209   人生の目的

●聖書箇所[ヨハネの福音書15章9ー17節]

 今回は人生の目的について考えましょう。あて、あなたはどのようなお答をお持ちでしょうか。クリスチャンならきっとこのように答えるはずです。「神の栄光を現わすこと」。その通り!でも、それはいったいどういうことを指すのでしょうか。今回はその中身について明らかにしましょう。

愛しあうこと[9-10,12]

 根拠を三つあげてみましょう。

 1)神のかたち

   私たち人間は神のかたちに造られています(創世記1:26-27)。かたちとは性質です。そういった性質のうちでナンバーワンが愛です。私たちはだれでも愛しあわなければいけませんが、その模範が神の中にあります。正統的な神は三位一体神です。父、子、御霊は互いに愛しあっています。神が愛を持っているということは私たち、神の子にとってなんという幸せでしょうか。子どもにとって両親が愛しあっていることに勝るプレゼントはありません。その愛に応える道は私たちが愛し合うことです。

 2)人の歴史は愛からスタート

   はじめの人はアダムとエバ。この組み合わせには二つの意味があります。一つは強者と弱者。もちろん前者が男で後者が女。強者の、あるいは持てる者の責任は強さや持ち物を弱者と分かち合うこと。もしあなたが、「私は強い!」と思うなら、ぜひ弱者への配慮をしてください。もしあなたが「多く持っている」と思うなら持っていない者に分けてあげてください。それが愛です。もう一つは個性の違い。先日あるチャペルで男女の相違というテーマで話し合いを持ちました。「男は毎日同じ服を着ていても問題はないけれども、女はそうはいかない」というものでした。あなたは男性?女性?どう思いますか。確かに感性などを含めてさまざまに男女には違いがありますね。神さまのみこころは相互に違いを認めること、受け入れることです。これが愛です。

 3)主のご命令。これは単純な話です。主が「愛しあいなさい」とおっしゃっているのでそうしなければなりません。

 もし愛し合うとあなたにはどんな恵みがあるでしょうか。これにも三つあります。

 1)あなたを養育

   天使ミカエルが神の命令で一人の女性を天に召しに行きます。ところが彼女はこう抵抗します。「夫が亡くなったばかりで、私がいなくなったらこの子たちはどうやって生きて行くのでしょうか」。ミカエルはそれもそうだと思いますが、神さまに叱られ、地上に落されます。子どもミカエルは親切な靴屋さんに拾われ、暮らします。6年後、靴屋さんに婦人と子どもふたりがやって来ます。とっても幸せそうで、婦人も宝もののように大切にしていることがよーく分かります。隣に住んでいた婦人が引き取ったのでした。靴屋さんはこう、ことわざを引用します。「親はなくとも子は育つ、しかし、神がなくては生きては行けぬ」ミカエルは人がいったい何によって生きるのかを知ります。神がなくてはとは愛がなくては、の意味です。愛が人を育てます。トルストイの民話集からご紹介しました。愛の中に自分を置くようにしましょう。愛の深い教会や家庭を育てて行きましょう。

 2)心のいやし

   シュバイツアーはこう言います。「私たちは互いに薄暗がりを歩いているようなものだ」。確かにそうかも知れませんねえ。そしてときどき稲光りがして相手の顔がはっきりと見える。そのとき私たちはその人を分かったように思います。ところが一度知ったと思うともっともっと知りたくなる、しかも性急に。しかしさらに知った後では裁きはじめるのではないでしょうか。欠点を見、弱点を見、それらから目が離せなくなるのではないでしょうか。まさにエクボもあばた。恋愛時代のあばたもエクボはどこへ行ってしまったのでしょうか。しかし愛は見ません。それがいやしの根拠です。傷も欠点もイエスさまの十字架の上です。

 イエスは彼に言われた。「見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)。

 愛はあなたをいやします。

 3)人と人とを融和

   人間関係は難しいものです。でも失敗を互いに赦し、かつ許し合えば希望はあります。赦し、かつ許し合うこと、それが愛し合うことです。

 どうか神を見上げてください。神は愛、愛は神の中にあります。人を見ないで。

神を喜ぶこと[11]

 これも神のご性質の一つです。創世記1章、それは天地創造の話、を読み進めて行くと31節で神は言われます。

神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

 神の喜んでおられるさまが目に浮かんで来るではありませんか。さて、あなたの神は喜びのお方ですか。「私の神は、最近、うつでねえー……」なんて方はいらっしゃらないでしょうね。あなたを愛しておられる、あなたを造ってくださったお方は喜びのお方。もしあなたが教会生活をしておられるとして、いかがでしょうか。教会生活に笑いが、喜びが、楽しい場面がどの程度あるでしょうか。たくさんあることを願って止みません。家庭生活も、教会生活も楽しくなければ本物ではありません。たとえ生きることに辛い面があったとしても、たくさんの喜びがなければ生きるに値しません。あなたはどう思いますか?喜びは生きる力。そのような心強い見方である喜び、それはどこにある?ケーキを食べても喜びはあります。遊園地に行っても喜びはあります。でも腹の底から沸き上がって来る、しかも尽きない喜びはどこにある?それは神を喜ぶことにあります。
 さるカニ合戦というおとぎ話があります。ずる賢いさるはカニからまんまとおにぎりを手に入れます。カニはさるから柿の種をもらいます。さるはおいしくておいしくて大満足。でもそれだけ。カニは種を地中に埋め、しっかりと育て、二百倍、三百倍と実らせます。目先の喜びはそれだけのこと。真の喜び、内側から沸き上がって来る喜びが私たちには必要です。それにはどうしたらいいでしょうか。日常生活の中に神のみわざを見ること。神のみわざって、何?と驚くかも知れませんが、決して難しいことではありません。毎日の生活はすべてが神からの贈り物。朝元気に起床できる、ご飯が食べられる、礼拝できる、家庭がある、働く職場が与えられているなどなど。ひとつひとつが神からの恵み。それはあなたの人生という舞台で繰り広げられる神のみわざ。どうかそのような目で日常生活を見て下さい。あなたの中には喜びが沸き上がり続けるでしょう、常に。

イエスに似る[14-16]

 キリストは神、イエスは人です。イエスは人として最高峰。これをあなたは最終目標にして進まなければなりません。もちろん途中にいくつもの目標を掲げることは良いことです。「あの人のようになりたい」と思うことはあるでしょう。でも注意してください。どの人も人間である限り、欠点はある。「それは分かります」という答が返って来るのですが、ここで言いたいのは理性的に理解できても、感情的には処理が難しく、すなわちその人を裁いてしまいます。人の持つ性質の一つは裁きはじめると、なかなか止められないというものがあります。自分が勝手に設定した目標でしかないのに、相手に責任を求めてしまいます。こうして私たちは袋小路にはまります。どんなに立派な人でもあくまでも人間は人間。罪があります。限界があります。期待し過ぎないことです。むしろ最高のモデルを持つことが大切です。モデルがあることはあなたがあなたの人生に誇りを持てるようにしてくれます。歴史上白人の大きな罪の一つは黒人を奴隷にしたことです。それは家庭を破壊したことを意味しています。破壊された家庭は復活させることが難しいのです。ですから、現在黒人の子どもの多くは家庭からは生まれては来ません、一人の女性からは生まれては来ますが。子どもたちの悲劇は良いモデルを持たないことです。家庭がなければ、家庭の中で育たなければ、お父さん、お母さん、夫、母というイメージが持てないのです。やがて成長して、また家庭を知らない子どもを産みます。私たちが質の良い人生を送ろうとするならば良いモデルが必要です。イエスこそ最高のモデルです。私たちはイエスという最高のお方をモデルとして自分を磨きます。互いに発展途上にあると期待しましょう。もっと成長できる、もっと大きくなれる、もっとすばらしい者になれると考えているだけでもわくわくするではありませんか。神はあなたにあなたを最高に生かす場として人生をくださいました。なんとありがたいことではありませんか。神はあなたに命をくださった。でもそれだけではありません。併せてミッションをくださった。あなたのミッションは何ですか。人生を実り豊かに生きようとするならばミッションを意識していなければならないはずです。そうでないと犬やネコとさほど変わらない人生です。あなたのミッションは何ですか?「では作らないっちゃー」と思いますか?作らないでください。作る必要はありません。発見すべきです。ミッションはすでに神があなたのために造ってあります。あなたはそれを発見すればいいのです。

 第二次世界大戦中、ドイツ軍の捕虜収容所にいたビクター・フランクルは未来に絶望した二人の囚人仲間からこう話を聞きます。「こう死にたい。自殺する」と。彼はこう応答します。「あなたはもう人生に何の期待もないと言う。でも人生が、あるいは何かがあなたに期待していることを忘れないでください。それらはあなたに発見されるのを待っているのです」「そうだ、国にはかわいい子どもが私の帰りを待っている」、「私は著書を未完成のままで家を出て来た。ぜひとも完成させなければ」、こうして二人は自殺を思いとどまりました。二人ともミッションを発見しました。ミッションに基づき生きるときに右にも左にもそれないで生きて行くことができるのです。もしあなたが実り豊かな道を歩みつつあればミッションがそれからそれないようにくれるのです。もう一度言います。ミッションはあなたが造り出すものではありません。あなたに発見させるのを待っています。そもそも神さまがお造りになったものです。さあ、あなたのミッションは何でしょうか?

 私がことさらにそう思うのは、ある日のTDLでの体験による。その日私は平日の空いているであろう日を狙ってTDLに来ていた。しかし意に反してその日はまるで日曜日かと思うほどの大変な混み方だった。あまりの人の多さに多少疲れた私は、飲み物とスナックを買い込んで池のほとりのイスに腰掛けていた。と、目の前のごみ箱を片づけに一人の清掃係がやって来て、新しいごみ袋と交換を始めた。私はその彼に何気なく「いやあ、今日はずいぶん人出が多いねえ。空いていると思って来たのだけれどあてがはずれてしまったよ」と声をかけてみた。作業中の清掃係だ。来場客のサービス係ではない。私の方を振り返り「そうですね」とでも答えれば合格点だ。ところがその彼の反応は私の想像を超えていた。彼は手を休め私の方を振り向くとにこやかに「そうですね。今日は実は香港からの旅行客が多いのです。この時期のこの曜日は朝香港からの便が成田に着きますから、平日ですが実は非常に混む日なのです。空いた日をご希望でしたら、しばらくこの曜日ははずした方がいいですよ」と答えたのだ。十分に合格点だ。しかしまだ続きがあった。彼はさらににこやかな表情になると「でもお客様、今日はラッキーです。本当はご存じのようにこの曜日は通常、夜のパレードはないのですが、今日は香港からの旅行者がとりわけ多いので特別に夜のパレードがあるのですよ」と続けたのだ。あてのはずれた混み具合に実はいささかアンラッキーな気分だった私の心は、このさわやかな彼の応対と、彼によって伝えられたスペシャルな情報によって一気に晴れた。さすがはTDLである。だがここでさらに大事なことは彼は何者かということだ。彼は何者か。彼はミッキーマウスではない。場内の清掃係だ。』だが私は忘れない。私がディズニーランドでこれまで受けた数々の素晴らしいサービスの中で、この彼のサーヒスがまぎれもなく最高だった。彼は少なくとも私にとって、ミッキーマウス以上にディズニーランドそのものだったのだ。(小阪裕司『仕事ごころにスイッチを』フォレスト出版)

 私がなぜこの文章をご紹介したか、お分かりでしょうか。「私のタレントは小さい、私には何のタレントもない」などと弁明する人が少なくないからです。神さまがあなたに人生を下さった以上、同時にミッションもくださっているのです。どうかそれを発見してください。

 今は「子育て」があなたのミッションかも知れません。今は「勉強する」ことがあなたのミッションかも知れません。ちなみに私は「人に仕えること」をミッションとしています。勝利教会は『癒しと寛ぎの時空間』をキャッチフレーズとして来ていますが、さらに新しいものを加えようと考えています。『愛とロマンに生きる』です。つまり冒険です。私は教会員が新しい何か、すなわち自分も喜び、周囲の人々も喜んでくれる何か、このようなものは当然神さまも喜んで下さるはずですし、ゆえに成功するでしょう。だれもがハッピーになれるのです。ゆえに『愛とロマンに生きる』、すなわち冒険をしたいと願う人を応援させてもらいたい、というのが私のスタンスです。新しいアイディアを歓迎しています。当然ですが、私のミッションはその基礎に福音を置いています。福音を通じて『愛とロマンに生きる』機会を会員に提供したいのです。それはとりもなおさず、会員の周囲の人々にも愛とロマンを提供すると信じます。イエスは救い主として明確にミッションを意識しておられました。 ミッションを持って生きる、これが最高の、人としての生き方です。そして理想はイエスにあります。