206 喜びのクリスマス

●聖書箇所[ルカの福音書2章10節]

 クリスマスって何でしょうか?初歩的な質問ですね。だれでもきっとご存じです。答え、それはイエス・キリストのお誕生日。さてもう一つの質問です。もしこの知識さえあれば、私たちは大きな喜びを経験できるでしょうか。私は30年前にこのことを知ってはいましたが、決して喜びがあったとは言えません。東京で働き、ある安アパートに住んでいました。ある日帰宅途中スーパーでカレールーを買いました。さっそくなべに放り込んで、今日はカレーを食べようとしゃれ込みました。さてそれからです。毎日毎日カレーの日々が続きました。大きな箱全部を鍋に入れたため一週間分たっぷりあったためです。良いこともありました。安アパートのせいで日当たりが悪く窓の外は天然冷蔵庫。外に置いておけば、一週間カレールーは腐りませんでした。でもさすがに「今日もカレーか」と思うと帰宅の足は重くなったことを覚えています。大切なことは誕生日だ!とただ単にその知識をもっているだけではなくて、自分にとってイエス・キリストはどのようなお方か、です。さあ、あなたにとってイエス・キリストはどのようなお方でしょうか。もしそれが分かればあなたの中でいっぱいの喜びが広がること請け合いです。

 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(2:10)

 人生のカウンセラー[マタイの福音書1章23節]

 マタイの福音書1章18、19節を見ましょう。

 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

 二人とも孤独だったでしょう。恥ずかしいことが起きてしまいました。あなたにも孤独を覚えることがありますか。「なぜ、この私の気持ちを分かってくれないの?」「どうしてこんなことが私に起こるの?」「私に同情してくれる人はいったいどこにいるの?」などなど。そのような時、私たちはきっと相談相手を求めるのです。聞いてほしい、分かってほしいから。心理学的には意味のあることではあります。カタルシスと言います。でも根本的な解決ではありません。一時、そうです。気休め的です。真の解決のためにはだれが助けてくれるのでしょうか。ところで人生の専門家っているのでしょうか。世にたくさんの種類の専門家はいます。弁護士、司法書士、行政書士、弁理士、公認会計士、プロ野球の代理人などなど。私にもこのような人々とつきあいがありますが、さすがにその助言たるや、的を射たもので、感心します。さて、こうして専門家の種類を並べてみると、もう一度聞きたくなります。果たして人生の専門家っているのでしょうか。以前私は新聞の人生相談コーナーで次のような問答を目にしました。

     女性 「私は以前大きな罪を犯し、それを思い出しては毎日悩んでいます。忘れられないのです。どうしたらいいでしょうか」

     解答者「そんなこと、忘れなさい!」

 これで解答になっているのでしょうか。安心してください。世界でただ一人、人生の専門家がいます。それが、インマヌエル、我らがイエス・キリスト。あなたは彼からあなたの人生に関して完璧な答、十分な答をいただくことができます。最高のカウンセラーです。ではなぜ彼をそのように呼ぶことができるのでしょうか。人が人に助言するときに、人としての有限性(能力や知識の不足や弱さなどあらゆる面でたくさんあります)のゆえに、良くない動機が伴うことがあります。なぜイエスさまを最高のカウンセラーと呼ぶことができるかと言えば、良くない動機がまったくないばかりか、完璧な愛に基づく助言をしてくださるからです。では完璧な愛であるかは何によって測れるのでしょうか。それは払った犠牲の大きさ。私は以前東京で営業マンとして働いていましたが、会社では隣に座っている男性同僚と女性事務員とが常に、と言っていいほど口げんかをしていました。私には関係ないことなのですが、私の前を、私の頭の上を罵りあうことばが飛び交います。そんな中、私に珍しくインスピレーションが来ました。ある日、彼と車に乗って営業に出かけました。私は彼にこう言いました。「彼女をレストランに誘い、20000円のフランス料理をごちそうしなさい」彼はちょっと抵抗していました。「2000円でどうですか?井上さん」「だめ!20000円!費いなさい」彼は私の言う通りにしました。そうしてまもなく結婚しました。財布が痛む程度のことをしてくれなければ、愛されているかどうか分からないではありませんか。ね、女性のみなさん!しかし男性だって。「俺のためにここまでしてくれるのか……」と、こういう感動をしてみたい。イエスさまはなんとご自分のいのちまであなたのために提供してくださいました。あなたへの愛は明らかです。しかも並の愛ではありません。もしあなたが「私はイエスさまにこんなにも愛されていいる」と理解なさるなら、あなたがイエスさまへ向うときの意気込みは以前とは違ったものであるはずです。あなたの琴線に響く助言が与えられるはずです。あなたは新鮮な感動とともに、確かにイエスさまは人生の、しかも最高のカウンセラーだとお認めになるでしょう。このとき大きな喜びがあなたの中に広がるのです。インマヌエル、それはあなたの中に、あなたのそばに、あなたの近くにいつもイエスさまはいらっしゃる、という意味です。あなたには最高の、人生の専門家が与えられています。

 罪の解決者[ペテロの第一の手紙2章24節]

 私たちはいつも喜んでいたいものです。気持ちの良い毎日を過したいものです。もちろんこれはあなたを造ってくださった神さまの願いです。ところがこれがままならぬ。これが人生。そこでペテロの第一の手紙2章24節を見ましょう。

 自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

 いやされた、と言うからにはいやしが必要な状況があったと言えます。そうです。私たちは傷ついています。心も、からだも、そして人生も。傷だらけ。何が原因?罪です。あなたの中の罪があなたは傷つけています。罪責感で心は暗くなり、からだにも悪い影響が生じます。人間のからだは製造工場のようなものです。血管、血、皮膚など物質を製造しています。心が病むと有毒物質を製造し始めます。癌になる人さえいます。免疫能力は低下し、あらゆる病気にかかりやすくなります。私たちは自らの中に罪がないかを精査すべきです。特に「私は正しい主張をしている」と強く思うときには。

 シェークスピアの作品に『ヴェニスの商人』があります。粗筋をご存じの方は多いので、かいつまんでご紹介します。あるヴェニスの商人が評判の悪いユダヤ人高利貸しシャイロックにお金を借ります。期限までに返済できなかった場合には肉をもって弁済すべしという契約です。不幸が重なって返済ができません。怒ったシャイロックは裁判に訴えます。すると裁判長は「肉で弁済すべし、しかし血を流して良いとは契約書には書いていない」と大岡裁きをします。さらには裁判長は「この契約には殺意がある」とまで言います。識者が指摘するまでもなく明らかにこの話にはユダヤ人への人種偏見があります。契約を守らなかった方が悪いのは明白です。シャイロックは自らの正義を主張しますが、隠れた悪の動機が見えます。そしてこういう話自体に隠れた動機が見え隠れします。舞台がなぜヴェネツィアなのでしょうか。当時のヴェネツィアには商人間には相互扶助の制度があり、人種間にも友好関係が機能し、これを書いたシェークスピアの国、英国にこそ人種差別はあったのです。私たちは自らを顧みなければなりません。「私のこの主張は絶対正しい」と言うときに、「このように主張する、私の中の真の動機はいったい何か?」と自分自身に問うてみなければなりません。デボーションは大切です。一人あなたはイエスさまと向き合います。イエスさまはあなたの心の中を精査してくださるでしょう。あなたの中にある良くない思いを指摘してくださるでしょう。しかし幸いなのはイエスさまはあなたをさばかないのです。あなたを赦してくださいます。私たちは勇気を持って正直に告白をすることができます。あなたの中には赦された喜びがいっぱいに広がるでしょう。

 新しい家の建築家[ヨハネの福音書14章2ー3節]

 私たちはやがて天国で新しい生活を始めます。ヨハネの福音書14章2ー3節を見ましょう。

 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

 ただいまあなたの新しい家は天国に建築中です。でも未完成です。残念?!ですか。まだ地上に使命が残っている間は、あなたの家は完成していません。玄関の取り付けがなされていないか、窓のサッシが入れられていないか、さあ、どんな状況でしょうか。完成した時にはあなたはもうすでに地上にはいませんよ。天に行くにはふたつの道があります。一つは死亡する。もう一つは携挙。信じますか。

 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(Tテサロニケ4:16-17)

 個人的なことを言えば、私はこのようなことが起きるのを遅らせてほしいなあと考えています。理由はふたつ。一つはまだまだ救われていない人が多いこと、もう一つは私自身毎日とっても幸せであること。でも主のみこころのままに。ところで私からあなたへの大切な助言。天国へ旅立つときにはすべてのものを地上に残して行くわけですから、家も土地も、特に銀行預金はそのときまでにすべて使い切っておいてください。とこう言いたいのですが、私には、いつ、ということが分かりません。すみません。ではもう一つの天国行きのための準備をお知らせしましょう。それは神さまを愛すること。これこそが天国預金。天国でお金が必要な時には天国銀行のATMを利用しましょう。でもお金が入ってないと引き出すことが出来ません。そこで天国預金を今、地上でする方法です。それが神さまを愛すること。そうはいっても、抽象的ですね。具体的には身近な人を愛すること。最後に一つのお話をして終わりましょう。あなたのクリスマス、最高に喜びに満ちたものになりますように。

 これは、むかしから、アメリカにつたわるお話です。ある町に大きな教会ありました。教会には、天にそびえる、高い塔があつて、りっぱな鐘がつるされていました。その鐘には、『クリスマスの晩にだけなる』という、ふしぎないいつたえがありました。ところが、まだ一度も、この鐘がなる音を、聞いたことはありませんでした。クリスマスが近づくと、町の人たちは、搭を見上げて、はなしあいます。「今年こそは、あの鐘のなる音が聞かれるかなあ」「いやあ、わしは八十年も生きているが、まだ聞いたことがない。なんでもわしのじいさんが、子どものころ聞いたそうだが、それはすばらしい音色だったそうだ。」「どうすれば、あの鐘はなるのだろう。」「神様におくり物をすればなる、という話だよ。」さて、この町のはずれの小さな村に、ベドロという男の子と、弟がいました。ある日、ベドロは弟に言いました。「クリスマスの教会って、とてもにぎやかなんだってさ。」すると、弟は目をかがやかせて、せがみました。「わあ、ぼくいってみたいなあ。」「よし、つれていってあげるよ。」ペドロは弟と約束しました。まちにまったクリスマスの前の晩、ペドロと弟はしっかりと手をつないで、いそいそと、町へむかいました。町の入り口までいった時、ふたりは、女の人がたおれているのを見つけました。「どうしたのゥな、この人。動かないよ、お兄ちやん。」「このままほうっておいたら、こごえ死んでしまう。こまったなあ。」あたりにはだれもいません。ペドロはポケットから銀貨をとり出すと,弟にさし出しました。「この銀貨は、神様へのおくり物だよ。ぼくは、この人を助けるから、ひとりでいっておいで。」「えっ、ぼくひとりでいくの?お兄ちやんだつて、あんなにいきたがっていたじゃあないか。」「いいんだ。さあ、いっておいで。」弟は、しかたなくひとりで町の中へ入っていきました。教会の中はたくさんの人でにぎわっていました。」どの人も、神様へのりっぱなおくり物をとくいそうにもっていきます。きらきらとまぶしく光る宝石や、山のような金貨、銀貨……。だれもが、すばらしいおくり物をして、鐘をならそうと、考えていました。けれど鐘はなりませんでした。「今年こそ、鐘をならしてみせるぞ。」さいごに王様も、いのちのつぎにたいせつにしている、金のかんむりをとってささげました。みんなは、じっと耳をかたむけました。でも、高い塔の上は、しいんとしずまり返ったままでした。「あの鐘は、永久にならない鐘なんだ。」人びとが、あきらめてぞろぞろと帰りかけた時です。とつぜん、塔から、美しい鐘の音が、ひびいてきたではありませんか。カローン、コラーン、カローン。『あっ、なった、とうとうなった!」、「鐘をならすほどの、おくり物をしたのはいったいだれだろう?」王様をはじめ、人びとは、いっせいに振り返りました。そこにはペドロの弟が恥ずかしそうにたっていました。「ぼく、お兄ちゃんから預かった銀貨を一枚、神様にささげただけだよ……。」弟は、そう、そっとつぶやいたあと、(お兄ちゃんの助けてあげたあの女の人、きっとだいじょうぶだろうな)と、思いました。(クリスマスの鐘『世界昔ばなし全集』主婦と生活社)