213 悲しい時、辛い時、どうする?

聖書箇所 [ヘブル人への手紙4章15、16節]

 イエスさまはあるときこう言われました。「私はあなたがたに平安を残します」(ヨハネ14:27)。イエスさまのやさしさが伝わって来ますね。ところでこの平安がいつもあればいいのですが、時々、あるいは人によってはしょっちゅう消えたりします。悲しい時、辛い時にそうなります。しかしありがたいのが、イエスさまについての次のみことば。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(へブル4:15-16)

私たちの大祭司は、すなわちイエスさまは……すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたので、私たちの弱さに同情することがおできになる、というのです。なんと慰められるおことばでしょうか。

ではイエスさまはどのように実際に経験なさったのでしょうか。たとえばマタイの福音書の26章67節、27章2、3、26、28、29、30、31、35、37節などをお読みください。痛ましいかぎりです。ぶん殴られ、唾を吐きかけられ、びんたされ、信頼を寄せていた弟子たちから裏切られてしまいます。彼の知らない所で殺す相談は進んでいました。まったくみじめなお姿です。もしかするとあなたはご自分の人生を思い、実は私もそうなんだと共鳴されるところがあるかも知れません。いや、今がそうであるのかも知れませんね。そこで今回はイエス・キリストがお受けになった仕打ちを分類し整理したあとで、このような場合に、つまり悲しい時、辛い時にいったいどう対処したらいいのか、どのように喜びに変えていったらいいのかを学びましょう。

まず分類してみましょう

1 人格侮辱

 マタイの福音書5章22節をお読みください。ゲヘナとは地獄のことです。
 さて決して人に向かって「ばか」や「あほ」などのことばを使用してはいけません。それは人格を侮辱することです。あなたにはきっとこのような経験が一度はおありでしょう。思い出してください。いかにあなたの心が傷つけられたか。その他にも、いやみを言われる、悪口を言いふらされる、足を引っぱられるなどなど。
 ある人たちによってあなたは、「◯◯さんはこんなに悪い人なのよーっ!」って言いふらされたこともあったかも知れません。あなたの名誉は傷つけられたのです。悲しいですねえ。

2 信仰侮辱

 信仰という語を使いましたが、特にクリスチャンの場合にはこの表現が適切でしょう。「へえー、教会なんかに行ってるのー、つまらないことしてるねー」などと言われたりしたことはないでしょうか。もっと広い意味では、自分が大切にしているものを侮辱された場合です。だれにも、必ずしも公表はしないでしょうけれども、誇りを持っているものや大切にしているものがあるはずです。それを軽く見られたら決してうれしいものではありません。あなたにはこの種の悲しい経験、辛い経験がおありでしょうか。マルコの福音書15章29ー31節をお読みください。イエス・キリストは「救い主」というご自分の使命がけなされる経験をしておられます。「なんだ、つまらない仕事だなー、つまらない奉仕だなあー」と他者に向かって言うことは実に失礼なことです。私たちは互いに大切にしているものに対して尊重の思いを持つべきです。

3 存在侮辱

 「あんたなんか、いなくても、いいんだよ」と言われることです。シカトです。これは辛い!最高に辛い!私は私の育った家庭でこれを経験しました。物心ついた頃からこう感じていました、「両親からは歓迎されていないなあー」。ついに17歳の時に、「さよなら!」と言い別れました。いなくてもいいよと言われているのに、心を煩わせるなんて両親に申し訳ない、というプライドくらいはあったのです。でも私の人生でこんなに悲しいことはありませんでした。「あんたは必要ない存在だよ!」と言われるくらい辛く悲しいことはありません。イエスさまは十字架の上で殺されました。「あんたはこの地上には必要ない存在だよ!」と人々に言われたのです。あなたは家庭で、職場で、友人の間でそのように言われたり、示唆されたりした経験はありませんか。辛く悲しいことです。

4 身体への圧迫

 現代の日本においてはこのようなことはほとんど考えられないことでしょうか。いや、もしかすると今どこかで起きているかも知れません。家庭内暴力も最近では報道されています。身体が傷つけられるのも辛く悲しいことです。ご存じのとおりイエス・キリストは槍で刺し抜かれました。傷口から血が流れ落ち、土の上は真っ赤に染まりました。

4 信頼していた者による裏切り

 一番弟子ペテロと会計係ユダにイエス・キリストは裏切られました。どのようなお気持であったでしょうか。あなたにはこのような経験がおありでしょうか。やりきれなさ、まさかという思い・・・。そうして心の中には深い傷。

どう対処したら?

 私の好きな実存主義心理学者ビクター・フランクルはこう言います。「幸福を追い続けてばかりいると、幸福は逃げる」、「幸福を意識する、そのとき幸福そのものが消える」。
 どうすればいいのか。「幸福を追い続けるのではなくて、ただ、今、なすべきことをせよ。そうすれば結果として幸福は手にはいる」。「悲しみよ、去れ」と叫んでいるのではなく、積極的にできることがいくつかあります。

1 人を赦す

 責められたり、裁かれたりしたときに悲しいですね。でもあなたを責め裁いた、その人を赦すことです。そこに人としての誇りが生まれます。赦す人は人格高潔、立派な徳を持っています。そうして世界はそのような人を求めています。「世の光、地の塩」とはこれを指します。しかし残念ながら、生まれながらの人間にはそのような力はありませんので、聖霊の神さまの助けをいただかねばなりません。そのための環境作りを提案しましょう。それは人の心理、心の裏を知ることです。まずあなたはあなたを責め裁いている人の目を見るべきです。目は心の窓です。目からあなたは彼の心の中の状態を知ることができます。
 どんな状態でしょうか。彼は怒っています。精神分析の創始者であるフロイトはこう言っています。「怒り、それは『私は愛されていない』という確信から来る。『助けてほしい』と思っていたのに、助けてくれなかったという確信から来る」。
 もしあなたがこのような実情を彼の中に発見することができるなら、あなたがすべきことはただ一つ。一つの状況をイメージしてください。一方にイエスさま、もう一方に一部のユダヤ人たち。後者はイエスさまにさまざまなものをぶつけています。たとえば、割れたビール瓶、汚れた布切れ、泥、足の折れた椅子、先のとがった石ころなどなど。イエスさまはと見ると、ただただそれにじいーっと耐えています。しばらくこういう状況を観察していると一つのことが明白になります。イエスさまには何の悪いこともないのに……。そうです。その通りです。悪いのは彼ら一部のユダヤ人たちです。彼らの中に何かがあります。その何かがイエスさまを傷つけています。ここまで来たら次はイエスさまのいらっしゃったところにあなたを置いてください。さあ、あなたに向かって同じように割れたビール瓶、汚れた布切れ、泥、足の折れた椅子、先のとがった石ころなどが飛んできます。あなたは苦痛で顔をゆがめます。でもイエスさまのおことばを同時に思い出します。

 「父よ。・・・彼らを赦してください。彼らは何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)。

自分のしていることを理解しないで行っている、とするなら彼は哀れみの対象ではありませんか。「可哀相に!」とあなたは同情すべきでしょう。こうしてあなたは聖霊さまの働きやすい人格をいただき、あなたは赦すことができます。

2 ペースを変える

 中国に「孟母三遷の教え」があります。少しでも環境の良いところで大切な我が子を育てたいという母の、そして親の心です。でも場所を変えればいいというものでもありません。しっかりとした方針は堅持しなければなりません。とすればこれはペースを変えるべしという教えではないでしょうか。
 マタイの福音書13章53節−58節をお読みください。イエス・キリストはどのような人々をも平等に愛する気持ちとともに郷里へ向かわれました。奇蹟をプレゼントしたいとお考えでした。これは彼の普段のペースでした。でも人々の反応は冷たいものでしたので彼は方向を変えられました。すなわちペースを変えられました。
 あなたも旅行や趣味やスポーツなどで気分転換をしてみてはいかがですか。相性の悪い関係というものもあります。そのような場合に無理をして近くにいない方がいいでしょう。離れていた方が利口です。関係を良くするために消費されるエネルギー(しかもこれがなんと膨大な量であるか)を他の方面に向けてはいかがでしょうか。嫁姑の関係も、聖書によれば同居することから起きます。離れていれば仲良くできるものです。創世記2章24節を参照してください。人間関係においてこじれた場合には、具体的には1.2メートルの距離を2メートルにしたらいいでしょう。前者の距離では個人的な話がしやすいので親しくなれますが、同時に傷つけあいやすくもなります。万が一傷つけあうことがあれば2メートルにしましょう。これは冷静さを相互に与えるものです。この距離では内緒話は難しいのです。内緒話がなければ傷つけあうこともしにくくなります。

3 断食し、祈る

 ある種の事柄は断食と祈りによらなければ解決できません。あるとき弟子たちが「私たちにはどうして悪霊を追い出すことができないのでしょうか」と質問をしました。マルコの福音書9章29節をお読みください。満腹のときに人は眠くなり、かつ霊的に鈍くなるものです。どうか断食をしてみてください。あなたは新しい世界を見るでしょう。経験するでしょう。あなたの中には神さまの力がみなぎり、かつアイディアがあふれるでしょう。 あなたには同時に喜びも溢れるでしょう。これは経験してみる以外に道はありません。

4 友人を大切にする

 この場合、友人とは特別な友人を指します。それは「この人なら私の気持ちを分かってくれる!」と思える人です。神さまはあなたの身近に一人か二人置いてくださっています。彼らを大切にしましょう。それは同時に彼らを愛することでもあります。正確に言えば愛し返すことです。イエス・キリストの最初のお仕事は友人作りでした。以来常にそばに置いて使命を同じくしようと寝食をともにされました。残念なことに彼らはイエス・キリストの人生において一番たいへんな時期に頼りにはなりませんでしたが(マタイ26:36−46)、彼が神の子であるという特殊事情を考えれば仕方のないことかも知れません。あまりにもレベルが違いすぎました。でも私たちは互いに同じ罪を持った、弱い存在であり、きっと助けあうことができるでしょう。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:15) 良い友人はあなたの悲しみを半分に、喜びを倍にしてくれるでしょう。

5 教会建設に熱中する

 あなたは人生の意味をお尋ねになるでしょうか。「私が生きる意味は?」フランクルに登場してもらいましょう。彼はこう言います。
 「人生の意味は何か?」と人は問う。しかし人生が人に問うている。それに人は答えなければならない(『医師による魂の癒し』)。
 フランクルが言う「人生からの問い」とは「与えられているなすべきことをせよ、満たすべき意味を発見し実現せよ」という要請です。実際にはあなたがしてくれるのを待っている人の期待に応えることとして現れます。そして彼はこのような実例をあげます。苛酷な収容所という環境の中で、一人の科学者は大事な子どもが父親である自分の帰りを待っている、そしてもう一人は未完成の論文が完成を待っている、これらが彼らの自殺を思い留まらせた。
 ところであなたの目の前にある、なすべきこととは何でしょうか。きっと人それぞれにいろいろなことを言うことができるでしょう。どれも立派なことに違いないと私は考えます。しかし最も大切なこととしてキリスト教会建設を提案しましょう。それはとりもなおさずあなた自身を建設することです。というのは教会とは建物ではなく、人々であるから。教会を建てているとき、あなたも同時に建てあげられつつあります。あなたのタレントは見出され、磨かれ、あなたは成長していきます。ではだれが教会建設に参加できるのでしょうか。それは選ばれた人だけ。イエスさまがあなたを選ばれました。あなたは特別に選ばれました。だから信仰を持つことができました。この栄誉を軽く見てはいけません。あなたには神さまからの期待があります。あなたをこれを信じますか。あなた自身をあなたの人生を立派に建てあげて行くことに熱中しているとき、あなたの中から悲しみも辛さも消えていきます。それはあなたが同時に他の人に幸せを配っていることをしているからでもあります。ユダヤのことわざに「自分に香水を振りかけると自分にもかかる」というのがあります。その通り、あなたがあなたを立派に建て上げているとき、あなたの身近にいる人々にも良い影響が与えられます。この事実をあなたが確認するとき、あなたは生きることが楽しくて楽しくて仕方がなくなるでしょう。ヘレン・ケラーはこう言いました。「生きるってわくわくする。でも人のために生きるのはもっともっとわくわくする」