210   人生と  ?

●聖書箇所[ルカの福音書15章]

 17年ほど前になりますが、ある教会でアンケートをとりました。人生と(  )。(  )の中にあなたの連想する語を書いてください、というものでした。あなたなら何を書きますか。一番多かったのが、孤独 でした。思い出せば、私はすでに小学生の頃、孤独を感じていました。十代になるますますその思いが募り、17ー19才の頃、ピークに達しました。幸い、20才でイエスさまに出会い、解放されました。今回は孤独とそれからの解放について考えますが、これが鍵です。15章2節を見ますと、孤独を感じているパリサイ人と律法学者たちはブツブツ言っています。私たちがもし孤独を感じるなら、まずすべきはイエスさまのもとへ行くことです、取税人や罪人たちのように(2節)。今回は15章全体から考えてみましょう。

イエスさまは三種類の失われたものの話をしておられます

  1 失われた羊[4-7]

 100匹の羊のうち一匹が行方不明です。持ち主は山を登り、谷を駆け下り、野獣が襲い掛かって来る危険も顧みずついに見つけ、無事に保護します。そしてみんなで喜びました。

  2 失われた銀貨[8-10]

 当時婚約の記念に銀貨10枚が女性に渡されました。そのうちの一枚が行方不明です。10枚もあるから、1枚くらい亡くなってもいいやとは考えられない意味あるものでしょう、きっと。あかりを持って埃だらけになりながらやっと見つけだしました。そうしてみんなで見つかったことを喜ぶのです。

  3 失われた息子[11-32]

 例の放蕩息子のことです。生前贈与を受けて旅に出た弟息子。したい放題のことをして、ついに破産。金の切れ目が縁の切れ目。だれも彼を振り向かなくなりました。この機に及んで、ようやく「ハッと我に返る!」のです。帰って来る息子を遠くから発見したお父さんはどうしたでしょうか。次の聖句を見ましょう。

 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。(22)

 「一番良い着物を着せる」のは愛情。「指輪」と「くつ」は親子関係の確認です。お父さんはうれしかったのです。

以上は、人生における三種類の孤独を表しています。

  1 失われた羊は真の友がいない孤独

 あなたには真友、親友、心友がいますか。あなたの心の中の深ーい部分を分かってくれる友人です。私の父は10数年前に亡くなりました。焼き場で焼かれ、骨と粉の状態で出て来たときにはさすがにショックでした。「これが父なのか!!」という思いでした。真面目に生きて来た人でしたが、これが人生の報いあるいは結果であるなら、なんと空しいことかと一瞬ため息をつきました。骨と粉には真友も存在し得ないでしょう。でも私はすぐに気持ちを切り替えることができました。なぜなら霊魂は天国に向ったと思い出したから。そう、亡くなる少し前に信仰を持ってくれました。ハレルヤ!イエスさまこそ真友!もし真友が一人もいないとしたらなんとさびしいことか。ある日の新聞に以下のような記事を発見しました。

  アダムソン著、「野生エルザ」 

        作者の心の裏に暗い孤独感

 ライオンのエルザで有名なジョイ・アダムソンと、私はいくばくかの付き合いがあった。彼女は一週間、仕事を兼ね、わが家に滞在したこともあるし、ケニアでも会った。彼女は誇り高く、自説をテコでも曲げぬ頑固さを持っていた。また、寂しがり屋で、夜は不眠症で苦しんでいるようだった。世界的なベストセラーになったジョイの出世作「野生のエルザ」を初めて読んだ時、私はなぜだろうと、強い違和感にとらわれた。ライオンのエルザに対しては、過剰とも思える愛情を注ぎこんでいるのに、そばにいる人間に対しては、まことに素っ気なく、描写の筆が死んでいるからだった。ジョイの死後、夫であったジョージが本を書いた。また、彼女の身辺を徹底的に調べて記した「ザ・グレート・サファリ」という伝記も出版された。ジョイは何人もの男性と付き合い、結婚や離婚を経験した後、ジョージと巡り合い、しぷしぷ結婚している。夫がヘビースモーカ一であるのが生理的に受け入れられず、三月に一度ぐらいしかベッドを共にしていないとも書かれていた。その反面、ジョイはいろいろな人たちと、簡単に寝ている。伝記の著者はニンフォマニアだったとさえ断じているほどだ。ジョイの精神の内側には、暗い孤独と、性の地獄があったのだと思う。(畑正憲、作家)

  2 失われた銀貨は目的のない孤独

 お金は使ってはじめて意味を持ちます。つまり使用目的がないとまったく無意味な存在です。もしあなたの人生が何の目的もないとしたら。よく定年になってがっくり来る男性が話題になりますが、それは「あなたは我が社ではもう必要ありません」と宣告されたからです。実に残酷な宣言ではあります。朝起きて、出勤する会社がないのは辛いことです。しかし自分の人生です。自分ですべきことを、そして行くべき場所を発見しなければなりません。私の人生を何をするために使おうか、と。こういう実験があります。三匹のさるを檻に入れます。それを二つ用意します。違いは片方の檻の中に、つまりさるのからだにはノミがまったくいないことです。ご存じのようにさるはさる同士でノミを取り合います。彼らのコミュニケーションでもあり、自分のアイデンティーの確認作業でもあります。でもノミがまったくいない方のさるはまったく手持ちぶたさで、いらいらするばかりです。日々の生活の中で何かすることがある、すべきことがあるということは実にありがたいことと言わねばなりません。あなたの人生の目的は?なすべきことは?

  3 失われた息子は罪の報いを受けている時の孤独

 罪を犯しそのままにしていると、つまり悔い改めないでいると罰を受け、それが孤独感をもたらします。孤独感そのものが罰であるとも言えます。ある青年がヴェンチャー企業を起こそうと銀行に資金の借入れを申込みました。ところが融資係の人はけんもほろろ。怒った彼は一大決心をしました。「必ず大成功して銀行を買収してこの男を首にしてやる」。やがて事業に成功して帰郷した彼は銀行を買収、融資係の男を首にしてしまいました。

 あなたはこの男性の生き方をどう思いますか。決して幸せではないし、人々から尊敬を集めることもないでしょう。むしろ、可哀想な人、あるいは軽蔑の目で見られるだけではないでしょうか。これは罰を受けた人の姿以外の何ものでもありません。あるテレビ局で「私の悪女体験」を募集しました。その一つ。

 私の夫は浮気をしています。許せない。だから私も

 私の夫は36才、小さな会社の課長で、同僚の女性を愛人としていることに最近知りました。それならばと私は夫の弟と、続いてスーパーの店長と。その後店長の子を身ごもりました。堕すべきか、それとも産んで後にばらしてやろうか、と胸がどきどきしています。

 こんな人生、私たち、なんと表現したらいいのでしょうか。こういう人生そのものが罰ではないでしょうか。心の中に恐ろしい孤独が巣食っています。

イエスさまは孤独からの解放を提案なさっています

 父なる神からのアプローチ

 私の兄は中国で4才の時に行方不明になりました。いわゆる残留孤児です。でも親は自分の子どもを忘れないものですね。常に、「どこかに生きている、ちゃんとご飯を食べているかなあー、風邪を引いていないかなあー」と口癖のように言っていました。あなたは孤独を感じていますか。そのとき、あなたはこう考えているはずです。「私は一人、だれも私を覚えてはいない。私は忘れられている」と。そのように感じてしまうことはあるでしょう。でもあなたが父なる神を忘れても、父なる神はあなたを忘れない!放蕩息子を迎えた父親の姿を思い出してください。大きな心、広い、思いやりのある心。あなたがどうであろうと、どんな姿であろうと、父なる神はあなたを愛しておられます。両手を大きく広げ、あなたに向って微笑んでおられます。どうでしょうか。心の目で父なる神のお顔が今見えないでしょうか。

 子なる神からのアプローチ

 私は、兄が発見されたことを両親から知らされ、中国へ赴きました。兄に「『お父さんもお母さんも帰って来なさい』と言っているよ」と伝えるためでした。父なる神の意向を受けた御子キリストは人間イエスとなって、私たちの住む地上に立たれました。私の兄を発見してくれたのは中国内に住む、その種のブローカーでした。お金を払わなければ、兄は帰ることができません。両親はそれを払い、兄は帰国を果たしました。イエスは自らの血で支払い、あなたの負債(罪)はゼロになり、あなたは救われるのです。あなたはイエスに支払っていただきたいですか。十字架の上でそれはなされました。この真理をあなたの心の深い部分に刻み付けるのが聖霊のお働きです。

 聖霊なる神からのアプローチ

 あなたの心に強い感動を引き起こします。「私の罪を背負い、私の身代わりに十字架の上で罰を受けてくださった!」という感激です。あなたの心の中にそういう反応は生じているでしょうか。幼子のようになるとき、あなたの中にそれは起きます。大人になるとだんだん、スレて来ます。されは避けたいものです。いつまでも感動を忘れない者でありたいものです。「イエスさま!ありがとう!」といつでも叫びたいものですね。そうしているとき、もはや孤独はありません。