212 エリシャ

聖書箇所 [列王記第二2章1−9節]

 かわいいひよこが次々と殻を破って出てきました。しかしその中に一羽だけ毛色が違っているものがいました。だんだん大きくなって、ある日のこと、鷲が舞い降りてきて、「おまえはにわとりの子ではない。大空高く舞う鷲の子なんだ。さあ、飛んでごらん」。もうびっくり。周りを見回すとただ地面を蹴るだけのにわとりだけ、「まさか空を飛べるなんて」と思うばかり。「さあ、ほら、勇気をもって飛んでごらん」。励まされて、勇気を持って飛び上がってみたのです。「あー、飛べた!ほんとうだった!」と大空から鷲の子は叫びました。

 これは私たちの心の中にある真実の思いを物語っているのではないでしょうか。「ほんとうの私って、こんなんじゃあー、ない!違う、こういうのとは違う!私にはまだまだ未開拓の部分があって、それが開発されれば、今とは違った、ほんとうの自分になれるはずだ……」。「世を忍ぶ仮の姿」などという表現もありますね。「今の私は本物ではない、もっともっと大きく、豊かで、かつ魅力的なのだー」
 今回はエルシャについて学びましょう。彼は先生であるエリヤに「二倍の祝福」を求めました。これをずうずうしいと言ってはいけません。前向きだ、積極的でよろしいと考えなければなりません、いいですか。預言者エリシャは紀元前9世紀の人です。北イスラエル王国をその活躍場としました。彼の生き方から学びましょう。

良いモデル

 良いモデルはあなたを引き上げます。あなたの成長を促進させます。エリシャにはエリヤがいました。先生に見い出されてから10年間寄り添うようにして学び、つまり寝食をともにしてあらゆるものを吸収して行きました。日本語では盗むと表現しますが、主イエスさまと弟子たちとの関係でも分かるように日本的な弟子訓練方法ですね。しかしいよいよ別れるときがやって来ました。

 こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。(2:11)

 なかなかかっこいいですねえ、さすが偉大な預言者!しかし注目したいのはその寸前まで、しっかりと学び続けたエリシャの態度。神が取り去られる瞬間の瞬間まで、エリシャは偉大な預言者エリヤ先生から決して離れず、すなわち尊敬、信頼、期待の気持ちを忘れず、あらゆる良いものを吸収しようと努めています。神さまはあなたを愛して、あなたの周囲にさまざまなテーマごとに良いモデルを配してくださっています。どうか感受性豊かであってください。そうして気がついてください、「この人こそ私のために神さまによって用意されたモデルだ」と。それにしても私たちは無意識のうちにモデルを得ているものです。あの有名なヘレン・ケラーを世に出した人はサリバン先生です。彼女の超人的な献身的な愛を描いたのが、映画「奇跡の人」です。三重苦のヘレン・ケラーには手でものに触れる以外にものを学ぶ方法はありませんでした。ある日、サリバン先生は、「今日は、顔ってどんなものか教えてあげましょう」と言って、ヘレンの手を自分の顔に押し当てました。ヘレンはすぐに先生の顔つきを真似しました。サリバン先生はびっくりしました。なぜ?彼女が寂しい疲れた顔をしたからです。実はその頃、サリバン先生の疲れは頂点に達していました。しかしサリバン先生は「顔ってそんなものじゃあーない!」と叫びながら、自分の顔の表情を作り直してもう一度彼女に触らせました。

 さて、話を戻しましょう。ついに新しい預言者の誕生です。下を見てください。上の節の続きです。自分の外套をやぶり捨て、先生の外套を身にまといます。ひとり立ちしたのです。

 エリシャはこれを見て、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。」と叫んでいたが、彼はもう見えなかった。そこで、彼は自分の着物をつかみ、それを二つに引き裂いた。それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、(12-13)

 もう一度言います。あなたの持つテーマごとに良いモデルが必要です。そうして神さまはあなたを愛してそれぞれ用意してくださっています。たとえばこれから結婚しようという男性には夫のモデル、女性には妻のモデル。これから子どもが与えられようとしている若夫婦にはそれぞれ父親や母親のモデル。神さまはほんとうに配慮の行き届いた方ですね。

先見の明

 先を見る目を持つことは大切です。あなたの時代をその目が招きます。私たちは何か決断をするときに、「これはほんとうに私に益となることなのだろうか?」と自らにじっくりと問わなければなりません。「ほんとうに自分を成長させるものなのだろうか」と。軽率さはいけません。直感というすばらしい能力がありますが、何がすばらしいかって、それにはパワーがあります、しかし欠点もあります。判断を誤りやすい!のです。神さまはあなたにもう一つのすばらしい能力をくださいました。それは知性であり、理性。よーく考えることです。先見の明がある人はよーく考える人です。だから大きな失敗をしにくいのです。無駄な失敗をしにくいのです。これも確かに一つの祝福です。なぜなら両方の能力をバランスよく使いこなす人は気持ちの切り替えが上手なのです。私たちはだれでも神さまから同じく一日24時間、一年365日与えられています。つまり限られたエネルギーと時間とを与えられています。これをどのように使うかはあなたの判断です。ある人々は過去のことにいつまでもこだわっています。過去は過去。すでに終わったことではありませんか。もう変えようがないではありませんか。悩んでも変えようがないことをなお悩んで、いったいそこに何の生産的なものがあるのでしょう。私はクリスチャンになってから過去の為にエネルギーや時間を浪費しなくなりました。このことについて神さまにたいへん感謝しています。今は常にエネルギーと時間とを未来のために費やすようにしています。選択と集中と言います。過去からは教訓を得ればそれで十分です。エリヤを見送った後、確かに辛かった、悲しかった。でもエリシャは過去に捕われてはいません。エリシャは直ちに行動を起こしています。彼はひたすら前へ進みます。ヨルダンの水を打ち、エリコに入ります。ここで一つ興味深いこと。先生と弟子とは似ているなあーという思いがします。次の二つの聖句を比べてください。

 ……ふたりがヨルダン川のほとりに立ったとき、エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水は両側に分かれた。それでふたりはかわいた土の上を渡った。(7-8)

 ……彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。彼はエリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主は、どこにおられるのですか。」と言い、彼が再び水を打つと、水が両側に分かれたので、エリシャは渡った。(12-14)

 さて、エリシャの入城に伴って、このときからエリコは新しい町に生まれ変わります。それまでの呪われた50年とは違った歴史を歩むようになります(13-22)。本来エリコとは芳香の意味。水はおいしく、花はきれいに咲き、土地は豊かで、恵まれた町でした。でも死んでいたのです。それをエリシャが復活させました。私たちの人生にも辛い時代、悲しい時代があります。でもいつまでもではありません。十字架はそれらの象徴です。でも十字架の後には復活があります。あなたはこれを信じますか?さてエリシャはエリコに預言者学校を設立します。エリヤの弟子たちからも尊敬を勝ち取り、後継者と認められて行きます。ついにエリシャの時代がやって来たのです。たとえ辛い時代があっても、悲しい時代があっても、それが今であっても、決して軽はずみな行動に出てはいけません。その状況が最終結論ではないのです。途中経過でしかありません。まだドラマは終わってはいません。まだ試合は終わってはいません。結論でないものを結論と思うくらい愚かなことはありません。結論は愛の神さまが出されるものです。あなたは復活をリバイバルを信じていればいいのです。神は生きておられます。寝てはおられない、死んでもおられない。今、生きておられます。先見の明のあるあなたは必ず二倍の祝福を得ます。

勤勉

 勤勉な人には必ず報いがあります。その報いとはミッションに気がつき、かつそれが大きな喜びを提供するということ。とても働き者のお百姓さんがおりました。やがて最後の時がやって来て、息子たちにこう言い残しました。「裏の畑に宝物を隠して置いたから探すように」。息子たちはお葬式を済ますと一生懸命に畑の隅々までを掘り起こし見つけようとしました。それでも何にも出て来ません。しかし翌年は大変な収穫でした。息子たちは「勤勉の精神」こそ宝物であったと知りました。長年会社に勤めている建築技術者が突然社長に呼ばれ、こう言われました。「この図面に従って家を建ててもらいたい。特別な物件なので、会社で一番優秀な大工とできるだけ良い材料とで作ってもらいたい」彼はさっそく作り始めたのですが、心の中に何かが生まれ、つい面倒がって見えない部分を粗悪な材料で済ませてしまいました。やがて完成したことを社長に告げるとこう言われました。「いやー、ごくろうさん、これは君への永年勤続のお祝いだ、受け取ってくれ!」

 エリシャがエリヤ先生の目に止まったのは彼が一生懸命に働いているときでした。12くびきですから、24頭の牛がいます。彼は25頭目の牛になって(もしかすると、24頭目の牛になって)汗をかいていました。第1列王記19章19節をご覧ください。ダビデがイスラエルの王様になるべく預言者サムエルに任命されたのも羊飼いの仕事をまじめにしているときでした(第1サムエル16:11)。イエスさまが弟子たちを呼ばれたとき、弟子たちは網をうっていました。後にも先にも栄光ある「ザ・十二弟子」とは彼らだけです。

 ところで真の勤勉さとはどのような特徴を持っているでしょうか。これを学ぶと、いかにして勤勉さを得ることができるかも分かります。つまり、それは人へは向かわずに神さまに向かうものです。たとえばこういうことです。「私はこの奉仕をこれだけ長いこと続けているのに、あの人はまったくしようとしない!」と考えること、これは人へ向かっています。私は私、あなたはあなた、人は人です。それぞれが神さまの前で、神さまとともに生き、働くべきです。どうか神さまとあなたとの間に何も挿入しないでください。中間に余計なものを入れるから祝福が減ります。場合によってはあなたの手元にまで届きません。少なくとも途中で減退したり減衰したりするのです。神さまの前で神さまを意識して神さまのために働いてください。このことをあなたが理解するとき、あなたはミッションを持っている、ミッションを果していると言うことができます。神さまはだれに対しても、いつでも大切なミッションを与えてくださっています。お母さんのそれは子どもを育てること。学生のそれは勉強すること。最近、私は献血をしました。私のミッションの一つであり、私の趣味です(20代では毎月一回していました)が、実に気持ちの良いものです。そのつど喜びが私の心の中にいっぱい広がります。ミッションにはいつも喜びが、しかも純粋かつ明るい喜びが伴います。なぜ?それは人を意識したものではないからです。神さまを意識したものなので、その喜びが神さまから直接来るためです。このように神さまを意識しているかぎり、私たちは勤勉さを維持することは難しくないのです。そして勤勉な者を神は祝福してくださいます。

謙虚

 謙虚な者を主は祝福してくださいます。人は蒔いたものを結局は刈り取るものです。エリシャの持っている偉い性格の一つは他者を立てることでしょう。たとえばあの有名なナアマン将軍のことを思い出してください(第2列王記5章)。彼は有能な軍人でしたが、ライ病に罹っており、そのために将来には暗雲が漂っていました。この病気を直そうとエリシャのもとを訪ねました。しかし決してエリシャは自分を主役とも、まして神さまであるかのごとく考えたり、あるいは自分を前面に押し立ててはいません。エリシャから派遣されたしもべ、それによってプライドを傷つけられたナアマンをなだめたしもべたち。ついには単純かつ平凡なことを実行した将軍自身。結局はこういう彼らの信仰、誠実さ、忠実さ、愛が彼をいやしました。主役はエリシャではありませんでした。エリシャの信仰は謙遜の信仰です。彼は他者に出番を作ってあげることが上手です。でもそのような人こそ、何をしても栄えるのです。なぜなら神さまがともにおられるから。これが習慣づくと、「何をしても栄える」(詩篇1:1)ようになるのです。祝福の生活に一度入ると、悪循環ならぬ良循環がこうして起きます。どうか自分の小ささ、弱さ、罪深さを知ってください。良いことと分かっていても実行できない、悪いことと知っていても実行してしまう。これは私たち人間の性質です。残念ながら事実です。一組の夫婦がガソリンスタンドに寄りました。従業員がフロントガラスを拭いてくれました。夫が言いました。「まだ、そこにゴミが着いたままだよ」「あ、すいません」彼は身を乗り出してもう一回拭きました。「だめだめ、もう一回拭いて、まだ落ちていないよ!」「まことに申し訳ありません」「だめじゃないかッ、しっかり、拭かなくっちゃー」すると隣に座っていた妻が言いました。「あなたの眼鏡にゴミが着いていますよ」謙虚さは二倍に祝福されるために大切なものです。