211   シンプルライフ

●聖書箇所[ルカの福音書6章1ー11節]

 シンプルライフは主イエスさまのライフスタイルです。その特徴は1.壊れにくい。あなたは今平安ですか?そうしてもう一つの質問。それには持続性がありますか?一時平安だと思ったら、すぐに不安になる、とすれば壊れやすいと言えますね。シンプルライフは壊れにくい。2.迷いにくい。あなたの人生はどの方向へ向っていますか?あなたの生きるポリシーはしっかりとしたものでしょうか?時々迷う心があって、このままでいいのだろうか?この道を進んでいっていいのだろうか?と考え込んだりしませんか?シンプルライフは確信を持って、自分の道を進みます。3.パワーがあります。私は現在各県に9つのチャペルを率いていますが、朝早く家を出て、夜中に帰って来ることは珍しくありません。でも元気いっぱい!シンプルライフのおかげです。シンプルライフは、なぜこんなにも恵まれるのか、それはシンプルなライフだから。あなたは人生を複雑に考えてはいませんか?シンプルライフを三つのキーワードで考えて行きましょう。

 誠実

 これは他者に対しての態度です。他者とは神であり、他の人です。誠実な態度をとる人は人間関係も良いのです。信頼されるからです。「これ、おねがい!」「あー、いいよ、喜んで!」「ありがとう!」「どういたしまして」「あの時、助かったよー」なんと気持ちの良い会話でしょうか。私たちは身近な間柄でこのような信頼関係を育てたいものです。個性や性格もありますから、すぐに作れる人もいれば、5年、10年もかかる人もいます。それでも忍耐をもって取り組むだけの価値はありますね。誠実のない態度を示したのが「あるパリサイ人」です(2)。ルカの福音書の著者ルカは誠実です。「ある」と表現することを忘れてはいないからです。このような告発をしたのは「すべてのパリサイ人」ではなく、「あるパリサイ人」です。ではなんと訴えているのでしょうか。

 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」(1-2)

 彼らはいったい何を考えているのでしょうか。参考になることが次の6、7節に見られます。

 別の安息日に、イエスは会堂にはいって教えておられた。そこに右手のなえた人がいた。そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。(6-7)

 もうお分かりでしょう。すでに心の中に告発しようという気持ちがいっぱいなのです。何か事が起きる前に、すでに攻撃する決意を秘めています。攻撃するための口実を探すのが彼らのその時の仕事でした。これこそ、誠実さがない、と言っていいのではないでしょうか。これ以外に適切な表現の仕方があるでしょうか。彼らの誠実のなさは二つの内容を持っています。一つはダブルスタンダード。スタンダードとは基準のこと。相手によって当てはめる基準を変えることを意味します。彼らは「自分には甘く、他者には厳しく」適用しました。

 そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。(マタイ23:1-7)

 さらには人として一番大切なものが彼らには欠けています。

 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。(同23)

 庭で採れた薬味などまで捧げたというのですから、見上げたものです。しかし、しかしです、人が見ている時だけ、あるいは人を裁くための根拠として使うことを考えてのことでした。

 私たちは彼らのようにならないために、どうしたらいいのでしょうか。そのために聖書があり、礼拝があります。あなたは何のために聖書を読み、礼拝に出席しますか?主イエスさまのご人格に触れる、そして触れていただくためではありませんか。単にノルマであったり、義務であったり、真面目さを見せるためであったりするのは無意味です。もっともっと主イエスさまのご人格により影響を受けて行こうではありませんか。誠実が人としての成熟の一つの大切な要素であることは間違いないのです。

 人間

 人を大切にしましょう、というアピールです。もし人を、つまり他者を大切にしたら、自分も大切にしてもらえます。私たちの教会では、どのチャペルにおいても礼拝直後に交わりをします。それは円くなって一人一人が順番に語ります。あかしであったり、悩みであったり、祈りのリクエストであったりさまざまですが、彼(女)が語り続けている間、他の人たちはじいーっと聞きます。語り手の目を見ながら。これには「私はあなたの話を重要なものと受け止めていますよ、あなたのことばは真実であると理解していますよ」というメッセージを発する意味があります。決してこうではないのです、「あなたの話はくだらない、前回も同じことを話した、もううんざりしています、いいかげん話すのを止めてもらいたい」。エゴイストと呼ばれる人々がいます。彼らは人々からは嫌われます。なぜなら他者を大切にしないで自分の都合ばかりを主張するから。「私の気持ちは、私の気持ちは……」というふうに。でもあなたがクリスチャンであるなら、あるいは一人の人間としてエゴイストを愛することをお勧めします。彼らは変えられるでしょう、あなたの愛によって。こうして社会は良くなって行きます。今回取り上げた箇所はマタイの福音書12章1ー8節とマルコの福音書2章23ー28節にも見られます。総合して観察すれば、学びはさらに有意義なものになります。同時に読まれることをお勧めします。時は春。弟子たちがしたことが問題とされています。

 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」(1-2)

 麦の穂を摘む、これは刈り入れであり、もみ出すことは脱穀です。当時の規則(ミシュナー)には39種類の安息日禁止労働*が明記されており、それらの中に確かに含まれていました。 ところでもしここで主イエスさまと弟子たちがまだ刈られていない麦畑に入ってこれらをしたなら、問題です。これは明らかに泥棒であり、第8戒違反です。しかし安息日違反、すなわち第4戒違反ではありません。もうお分かりのように、はじめに「攻撃ありき」なのです。そこで先の聖句1-2節を次のように説明的に訳すことができます。

 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、そこはすでに刈り入れが済み、貧しい人々が落ち穂を拾った後であった。地面にはまだ麦の穂がいくらか落ちていた。そこで弟子たちはそれを拾って手の中でもんだ。

 参考までに次の聖句をご紹介しておきましょう。

 あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人(外国人)のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。(レビ19:9-10)

 なんと律法はやさしいのでしょうか。

 イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」(3-5)

 「人の子は、安息日の主です。」と言う時には二つの意味があります。一つは「人の子」としての主イエスさまこそが「安息日」(正しい解釈を前提)に関して権威があること、もう一つは「安息日」の主役は「人」であること。すなわち律法は、神の教えは人を大切に扱うこと、です。ではどうして彼らはそのようにはできなかったのでしょうか。それは聖書を正しく読まなかったから。主イエスさまは聞かれました。

 イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。(3)

 これはサムエル第一21章6節にある事柄です。主イエスさまは規則は人間に奉仕するためにあるとおっしゃっています。彼らはそのようには考えていないのです。そのようにとは「人を大切に」とは、です。彼らは目の前にあるものがすべて、自分のものだと錯角しています。自分がオーナーだと錯覚しています。人間でさえ、私の思い通りになる、と考えています。ここに私たちが謙虚になる秘密が隠されています。つまり私たちは目の前にあるすべてのものについて、神こそがオーナーだと考えなければならないのです。そうでないとつい自分の思い通りにしようとし、思い通りにならないと癇癪を起こし、裁きます。メキシコのある地方で温泉と冷泉の両方が湧き出ました。婦人たちは温泉で洗濯をし、冷泉で泳ぎました。観光客が知り合いのメキシコ人に尋ねました。「彼らはたいそう喜んでいるでしょうな」「いいや、石鹸がないと文句を言っているよ」。目の前にいるすべての人は、神がオーナー、ゆえにあなたはすべての人を尊重すべきです。シンプルライフ、それは人を大切にするものです。そうして自分も大切にされ、気持ちの良い毎日を生きることができます。

 原則

 これは、神が私を動かす、というもの。あえて言えば、神だけが私を動かせる。いかがでしょうか。あなたはこのようにおっしゃることができるでしょうか。私は教会のみなさんに今年、「愛とロマン(冒険)をもって進みましょう!」と折にふれて訴えています。ちなみに私の愛とロマンは愛とロマンを追いかけて実現を目指す人々のために仕えることです。そして重要なことはその、愛とロマンはどこから生じているのか、です。自分で作り出してはいけません。あなたに生をくださった神は、同時に愛とロマン(ここでは使命と表現してもいいでしょう)をも用意してくださっています。どうか作り出そうとしないで、発見してください。また発見する過程も一つの大きな楽しみでもあります。発見し、それを生活の中で実現に移して行くとき、あなたは神に動かされています。神にのみ動かされる人生こそ、あなたに誇りを与えます。神以外に誰が、そして何があなたを動かすのでしょうか。お金?袖の下?止めましょう。復讐の心?これも止めましょう。もっともっと建設的、かつ前向きなことのためにあなたの人生、すなわちエネルギーや時間を使って行きましょう。

 イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。(3)

 これは先に書きましたように、サムエル第一21章6節にある事柄です。祭司にしか食べることができないという規則があったとしても、人が飢え死にすることが神のみこころであるはずがありません。このように主イエスさまは人間の人間らしい生き方は聖書の中に示されていると教えようとしていらっしゃいます。彼らは聖書を読む時に、「主よ、聞きたまえ、しもべは語る!」と言い、「しもべは聞きます。主よ語りたまえ」とは言いません。

 私たちは「しもべは聞きます。主よ、語りたまえ」と言わなければなりません。神に起源のあるお考えこそがあなたを真に解放し、あなたの人生を豊かにします。祝福します。どうか神だけがあなたの人生に責任を持って下さる、お持ちになることがおできになることを知ってください。もし他の人のことばに従って生きたとして、そのように決断し進んだとして、その人はあなたの人生に、そしてその結果に責任を持ってくれるのでしょうか。最後に麻薬中毒者の独白を聞きましょう。

麻薬は私の羊飼い
私は、乏しいことがありません。
それは私を貧民窟に伏させ、
静かに狂った所に導かれます。
私の魂を滅ぼし、御名のために地獄の道に導かれます。
たとい、私が死の陰の谷を歩くことがあっても、
私は災いを恐れません。麻薬が私とともにありますから。
私の注射器とその針、それが私の慰めです。
それは私の敵の前で、私を辱め、私が狂うように油を注ぎます。
悲しみで私の盃は溢れています。
まことに、私の命の日の限り、
憎しみと悪が私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、羞恥と悲惨の家に住まいましょう。

 本物を次に書きましょう。神こそがあなたを動かす、これがシンプルライフの本質です。

      ダビデの賛歌 (詩篇23)

主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

*1耕す。2蒔く。3刈り入れる。4束を作る。5脱穀する。6もみ殼を吹き分ける。7選別する。8ふるいに掛ける。9粉をひく。10こねる。11パンを焼く。12羊の毛を刈る。13漂白する。14糸を引く。15染める。16紡ぐ。17機に通す。18織る。19はずす。20糸をほぐす。21糸と糸とを結ぶ。22結ぴを解く。23縫う。24縫うために裂く。25狩りをする。26屠殺する。27皮を剥ぐ。28皮をなめす。29こする。30皮の毛を取る。31切る。32書く。33消す。34建てる。35こわす。36火を付ける。37火を消す。38ハンマーで打って仕上げる。39物を一定の龍囲外へ持ち出す。(さらに各項には細則がある)