201 上手なコミュニケーション

●聖書箇所[創世記3章1ー13節]

 「幸せだなー」とか、「うれしいなあー」と感じるとき、一つの理由は良好なコミュニケーションです。そのコミュニケーション、対象も人間ばかりではありません。おいしいものを食べた。うれしいですねえ。一瞬幸せな気分になりませんか。以前から欲しかったものが手に入った。いかがですか?気分がいいですねえ。しかしもっと重要なのは他の人とのコミュニケーション。特に身近にいる人々との。夫婦の間で、兄弟の間で、友人たちの間で良好なコミュニケーションがあればほんとうに気持ちの良いものです。逆に気分がさえないときは、コミュニケーションが良くないときと言えます。今回は根本的なコミュニケーション、つまり神さまとのコミュニケーションについて学びましょう。副産物として人間関係も良くなります。さて、優れたコミュニケーション実現のための三つの道具を学びますが、これらは同時に天から恵みをあなたへ運ぶパイプでもあります。道具を磨き、パイプのつまりを解消しましょう。

 目

 どのように使ったらいいでしょうか?使うと言っても金づちではないのですから、殴るわけではありません。見る、です。この目は何を見たら良いのでしょうか。愛の神!です。義人ノアをあなたはご存じでしょう。彼も人間、間違いがありました。酔っぱらって素っ裸になってひっくり返っていました。三人の息子は二つの態度に分かれました。セムとヤペテは父親の醜態を見ないで、着物を背に後ずさりして父親に掛けました。でもハムは言いふらしました。神さまは前者の態度を評価なさいました。

 さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」(創世記9:20-27)

 人の欠点や弱点を見ない、いやむしろそれらを覆う、これこそ神さまの愛。あなたはこのような神の愛に注目しなければなりません。あなたの目はそれを見るために使われねばなりません。ではアダムは何を見たのでしょうか。

 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。(同3:7)

 自分の裸を見ました。文字どおりの裸でもありますが、心の中も含まれています。すると何が起きる?私たちは自分の心の中の真の姿を人々の前にあるスクリーンに映されてしまったら、もう二度と顔を会わすことはできないでしょう、恥ずかしくて恥ずかしくて。汚い思いがぞろぞろ……ねたみ、そねみ、いじわるなどなど。これが、また、自分の中で自己嫌悪感となりストレスになります。このストレスが周囲の人々への攻撃になって行く、つまり他者の欠点や弱点に目が行く、のはごくごく普通の流れ、と言っていいでしょう。そうしないと自分が精神病になってしまうから。でも決して健康なあり方ではないことがすぐに分かりますね。イエスさまのあなたへのメッセージは「私をいじめていいから、自分や他の人を裁くのは止めなさい」ではなかったでしょうか。イエスさまを信じる、とはこのことを理解することです。あなたは理解しますか?謙虚さが必要です。すると愛の神、神の愛があなたの目にはっきりと見えて来ます。謙虚さとは、「私の中に罪がある」と認めることです。教会の礼拝堂正面にはたいがい十字架が掲げられています。それはあなたへ謙虚さを求めるメッセージです。

 耳

 どのように使ったらいいでしょうか?使うと言ってもペンチではないのですから、何かを掴むわけではないでしょう。聞くこと、です。アダムは何を聞きましたか?

 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。(同8)

 あなたには主が歩く様子を耳で捕えた経験がありますか?人気(ひとけ)と言うことばがありますね。心の耳で感じるのではないでしょうか。「そよ風の吹くころ」、イスラエル人にとっては主と交わるためのゴールデンタイムでした。あなたにはどのような時間が用意されていますか?そうしてその時間にはあなたには何が起きるのでしょうか。

 日本ライトハウスは日本初の盲人施設です。創立者は岩橋武夫。早稲田の学生だった頃、20才で網膜剥離、失明しました。絶望した彼は自殺を計ります。その短刀を取り上げた母親は「お前に死なれて、この私が生きておられようか。たとえ、お前が盲人の無能な人間だ、穀潰しだ、と世間さまからさげすまれても、私はお前と一緒に生き続ける」と言い、このことばで彼は立ち直ります。一緒にいてくれる、なんとすばらしいことでしょうか。

  あなたが、ただそばに存在(いる)だけで 心がやすらぐ人がいる

  あなたが、ただあなたで存在(ある)というだけで誰かが癒されている

  あなたの存在(ありかた)そのものが誰かに元気を与えている

 ここに出て来るあなたがあなたであったらなんとすばらしいことでしょうか。でもなかなか難しいですね。神さまならおできになる。そう。あなたの中にお住みになる神さまならおできになる。そのためにもデボーションが必要。デボーション、それは主と二人だけの時空間。そこであなたは何を経験しますか?

 以下は上の詩の続き。

 自分の存在を証明するために無理して頑張って生きていると ふと忘れてしまうことがある 

 自分が存在(いる)というだけで 誰かの心をあたためていることや 

 誰かの生きる支えになっていることを           (岡部朋美『存在』より)

          (参考:上の詩の部分のみ右から引用 太田典生『毎朝一分で読める「栄養剤」』三笠書房)

 デボーションにおいてあなたはこのような主のお声を聞かなければなりません。「あなたがあなたでいるだけで私はうれしい!」「決して頑張らなくてもいいのですよ」「別の人間になろうとしなくてもいいのですよ」。このようなお声をあなたが聞く時にあなたの存在(あなたがいるというだけで)はもっともあなたの近くにいる人を励ますでしょう。生きる勇気を与えるでしょう。あなたが存在するというだけで大きな励みとなるでしょう。ではどのようにしたらこのような主のお声を聞くことができるでしょうか。それには聖霊さまに導かれなければなりません。でないと、サタンが惑わします。イブはサタンの声を聞いて、疑いを持ちました。

 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(同1)

 疑いが心の中に生じれば、後はサタンには簡単です。続いて畳み掛けるように

 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(同2-6)

 一気に堕落へと、サタンにとっては、大成功!

 神の霊である聖霊さまに導かれないと、私たちは聖書、すなわち神のことばの読み方を間違えます。あるとき、いらいらして聖書をぺらぺらめくっていました。まず目に飛び込んで来たのが、「何をしたら永遠のいのちを得ることができるでしょうか」(ルカ10:25)、続いてめくったら「首をつった」(マタイ27:5)、そうして「あなたのしようとしていることをすぐしなさい」(ヨハネ13:27)。いずれもみことばです。でも明らかに読み方が異常です。

 ミラーイメージ効果をご存じでしょうか。目の前にいる人は自分の鏡だという教えです。目の前の人をあなたを嫌っているとあなたが思う時、あなたが実はその人を嫌っている、というのです。自分のいらいらを聖書に反映させては正しく主のお声を聞くことはできません。今こそ、祈りつつ、聖霊さまに導いていただいて正しく聖書を読んで行きましょう。あなたという人間を中身から変えるようなお声をあなたは聞くことができますよ。あなたの周囲の人々はあなたがそばにいるだけで励まされ、勇気づけられ、またそれがあなたの心の温かさにもなる。良循環が生じます。

 どのように使ったらいいでしょうか?使うと言っても椅子ではないのですから、座るわけではないでしょう。話す、です。何を話したらいいのでしょうか。三つあります。
 1)神を正しく評価する。ちょっと難しい言い方をしてしまいましたが、内容は簡単。「神さまが一番偉い!」と言え
   ばいいのです。もしこのことを認めるのなら「こうしなさい!」と言われた時、「はいッ!」と何でもこのように
   答えればいいのです(しかし内緒の話、なかなかこの通りには行かないものですねえ。でも神さまに期待して助け
   ていただきましょう、自分を責めないで)。
 2)人間を正しく評価する。尊敬することです。シメオン・ベン・ゾーマというユダヤの教師がこう言いました。

   賢者とはだれか?すべての人から学ぶ者である。
   強者とはだれか?自分の悪い習慣をコントロールできる者である。
   冨者とはだれか?自分の取り分に満足できる者である。
   尊敬される者とはだれか?人を敬うものである。     (ミシュナー『父祖の章』4:1)

   何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
                                          (ピリピ2:3)

 3)悔い改める。私たちは自分を他者の上に置いてはいけません。互いに欠陥があります。欠点があります。罪があり
   ます。「ごめんなさい」と言えるようにしましょう。

     あなたも私もケッカン人間

       「血管がないのかしら・・.、」

 実は、知り合いが神奈川県のとある町でクリニックを開業しましてね、それはもうわがことのように喜んで、仲間と一緒にお祝いに行ったんですよ。でも、せっかく来たんだからちょっと身体を診てもらおうじゃないかということになりましてね、血液検査をしてもらったんですな。採血するのはベテランの大変美人の看護婦さんでして、仲間の一人がさっそく腕をまくりあげましたところ、彼女はさっと二の腕をゴム管で縛りまして注射器を手にしました。そこまではよかったんですが、彼女とっさにこう言ったんですね。「採血するのは本当に久しぷりだわ……」。腕を出した方は二の句が継げずビビってましたが、彼女、さらに追い討ちをかけましてね。「あら、肉が邪魔して血管が見えないわ。この人には血管がないのかしら……」。そこで、私、仲間をかばって言いましたよ。「彼は欠陥がないほどのいい人なんですよ」。

  ケッカンは生きている証

 まあ、それはジョークですが、しかし、そもそも人間てえのは、ケッカンだらけですな。ケッカンのない人間なんていない。ケッカンは人間の身体全体、シンの髄まではりめぐらされてます。ケッカンがケッカンをまとって人間ができているようなもんですな。でも、だからこそ血の通った温かさや同情心が生れるんじゃありませんか。「私にはケッカンなんかない」と思っている人は、血も涙もない人でしょ、きっと。そんな人にはケッカンのある人の痛みなどわからない。人閥の身体は血管があってはじめて命を保っているんです。人間は生きている限り、ケッカンと縁が切れない。ケッカンは生きている証ですよ。誰もがケッカン人間です。どんなに肉が厚くても、どんなに化粧が厚くても、どんなに榊士淑女ヅラしても、どんなに善人ぶってもですな、一枚めくればみんなケッカンがちゃんと脈打っているんですよ。ケッカンがなけれぱ人の痛みなどわからないと申しましたが、ほんとはね、常日頃、私が言いたいのもそこなんですよ。

   自分はケッカン人間だ

 私、実は、イエス・キリストという一方に大変お世話になってましてね。この方は神の子で、なんの欠陥もない方なのに、血管をもった人間になってこの地上に来られたんですよ。欠陥なき方が血管を持って肉体の痛みを自ら味わい、ケッカン多き私めの苦しみを肌でわかってくださって、同情してくださるんですな。この方はお高くとまっておられない。私めと同じところまで下ってきて、このケッカン人間を愛してくださっているんです。しかも、私めの欠陥を覆うために、ご自身の血管を破り、血を注ぎ出すほどのことをしてくださったんですね。ケッカン人間である私は、キリストの血管によって生かされたってえわけです。ありがたいことです。ただですな、自分の欠陥を認める謙虚さがなけれぱ、キリストの血管の意味はわからないですぞ。今度、注射を受けるときは、ぜひ「自分はケッカン人間だ」と思い起こしてくだされ。
                                  (『月刊SIGHT2』10月号)

 アダムとイブはどのような口の使い方をしたのでしょうか。

 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(創世記3:12-13)

 責任転嫁です。「周囲が悪い」「あの人が悪い!」と。このような口の使い方は決して祝福されません。ではどのようにしたら口を上手に正しく使えるようになるのでしょうか。それには祈りを多くすること。コツは「ありがとう!」と多く言うこと。決して「くれない族」になってはいけません。「あーしてくれない」「こうしてくれない」は止めましょう。いつも感謝!これが口癖になればもう大丈夫。あなたのコミュニケーションの道具がいよいよ磨かれて行くことを祈ります。