るくなり、それは明るい未来の扉を開いてくれます。あなたはこう確信するのです。「私の未来は明るい、私の将来は祝福に満たされる!」と。

良い環境

 良い環境に恵まれていれば、「幸せ!」。その通りですねえ。良い家庭に育ち、良い学校に通うことができ、良い友だちに恵まれ、良い職場に通っているとすれば言うことなし。そこで『孟母三遷の教え』。母と孟子は墓のそばに住んでいました。すると子どもはいつも葬式ごっこばっかりするのです。これではいけないと思った母は引っ越しをしました。そこは市場の近くでした。商人たちがいかに悪いものを高く買わせるに腐心していましたが、それを子どもはまねするのです。そこでさらに引っ越しをしました。今度は学校の近くでした。すると毎日子どもは勉強をするではありませんか。

 このような結末は世の親たちに喜ばれるものですが、確かに環境の影響は大きいものです。

 ユダヤ教のラビにある人が聞きました。「貧乏な人は親切なのに、なぜ金持ちは不親切なのでしょうか」。ラビは「窓から外を見てご覧なさい。何が見えますか?」と聞きました。「母子が歩いています。あッ、その先に工事現場があるけれども、大丈夫かなあ」とその人。「部屋の中の壁にかけてある鏡をご覧なさい。何が見えますか?」「自分の顔です」。鏡の裏には銀が塗ってあるでしょう。銀(富の象徴)があると他者について関心がなくなるものです。

 これも環境の持つ影響力について教えています。では私たちは運命論に生きるしかないのでしょうか。少なくとも聖書の世界では運命論は採用されてはいません。もう昔から、あなたの人生の隅々迄決定されて修正の余地はまったくありません、というメッセージはキリスト教のものではありません。では聖書はどのように教えているのでしょうか。「良い環境はあなた自身で作ることができる」、これです。ではどのように?魅力的な理念を掲げることによって。最高の理念をご紹介しましょう。

 ヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。(35-36)

 「神の小羊」、それは他者のために自らの命を捨てる、というもの。イエスさまのあがないを指してしますが、イエスさまの持っていらっしゃる、このような理念こそ世界で最高品質を誇ります。他者に仕えること。もしこのような理念を持って生きるとしたらその人には何が起きるでしょうか。多くの人がその魅力に惹かれて周囲に集まってくるでしょうね。そうして互いの間に信頼関係がしっかりと構築されるはずです。信頼関係こそ健康な人間社会の核です。たとえばあなたはレストランに入ります。たいがいテーブルにはお醤油など調味料が置かれていますが、あなたは毎回毒が入っていないかを疑いますか。疑わないでしょう。レストランに出入りする人々は暗黙のうちに互いに信頼しているのです。信頼関係がなかったら社会は成立し得ません。あなたの身近に周囲に信頼関係が構築されている、これがあなたにとって最高の良い環境です。

 1993年、FBIはサンディエゴのサウスウッド精神病院の捜査に向かいました。医療保険金詐欺の疑いがかけられていたからです。何時間も医療記録を調べているうちに捜査員たちは空腹になってきたので、チーフは近所のピザ屋に電話して部下のために昼食を注文しようとしました。街のうわさの真相を調査するという某インターネットサイトによると、以下は実際の会話そのままだそうです。

      FBI捜査員「ピザの大19枚と缶入りソーダ67本お願いします。」
      ピザ店員「どこへ配達するんですか?」
      FBI捜査員「精神病院です。」
    ピザ店員「精神病院ですって?」
      FB1捜査員「そうです。私はFBIなんだが。」
    ピザ店員「FBIですって?」
      FBI捜査員「そう、ここにいるみんなもね。」
    ピザ店員「みんな精神病院にいるんですか?」
      FBI捜査員rそう、……」
      ピザ店員「みんなFBIだと言ったよね?」
      FBI捜査員「そう、何分ぐらいで来れますか?」
    ピザ店員「精神病院にいるみんながFBIなんだって?」
      FBI捜査員「そうだ。1日中ここにいて腹ペコなんだ。」
      ピザ店員「ちゃんと払えるんだろうね。」
      FBI捜査員「小切手帳がある。」
      ピザ店員「みんなFBIなんだね。」
      FBI捜査員「そうだ。ここにいるのはみんなFBIだ。」
      ピザ店員「お断りだね!」               (『Christianity Today International』)

 信頼がないと容易に受け取れるものさえ逃します。ではどのようにして私たちは良い理念を作ることができるのでしょうか。実はこのことではスタンフォ−ド大学の経営学教授ジェリ−・ポラスが興味深いことを言っています。「経営理念は作るものではない」と。これはこれは、ではどうすれば?「自分の心の中にある」と。その通り!です。イエスさまを心に受け入れると私たちの心は他者を愛する思いへと導かれます。その愛の力が思いが深められて行くように聖霊さまに期待するのが正しいのです。「聖霊さま、私の中に聖められたすばらしい理念を育ててください」と。魅力的な理念は蟻にとって砂糖のようなものです。あなたの周囲にはすばらしい人々が集まり、あなたにとって彼らは最高の財産になるでしょう。困ったときに助けてくれるとか。これ以上の良い環境が世界のどこにあるのでしょうか。 

新しい自分

 シモンとは「ふらふらしている」という意味と言われます。ペテロは「岩」。シモンはペテロへと変えられました。エゴイストから愛の人へと変えられました。私たちにはだれでも変身願望があります。「今の自分では嫌だ!もっと魅力的な自分に変わりたい!」というふうに。
 ある牧師の話。お兄さんが石油関係の仕事をしていて大儲けをしました。そして弟にピカピカの高級車を買ってくれました。彼はうれしくて町中を走り回りました。止めたところで、みすぼらしい少年が車をじっと見ていました。「これ、おじさんの?」「そうだよ」「いくら?」「知らないんだ」「なぜ?おじさんのでしょ」「うん、お兄さんが買ってくれた!」「ふーん」「ねえ、お願いがあるの」「なあに?「ちょっと乗せてくれない?」「ああ、いいよ」。こうして運転していて、少年の家の前に着きました。「おじさん、もう一つお願いがあるの。弟にこの車を見せたいんだ」「ああ、いいよ」「ちょっと待っててね」。こう言うと家の中に入って行って弟を連れて来ました。そしてこう言いました。「いいだろう、この車。いつかお兄ちゃんが大きくなったら、お前にこんなピカピカのいい車を買ってやるぞ!」。
 他者を配慮できる愛、なんとすばらしいではありませんか。愛がある、これこそ新しい人の真髄。アンデレもこの箇所に登場しますが、彼は縁の下の力持ちに徹した人です。彼も人間です。だれでも自分が一番に拍手喝采を浴びたいもの。でも彼はペテロや他の弟子たちに栄光を譲ります。これも新しい人の一つの美しい姿であり、性質に違いありません。なぜこのようにできるのでしょうか。それは神の前に生きる、という態度がそうさせる、と言えます。西郷隆盛が、彼はクリスチャンではないでしょうが、実にクリスチャンらしいことを言いました。

 「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽て人を咎めず、我の足らざるを尋むべし」
 
 天を神と言い換えればそのまま使えますね。礼拝、それは天、すなわち神を相手にすること。あなたの見る先は神。あなたを正当に評価できるのは神のみ。あなたに正確に報いることができるのは神のみ。そういう神をあなたが認識する方法の一つはあなたに与えられた賜物、すなわちタレント。これを持ってあなたは神さまのための働くのです。そのときにあなたは神を相手に、そして神の前に生きていると言えます。しかしここで一つの問題が持ち上がります。周囲を見渡し、「あの人に与えられているタレントはすばらしいけれども、私に与えられているものは小さい」という思いです。このような場合にもはや神の前に生きることは不可能になります。私は次の文章に感銘を受けました。

   仕事を雑にしたとき、それは”雑用”になる。

 ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんが、アメリカの修道院で修行されていたときのお話です。「あなたは、食堂で、お皿を並べながら何を考えていますか」と指導者に聞かれて、「別になんにも」と答えながら、一日の大半が、掃除、洗濯、アイロンかけ、繕いものといった雑用に費やされ、心の中では、つまらない仕事に明け暮れる毎日に焦りがあった。「一つひとつ、音をさせないように、静かに置いてご覧なさい。そこに座る人が幸せになるようにと心をこめて置いてごらんなさい」と言って彼女は去っていった。仕事がつまらないのは、やりがいのある作業に自分でしていかないからだということを、そのとき、私は教えてもらった、と言っています。食器をセットしてまわるという単純な作業は、作業そのものにはやりがいもなければ何の報いもなく、動作はつい機械的になりがちです。会社においけるお茶くみでも同じです。この世に、「雑用」という「用」はありません。仕事を雑にしたときに、雑用となるだけです。有意義な仕事にするか雑用にするかは、あなたの心の持ち方次第だと思います。(太田典生『いい話のおすそ分け』三笠書房)

 雑用にするかどうか、あるいは自分を雑な存在にするかどうかはあなた次第です。「私なんか、どうでもいい存在なんだ」と考えるのはあなたがそのように考えるかどうか、それにかかっています。

 アウシュビッツで筆舌に尽くしがたい経験をした心理学者ビクター・フランクルは絶望的な収容所生活の中で自殺を決意した二人の囚人にこう言います。「あなたがたは自分の人生に期待できるものがないと言う。しかしあなたに期待して者がいるのです」このことばを聞いた彼らは自殺を踏み止まったと言います。あなたに期待している者とは誰でしょうか。あなたを造り、あなたを愛している神さまです。あなたはこの神さまを相手に生きるべきです。そのときあなたはいつも新しい人です。新しい人は自分に与えられたタレントを大切なものと考え、一生懸命に神さまのために用いようと苦心し、それがさらに新しい人を成長させるのです。

 今、あなたは生きているあかしとして何かに期待をし、何かを求めています。それは同時にあなたを愛する愛の神さまの期待でもあり、求めでもあるのです。ゆえに神さまはあなたの願いにしっかりと答えてくださいます。あなたの人生に失望はありません。前向きに生きてください。神さまの豊かな祝福を祈っています。